ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

ハプスブルグ家コミュの第11章 ウィーン分化のきらめき、そして第一次世界大戦

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
政治的・民族的に不安定なオーストリアであったが、いやしかし不安定であったからこそ、現実から目をそらせたいという気持ちが大衆にあったからこそ、華やかで多彩な文化が花開いた。

クリムト・マーラー・シュトラウスファミリー・フロイト・マッハ・ビルロードなど、美術・文学・心理学・哲学・法学・経済学・物理学・医学とあらゆる分野において、傑出した才能を世に送り出した。

この時期のオーストリアは、内政的にはフランツ・ヨーゼフ帝のもと30年以上平和を享受し、経済発展によって新たな国力の充実期に入っていた。

オーストリアの経済成長はドイツとならび、ヨーロッパトップクラスであったのだ。

 

そして二重帝国発足後ハンガリーは農作物の供給をオーストリアに、オーストリアの資本や技術力がハンガリーに流れ込み、相互市場が形成された。

ウィーンと対等の首都であるブダペストへは投資が急増し、ドナウの田舎町は活気ある大都市へ変貌していった。

大規模な都市改造が行われ、アンドラーシ通り・オペラハウス・美術館・国会議事堂が建設された。

特筆されるべきは、パリやベルリンに先だって、ヨーロッパ初の地下鉄が開通したことである。

 

この2都市の影響下、プラハ・トリエステ・ザグレブ・レンベルクなどの地方都市も活気を呈し、「小ウィーン」のごとき様相だった。

この時期、カフェが大流行した。

人々は何時間もかけて新聞や本を読み、仲間との会話を楽しんだ。

手紙や論文、小説を書くもの者もいて、カフェは知識人や作家の溜まり場となった。

最初に述べたとおり、世の中に背を向けて快楽を享受する分化の姿がここにあった。

 

ヨーロッパで最初に売春が認められた都市ウィーンでは、性病が流行るほどであったが、こと「性」について語ることはタブーであった。

この不自然な風潮に挑戦したのが、精神科医フロイトだった。

すべての神経症は「性」の抑圧に起因しているとする彼の学説は、それ自体が画期的であった。

 

なぜこれほどまでに、多彩な才能が花開いたのだろうか。

第一の理由は、この多彩な文化の担い手がユダヤ人だったことである。

彼らはこの地でようやく偏見から逃れることができ、抑圧された才能を全開させたのだ。

彼らには、他民族の慣習などは関係なかったからこそ、自由な発想が可能だったのだ。

 

第二の理由は、他民族国家であったが故に、超民族的文化混血が進んでいたことだ。

現在のアメリカを見ればわかる。

 

第三の理由は、市民レベルでのネットワークが形成されたことであろう。

各地に文化人が分散し、彼らは手紙・電報・電話などで交流をもった。

 

一方、悲劇の皇室としてのハプスブルグ家のエピソードも、この時期であった。

皇帝フランツ・ヨーゼフの治世末期、皇室は悲劇的な事件に相次いで見舞われた。

まず1867年、皇帝の弟マクシミリアンがメキシコ王に就任したにもかかわらず、クーデターで処刑されたのである。

1889年には一人息子の皇太子ルドルフが、恋人マリー・ヴェツェラとピストル自殺を遂げた。

そして1898年には王妃エリザベートが、スイスで凶刀に倒れた。

ハプスブルグ家に、いよいよ皇室としての終焉が見え出していた。

 

1908年、オーストリアは占領下のボスニア・ヘルツェゴビナを併合する。

前述したとおり、この地には多くのセルビア人がいた。

彼らには「大セルビア主義」があり、バルカン半島制覇の野望があった。

またこの事件は同じくバルカン半島に野心を持っていたロシアをも刺激した。

ロシアを警戒するドイツ帝国はオーストリアを援助し、ロシアはギリシャ正教保護を理由にセルビアを支援した。

またドイツは長年のライバル、フランス・イギリスにも敵意を剥き出しにしていたので、当時のヨーロッパには凄まじいガソリンが蓄えられていたのである。

あとは火種があれば、大爆発するだけであった。

そして火種がやってきた。

 

1912・13年のバルカン戦争によってセルビアが領土を拡大すると、さらに緊張が高まった。

皇位継承者である皇帝の甥、フランツ・フェルディナンド大公は南スラブ人(クロアチア人・スロヴェニア人)を加えた三重帝国構想を掲げていた。

これによって、帝国のさらなる経済成長を画策したのである。

しかしこれは、大セルビア主義にとっては相容れぬ構想であった。

1914年6月、フランツ・フェルディナンド大公はサライェボを訪問した。

この訪問は大セルビア主義の過激派を多いに刺激した。

 

彼は不倶戴天の敵だった。

そして歓迎パレードのさなか、過激派の手先ガブリロ・プリンツィプの凶弾が大公夫妻を襲った。

この1ヶ月後、オーストリアはセルビアに宣戦布告した。

当然ロシアも参戦し、ドイツもロシア・フランス・イギリスに宣戦した。

戦争はさらにアメリカや日本も巻き込み、文字通りの世界規模の戦争となった。



第一次世界大戦が、勃発であった。

 

戦争中に皇帝フランツ・ヨーゼフの崩御というトラブルがあったものの、オーストリアは優位に戦闘を進めた。

しかし、オーストリアはドイツに軍事的依存を深めてしまった。

そしてドイツは中立国潜水艦への攻撃をかけてしまい、アメリカの参戦を招く。

これをきっかけに連合軍は形成逆転し、やがて大戦は終結する。

 

当初連合国は帝国の解体まで考えていなかった。

しかしオーストリア軍部がドイツに従属することが確認され、民族独立が始まった。

ハプスブルグ家最後の皇帝カール1世は退位し、1918年11月12日ウィーンでオーストリア共和国が宣言された。

1920年、トリアノン条約によりハンガリーが独立し、帝国の最終解体が完了した。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

ハプスブルグ家 更新情報

ハプスブルグ家のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング