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北九州市立引野中学校コミュの引野地域とかで見たい場所ありますか?

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はじめまして!最近引野の地域も変わってきてますよ!
県外に行ってる人とかで見たい場所ありますか?
鉄王のアパートも無くなっていますよ!
知りたい場所あれば教えて下さい。

コメント(31)

引野を離れて35年、masason の2年後輩になりますが、数年ごとに訪れているものの引野・鉄王の変貌に時間の経過を感じています。

記憶にある3歳から高校3年まで、引野で過ごしたのですが、隔世の感ありです。
引野周辺の変わりようはGoogleの地図でも少しだけは垣間みることが出来ますが、正直、子供の頃の自分のテリトリーの狭さに唖然とします。(笑)

いろいろ知りたい場所はありますが、引野中学正門前の高台は健在でしょうか?
ひねり花の咲く芝生の高台は、当時、星の観察にも使わさせてもらいました。^_^
masasonの同級生です。時世が変わって何かと物騒になった今、高台の周辺には頑丈なフェンスが張り巡らされて、立ち入りができなくなりました。 今でも親しくおつきあいいただいている大和先生によれば、私たちが通学していた昭和45年当時から、あの高台では事件が頻発していたとのことでした。
お久しぶりです。ヒゲ先輩。^_^

当時は一部そのようなこともあったのかもしれませんが……そう言えばボクが中3の昭和49年のちょうど今頃に、身体の大きな同級生のKくん(ヒゲ先輩ご存知の)と体育の永◯先生の間で決闘が行われようとしたのもその高台でした。。。ボクら同級生は盛り上がりましたが、先生が「決闘」はいくらなんでもまずいだろと言うことで、結局「相撲」になった記憶があります。(笑) そして勝負は、永◯先生が面目を保ったと記憶しています。

でも、ボクの知っているのはそれぐらいで、ボクらの学年は平々凡々にひなたぼっこや星の観察にいそしんでおりました。
いい場所だったんだけどな〜。残念。>_<

しかし、あそこはいったい何の施設・設備なのでしょう?
moriseさん、お久しぶりです。そんなエピソードがあったのですか♪ 永○先生はお元気でしょうか。
あの高台は、実は給水設備なんですよ。高台の中は貯水タンクです。家庭用の水をあの高台までポンプで上げて、引野や鉄王などに供給する水の圧力を作り出しています。
な〜るほどぉ。引野や鉄王は平坦な土地ですからね。いや、それにしても壮大な都市計画だったわけですね〜。すごいや。◉ o ◉

ヒゲ先輩、Kくんと話しをする機会があったら、思い出話しとして聞いてみて下さい。

永○先生は、どうされているでしょうね。
永○先生がバスケを指導して引中が全国レベルで有名になったのはあの頃からのことですが、卒業してからはとんと顔を見せていないのでわかりません。。。と言うより、ボクの方が消息不明なのかも。同窓会の知らせが届きません。(笑)

永○先生はボクらより一回りほど年齢が上だったので、恐らくお元気なのではないでしょうか。
K君とはK元のことですよね?彼や、I酒店の長男とも、もう20年は会っていませんねえ。元気にしているのでしょうか。126棟前のI酒店も、すでに店を閉めて随分になります。そこの次女が私の同級生でして、「深窓の令嬢」さながらの神秘的な容姿に、多くの男子たちが転がったものでした♪
K元くんも I くんも同級生です。緑が丘第二から引中まで合計11年間……って、かなりな期間だったんだなぁ〜。 I くんのお姉さん二人とも綺麗でしたね。さらにお母さんが、昔の女優さんみたいでしたよ。子供心に。^_^
I酒店の向かいにあるお店のおでんが絶品で、中学生のころは吹奏楽の練習の帰りに必ず寄って、少ない小遣いでコンニャクを食べたものでした。肝っ玉母さんさながらの店主のおばちゃんは今でもお元気で、今でもたまに、おでんを買いにいきます。歳をとって引退したら、屋台を手作りしておばちゃんのおでんを売り歩きたいと思ったり(笑) そういえばmoriseさんの同級生に、美保ちゃんという名前の可愛い子がいましたね。中学校のすぐ近くの市営団地に住んでいたような。
1968年当時の鉄王・引野の航空写真です。 八幡製鉄所の「穴生診療所」・「厚生課分配所」が見えます。私たちが「幽霊屋敷」と呼んで肝試しに使っていた農家の廃屋も見えます。 http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=MKU681&courseno=C8&photono=10
こちらは1961年の写真です。引野小学校が建設途中。緑ヶ丘幼稚園も引野中学校も、まだありません。鉄竜社宅横の「大池公園」が、昔の「大池」のままですね。相生町も、閑散としています。http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=MKU613&courseno=C17A&photono=3
そうそう。松葉湯の隣の食料品屋さんは、おでんやってましたね。焼き芋も。ボクらも小学校の頃から買い食いしていましたよ。まだ、やってらっしゃるんですね。懐かしい。
夏場は……夏場は何でしたっけ? 氷でしたっけ? う〜ん、思い出せない。。。

美保は、I 村さんですね。たしか中学の時だけの同級生……だったような。^_^

1968年と1961年の航空写真も、ありがとうございます。
さすが成長期だけあって、急激に都市化していったようですね。

「大池公園」とは、マンモスアパート下にあった今の「山の神池公園」のことですか?
この池はけっこう急激に深いんですよね。(笑) この池の周りの側溝で、サンショウウオを捕まえたことがあります。
大池公園は、竹末の交差点から穴生交差点に向かう途中の、右側にあります。半分が児童公園で、半分が野球場かな。
児童プールもありますね。
かつては大きな大きな溜池でした。

マンモスアパート前の山の神池は、私が幼稚園に入ったころまで、貸しボート屋さんがありました。
今はマンモスアパートもなくなって、大きなマンションが建っています。

この二つの池はいずれも、江戸時代に灌漑用に作られた人工の溜池です。

もし、郷土の歴史に興味がおありでしたら、下を覗いてみてください。
黒田藩士の貝原益軒がまとめた「筑前風土記」全三十巻の中の、第十四巻、遠賀郡上編に、引野や周辺の村について書かれています。
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/kaibara/fudo/head.htm
ヒゲ先輩、ありがとうございます。
あらら、大池公園は、まったく逆の位置だったようですね。。。

ここの市民プールには、ボクも通っていました。(笑)小学校の3,4年生当時。名前は覚えてませんでしたが、地図を開いて「大池市民プール」とあったのを見て思い出しました。
ヨコに大きなグランド(大池公園だったのですね)がありましたが、まさかそこが大きな池だったなんて今まで丸っきし知りませんでした。。。驚かされました。

そう言えば、「山の神池」の奥の池が「穴生ドーム」になったんですね。(やっぱり、手前の池しか知りませんでしたが。汗)

「貸しボート屋さん」……おおおぉぉぉ〜。言われてみれば、それがなんだったか興味はあれど、直接見には行かなかったけれど、遠目に、行楽地のにぎやかそうな色使いの、しかし寂れた……そんな三角屋根の小さな建物があったような記憶があります。幼稚園の頃かなぁ。いや、低学年の頃まで建物があったような……。
そのおぼろげな記憶が果たして本当だったのか、自分でもすっかり忘れていたのですが、本当に「貸しボート屋さん」だったとは。それにもビックリです。◉ o ◉
さすがに「ボート」の記憶がないのは、ボクが見たときにはもう営業してなかったからだったのでしょうね。サンショウウオを捕まえたのは小学3年生の夏前でした。

「筑前風土記」は、観光ガイド的な大人の読み物ですね。
引野村のくだりには、「金丹王」には、ちょっと笑わされます。^_^
『いかなる人なりしにや、いぶかし』
この方(hobashira923さん)のブログが、けっこう面白いですよ。^_^
http://blog.goo.ne.jp/hobashira923/m/201112

引野に近いところに住まわれてて、いろいろ懐かしいところを『徘徊』されてます。
※過去の記事も必見です。
moriseさん、素敵なブログを紹介してくださって、ありがとうございました。早速あれこれとコメントを書かせていただきました♪
moriseさんこんばんは。
「金丹王」を、ネットで調べてみたのですが、ヒットしませんでした。一体引野のどのあたりに、その方の居宅があったのか、興味津々です。
ひょっとしたら、引野の大地主である向坊家の縁の方なのでしょうか。

大昔の山寺には、聖人が葬られた塚があったそうで、身分の高低に関係なく、全ての人がその塚の前を通る際一礼をしていったとの記述もあります。
八幡西区の大昔からの歴史に、大変興味があります。

ところで、来る12月10日(土)に、昭和47年度卒業生(48年3月卒)が数名黒崎に集まって、恩師大和照夫先生とともに焼き鳥をかじります♪
そういえば、鉄王社宅は昭和48年に建設された300番台のアパートが撤去されて住宅地になったのですが、とうとう昭和36年ごろに建設された100番台のアパートも撤去工事が始まったようです。すでに101棟の列のアパートが姿を消し、私が高校1年生までを過ごした112棟も、階段の出入り口が板で封鎖されて、取り壊しを待っている状況です。
寂しい限りです。
ヒゲ先輩、アパートの写真、いいですね〜。^_^
そしてまたキレイですよね。もったいないなぁ。。。

これ、1棟丸ごとリノベーションしたら、まだまだ使えそうですよね。って言うか売れますって。(笑)この時代のコンクリートは、ユウに100年持つとか言われてますもん。
そうゆうデベロッパーとか不動産会社が現れなかったのかなぁ〜。だったら、新日鉄の不動産部門でやればよかったのに。>_< 残念。。。

さて、「金丹王」の名前は残って(伝わって)いませんので、『引野』の名前の由来よりももっと古い時代の伝世なのかも知れませんね。
どうも日本人っぽくない名前(渡来人なのでしょうか?)ですが、王と名がつくような立派な人物を『いかなる人なりしにや、いぶかし』で片付けてしまうのもどうなんでしょう。(笑)

「筑前風土記」によれば、「金丹王」の住まいは、一方が35間(約63メートル)ほどの土手を築いた中にあったそうで、四角い土地とすると約1,200坪。今の感覚でも大邸宅ですが、江戸時代であれば家老や奉行クラスでしょうか。その三方に門があって、その周りは畑だったそうですから、領地はかなり広かったことでしょう。

その土地を、大地主である向坊さんが引き継いだ可能性は、もしかしたらもしかするかも。しかしボクの中の「向坊」さんのイメージは、お医者さんなのですが。(笑)
moriseさんこんにちは。
本当にもったいないことです。このアパートは、建築後50年を経でも、これまでに一度として外壁の崩落などがありませんでした。昭和47年に、私が住む112棟の向かいに新たに113棟が1棟建設され、その後昭和48年に、鉄ビルストアから南側と、引野小学校の北側に、計12棟のアパートが建設されたのですが、これらは皆、5年目ぐらいから外壁の崩落や室内のひび割れが起きて、それは酷いものでした。

頑丈に、丁寧に作られた鉄王アパート。
4歳のときに新築のアパートに入居して、幼稚園、小学校、中学校、そして高校1年生までを、ここで育ててもらいました。

鉄王も鉄竜も、当時は佃煮が出来るほど「子供たち」がわんさかいて、アパート前の庭や公園は、いつも大賑わいでした。
133棟裏の広場では、普段はソフトボールで賑わい、正月には凧揚げをする子供らが横一列に何十人も並びました。
凧が高く上がって糸が足りなくなると、年下の子分に「糸買って来い」とお金を渡して、穴生の分配所の前にある「子供屋」と呼ばれた駄菓子屋に走らせました。

鉄王に3箇所あった児童公園の砂場では、一時期ビー玉を使った「商売」が大流行しました。
砂でピンボールのような傾斜のある台を拵えてそれに様々な溝や穴を作り、、客が頂上にビー玉を1個置くと溝を下りながら途中の穴に入るかどうかを遊ぶゲームです。穴にはそれぞれ倍率があって、「この穴に入ったら3文」とか、「こっちの穴に入ったら5文」などの賞品を設定していました。どこにも入らず一番下まで落ちたら、それは「商売人」の稼ぎです。
私も「商売人」をして、ビー玉を2,000個ぐらい稼ぎました(笑)
この「商売」に群がる子供たちで、砂場が埋め尽くされた一時期がありましたが、ご他聞に漏れず一部の母親たちから、「子供の遊びではない」とのクレームが寄せられ、禁止されてしましました。

地面に歪んだ外枠と楕円の二つを描いて、楕円の内側に入る組と外枠と楕円の間を走る組に分かれて、走る者にタッチしたらその者が内側の組に取り込まれる全員が取り込まれたら入れ替わり。誰かが一周走りきったら、そのまま第二ラウンドへという、「世界一周」という遊びも、公園の定番でした。

社宅の周囲では、「釘刺し」「パッチン」「ダンチン(ビー玉遊び)などが定番でしたね。
各階段の出入り口を結ぶ、コンクリートで作られた通路の目地を使っての「ケンケンパー」もありました。

雨の日は、社宅の階段を使って「パラシュート」「グリコ」などと言いながら、その言葉の数だけ階段を上り下りするゲームに興じました。

思い出が溢れるほど詰まっています。

100番台の社宅は、殆どが途中で「二戸一」に改築されて、階段を挟んだ両隣が一戸にした4LDKぐらいになりましたから、保守費用と固定資産税を賄える程度の賃料で貸し出せば、借り手は沢山いるはずなのですが。

新日鉄に限らず、日本の「大企業」は、国内での雇用にも、地域への貢献にも、責任を放棄してしまいました。
「金丹王」につきまして、前回ご紹介した「国土変遷アーカイブ」の昭和20年代の空中写真や、八幡図書館の書物などで調べてみようと思っています。
古い地図でもあれば、何か痕跡が見つかるかも知れません。
とても楽しい史料を見つけました。「筑前名所絵図 巻七」 江戸時代の北九州の名所が、絵画と共に記されています。

説明文は、ほぼ「筑前続風土記」と同じですが、絵は、初めて見るものばかりです。
黒崎や、香月、吉祥寺などの当時の姿が描かれていて、大変興味深いものですよ。
江戸時代の香月は、大層にぎわっていたようです。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/meishozue/page.html?style=a&part=7&no=1
ヒゲ先輩、かなりディープな世界になってきましたね〜。^_^

『商売』、実に面白かったです。当時、引野2丁目の端に住んでいたボクも、鉄王はおろか鉄竜広場まで遠征して遊びまくってました。(笑)
1969年・昭和44年の9月半ばから10月半ばまでの、ほんの1ヶ月にも満たない事件でしたが(笑)、子供の魂……ですよね。

この辺のくだりを含めて、子供時代のことを文章にまとめている途中です。
でもこの『商売』という名前、誰が付けたのか気になります。自然発生的にそうなったのか? 子供の誰かがそう呼んだのか? 付けるとすれば当時の6年生(ヒゲ先輩の同級)の誰かでしょうが、それをご存知でしょうか?


調べてみると、「筑前名所絵図」は江戸時代末期(1820年代)に奥村玉蘭が書いた絵と文章を、その約150年後に西日本新聞社が500部限定で出版したものになるようです。
絵の表現が、その時代よりも新しく感じるのは何故か? それは印刷のせいなのかも知れません。肉筆にあるカスレなどの細かい部分が、飛んでしまっているからでしょう。

巻は違えども、もっと興味深いクジラの絵とかも描いているようですよ。
moriseさん、引野3丁目のI藤君のお宅が、更地になってしまいました。
えぇっと、ビックリ! ◉ o ◉ 僕の知ってる家やお店もかなり昔の記憶の中ですが、昔のままだったとすれば、かなり古くなってたのかなぁ。。。 次は何になるんだろう?
moriseさん、こんばんは。
I酒店の跡地には、早速南半分の土地に新築工事が始まっています。
先日、向かいの食料品店に、いつものように「おでん」を買いに行ったのですが、おばちゃんとは病気の話ばかりで時間を費やしてしまい、I酒店のことを尋ねるのを忘れてしまいました。歳ですねえ(笑)
こんばんは、ヒゲ先輩。

へ〜っ、進んでいますか。栄枯盛衰でしょうから施主がもしかして Iくんじゃないかも知れませんが、グーグルマップで見ると敷地に隣の床屋の字がかぶって見えたりしますね。向かいの空き地だったところに、いつの間にか形成外科が建っています。見通しが良かったのにな〜。
その隣に懐かしい辻○商店の屋根。あの店、自前だったんですね。店が建つ前から隣の松葉湯に通ってましたけど、当時は空き地の横だし、急ごしらえの店に思えたのですが、続いているんですね〜。おばちゃんも、お元気そうで何より。

きっと Iくんも元気でしょう。現在の姿は想像が出来ませんが。^_^
>>[8] S42年入学の田中といいます。吹奏楽といえば、成清先生が指導されていた頃でしょうか。とにかく九州で一二の腕前でしたね。
>>[29] 先輩に対して返信が遅くなってしまって、大変申し訳ありません。はい。私は成清先生に徹底的にシゴかれ、可愛がってもらいました。吹奏楽部一期生のK先輩には、いまでもご懇意にしていただいております。 私の同級生に、お兄さんがいる田中さんという女性がおられます。鉄王110棟に住んでおられました。ひょっとして。。。? 私は112棟でした♪
>>[30] ご返事有難うございます。その田中さんとは、違います。S45年卒業で若葉町に住んでいました。成清先生は、その後どうされているのでしょうか。英語の白木先生、国語の山本東先生は、すでに亡くなりました。

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