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イタリア世界遺産(JITRA)コミュのアクイレイアの遺跡とバジリカ総主聖堂

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ハート達(複数ハート)イタリアの世界遺産の旅ハート達(複数ハート)
今月からイタリア世界遺産の旅をはじめます。毎月2ないし、3箇所づつ紹介します。どうか宜しく御願いします。

射手座第一回アクイレイアの遺跡とバジリカ総主聖堂射手座

トリエステから45k、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア特別自治州ウディーネ県に属するアクイレイアは、登録基準(?)(?)(?)などで1998年世界文化遺産に登録された。
アクイレイアは、紀元前181年にローマ人によって建設されたヒストリア人Histriに対する戦いの基地であり、ローマ帝国時代イタリアで第4番目に建設された都市で、アウグストゥスの治世下(前27〜前14)では第10州の首都であり、人口も20万人を擁し、「第2のローマ」と呼ばれる程繁栄した。アルプスを越えて北欧に通じる道と、バルト海への海上交通の要衝にあったアクイレイアは、アティッサ河に河港の跡があり、陸路では琥珀を産するバルト海沿岸、海路を通って地中海の主要都市に通じていた。西暦248年から305年のディオレクレティアヌスの時代にはこの街に造幣所が建設され独自の通貨が造られた。ローマ皇帝コンスタンティヌスは、313年ミラノ勅令を出し、キリスト教を承認すると、司教テオドーロは最初の教会を設立し、アクイレイアは、ドナウ河流域、ハンガリー、イストリア、バルカンなどへのキリスト教の布教における拠点となった。
4世紀末までには街を囲む城壁も造られ、この中でアラリック隊長の率いるゴート族と401年、408年に戦闘を交えた。452年アクイレイアはフン族の王アッティラに破れ、町は壊滅的な打撃を受け、
その後は以前の様な繁栄が復活する事はなかった。このアッティラの侵攻の物語は、ヴェルディの
オペラ「アッティラ」にも描かれている。首都大司教座の権威はその後も継続し、その影響はヴェネツィア、ヒストリアなど30以上の付属司教区に及んだ。その後11世紀になり、1019年に偉大な司教ボルボーネが選出され、アクイレイアの放棄に反抗し、城壁に囲まれた新しい要塞を築き、
港を掘り広げ、古い聖堂の遺構の上に新しい司教座大聖堂を建てた。総大司教管区が、皇帝4世の時代に俗権を授与され、フリウリの伯爵領などを手に入れ、その政治的権力は、13世紀には最高に達した。しかし1420年ヴェネツィアとの戦いに敗れ、アクイレイアは衰亡に向かい数世紀の後には、
寂れた村になった。1509年からアクイレイアはオーストリアが支配するようになり、その支配は
ハプスブルク帝国解体の1918年までの長期間続いた。
私がアクイレイアに行ったのは、2002年の8月8日、トリエステのオペレッタフェスティバルで、
べナッキーの「白馬亭にて」を見に来た時で、予定を一日延ばし、アクイレイアを訪れた。トリエステのホテルからタクシーで、約50分、グラードからは、右と左は海だが、緑の陸地もところどころに見える。グラードからアクイレイアまでは一本の道が通っている。車はその道を通り、街の象徴であるバジリカの前に着いた。聖堂はロマネスク時代のもので、11世紀にポッポーネによって改装されたが、1348年の地震で被害を蒙り、1360年から1350年にかけてゴシック様式で改装された。入って左側にはモザイクの床があり、旅行者は透明なガラスの上を歩き、下のモザイクを見るようになっている。魚を取る漁師、魚、裸の子供、尾の長い美しい鳥など多彩なものが、美しいモザイクによって描かれていた。特に魚のモザイクが美しかったのは、この地の産業が海に近く漁業が重要な産業だった事が偲ばれた。このバジリカの周りには真っ直ぐな糸杉が植えられ、古い教会と緑の糸杉はバランスよくとても美しい景観だった。聖堂内を見物したあと、ローマ建国の父狼がロムスを乳で育てる彫刻があった。その後ろは73mもある高い鐘楼があった。2つのカメラと交換レンズなどの用具一式を持ち、薄暗い階段を10分も上ると
上に着いたが、さすがに呼吸が荒かった。しかし眺望は素晴らしいもので、夏の強い陽光に緑が輝き、右前方かなたに青い海、緑の樹木の間にレンガ色の屋根が見え、北の彼方にはアルプスが見えた。私は夏の快い風を頬に感じながら美しい光景に見入っていた。バジリカの後フォロ・ロマーノといわれる場所へ行った。紀元前1世紀に建設され、破壊されていたが1955年に再建された。ギリシャの神殿跡のような円柱が立ち並び、人間の顔などを掘った彫刻や、柵などにも美しい装飾が見られる。保存状態もよくローマ時代の郷愁が感じられた。河港Porto Fluvialeは、19世紀に発見され、起源一世紀の港がそのまま残っているというふれこみだったが、行ってみると、糸杉の並木があり、河口発掘通りを進むと発掘現場から出土した石碑、石の破片、建築材料の石材などが通りに沿って展示されていたが、海外の貿易で賑わった栄華の痕跡は見られなかった。石で出来た2段の段違いになっている場所が埠頭だかそれがかなり長く広がっていて、反対側は湿地なのだろうか、緑の草地が広がっていた。国立考古学博物館に行くと、そこには1800年頃からこの地で発掘された石碑、彫像、小物、モザイク、墓石などが展示されていていずれも興味深いものであった。この日私は初期キリスト教時代の博物館も訪れた。こちらは幾何学的模様のモザイクが美しく、初期キリスト教時代の石版、洗礼図、石碑などがあった。

えんぴつアクセス:トリエステからバス、または、Cervignano Acquileia Grado にて下車、バス、タクシー

joschua

コメント(4)

去年の10月にアクイレアに行きました。地元の中学生と幼稚園生が社会科見学でしょうか来てました。
アクイレアとグラードの続きです。ベネチアからトリエステに行く途中に寄りました。そのあとスロベニアにいきました。
魚mobili様ハート達(複数ハート)

素的な写真有り難うございます。シチリアのピアッツァ・アルメリーナのモザイクも素晴らしいですが、アクイレイアのモザイクも素晴らしいです。これからもどうかよろしく御願いします。

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