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ハプスブルグ家コミュのマリア・テレジア

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マリア・テレジア・フォン・エスターライヒはオーストリア系ハプスブルク家最後の君主であり、彼女の子供たちの代からは正式には、夫の家名ロートリンゲンとの複合姓(二重姓)で「ハプスブルク=ロートリンゲン家」となる。


ちなみに、現在の当主の名前も「オットー・フォン・ハプスブルグ・ロートリンゲン」である。
また、オーストリア憲法により男子直系ハプスブルグ家はオーストリア国内には入れなかったのでミュンヘン在住の欧州議会議員となった。
のちにオーストリアがシェンゲン協定加盟で国境が無くなり、非合法的にオーストリアに入国していたらしい。
その後、憲法の改正で入国可能になったとのこと。



話をマリア・テレジアに戻そう。

彼女は一般に「女帝」と呼ばれ、実態も女帝そのものであった。
しかしながら実際には皇帝に即位したことはない。

後述するようにハプスブルク家の領国と家督を相続したのはマリア・テレジアであるため、彼女の肖像画には(ハプスブルク家が事実上世襲していた)神聖ローマ皇帝の帝冠が添えられている場合が多く、当時としても、少なくとも領国内では「女帝」視されていた。
マリア自身、Königin(=女王)とKaiserin(=皇后)の頭文字を取った「K.K」という称号を好んで使っていた。

一般的には「女帝」でありつづけたマリアとは、果たしてどのような人物であったのだろうか。


マリアは1717年、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの長女として誕生した。
カール6世の最初の女子であり、両親は遥かヨルダン川の水で洗礼を受けさせたり、マリアツェル教会に黄金の子供像を奉納したりと歓迎した。
「小さなレースル」は母親譲りの輝く美貌を持ち、市民からの人気も高かった。


夫とは大恋愛の末結ばれており、当時の政略結婚盛りの王族結婚においては、その時点で画期的なことだったろう。
情熱的な女性というイメージは、ここからも伺える。



(オーストリア継承戦争)


それまでハプスブルク家は男系相続を定めていたが、彼女の兄が夭折して以後カール6世に男子がいなかったことから、やがて次期後継者と目されるようになった。
カール6世は勅書(プラグマティッシェ・ザンクツィオン)を発表。
そして彼女のオーストリア・ボヘミア(ベーメン)・モラヴィア(メーレン)・ハンガリーなど、ハプスブルク家世襲領の相続を認めさせた。
帝位には娘婿のロートリンゲン公フランツ・シュテファンが就くこととした。


ところがこれが裏目に出た。


当時の国際情勢は、オーストリア皇帝が想像する以上に苛烈を極めるものだった。
絶対王政も末期にきており、民衆の経済的自立も進んできており、彼らの要求に答える必要もあった。
列強は、ほんの些細なきっかけで領土拡張をする必要性に駆られていたのだ。

プロイセン・バイエルン・フランス・・スペインのオーストリア周辺国家は皇帝の崩御と共に、マリアの王位継承を認めず、大義名分と共にオーストリアに宣戦布告をした。

これがオーストリア継承戦争となった。


★第一次シュレージェン戦争

1740年プロイセン王フリードリヒ2世は、皇帝選挙でマリア・テレジアの夫ロレーヌ公フランツ・シュテファンに投票することを条件に、シュレージエン(シレジア)地方のいくつかの領地の割譲を求めた。
要求に対して当然ながらマリアは拒否し、プロイセン軍はバイエルン・フランス・ザクセンなどの支持を準備して1740年12月16日オーストリアの不意を突き、シュレージエンに侵攻した。

こうして第一次シュレジェン戦争が勃発した。

マリアは主力であるナイツペルグ兵団を転進させてシュレージエン地方の奪回作戦を指示した。

1741年4月10日にモルヴィッツの会戦でプロイセン軍とオーストリア軍が戦い、圧倒的な陸軍力を持つプロイセン軍にオーストリア軍は撃退された。
この敗北によりハプスブルク家に対する神話が崩れ、各国の介入を招く結果となった。
逆にプロイセン軍は一躍ヨーロッパの列強として、各国に認知されることとなった。


★第2次シュレージェン戦争

その後、オーストリア・ザクセン戦争、オーストリア・バイエルン戦争という戦争を経て、マリアはシュレージエン地方の奪回を期し、第二次シュレジェン戦争を起こす。

そのきっかけは、意外にもプロイセンだった。
イギリスと組んだオーストリアを脅威としたフリードリヒ2世は、プロイセンの平和とヨーロッパの平和を大義名分とし、オーストリアに侵攻した。

イギリスの思惑も入り、戦局はオーストリアに有利に進んだ。
しかし、ホーエンフリードベルグの会戦、ケッセルスドルフの会戦に勝利したプロイセンは、ドレスデンの和約によってシュレージエンを領有することに成功。

そして1748年にはアーヘン条約によってイギリス・フランス・オーストリア・サルデーニャと和平を結び、シュレージエン領有を承認させた。


フランス・オーストリア戦争、オーストリア・スペイン戦争と戦争が続いた。
しかし結果として、マリアはシュレージエンと北イタリアのパルマ公国など一部の領地を奪われたが、上オーストリア、ベーメン、オーストリア領ネーデルラント、ミラノなどはすべて奪い返してハプスブルク領の一体性を保持し、神聖ローマ皇帝位も確保した。

そしてもうひとつ突筆すべき点は、このときオーストリア側として戦ったサルディニア軍の勇猛さがヨーロッパに伝わり、後にイタリア革命の主導国となることである。



(七年戦争)

オーストリア継承戦争の結果、ハプスブルク領であったシュレージエンはプロイセンへ帰属した。
シュレージエンの奪回を意図したマリアは、フランスとの長年の対立関係を解消してフランス、ロシア女帝と結び、プロイセンへの復讐戦を画策した。

これが娘マリー・アントワネットのルイ16世との結婚に繋がる。

折から、1755年9月に北アメリカでフレンチ・インディアン戦争が始まり、フランスとイギリスとの対立はヨーロッパのハノーファーにも飛び火した。
この機に乗じてオーストリアが対プロイセンの開戦に踏み切ることが確実な情勢となり、オーストリアの開戦意図を察知したフリードリヒ大王は、予防戦争として先制攻撃に打って出た。


1756年、プロイセン軍はロボジッツの戦いでザクセン・オーストリア軍を撃破。
しかしプロイセン軍は1757年6月18日のコリンの戦いでオーストリアに撃退される。

フリードリヒ2世は苦境に陥るが、その後フランス軍、オーストリア軍を立て続けに撃破。
前のオーストリア継承戦争末期でプロイセンと組んだイギリスは、経済的にプロイセンを援助してはいたが、国務大臣大ピットは北アメリカの対フランスのため軍事的援助はしなかった。


1758年になると東からはロシア軍が侵攻を開始、東プロイセンを占領しベルリンまで迫ってきたが、これは撃破。
しかしながらホッホキルヒの戦いでは大敗を喫し、翌1759年クネルスドルフの戦いで、5万3千のプロイセン軍は7万のオーストリア・ロシア連合軍に壊滅的な敗北を喫する。
大王も負傷したがロシアとオーストリアの不協和からロシアが撤退し、プロイセンは救われた。

戦線は硬直化したが、各国の疲弊も激しかった。
講和の雰囲気が漂う中、ロシアのエカテリーナが崩御し、フリードリヒ信者のピョートル3世によってロシアは戦線を撤退した。

1762年フォンテーヌブロー仮条約が結ばれ、翌1763年2月10日、英仏間でパリ条約が締結された。
2月15日にはプロイセン、オーストリア、ザクセンがフベルトゥスブルク条約を締結し、七年戦争は終結した。

講和条約により、プロイセンのシュレージエン領有が確実なものとなった。



(戦争後の国土回復)


ヨーロッパの列強に対抗すべく、マリアは外交革命をはじめとして、種々の改革を行った。

やがて次第に保守化してはいったが、オーストリアの政情は安定した。


(家庭でのマリア)


夫婦生活は非常に円満だった。
また夫の死後15年間、自らの死まで喪服を脱ぐことはなかったと言われる。

1780年、死去。遺体は最愛の夫フランツと共に、ハプスブルク家の墓所であるカプチーナ礼拝堂に埋葬されている。

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