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池田晶子の哲学エツセイを継ぐコミュの「そう感じる」のはなぜなのか:池田晶子『残酷人生論.』.池田晶子『残酷人...

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ところで、この、

ある人がその人であるところのまさにそれ
具体で言うと、
「私」という形式が池田某という内容と結合しているという原事実
これを論理的に考えようとすることのなんていう難しさ、なぜなら、本来それは論理的に考えるべき性質の事柄ではないからである。
という、気づいてみれば当たり前なことに気づいたのも、ようやくここ数年のことである。

これはたんに体質の問題なのだが、私は元来、心理学とか精神分析とかの学問があまり好きでなく、というより、ああいった事柄がそも「学問」になるはずがないというそこがまず好きでなく、自ら手に取ることはあまり多くなかった。心理とか感情とか性格類型とかそういった事柄は、狭く個人的にすぎ、対象がそうであるばかりでなく、その方法すらあまりに不明瞭ではないか。

明瞭にして広大な理性による世界認識を知っていて、わざわざ関わることもないではないか。そんな感じだったのである。

ところが、この「そんな感じ」、とは何か。なぜ私はそんなふうに感じてしまうのか、感じざるを得ないのか。「魂」の問題とは、まさにそれだったのである。「たんに体質」と私は言ったが、その「たんに」がなぜそうなのか、これは少しも「たんに」ということではなかったのである。

右を具体で言ってみると、
なぜ池田某は論理的に考えることのほうを好ましいと感じるのか
となる。しかし、「なぜそう感じるのか」の「なぜ」を論理的に考えること、これができない。これがどうしできないことなのだ。なぜなら、「感じる」というそのことが、論理的に考えることではないから「感じる」と言われるそのことだからである。すると、これは、なぜなのか。

「生まれつき」という奇妙な言葉を人間は辞書にもっていて、この言葉は便利なぶんだけじつに安直で、よく吟味してみると、何を言ったことにもなっていない。「なぜその生まれつきなのか」をこそ問うているのだから、「生まれつきだからだ」では答えにならないのである。

遺伝すなわち生物的要因は、生物的要因である限り、形而上的形式としての「私」とは関係しないが、形而下的内容としての某とは、その限り関係する。けれども、問いは、なぜその「私」がこの某なのかという問いを発するこの某なのか、これなのだから、遺伝的要因は答えの一部ではあってもすべてではないのである。

一部ではあってもすべてではない

といったふうな、こう痒くなるようないさぎの悪い言い方が、たまらなくじれったいと私は感じる。しかし、なぜそう感じるのかということを、きちんと考えようとすると、こう感じるこのとになるのだから、感じることは考えることよりも広い。

もしくは、感じることは考えることに先立っている。これが、私の言うところの「魂の体質」、決して形而下的内容を意味しない。

「内容」というより、むしろ「ベース」と言うべきか、その人の人生の基調としての基本的傾向とか色調とか、そういった意味合いで、「魂」の語を私は使ってみたい。

じっさい、「『私』を考える」よりも「『魂』を感じる」ほうが、少なくとも今の私にとってずっと難しいと感じられる。なぜなら、「『私』とは何か」という問いを所有しない人は存在しなかったからである。

「私」よりも「魂」のほうが、当たり前さという点では、はるかに当たり前だったからである。

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