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ハプスブルグ家コミュの第9章  ドイツ民族の名のもとに

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現在、ドイツ人国家は二つある。統一ドイツとオーストリアである。

なぜ、同じ民族でありながら…という疑問がわく。

南北朝鮮のように、冷戦によって分割されたわけでもない。

ではなぜか。

 

わたしはここまで、かなり客観的にハプスブルグ家を描いてきた。

その過程でひとつ、納得したことがある。

 

ハプスブルグ家には、フランツ2世にように奇人もいた。

カール5世のように、世界帝国を打ち立てた皇帝もいた。

マリア・テレジアのように、荒ぶる国際情勢の中で、必死に国家の舵取りをした者もいた。

イギリスやフランス、プロイセン、ロシアといった列強の中で、帝国は帝国でありつづけた。

第一次世界大戦まで、そうだったのだ。

それは、ハプスブルグ家とオーストリア…これこそが、ヨーロッパであったからだ。

たとえイギリスがパックス・ブリタニカという繁栄を享受しようとも、プロイセンが大躍進しようとも、オーストリアこそがいにしえより脈々と続いてきた、古代ローマ以来のヨーロッパ伝統であったが故に、生き残ったのだ。

 

古代ローマ由来の帝国があり、東西勢力にもまれながらも文化を残し得た。

だからこそ、オーストリアはドイツになれなかったのだ。

西欧列強の仲間入りを果たしたドイツは、ある意味、古いヨーロッパを捨てている。

古いヨーロッパを捨てることができなかった・・・オーストリアとドイツの違いは、まさにここにあると思う。

 

19世紀…列強は海外に広大な植民地を得ようとしていた。

そのためには、イギリスやフランス、ロシアのように強力な軍事力と財政力が必要になる。

しかし、現在我々がよく耳にする国…イタリアとドイツの名前がそこには、まだなかった。

 

ドイツについてはこれまで述べてきたとおり、神聖ローマ帝国という、摩訶不思議な帝国の成立そのものが原因である。

同じ民族でありながら、各領主がそれぞれの領土を保持していたから、統一できなかったのだ。

ナポレオンによって解体された後にも、統一までまだまだ時間が必要だった。

 

さてイタリアであるが、この国も古代ローマの中心地であったにもかかわらず、西ローマ帝国の滅亡以来、多くの国によって分割統治されてきていた。

中世においては新興諸都市が独立し、ルネッサンス文化の華を咲かせた。

19世紀には北部はオーストリアに、中部はローマ法王に、そして南部はフランスに支配されていた。

フランス革命とナポレオンの登場で、各地に自由運動・民族運動の気運が高まったことは前述した。

ここでもそうだった。

 

北イタリアにサルディニアという小国があった。

この国でいち早くナショナリズムの嵐が吹き、イタリア統一に気運が急上昇した。

国王ヴィクトル・エマヌエル2世はサルディニアの宰相にカヴールを登用した。

カヴールは教会への課税で国力の充実につとめ、産業の開発を推進した。

そしてナポレオン3世の野望を巧みに利用し、1859年フランス・サルディニア連合軍はオーストリア軍を破り、ロンバルディアを併合した。

さらにシチリア島にいたガリバルディは義勇軍赤シャツ隊を率いてシチリア・ナポリを征服。

これをサルディニア王に献じた。

1861年3月、トリノで始めてイタリア国会が召集され、サルディニア王が王位についた。

 

オーストリアがサルディニアに破れ、イタリアの統一を見て多いに刺激されたのが、ドイツ連邦でオーストリアと覇を競っていたプロイセンだった。

以前にも1848年のドイツ国民会議でドイツ統一の合意がなっていたものの、プロイセンの「小ドイツ主義」とオーストリアの「大ドイツ主義」が真っ向から対立していた。

「大ドイツ主義」とは、ウィーンを首都としてプロイセンをも併合して広大なドイツを形成すべし、とするものだった。

一方「小ドイツ主義」は、不安定なオーストリアはそのままにしておき、オーストリア抜きの「小ドイツ」を形成し、オーストリアとは連邦関係を樹立したほうがよいとするものであった。

プロイセンのオーストリアに対する主導権争いだった。

 

両雄並びたたず。

いずれは決着をつけねばならなかった。

 

1866年、デンマークでの戦後処理をめぐって、両国は戦争へ突入した。

プロイセンと同盟を結んだイタリアには勝利したものの、鉄血宰相ビスマルクのもと名将モルトケに率いられたヨーロッパ最強陸軍プロイセンに、オーストリアはケーニヒグレーツの戦いで大敗する。

この敗戦によって、オーストリアはイタリアから完全に撤退することとなった。

またドイツ連邦からも離脱し、さらに1871年普仏戦争でナポレオン3世を下し、パリで成立した「ドイツ帝国」からも閉め出された。

 

ドイツは神聖ローマ帝国を第一帝国と定義し、このドイツ帝国を第二帝国と称した。

そして第三のドイツ帝国…それがかのアドルフ・ヒットラー率いるナチス・ドイツである。

 

オーストリア帝国は、もはや神聖ローマ帝国の意志を受け継ぐべき国家ではないと、ドイツに宣言されたのである。

ドイツでもなく、神聖ローマ帝国でもない帝国。

そこに残されたものは、多民族国家としての火種と、ヨーロッパ文化の伝承者としての使命だけだった。

そしてこの火種が、第一次世界大戦へと続くのである。

 

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