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ビリー・ジョエル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ビリー・ジョエル(Billy Joel, 1949年5月9日 - )はアメリカのニューヨーク州サウス・ブロンクス出身のロック歌手、ピアニスト、作曲家。本名ウイリアム・マーティン・ジョエル(William Martin Joel)。ポップで親しみやすいメロディ・ラインと、大都会に生活する人々を描いたメッセージ性の強い歌詞で、1970年代後半から1990年代前半にかけてヒットを連発した。全世界で1億枚以上のレコード・セールスを記録し、アメリカ国内でのレコード総売上第6位のアーティストとなっている。代表曲に「ピアノ・マン」「マイアミ2017」「ストレンジャー」「素顔のままで」「プレッシャー」「あの娘にアタック」「ハートにファイア」「リヴァー・オブ・ドリームス」、日本での人気が高い「オネスティ」などがある。
目次
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* 1 来歴
o 1.1 デビューに至るまで
o 1.2 初期
o 1.3 『ストレンジャー』の成功
o 1.4 1980年代前半
o 1.5 1980年代後半 - 1990年代前半
o 1.6 近年
* 2 ミュージカル『ムーヴィン・アウト』について
* 3 ディスコグラフィ
o 3.1 オリジナル・アルバム
o 3.2 ライヴ・アルバム
o 3.3 ベスト・アルバム
* 4 ビデオ作品
* 5 日本公演
* 6 代表曲(一部・発表順)
* 7 関連項目
* 8 外部リンク

[編集] 来歴

[編集] デビューに至るまで

ナチから逃れてアメリカに亡命したドイツ系ユダヤ人を父として、イギリス系ユダヤ人を母としてニューヨーク市ブロンクスに生まれ、ロングアイランドの新興住宅地に育つ。子供時代はクラシックピアノを習っていた。14歳のときにエコーズという名のバンドに参加し、その後プロのミュージシャンとして活動を開始。故郷のロングアイランドを拠点に活躍していたハッスルズのメンバーとして活動したあと、彼と共にグループ内で活動していたドラマーのジョン・スモールとのユニット、アッティラを結成して2枚のアルバムを発表。しかし、アッティラは鳴かず飛ばずのままで結局解散してしまう。当時ジョエルは鬱病に悩まされており、極度の神経衰弱から精神病院に入院している。

[編集] 初期

アーティ・リップという人物に才能を見出されて契約を交わし、彼のプロデュースによって制作された1971年のアルバム『コールド・スプリング・ハーバー』でビリー・ジョエルはソロ・アーティストとしてレコードデビューする。しかしながらこのアルバムは、所属レコード会社による勝手な判断で録音テープの再生速度を上げられてしまい全く別人のような歌声で発表された。不本意な内容の上ヒットにも至らず、人間不信から鬱病が進行し自宅にひきこもりがちになってしまう。発売後にジョエルは後に妻となるマネージャーのエリザベス・ウェーバーと共にロサンゼルスに移住している。

ビル・マーティンという名前でクラブを中心にライヴ活動を行った彼は、その後コロムビア・レコードと契約を更新。そして1973年にアルバム『ピアノ・マン』で再デビューを果たす。表題曲が全米トップ30のスマッシュ・ヒットとなったことによってこのアルバムはセールスを伸ばし、彼にとって初となるゴールド・ディスク認定作品となった。『ピアノ・マン』と同じくマイケル・スチュアートがプロデュースを手がけた1974年発表のサード・アルバム、『ストリートライフ・セレナーデ』もゴールド・ディスクに認定されている。

1975年には4枚目のアルバム『ニューヨーク物語』を制作する。このアルバムは当初シカゴのプロデューサーだったジェイムズ・ウィリアム・ガルシオがプロデューサーとして携わっていたが、最終的にジョエル一人によって仕上げられた。翌年にリリースされ、彼にとってキャリア中唯一のセルフ・プロデュース作品となったこのアルバムは、のちにヒット曲となる「さよならハリウッド」「ニューヨークの想い」などを収録しながらも商業的には不振に終わっている。

[編集] 『ストレンジャー』の成功

1977年に発表されたジョエルの5枚目のアルバム『ストレンジャー』は、彼を一躍スターダムへとのしあげる大きな成功を収めた。ポール・サイモンのグラミー賞受賞作『時の流れを』などを手がけたフィル・ラモーンをプロデューサーに起用して制作されたこのアルバムは、全米2位まで上昇する大ヒットを記録。アメリカ国内では2003年に各フォーマット総合で1000万枚以上の売り上げを記録し、ダイアモンドディスクに認定された。

「ストレンジャー」は日本の70年代のディスコブームで統一振り付けでそろって踊られた。曲冒頭の口笛が特徴的である。

出世作となった『ストレンジャー』にも収められていたのが、全米3位を記録した「素顔のままで」である。この曲は1978年度のグラミー賞で最優秀楽曲賞と最優秀レコード賞を受賞し、彼にとって30年以上のキャリアの中で最大級のヒット曲となっている。

翌年にはアルバム『ニューヨーク52番街』を発表。このアルバムで彼は初の全米チャート1位を獲得しただけでなく、同年度のビルボードの年間アルバムチャートでも首位を記録した。グラミー賞の最優秀アルバム賞と最優秀ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞の二部門を受賞するなど、その内容も高く評価されたこのアルバムは、1982年に世界で初めてコンパクト・ディスクとして発売された音楽作品としても知られている。

2枚のアルバムの成功を受け、1978年初来日公演が実現、翌年の来日公演では日本武道館2日間と日本で彼の人気が爆発した。

[編集] 1980年代前半

『ストレンジャー』『ニューヨーク52番街』の成功のあと、1980年には『グラス・ハウス』が発表された。これまでのジャズを基調とした洒脱な作風から路線変更し、よりソリッドなサウンドに徹したこのアルバムでジョエルは最優秀ロック・ヴォーカル・パフォーマンス賞を受賞する。 3年連続で同賞を受賞した彼は常連の候補者となり、以後1983年の『イノセント・マン』まで連続してノミネートされている。また、『グラス・ハウス』からは5曲がシングルカットされたが、そのうち「ロックンロールが最高さ」は彼にとって初の全米シングルチャート1位記録曲となった。

1981年には初のライヴ盤『ソングス・イン・ジ・アティック』をリリース。ブレイク前の初期の作品のライヴテイクを集めたこのアルバムはアメリカと日本でトップ10ヒットとなり、ライヴ盤としては極めて大規模な成功を収めた。

『ストレンジャー』のヒット以降順調に活躍していたジョエルにとって、1982年は数多くのトラブルに見舞われた年となった。『ナイロン・カーテン』の制作を開始した4月にはオートバイ事故を起こし、左手首に重症を負う。一ヶ月の入院を要した彼はアルバムのレコーディングを一時休止せざるを得なくなった。また、マネージャーとしてもジョエルを支え続けてきた妻のエリザベス・ウェーバーとの夫婦仲も拗れていた。結局ジョエルの財産の半分を慰謝料として受け取ることを条件に、彼とウェーバーは1983年7月に離婚に至っている。これらの私生活での様々なトラブルが影響してか、1982年の9月にリリースされた『ナイロン・カーテン』は、アメリカが当時抱えていた社会問題をテーマにした極めてシリアスな作品となっている。

数々の災難が続いた彼だが、1982年に行われたツアー後のオフで滞在したサン・バルテルミ島で出会ったスーパーモデル、クリスティ・ブリンクリーと交際を始める。彼女がプロモーション・ビデオにも出演して話題となった1983年のシングル「アップタウン・ガール」は、これまで彼にとって主要なマーケットではなかったイギリスで大ヒットし、初の全英チャート首位に輝いた。この曲は2001年にはウエストライフによってカヴァーされ、再びイギリスのヒットチャートの1位を記録している。

「アップタウン・ガール」が収められた1983年の『イノセント・マン』は、彼が10代の頃に慣れ親しんだ1950年代から60年代にかけてのオールディーズを基盤とした楽曲を中心に構成された極めてポップな作品である。このアルバムからは収録曲の半分以上の6曲がシングルカットされ、すべて全米トップ40ヒットになっている。『イノセント・マン』は本国アメリカや「アップタウン・ガール」で人気に火がついたイギリス、日本などを中心にセールスを伸ばし、最終的に全世界で800万枚以上を売り上げる大ヒットとなった。

1985年には初めてのベスト盤となる『ビリー・ザ・ベスト』をリリース。彼の12年のソロ・アーティストとしての軌跡を総括するこの2枚組アルバムはアメリカ国内で2100万枚を売り上げたとされ、AC/DCの『バック・イン・ブラック』と並ぶ米国内におけるアルバムの歴代5位のベストセラーである。

[編集] 1980年代後半 - 1990年代前半

ジョエルとブリンクリーは1985年3月23日に結婚し、同年12月には娘のアレクサ・レイ・ジョエルが誕生した。アレクサのミドルネーム"レイ"は、彼自身の憧れの存在だったレイ・チャールズにあやかってつけたものだった。1986年発表の「ベイビー・グランド」では、そのチャールズとのデュエットで大きな話題を呼んだ。この曲が収録されたアルバム『ザ・ブリッジ』では、ジョエルはほかにもシンディ・ローパーやスティーヴ・ウィンウッドらと共演している。

『ザ・ブリッジ』を最後に、ジョエルは『ストレンジャー』以来ずっとプロデューサーを務めてきたフィル・ラモーンとのタッグを解消する。また、バックバンドのメンバー編成にも新しい顔ぶれを起用し、1987年には新たにコンサート・ツアーを行った。このツアーのハイライトとなったのが6回行われたソ連での公演で、のべ15万人もの観客を動員した。これらの公演を記録したビデオとライヴアルバムも発表された。

1988年にはディズニー映画『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』に声優として出演。チャールズ・ディケンズの小説『オリヴァー・ツイスト』が原作のこの映画で、彼はサントラ盤にも楽曲を提供している。

長年にわたってジョエルの作品を手がけたラモーンに代わり、ミック・ジョーンズをプロデューサーに起用した彼は1989年にアルバム『ストーム・フロント』を発表する。このアルバムからシングルカットされた「ハートにファイア」は同年の年間チャートで10位以内に入る大きなヒットを記録し、ジョエルにとっては3曲目となるビルボードのシングルチャート1位獲得作品となった。また、『ストーム・フロント』も彼にとって『グラス・ハウス』以来となる首位を獲得している。

それから4年後の1993年にはダニー・コーチマーがプロデュースを務めた『リヴァー・オヴ・ドリームズ』を発表し、前作に続く全米1位を記録。シングル・カットされたタイトル・ソングも英米ともにトップ3ヒットとなった。このアルバムでアートワークを手がけたのは妻のクリスティ・ブリンクリーだった。しかし彼女が他の男性と不倫関係に陥っていたことが発覚し、最終的に二人の結婚生活は1994年8月に約9年で終焉を迎えている。

[編集] 近年
2006年5月14日、シラキューズ大学から名誉博士号を授与されるビリー・ジョエル(中央に黒服を着て立っている男性)
2006年5月14日、シラキューズ大学から名誉博士号を授与されるビリー・ジョエル(中央に黒服を着て立っている男性)

『リヴァー・オヴ・ドリームズ』発表後、ジョエルは現役ミュージシャンとしての活動からの引退を示唆する。以後、彼の活動はライヴを主体とするものとなった。1997年発表のベスト盤『ビリー・ザ・ベスト3』や1999年の映画『プリティ・ブライド』などに新曲として提供されたカヴァー曲以降、彼自身によるスタジオ録音作品は一切発表されていない。その一方で彼はライヴ盤を2作リリースしている。いずれもニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われたライヴを記録した2枚組のアルバムで、2000年の『ビリー・ザ・ライヴ』には前年末に行われたカウントダウンライヴの模様が、2006年の『12ガーデンズ・ライヴ』には同年1月から12回に渡って同会場で行われたライヴの抜粋が収録されている。

半引退状態になってからのビリー・ジョエルの代表的な仕事が、1994年に初めて行われたエルトン・ジョンとのジョイント・ツアー「フェイス・トゥ・フェイス」である。長年ジョエルがエルトン・ジョンにオファーし続けていたというこの企画はその後10年近くに渡って幾度も行われた。なお2000年以降二人が新曲を録音したという噂もあるが、今のところ発表には至っていない。

ポピュラー音楽からの引退を宣言した一方で彼はクラシック音楽への路線変更を試み、2001年に初のクラシック作品『ファンタジーズ・アンド・デリューションズ』をリリースした。朝鮮系イギリス人のピアニスト、リチャード・ジューによる演奏をフィーチャーしたこのピアノ曲集は、ビルボードのクラシック専門チャートで18週に渡って首位を記録した。しかしその後はアルコール依存症や鬱病が原因で入院したり、2度の交通事故を起こしたりと、私生活で数多くのアクシデントに見舞われている。

2004年の10月にはテレビなどで活動する23歳のタレント、ケイティ・リーと再婚、話題を呼んだ。2005年に未発表曲やレア曲を中心としたコンピレーションBOX『マイ・ライヴ』をリリースし、それに合わせ本格的なライヴ活動を再開、マディソン・スクエア・ガーデンでは12公演連続ソールドアウトの新記録を打ち立てた。以降、欧州、南アフリカ、オーストラリアツアーを経て2006年11月より8年振り10度目の日本公演に臨み、全盛期と変わらぬパフォーマンスを繰り広げてファンを熱狂させた。 2007年2月27日、クラシック作品を除けば14年ぶりとなるオリジナル曲「All My Life」をリリース、3月17日付のビルボード・シングルセールスチャートで初登場1位を記録した。

[編集] ミュージカル『ムーヴィン・アウト』について

1990年代後半以降、ブロードウェイでは『マンマ・ミーア』や『ウィ・ウィル・ロック・ユー』など、人気アーティストのヒット曲で構成されたミュージカルが数多く上演された。そんな中でビリー・ジョエルの楽曲を基に制作され、2002年から3年に渡って上演されたのがトワイラ・サープ制作のミュージカル『ムーヴィン・アウト』である。2003年のトニー賞で、ジョエルとサープはそれぞれ最優秀編曲賞と最優秀振付賞を受賞した。このミュージカルは2006年7月から9月までの期間、東京厚生年金会館で公演された。

ミュージカルナンバー

ACT I

Overture:ロックンロールが最高さ

Scene1:イタリアン・レストランで

Scene2:ムーヴィン・アウト

Scene3:夢(エステ荘)/素顔のままで

Scene4:ロンゲスト・タイム/アップタウン・ガール

Scene5:今宵はフォーエバー

Scene6:夏、ハイランドフォールズにて

Scene7:ワルツ第1番(ナンリーの回転木馬)

Scene8:ハートにファイア

Scene9:シーズ・ゴット・ア・ウェイ

Scene10:ストレンジャー/エレジー(偉大な反戦家の悲歌)


ACT II

Scene1:インヴェンション(ハ短調)

Scene2:怒れる若者

Scene3:ビッグ・ショット

Scene4:ビッグ・マン・オン・マルベリー・ストリート

Scene5:キャプテン・ジャック

Scene6:イノセント・マン

Scene7:プレッシャー

Scene8:グッドナイト・サイゴン~英雄達の鎮魂歌(レクイエム)

Scene9:エール(ダブリン風)

Scene10:シェイムレス

Scene11:ジェイムズ

Scene12:リヴァー・オブ・ドリームス/キーピン・ザ・フェイス/若死にするのは善人だけ

Scene13:楽しかった日々

Scene14:イタリアン・レストランで(リプライズ)


主な登場人物

* エディ (Eddie)…気性が激しく、ブレンダとの別れは避けられなかった。戦争が終わると孤独から麻薬に手を染めるが、ジュディと偶然再会し彼の人生が大きく変わる。(怒れる若者)
* ブレンダ (Brenda)…エディとの交際を解消後、トニーと恋に落ちる。戦争を機にトニーとの関係に危機が訪れる。(アップタウン・ガール)
* トニー (Tony)…高校卒業後、ブレンダと交際を始める。が、戦争と友の死からブレンダと向き合えなくなる。(ムーヴィン・アウト)
* ジュディ (Judy)…ジェイムズを愛し結婚を誓うが、戦争に彼の命を奪われる。彼を救えなかったエディやトニーを責めてしまうが…。(素顔のままで)
* ジェイムズ (James)…真面目で将来を期待されていた。ジュディと結婚を約束するが、戦争で命を落とす。(ジェイムズ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A8%E3%83%AB


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アウトロー・カントリー
 70 年代に入るとウェイロン・ジェニングスやウイリー・ネルソンらは、自分の音楽を限られた範囲でしかコントロ−ルさせてくれないプロデューサーへの不満を露骨に表すようになっていった。特にジェニングスは、自分自身でレコードやレーベル自体のクリエイティヴな面を掌握したいと反乱を起こしている。プロデュ−サ−好みの小ぎれいでプロフェッショナルなセッション・ミュージシャンの代わりに、もっと荒削りなロード・バンドをバックに従え、ビリー・ジョー・シェイヴァーのようなシンガーから骨っぽい歌をピックアップしてみせたのだ。同時に薄っぺらなネオ・カウボーイのサウンドに、重厚なリズムや彼自身の暴力的な声もかけあわせたのだった。
もちろんオーディエンスは、そういったサウンドを喜んで受け入れた。古くからのホンキィ=トンクのファンも、長髪の新しいジェネレーションも、ジェニングスのゴツゴツとしたサウンドとバイクライダーのようなイメージ、ナンセンスを許さない強固な態度に魅かれたのである。
70 年代初めにナッシュヴィルからテキサスに移ってきたネルソンも、同様にベーシックに立ち返るようなカウボーイスタイルを『Red Headed Stranger』や『Phases and Stages』といったアルバムで実現している。――これらのいわゆるアウトロー・ム−ヴメントは、76年に作られたアルバム『Wanted! The Outlaws』で隆盛を極め、このアルバムにはジェニングス、ネルソン、ジェシ・コルターらが参加している。
その後も多くのアウトローたちはツアーやレコード制作を続けているが、彼らのようなカントリー・ミュージシャンたちの先駆的な活躍がなければ、現在のオルタナティヴ・カントリーのアーティストやアメリカーナ・レディオ(アメリカのオルタ・カントリー専門のラジオ局)も存在しえなかったと言えるだろう。
http://listen.jp/store/genre_307.htm

U Tube;http://www.youtube.com/watch?v=QPiK_yGG8ag&feature=related

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