ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

船高フォークソング部コミュのフォークソングクラブ初代部長です

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
現役&OBの皆様、初めまして。
県船フォークソングクラブを創立した龍(佐藤龍一)といいます。
1971年の卒業生です。

目がテンになっちゃうようなお話ですが、このクラブが35年前に出来た時の状況を伝えておきたいと思い、皆さんのお話に割り込んでは申し分けないので、トピを立てさせていただきました。現役、OB、超OBの方とお話してみたいです。

佐藤龍一プロフィール(wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E9%BE%8D%E4%B8%80

コメント(22)

僕が船橋高校に入学した1968年当時、音楽系のクラブはオーケストラ(器楽部?)とギター同好会しかありませんでした。ギター同好会ではクラシックギター中心のグループとPPM(ピーターポール&マリー)やブラザースフォーなどのモダンフォークをやっている先輩方で成り立っていました。

中学時代(習志野二中)ベンチャーズやグループサウンズのコピーバンドをやってたので、ある日ギター同好会を覗きに行き、入部する事にしました。当時そこでやっていたのはPPMの完全コピーで使っていた教則本は、当時小室等さんや石川鷹彦さんが在籍していたPPMフォロワーズというバンドのソノシートがついていて、基本的なアルペジオや3フィンガーピッキングを学べるようになってました。今でもそれは役に立っています。
先輩方とギター同好会からフォークソング同好会を分離独立させ、2年生になった時自分が部長になりました。僕は評議会の議長も兼ねていたので、副部長を代理に立てて評議会でクラブへと昇格させたのが1969年。アメリカではその夏ウッドストックのコンサートがありましたが、ロック革命の波が日本に押し寄せるのはまだ後の事です。70年安保の自動延長を前に日本国内も騒然としていた時代です。

フォーク・ソングとは元々民謡(特にアメリカ民謡)を指す言葉だったんですが、PPMがボブディランの「風に吹かれて」のカバーをヒットさせたことで、モダン・フォークという都会的で洗練された音楽が東京でも流行します。ジョーンバエズのカバーを歌った森山良子さんや赤い鳥、カレッジ・フォークといわれていた流れがそうです。

僕らはPPMを通してボブ・ディランの存在を知り、スリーコードにメッセージ色の強い、文学的な詞をのせたディランに傾倒してゆきました。当時関西に音楽舍という事務所があって、URCレコードというインディーズレコード会社から他高石友也、岡林信康、高田渡、五つの赤い風船、ジャックスといったグループがデビューします。東京からも遠藤健司や斉藤哲夫などが出て来て、彼らはディランズ・チルドレンと呼ばれました。その極めつけが吉田拓郎です。
フォークソングクラブ初代部長になった僕は入部、退部を全くの自由とし、先輩後輩の垣根も出来るだけ取っ払って自由な雰囲気を心がけました。その結果、一時は50人位の大所帯に膨れ上がり、それを背景に潤沢な予算を計上しました。もっとも僕は予算委員会の議長も兼ねてたわけですから、ずるいですよね。顧問の先生は殆ど口を挟まず、好きにさせてくれていました。

2年の夏に、いまはなき船橋ヘルスセンターの大劇場という所で労音主催の岡林信康のコンサートがあり、前座に全く無名だった高田渡がビーチサンダルを履いて出て来て「自衛隊に入ろう」という歌を歌って目がテンになりました。(この辺は若い人には何の事だかわからないと思いますが)

文化祭は当時の体育館と教室でのコンサート、予餞会もありました。別トピでも話題になっていましたが、3年生が演奏する為に僕ら2年生は出られず残念な思いをした事を憶えています。
1970年の夏、大阪で万国博覧会が開かれ、下関と釜山の間に関釜フェリーが開通しました。当時、加藤和彦が在籍していたフォーククルーセイダーズが「イムジン川」という曲を歌って話題になったのですが(盗作問題も会って放送禁止になった)、北緯38度線の南北国境に横たわる「イムジン川」をこの目で見たいと思い、僕は2週間の韓国旅行に出かけました。当時のフォークソングは時代背景を反映して政治的なメッセージを込められたものが多かったのです。

70年はロックの歴史の転換点でもありました。ジミヘンドリックス、ジャニスジョプリンと次々亡くなってゆき、ハードロック、プログレ、パンクと続く70年代ロックの大爆発が始まります。学生運動のピークでもありました。受験を直前に控えて、テレビで東大の安田講堂が炎上するのを見ていたのを憶えています。試験答案を白紙のまま出して部室でギターを弾いたりしてました。良い子の皆さんは真似しないでくださいね。

当時、オリジナル曲を演奏している部員はほとんどいなかったようです。去年、おととしと高校軽音楽部神奈川県大会予選の審査員をやって、3日間で100位のバンドを見たのですが、殆どのバンドがオリジナルを演奏してるのをみると、いい意味で時代は変わったなあと思います。
1968年生まれです。
フォークソング部がそんなに歴史があったとは!?
自分の人生と同じくらいだったとは、びっくりです!
お話ありがとうございます☆
以下、県船フォークと直接関係ない話になりますが、高校卒業直後の3月、当時広島にまだ無名だった吉田拓郎という面白いシンガーがいるから千葉に呼ぼうという事になり、地元の先輩が中心となって京成大久保駅の脇にある習志野市民会館でコンサートをやりました。その時前座を努めたのが、僕ととみたいちろうでした。いちろうは国府台高校のフォークソングクラブの部長でした。今はアニソンやCMソングのベテランとして活躍しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/とみたいちろう

僕ととみたいちろうは「宴」というユニットで日本放送のオーディションを受けてラジオに出演したり、ビクターでデモテープを録ったりしましたが、その夏のヤマハのライトミュージック・コンテストに出る為に、イージーライダースというグループのリードボーカルとして呼ばれ、僕らは一旦別れます。

イージーラーダースは国府台高校と市川学園高校の一学年下の生徒で構成された、地元では有名なフォークグループで、彼らは千葉県大会、関東大会と勝ち抜き、全国大会で優勝する事になります。この年東京大会には県船の後輩が出場し、またゴダイゴに加入する前のタケカワユキヒデもソロでエントリーしていました。

優勝の模様はテレビでもオンエアされ、レコード会社5社からオファーがあったといいますが、いちろうはイージーライダースを脱退してしまいます。
いちろうが脱退した後には県船の後輩だった村田君という生徒がイージーライダースに加入しますが、そんなに目立った動きはなかったようです。他のメンバーはサックスプレーヤーに転向したり、米軍キャンプをまわるバンドをやっていたり。コントラバスを弾いていた富田司郎君は僕らがデビューした後、ベースプレーヤーとして迎え入れました。

イージーライダースの仲間として、一緒に行動していたのが市川学園高校にいた伊藤薫です。後に「ラブ・イズ・オーバー」の作者として有名になり、千葉テレビでのど自慢の審査員をしている彼です。

僕は法政大学に進学し、殆ど学校へは行かずにロックコンサートに潜り込んだり、詩集を売ったりして暮らしていました。学校は学園紛争でロックアウトされていました。中津川フォークジャンボリーがあり、僕は演劇センター68/71という劇団の少年少女漂流記というイベントに参加して、トラックに乗って中津川まで行き、黒テント内のステージで歌ってました。サブステージで吉田拓郎「人間なんてラララ...」の大合唱が始まった時は一番前で絶叫してました。
卒業の翌年、1972年。3月に稲毛のドノバンというロック喫茶(今もあるのかな)でMOJO MOJO EASTというブルース/フォークのコンサートを企画し、20人程のお客さんを前に演奏しました。それから毎月コンサートを主催し、半年後には船橋の商工会議所に200人位の人を集めるようになりました。自分でチラシやキップを作り、総武線沿線の各フォークソングクラブの部長に手伝ってもらい、津田沼に四畳半のアパートを借り、電話を引き、毎月東京からプロのゲストを呼びました。

中川五郎、斉藤哲夫、三上寛、なぎらけんいち、シバなどのアーチストが少ないギャラで快く引き受けてくれました。ヤマハにスポンサーになってもらって千葉の教育会館でやった時には、遠藤賢司、友部正人なども来てくれました。(敬称略)
僕は始めひとりで歌っていたのですが、コーラスとリズムギターをやってもらう為に伊藤薫と竜+1というユニットを組み、コンサートの最後ではいつも、とみたいちろうと3人一緒にステージに上がっていました。

9月頃、生田圭太郎をゲストに呼んだ時、一緒に来ていたマネージャーからエレックレコードに来ないかと誘われ、一晩悩んだ末に、僕らは3人はエレックレコードと契約する事になりました。これが僕らのプロデビューの経緯です。

日本放送のスタジオでレコーディングが行われ、72年の12月、竜+1はキャニオンレコードから「オニオニ島失踪事件の唄」というシングルでデビューしました。B面は「競馬場のある街はずれに」という曲です。

やや遅れてとみたいちろうがデビューし、僕らは74年に「竜とかおる」と名前を変えてエレックからアルバムを出し、とみたいちろうはCHARのアレンジによる2枚目のアルバムを出し、「竜とかおる」は解散して僕はソロアルバムを出し、かおるは作曲家になって...それから30数年が経ったわけです。
長々とオヤジの昔話につきあってくれてありがとうございます。県船フォークソングクラブと、総武線沿線の音楽シーンにはこんな歴史があったんだという事を伝えておきたかったのです。もしかしたら君たちのご両親にはその一部を知っている人が居るかも知れません。

去年の暮れに亡くなったももちゃんこと下村誠君もぼくらの後輩の一人でした。八千代高校だったと思います。僕と同期だった県船卒業生のひとりは葡萄畑というバンドでメジャーデビューしています。後期のイージーライダースからは後にマライアというフージョングループに参加した土方隆行という優秀なギタリストが出ています。

僕らの世代以前にはフォークソングなんて言葉もなかったのです。それはある時代には変革の旗印だったけれど、もはや過去のものかもしれません。君等がロックをやりたいんであればフォークソングクラブなんて名前変えてもいいんですよ。

僕は君たちについて何一つ知らないけれど、同じクラブの先輩であることは間違いありません。知りたいことがあれば何でも尋ねて下さい。日本工学院専門学校で音楽講師をやっていたので、教えられることがあれば教えてさしあげますよ。

以上です。
記述に間違いが会ったので6-11削除して修正しました。
1から読んで下さい。すんまそん。
船高校フォークソング部の歴史&当時の雰囲気が伝わって来ますね・・・・。
とても懐かしい気持になりました。
僕と同年代のフォーク部の人の書き込みが皆無だったので、寂しかったですが、元気を貰いました。
ありがとうございました。
スウィートロードさんと同期の女子です.たまたま巡り巡ってこのコミュにたどり着きました.
懐かしい思い出で一杯です.「龍先輩」が韓国へ行ってきたお話は,当時練習場所だった食堂で聞かせてもらいました.先輩は,デモ(当時盛んに行われていましたね)にも誘って下さいましたが,イマイチそこまでの勇気が出ずに尻込みしてました.
屋上で大声が出せるようになって,歌うことの面白さを知ってから,高校卒業後は,大学でのサークルを経て,今は某カルチャースクールで「ゴスペル」をやっています.
貴重なお話をありがとうございます。私は73年入学です。フォークソングクラブには入学から1年ほど在籍していました。“龍とかおる”のことは当日からに存じ上げておりました。食堂で練習したことが懐かしいです。
>>[20]

こんにちは。書き込みありがとうございます。
学年は離れていても、今となってはほとんど同時代ですね。
こちらは相変わらず、年間70本ほどライブをやっています。
地元でもやっていますので、機会があったら見にきて下さい。

8/29(土)open19:00 start19:30
京成大久保 ワルツ(0474-72-4041)
習志野市泉町2-1-33
¥2,000(オーダー別)

9/26(土)20:00開演
勝田台ひみつきち(047-486-4400)
千葉県八千代市勝田台北1-3-1ヴェリテ勝田台1F
京成勝田台北口5分
¥2,500円(2ドリンク・つまみ付)

その他スケジュール詳細は、自分のプロフィールページにあります。
1年下の初期部員です。ラーメンを奢ってもらったり、自宅に行かせて頂いたりしました。その時は、ちょうどサザエさんの放送が始まった日で良く覚えています。2年の時は演劇部の方へ軸足が行ってしまったので関係は途絶えてしまっていました。
35年前、偶然古本屋で、フルーツ系雑誌に海外からの紀行文(連載だったように思います)が載っていたのを見ました。
最近、大森の事務所を20年前にしたのですが、以前住んでいたこともあり懐かしくて、検索していたら、フォーク酒場でライブを時折やられていることを知りました。今は足立に事務所があるので、機会を見つけて今度ライブに行きます。

ログインすると、残り6件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

船高フォークソング部 更新情報

船高フォークソング部のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。