ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

大人は伝えているか?コミュのみんなちがって みんないい?

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  「みんなちがって、みんないい」 という言葉をよく耳にします。
これは金子みすゞの有名な詩 『わたしと小鳥とすずと』 の一節ですが、
私は言葉だけが一人歩きしているような気がしてなりません。
というのは、「互いの違いを受け入れ、認め合おう」 という意味で
使われているからです。

  しかし、そもそも他人同士なら違いがあるのは当然です。
受け入れるも受け入れないも、認めるも認めないもないのです。
だいいち、「当然であること」 を受け入れようとか、認め合おうとか
主張すること自体、不気味で滑稽(こっけい) な話でしょう。

  では、みすゞの詩はどう理解すれば良いのでしょう。それには、
「違い」 の中身を考えなければなりません。

  すなわち、みすゞの詩には
「小鳥は空を飛べる/(飛べない)私は速く走れる」―。
「鈴はきれいな音で鳴る/(きれいな音は出ない)私は歌をたくさん知っている」―。
だからこそ、「みんなちがって、みんないい」 と書かれているのです。

  要するに、「私と小鳥と鈴には、それぞれ不得意なこともあるけれど、
お互い真似のできない素晴らしい得意なものがある。だからこそ、
みんな大切なんだね」 が、詩の意味するところではないでしょうか。

  世の中には、不得意どころか、どうしようもない辛(つら)さや
困難を背負って生きている人もいます。
絵本『どんなかんじかなあ』(中山千夏/文、和田誠/絵、自由国民社) には、
そんな子ども達の姿が描かれています。

  例えば、目が不自由でも、色々な音を注意深く聴いている子ども―。
耳が不自由でも、色々な物を注意深く見ている子ども―。
手足や身体が動かなくても、色々なことを深く考えている子ども―。
そして、両親がいなくても、気丈で思いやりのある子ども―。

  そういう子ども達を前にして、「みんなちがって、みんないいんだよ」 とか
「違いを受け入れ、認め合おう」 とは、私には言えません。むしろ、
「皆とは違う辛さや困難があっても、君はこんなに素晴らしいものを持っている。
 だからこそ、君を心から大切に思う」 と、私だったら言うでしょう。

  人は誰しも、素晴らしいものを持っているのです。それに気づいてくれて、
分かってくれて、大切に思うと言ってくれる家族や仲間がいればこそ、
人は生きていけるのではないでしょうか。

  みすゞの詩集にあるのは、小さき者や弱き者の素晴らしさに気づき、
だからこそ大切に思うという共感の詩ばかりです。それらは、世間から
認められないまま失意の中で命を絶った、金子みすゞ本人の心の叫びのように
思えてなりません。

コメント(13)

>「当然であること」を受け入れようとか、認め合おうとか
>主張すること自体、不気味で滑稽(こっけい) な話でしょう。


それらが「当然であること」を
●「知識・実感として知らない」、
●「知っていても受け入れていない(=体得できていない)」、
●「認めていない(=頑なに同じでなくてはいけないという意識の)」人がいるから、
「受け入れよう」といったような言葉が出てくるのだと考えます。



もうひとつ、

「違いを受け入れ、認め合おう」と

「皆とは違う辛さや困難があっても、
 君はこんなに素晴らしいものを持っている。
 だからこそ、君を心から大切に思う」

の比較ですが、
大雑把な私には同じことを言っているように思えるのです。


その他の解釈等については同感です。


>本人の心の叫び
なるほど、鋭い読みと思います。
深い詩には強い叫びが込められているものかもしれません。
>「違いを受け入れ、認め合おう」と
>「皆とは違う辛さや困難があっても、
> 君はこんなに素晴らしいものを持っている。
> だからこそ、君を心から大切に思う」

>の比較ですが、
>大雑把な私には同じことを言っているように思えるのです。


本文の繰り返しになりますが、
例えば目の見えない子供に向かって、私は
 「違いを受け入れ、認め合おう」
とは、どうしても言えません。

 
私もTslさんと近い考えです
私も比較しているものもニュアンスの違いで、大きな違いとは思いません
「望ましい生活習慣」というか「きちんとした生活習慣」というかの違いだと思います
前者のほうが堅苦しく、後者のほうが生の使い方をしていますが言わんとしていることは同じです

ですが生の言い方をしたほうが伝えやすい、実感しやすいから生の言い方をしようよと言い換えてよければ賛成します
同じものとは思いつつも言葉使いの違いでなんだかなーと思うことがあります
>私もTslさんと近い考えです
>私も比較しているものもニュアンスの違いで、大きな違いとは思いません
>「望ましい生活習慣」というか「きちんとした生活習慣」というかの違いだと思います
>前者のほうが堅苦しく、後者のほうが生の使い方をしていますが言わんとしていることは同じです


 「望ましい」と「きちんとした」は、私は使い分けています。

私にとっては、
 「望ましい考え」と「きちんとした考え」は違います。
 「望ましい準備」と「きちんとした準備」も違います。
 「望ましい人物」と「きちんとした人物」も違います。
  
例えば、私は
 「この仕事をする上で、彼は望ましい人物だ」という使い方はします。
しかし、私は
 「この仕事をする上で、彼はきちんとした人物だ」という使い方はしません。

もちろん、私にとっては
 「望ましい生活習慣」と「きちんとした生活習慣」も違います。


またも繰り返しになりますが、
  素晴らしい技能を持っているとか、魅力的な性格の持ち主とかの
目が見えない子供に向かって、私は
 「皆とは違う辛さや困難があっても、君はこんなに
  素晴らしいものを持っている。だからこそ、君を心から大切に思う」
とは言うことはあるでしょう。

しかし、その(目の見えない)子供に向かって私は
  「違いを受け入れ、認め合おう」
とは、どうしても言えません。

  コメントをされたお二人にとっては同じような意味のようですが、
私にとっては違います。



ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

大人は伝えているか? 更新情報

大人は伝えているか?のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング