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池田晶子の哲学エツセイを継ぐコミュの苦しみは喜びである:池田晶子著『残酷人生論』

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幸福とは物ではなくて心である
というのを
幸福は外ではなくて内にある
と言い換えると、いくらか陳腐でなくなるだろうか。
しかし、なお陳腐に聞こえようと、当たり前すぎることというのは、必ず耳には陳腐に聞こえるものなのだから、これは仕方ない。ちょっと聞くと、右は、
幸福とは内容ではなくて形式である
というのと逆を言っているように聞こえるかもしれないが、そうではない。形式とは「魂の構え」のことだと私は言った。魂の構えとは、つまり、それが何なのであれ、それを幸福と「感じる」「感じられる」、そのような魂の「在り方」のことである。極論すれば、そこに何もなくても、何によらなくても、それ自身で幸福である、そのような魂のことである。

外的なあれこれがなければ、外的なあれこれによらなければ幸福でない、このような魂は不幸である。なぜなら、そのような魂は同時に、外的なあれこれによって不幸にもなり得るからである。

一般的には不幸の側に分類される事柄、貧困とか病気とか各種の災難、それらとて、幸福な魂にとっては不幸ではない。
それでも自分は幸福だと、幸福を感じているはずである。幸不幸は「境遇」とは別のことだ。

偉そうに言えるほど、私とて十分に幸福であるわけではない。

けれども、きちんと考えれば、間違いなくそうである。幸福とはこういうこと、これが幸福すなわち魂の理想形であることは間違いない。けれども、これが何か難しいことのように感じられるのは、幸福であるということは、つまり一種の能力だからだろう。「能力」というのが妙に聞こえるのなら、「努力」と言い換えてもいい。

幸福とは、努力である。
だから努力してるんじゃないの
と言うとあなた、おそらくあなたは逆のことを言っている。
幸福は外的なあれこれによらないと私は言った。したがって、
外的なあれこれの獲得のために費やされる努力は、この場合、努力とは言わない。私の言う努力とは、外的なあれこれによらなくても、いかなる境遇にあろうとも、それ自身で常に幸福であることができるための、魂の努力である。

ところで、努力とは、善くなるために為されるものであって、悪くなるために努力する人はいない。悪くなるために為されるのは、努力ではなく堕落と言われる。堕落に努力は伴っていない。だから、堕落した人は悪い人なのである。そして、
堕落した人のことを不幸な人と我々は言う。したがって、善くなる努力をしない人は、幸福ではなくて不幸なのである。

幸福とは、善い魂のことである。善い魂であるということが、幸福であるというそのことなのである。善くなるために努力している魂もまた、幸福である。その努力が幸福になるための努力であるということを、知っているからである。善い魂はいかなる外的な悪によっても不幸になることがない。そのことによって幸福なのである。

ところで、努力とは、必ず苦しいものである。楽な努力、そんなものはない。楽なことは、たんに楽なのであって、そこには努力は伴っていない。善くなるための努力は、必ず苦しいものである。しかし、善くなることは幸福になることなのだから、これをつづめて言うと、

善く苦しむ
苦しみは喜びである
幸福とは、これである。そして、これ以外の何かではあり得ない。
アーメン
と、思わずくくりたくなるほど、牧師の説教によく似ている。しかし、論理だけで考えてもこうなるのだから、真に宗教的な人々の直観的な心には、私は率直に頭(こうべ)を垂れる気持ちになる。

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