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イタリア世界遺産(JITRA)コミュのローマの歴史地区 No.1

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25)A.ローマの歴史地区
2500年の歴史を誇る永遠の都ローマは、(?)(?)(?)(?)(?)などの登録基準で
1980年に世界文化遺産に登録され、1990年に範囲が拡大された。
建国以来のローマの歴史をざっと紐といてみよう。
ローマは伝説によれば紀元前8世紀頃神の子孫であるトロイアの英雄アエネイアースが、ギリシャ軍によって滅ぼされた祖国を逃れ、新しいトロイアの建設をする為にテヴェレ川河口にやって来た。土地の王たちを打ち負かし、その後ヴェスタの巫女とマルスの神が結ばれて、誕生したのが双子の兄弟レームスとロムルスで、2人はテヴェレ川に捨てられ、その後流されてパラティヌスの丘の岸辺に打ち上げられ、雌狼に育てられた。後にロムスは、この場所に堀を掘って、印をつけ、そこに新しい町が建設される事になった。レームスは町の神聖な城壁をふざけて飛び越えた為にロムルスに殺されたといわれている。
ロムルスは彼の村の人口を増やすために無法者たちをカピトリーノの丘に住まわせ、妻としてサビニ人の女を彼らに与えた。ラテン人の王とサビニ人の王は同盟関係を結び、エトルスキ人がローマにやって来るまで交互に統治した。その後2世紀の間エトルスキ人はこの地を支配したが、ローマ人は海外との通商で経済力を高め紀元前509年にはエトルスキの王タルクィニス・スぺルべス王を追放し、ローマは5世紀に渡る共和制の時代(紀元前509〜前31)に突入、共和制を実施し、領土拡大に努めた。しかし紀元前2世紀から1世紀にかけて、共和政体は内部抗争が激しくなり、政治的対立によって、分裂したローマは、征服した新しい領土を有効に活用できなくなっていた。即ちそれを解決するには、人望、政治力、雄弁で軍事の才に優れたカエサルの様な人物が出現しなくてはならなかった。カエサルは、政治的対立に終止符を打ったが、志半ばにして前44年3月15日テロリストの刃に倒れた。その後、彼の養子オクタヴィアヌスが前27年皇帝に就任、元老院でアウグストゥスの称号を授けられ、帝政に移行して行った。彼は軍事の才能はなかったが有能でローマ帝国繁栄の基礎を造った。その後ローマはトラヤヌス帝(在位98~117)の時代最大の帝国になるが、3世紀以後、蛮族の侵入、民族大移動や、帝国内の矛盾が現れ、約1000年の長い間繁栄した西ローマ帝国は476年に滅亡するが、西暦313年に行われたコンスタンティヌス帝によるキリスト教の公認と国教化は、ローマをカトリック教徒の聖地として再生させ、新たな繁栄が始まった。カトリックの首都となったローマはルネッサンス時代に歴代の教皇が、文化を愛し、ブラマンテ、サンガッロ、ミケランジェロ、ラファエッロなどの天才を呼び寄せ、ローマの街を装飾した。17世紀に入り、1623年に教皇に就任したウルバヌス8世はガリレオに地動説を撤回させた事で悪名を残したが,バロックの建築家ジャン・ロレンツォ・ベルニーニにサン・ピエトロ大聖堂の内陣の天蓋(バルダッキーノ)、スペイン広場の前にあるバルカッチャの噴水、バルベリー二広場にあるトリトーネの噴水などを制作させ、またフランスの二コラ・プーサン、クロード・ロランらをローマに招いて活動させた。この時代ローマではバロック建築が隆盛を極め、建築家ボッロミー二、ベルニーニらがバロック建築の傑作を次々に建設した。ベルニーニGian Lorenzo Bernini(1598~1680)は、彫刻家としても優れ、ボルゲーゼ美術館にある「アポロンとダフネ」、「プロセピナの略奪」「ダヴィテ」、叉建築家として楕円形のサン・ピエトロ広場、現在のイタリアの下院であるモンテチトーリオ宮などを造った。またフランチェスコ・ボッロミー二Francesco Borromini(1599~1667)は、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ教会の改修、サンタ二ェーゼ聖堂建設などに携った。1644年に就任したインノケンティウス10世はこの二人の建築家を保護し、ベルニーニはナヴォーナ広場に大河の泉Fontana del Fiumiを制作した。インノケンティウス10世の後を継いだアレクサンドル7世も政治よりも学問、芸術を好み、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニのパトロンになりサンタ・マリア・デル・ポポロ教会の装飾、サン・ピエトロ広場を囲む2重の柱廊などを造らせた。18世紀に入り、1730年に教皇に在位したクレメンス12世は、ローマ市内の道路の舗装工事を行い、叉、彫刻家二コラ・サルヴィにローマ最大の名所になっているトレヴィの泉を制作させた。18世紀のローマは現在各広場に見られる豪華な噴水等も既に出来ていた。この時代ローマを統治していたのは教皇ピウス6世で、彼は、1775年に教皇に就任したが、難問山積で1789年にはフランス革命に遭遇、その後ナポレオンが1797年に教皇領に侵入し、ナポレオンに人質にされフランス各地を転々とさせられ、1799年にフランスのヴァランスで、失意のうちに世を去ったが、歴代の教皇と同じように芸術、文化の愛好者で、現在のヴァティカン美術館は教皇ピウス6世が創設した。その後ナポレオンの侵入でローマの文化遺産が大分持ち去られた事もあったが、1871年には統一イタリアの首都になり、現在に至っている。「永遠の都」と呼ばれ、全ての道はローマに通ずるといわれるローマは、2500年の歴史が息づき、直径約5k位の街の中にローマ時代の遺跡、ルネッサンス時代の遺産、バロックの建築、美術館など各時代を代表する記念物が多数存在し、世界最大の文化遺産の宝庫である。



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