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池田晶子の哲学エツセイを継ぐコミュの池田晶子著『残酷人生論』ー「考え」は誰のものか

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高度情報化社会では、人間の自我が希薄になるのでは、と心配している向きもある。

何もかもが情報化されて、人は自分が誰だかわからなくなるのではないか、と。

けっこうなことではないか

これまで私は、情報化によって人間性の何かが根本的に変わるわけではないと、その意味では否定的な見解を述べてきた。が、この点についてならば、少なくとも私は大歓迎、なぜなら私は、普通に人が「私は」と言うときのその「私」を、まるきり信じていないからである。この話は「私」の章をご覧ください。

普通に人が、自分について「私は」と言うときの「私」は、姓名や肩書でなければ、せいぜいが来歴、よくって自分の鼻を指して納得できる程度のもので、その程度にしか確かでなかった「近代的自我」なるものが、破綻したり乗り越えるべきだったり、そもそもできるものだったのかどうか、私はつねづね訝(いぶか)しく思っている。「私」と言って、あれこれの属性を挙げることでは納得できないような「私」こそが、哲学の問題として残ってしまうのであれば、それらまぎらわしい諸属性が、高度の機械化情報化によっていっぺんチャラにされてしまうことは、とてもいいことだと思う。


たぶん、かなり風通しがよくなるのではないか。姓名や肩書きや来歴そして鼻の頭、見当違いのものを「私」と思い込むことが、それらに執着する悪しき自己愛の始まりである。所有欲とか嫉妬とか、自分のための自己主張とか、悪しき自己愛の周辺に発生するそれら暑苦しい諸情念、それらが偽りの自我が希薄になるとともに希薄になるのではないか。

たとえば私はよく感じるのだが、私が今考え、これはいったい誰のものかと。普通に人は、自分が考えている考えは自分のものだと思っている。しかし、或る考えが誰かのものであるとはどういうことなのか、よく考えるとわからない話なのである。たとえば数式、あれは誰のものか。発見者のものか。他の人が使ってはならないか。或る思想体系、それはそれを考えた人のものか。としたなら、なぜ他の人はそれをともに考え理解することができるのか。

「考え」は誰のものでもない。「考え」はそれ自体が普遍である「考え」においてこそ人、ちっぽけな自我を消失し、考える精神それ自体と化す。考える精神それ自体は、どう考えても誰でもない。私はかって、こう言ったことがある。

宇宙とは、自己認識する魂である。

これを裏から言えば、

魂は、認識する宇宙の容器である。

先日テレビで見たのだが、あの羽生名人を思ってみてください。あの人、ちっぽけな自我なんかもってない。ちっとも自分を主張しようとしない。私は推測するのだが、おそらく彼もまた、自分が誰だかわからなくなる瞬間があるのではないか。

宇宙が自分を認識するための容器と化した彼という魂は、無限に対して開かれた思考である。無限を思考する能力それ自体であるところのこの「私」は、それではいったい誰なのか。「私」はいまどこに居るのか。

高度情報化によって、人々がそんなことに気づくようになればとは思うが、やっぱりこれ、真似して真似できるものじゃない。真似して真似できる程度のものだから著作権なんぞがモメるので、誰が羽生氏の真似をできるか。

彼の個性が個を越えることによって個として確かなのは、もとが確かな個性であるからで、もとが何者でもない人は、いよいよもって何者でもない。ノッペラボーのサイボーグになるだけである。
((九六年五月号)



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