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禅と北鎌倉コミュの聖地巡礼?高野山

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還暦・定年の“卒業旅行”
奥の院で般若心経を奉納

 還暦を迎えた今年の夏、日本仏教界の三大巨人、空海(弘法大師)、聖徳太子、最澄(伝教大師)の「聖地」である高野山(和歌山県)―斑鳩の里(奈良県)―比叡山(京都府)を訪ねた。同行者は妻と初孫の福ちゃん(遺骨)。

 誕生日(7月28日)が、定年日である。この日から第2の人生がスタートする。気持ちの整理をし、新しい一歩を踏み出したかった。理想を言えば、“卒業旅行”はインドか、四国遍路(空海が修行した足跡をたどって、八十八ヶ所の霊場を巡拝すること)に行きたかった。しかし、現実というものがある。諸々の事情を勘案して、三大巨人の聖地を巡ることにした。

神仏習合の世界への回帰が必要だ
 歴史や仏教にさほど詳しくないことをことわった上で、自らの考え方を書いてみたい。日本は元々が八百万(やおろず)の神々の世界だったが、飛鳥時代、国家統一のために聖徳太子は大陸伝来の仏教の理念を政治に取り入れた。ここから日本は神仏習合の時代がスタートした。

 平安時代になって最澄が天台宗、空海が真言宗を開創、仏教は長い時間をかけて日本の風土に溶け込み、日本人の精神的な拠り所となった。しかし、明治維新の廃仏毀釈により、「仏」を捨てた。そして第2次大戦に敗れたことで、「神」も捨てた。その結果、日本は物質的には豊かになったが、精神的な拠り所を失ったため、その荒廃ぶりは目を覆うばかりである。

 わたしはこのままでは日本は壊れてしまうと危惧している。それを回避するには、神仏習合の世界に還ることが必要だと思っている。幸い、わたしの住んでいる北鎌倉は、神仏習合の世界が日常の中に残っている。例えば八雲神社の例大祭。大神輿と神主を禅寺の管長や住職が出迎え、般若心経を唱えるのだ。

 八雲神社の例大祭について、知人で歴史に詳しい酒井保さんが次のように話してくれた。「明治維新前の日本古来の姿です。日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰、つまり神仏習合ですな。神は仏の化身であるという考え方です。明治維新では、神道を国教化しようとしました。一神教の世界をつくろうとしたんです。この下準備として、仏教伝来以来の神仏習合を否定し、神と仏、神道と仏教、神社と寺院とをはっきり区別させる、神仏分離政策を採用しました。これにより廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれました」

 仏教の歴史の流れに沿うならば、順序は斑鳩の里―比叡山―高野山が自然だろう。しかし、斑鳩の里―比叡山は、修学旅行などで既に訪れている。実家の宗教は真言宗であることから、最初の訪問地として高野山を選んだ。お目当ては奥の院だ。空海は今も奥の院に生き続け、世の中の平和と人々の幸福を願っているという、入定信仰は前から気になっていた。

117ヶ寺が存在し、そのうち53ヶ寺は宿坊
 7月21日は、品川から新幹線に乗り、新大阪に到着。東海道線、大阪環状線を乗り継ぎ、南波から南海高野線快速急行、南海高野線ケーブルを利用し、高野山に到着した。品川を出発したのが9時47分、高野山に到着したのが14時42分。約5時間の旅だった。交通機関が発達しなかった時代の高野山参りがいかに大変だったかが分る。

 一大宗教都市の高野山は紀伊山地にある。東西5.5km、南北2.2kmの盆地状の地で周囲は、転軸山・楊柳山・弁天岳・摩尼山など八つの峰々に囲まれている。約1200年前に空海によって開かれた真言密教の修行道場であり、全国に広がる高野山真言宗の総本山である。

 高野山は「一山境内地」と称し、高野山の至る所がお寺の境内地であり、高野山全体がお寺なのだそうだ。現在、117ヶ寺が存在し、そのうち53ヶ寺は宿坊として、高野山を訪れる参詣者へ宿を提供している。本堂は、聖地である壇上伽藍にそびえる「金堂」。高野山の重要行事のほとんどは、この金堂にて執り行われるという。

 ケーブルを降り、バスで宿坊の福智院に向かった。高野山観光協会・宿坊組合が提供しているWEBサイト「高野山」の宿坊案内を参考にして福智院をこの日の宿にした。真言密教の瞑想法の一つである阿字観が体験でき、かつ温泉があることが決め手となった。



 宿坊は、主に仏教寺院などで修行中の僧侶が寝泊りをする建物だったが、寺社参詣の普及により、一般の参詣者も宿泊させるようになった。高野山は地理的にとても日帰りで参拝できる場所ではない。宿坊は、極めて合理的である。福智院は精進料理がうまかった。地元でも評判らしい。ちょっと残念だったのは、早朝のお勤めが読経お話のみで、阿字観は体験できなかった。なお、夜行われる写経は別料金だった。

密教とは大日如来が示した秘密の教え
三密加持により即身成仏目指す
 福智院にチェックイン後、最初に奥の院に向かった。行く途中、妻から「真言宗は密教というそうだけど密教は、他の仏教の宗派の教えと何が違うの?」という質問を受けた。仏教を知らない普通の人にとっては当然の質問である。自分自身、この違いが明確になったのは最近のことである。

 「仏教早わかり百科」(監修 ひろ さちや 発行所 主婦と生活社)の説明が、比較的分り易いので紹介したい。
「空海は顕教(けんぎょう)と密教という仏教の二つの分類のうち密教を選んだ。顕教とは“顕らかに説かれた教え”という意味。これは衆生に教えを説くために姿を現した釈迦が、人々の能力や性質に応じて、わかりやすく説き示した教えである、と空海は考えた。一方、密教は“奥深い教え”という意味である。真理そのものである大日如来が示した究極の奥義(秘密の教え)である、とした。そして顕教では長い修行の末に成仏することを目指すが、密教では大日如来と一体となって修行すれば、この身がこのまま仏となることができる(即身成仏)、と説いたのである。また、空海が最も強く説いた教えとして『三密加持』(さんみつかじ)がある。三密とは<身(しん)、口(く)、意(い)>といわれる仏の身体、言語、心の三つの働きのことである。そこで空海は、人間も本来は仏であるだから、人間の三業(身、口、意識の働き)も仏になりきってしまえば三密であるとした。そして三密によって加持すれば、速やかに仏になることができる、と説いたのである」

*三密加持
 手に印契を結び(身密)、真言を唱え(口密)、心を集中させて(意密)本尊に祈ることである。これによって宇宙と一体になり、奇跡や不思議を生み出す仏の力を授けられて即身成仏し、さとりを開くことができる、という。<「仏教早わかり百科」(監修 ひろ さちや 発行所 主婦と生活社)>

*真言宗 
密教を理論、実践とも大成させた空海が興した宗派

●開祖と歴史
 真言宗は空海によって開かれた、密教を中心とした宗派である。804年、最長と同じ時期に、留学僧として入唐した。空海は唐で密教第一人者の恵果のもとで、密教の金剛界、胎蔵界両方の秘法のすべてを授けられた。さらに、密教の習得に必要な経典や密教法具を受け継いで帰国した。帰国に際して空海は遍照金剛(へんじょうこんごう)という灌頂名を授けられる。

 帰国した空海は持ち帰った多数の経典を『請来目録』としてまとめて、朝廷に献上した。空海と同じく書の達人として三筆の数えられる嵯峨天皇のうしろだてを受けて、空海は朝廷の許可を得、816年に高野山を開き、金剛峯寺を建立した。これが真言宗の総本山となる。

 さらに823年には東寺を賜り、ここを鎮護国家祈祷の修行を行う根本道場とした。ここから、天台宗の密教を台密(たいみつ)というのに対して、真言宗の密教を東密(とうみつ)というようになった。<「仏教早わかり百科」(監修 ひろ さちや 発行所 主婦と生活社)>


壮大なスケールで広がる墓原に圧倒される
 奥の院では壮大なスケールで広がる墓原に圧倒された。巨大な墓碑が多く、墓碑そのものが多い。しかも豊臣秀吉など歴史上の有名人物のお墓から、日本のトップ企業のお墓が林立し、バラエティに富んでいる。この理由はいくつかあるという。一つは「空海は亡くなられたのではなく、大日如来の世界に帰一されて生きつづけており、衆生を救ってくださる。」という入定信仰。

 二つ目は高野山が釈迦入滅後56億7000万年後に現れ衆生を救うという弥勒菩薩の下生の地と広く信じられたこと。三つ目が常に死と向かい合っている戦国大名たちが、高野山に信仰を寄せ、死後の菩提を祈念しようとした。さらに秀吉や徳川幕府などの時の権力者たちが、高野山をあつく保護したため。

 奥の院では福ちゃんを抱きながら般若心経を唱えさせてもらった。その後、バスと徒歩で金剛峯寺、壇上伽藍、大門を参拝し、福智院に戻った。念願の奥の院参拝が叶ってとても嬉しかった。

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