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ストライカーに夢中だコミュのストライカー選手名鑑

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 みなさんでストライカー選手名鑑というものを作ってみませんか?

 現役選手、引退した選手、国内外の選手は問いません!!

 ストライカーなら、誰でもOKです♪

 内容は以下のように作成してもらえれば自由に作成してもらって構いません。

■ ここは選手名鑑となっていますので選手紹介以外のコメント等の書き込みは控えてください。

■ 作成の際、以下のテンプレをご利用下さい。


■ 作成する際、下記の掲載中のストライカー一覧を見て選手がかぶらないように注意しましょう♪

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■本名:
■国籍・出身地:
■生年月日:
■身長・体重:
■代表歴:
■所属クラブ(デビューから現在まで):
■個人タイトル:
■代表・クラブタイトル:
■コメント:その選手について自由に書いてください。

* できたら、その選手の画像も添付してもらえると嬉しいです。


--------------------


 自分が分かるところだけでいいんで、興味あったら作成してみてください♪


■ 作成する際、下記の掲載中のストライカー一覧を見て選手がかぶらないように注意しましょう♪

■ また、間違いや修正点や書き加えがある点があったら、【ラウンジ(ニュース・雑談・告知・宣伝)】(http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=1727166)で、ご指摘してください。


--------------------掲載中のストライカー一覧--------------------

1:マルコ・ファン・バステン
2:アラン・シアラー
3:ガブリエル・オマール・バティストゥータ
4:マイケル・オーウェン
5:アンドリー・シェフチェンコ
6:ゲルト・ミュラー
7:釜本 邦茂
8:三浦 知良
9:ジュス・フォンテーヌ
10:エウゼビオ
11:ロマーリオ
12:ディ・ステファノ
13:ガリンシャ
14:パオロ・ロッシ
15:平山 相太
16:デニス・ベルカンプ
17:レオニダス
18:大久保嘉人
19:ロナウド
20:ジャンルカ・ビアッリ
21:カール=ハインツ・ルンメニゲ
22:フェレンツ・プスカシュ
23:ウーゴ・サンチェス
24:マリオ・ケンペス
25:高原直泰
26:ケビン・キーガン
27:ジャン=ピエール・パパン
28:ギジェルモ・スタビレ
29:小倉隆史
30:フェルナンド・モリエンテス
31:鈴木隆行
32:田中達也
33:ジョージ・ウェア
34:ディキシー・ディーン
35:エミリオ・ブトラゲーニョ
36:オレグ・ブロヒン
37:ギャリー・リネカー
38:ユルゲン・クリンスマン
39:プレベン・エルケーア・ラルセン
40:ケニー・ダルグリッシュ
41:ルディ・フェラー
42:マティアス・シンデラー
43:福田正博
44:ジュゼッペ・メアッツァ
45:デニス・ロー
46:フリスト・ストイチコフ
47:ルイジ・リーバ
48:カレッカ
49:イアン・ラッシュ
50:オリバー・ビアホフ
51:ロジェ・ミラ
52:グンナー・ノルダール
53:ウーベ・ゼーラー
54:アルツール・フリーデンライヒ
55:パトリック・エムボマ
56:ラウル・ゴンサレス
57:ボビー・チャールトン
58:ベベット
59:高木琢也
60:ダヴォール・シュケル
61:ジェフ・ハースト
62:クリスチャン・ビエリ
63:トスタン
64:ヴィンチェンツォ・モンテッラ
65:ヤン・クーレマンス
66:ルート・ファン・ニステルローイ
67:アラン・シモンセン
68:ヌワンコ・カヌ
69:長谷川健太
70:ロイ・マカーイ
71:ミロスラフ・クローゼ
72:オマール・シヴォ
73:イヴァン・サモラノ
74:パウリーノ・アルカンターラ

コメント(74)

■本名:エミリオ・ブトラゲーニョ・サントス
■国籍・出身地:スペイン
■生年月日:1963/7/22
■身長・体重:170cm、68kg
■代表歴:1984/10/17デビュー(通算69試合,26得点)
■所属クラブ:
1975-82 レアル・マドリード
1982-84 CFカステーリャ
1984-95 レアル・マドリード
1995-98 セラヤ(メキシコ)

■個人タイトル:
1990-91 リーガ・エスパニョーラ得点王(19ゴール)

■代表・クラブタイトル:
1984/85 UEFAカップ優勝
1985/86 UEFAカップ優勝

■コメント:
 アルフレッド・ディ・ステファノ、ラウル・ゴンサレスと並ぶレアル・マドリードの象徴。あるいはそれ以上かもしれない。
 リーグ5連覇を達成し、当時優勝チームしか出場権利が与えられなかったチャンピオンズカップに5回連続出場を果たした。残念ながら優勝は無かったが、それでもUEFAカップで2年連続の優勝を経験している。
 小柄で体重も軽く、フォワードとして決して恵まれた体型とはいえない彼が活躍できた理由は2つ。獲物を狙うような鋭い感覚とその素早い動きにほかならない。その能力が遺憾なく発揮されたのが1986年ワールドカップのデンマーク戦。前評判ではデンマークが圧倒的有利だった。しかし、試合が終わってみると5-1でスペインの圧勝。そのうち4点はブトラゲーニョの挙げた得点だった。相手のミスを見事に突き、次々とデンマークのゴールネットを揺らした。鋭さ、嗅覚、確実性、ブトラゲーニョはその全てを持っていた。彼は正にエル・ブイトレだったのだ。
■本名:オレグ・ウラジミロビッチ・ブロヒン
■国籍・出身地:ウクライナ(ソ連)
■生年月日:1952/11/5
■身長・体重:180cm、72kg
■代表歴:1972/7/16(通算101試合,35得点)
■所属クラブ:
1969-87 ディナモ・キエフ
1988-89 フォルヴェルツ・シュタイナー(オーストリア)
1989-90 A・リマソール(キプロス)

■個人タイトル:
1975年 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)

■代表・クラブタイトル:

■コメント:
 「ウクライナの矢」今でこそこれはシェフチェンコの異名として知られているが、そのシェフチェンコが生まれる1年前の1975年、ソ連国内で4年連続の得点王に輝き、22歳ながらバロンドールを受賞、その素晴らしいスピードと正確なシュートから人々に「ウクライナの矢」と呼ばれていたストライカーがいた。それがこのブロヒンである。クライフやベッケンバウアーらが全盛期だったにも関わらず、42ポイントを集めたベッケンバウアー、27ポイントを集めたクライフに大差をつける122ポイントを獲得してのバロンドール受賞は当時何よりも価値の高い名誉であった。

 ソ連の女子100メートル走の記録保持者であった母の血を受け継いだブロヒンは学生時代には100メートル10秒8というタイムを記録、ソ連の陸上界の注目を集めるが、彼が選んだ道はサッカーであった。15歳の時にディナモ・キエフにてトップデビューを飾ると、その後は名将ヴァレリー・ロヴァノフスキーのもと、着実に成長を続け18才の時にはレギュラーに定着、その年に最初のリーグ得点王に輝く。その後は毎年のようにゴールを量産、4年連続得点王に輝くと1975年にはスーパーカップとカップ・ウィナーズカップの2冠を達成、中でもスーパーカップ決勝ではゼップ・マイヤー、ベッケンバウアー、G・ミュラー、ルンメニゲとそうそうたるメンバーを擁するバイエルン・Mを相手に
アウェーで1−0、ホームで2−0と完勝。この3得点全てを決めたのがブロヒンでありこの年の活躍が認められブロヒンはバロンドールを受賞したのである。1977年には通算5度目となるリーグ得点王に輝いたブロヒンはディナモ・キエフ在籍19年でリーグ制覇8回、国内カップ5回、カップウィナーズカップ2回、スーパーカップ1回を獲得。1973年、74年、75年と3年連続してソ連年間最優秀選手賞を受賞し、その能力に相応しいタイトルの数々を手中にしたのである。

 代表では当時の国内リーグでの活躍を受けて1972年の7月16日、フィンランド戦でデビューを飾る。
ブロヒンにとって最初の国際大会であった1972年のオリンピックで銅メダルを取ると1976年にも銅メダルを獲得。1982年、86年にはワールドカップにも出場する。
国としてはあまりタイトルには恵まれなかったが、1986年にはソ連代表として初めて100キャップを達成した選手になると最後には112試合出場を達成。代表通算42得点と共にソ連代表最多記録を残した。この記録はソ連が崩壊した現在となっては2度と破られることのない永遠に歴史に残る記録である。

 晩年はオーストリア、キプロスのクラブを渡り歩き現役を引退。引退後はオリンピアコス、PAOKサロニカ、イオニコスとギリシャのクラブにて7年間監督を務めるとその後ウクライナにて政界にも進出。

 2003年9月には母国ウクライナ代表監督に就任すると、チームは破竹の勢いで2006年W杯欧州予選を首位独走。
 そして、2005年9月、見事に首位通過を決めて母国ウクライナを悲願のW杯初出場に導いた。
■本名:ギャリー・ウィンストン・リネカー
■国籍・出身地:イングランド
■生年月日:1960/11/30
■身長・体重:177cm、74kg
■代表歴:1984/5/26デビュー(通算80試合,48得点)
■所属クラブ:
1974-85 レスター・シティ
1985-86 エバートン
1986-89 バルセロナ(スペイン)
1989-92 トッテナム・ホットスパー
1992-94 名古屋グランパスエイト(日本)

■個人タイトル:
1986年ワールドカップ メキシコ大会得点王(6ゴール)

■代表・クラブタイトル:

■コメント:
 86年メキシコワールドカップ得点王。 W杯通算10得点は史上7位。 代表48得点は、ボビー・チャールトンの49得点に次ぐ、イングランド史上2位。 代表キャッ プは80試合。 輝かし記録以上に評価されるのが、"フェア・プレー精神"。 生涯 一度も警告(イエローカード)を受けなかったクリーンなプレイヤーで、90年にはFIFA(国際サッカー連盟)から『フェア・プレー賞』を受賞。 FIFAが個人に対して賞を贈ったのは、これが最初である。
ペナルティエリアでの卓越したゴール感覚、ディフェンダーを翻弄する俊敏な動き、 ゴールに飛び込む勇敢さ。 リネカーは、サッカー史に残るストライカーで、ゴール の達人である。
 
 レスター・シティでは、2部にいたチームを1部に引き揚げ、そのシーズンには24得 点で1部の得点王を獲得。 エバートンに引き抜かれた翌シーズンにも、30得点を挙げて連続得点王に。 バルセロナでも、移籍したシーズンには21ゴールを挙げチームに貢献するも、3シーズン目に就任したヨハン・クライフの方針と合わずに、トットナム・ホットスパーズに移籍。 24ゴールを挙げて3度目の得点王に。異なる3つのクラブでのタイトル獲得は、リネカーの能力の高さを証明する快挙と言える だろう。

 92年、プロリーグを発足させた日本の名古屋グランパスエイトに移籍。 怪我との 戦いに終始し、期待された活躍はできなかったが、Jリーグに世界の目を向けさせ た貢献は計り知れない。 85/86、90/91シーズンの2度、イングランド最優秀選手に、84/85、85/86、89/90シーズンの3度、イングランド・リーグ得点王に輝く。 生涯ゴール数は333得点。 愛称は『リンクス(山猫)』である。
■本名:ユルゲン・クリンスマン
■国籍・出身地:ドイツ(西ドイツ)
■生年月日:1964/7/30
■身長・体重:182cm、73kg
■代表歴:1987/12/12デビュー通算108試合,47得点)
■所属クラブ:
1973-75 TBギンゲン
1975-78 ガイスリンゲン
1978-84 シュツットガルト・キッカーズ
1984-89 VfBシュツットガルト
1989-92 インテル
1992-94 モナコ
1994-95 トッテナム・ホットスパー
1995-97 バイエルン・ミュンヘン
1997-98 サンプドリア
1998   トッテナム・ホットスパー

■個人タイトル:
1988  ドイツ最優秀選手
1990  W杯ベストイレブン
1994  ドイツ最優秀選手
1995  イングランド最優秀選手
1987-88 西ドイツリーグ得点王

■代表・クラブタイトル:
1990 ワールドカップ優勝
1996 欧州選手権優勝
1990-91 UEFAカップ優勝(インテル)
1995-96 UEFAカップ優勝(バイエルン・ミュンヘン)
1996-97 ドイツリーグ優勝(バイエルン・ミュンヘン)

■コメント:
    『黄金の隼』

 なんでもない簡単なシュートを外す一方で、信じられないようなスーパーゴールも何度となく見せた。謙虚で慈愛に満ちたキャラクター、端正な容姿も加わり、多くのファンから深く愛されたストライカーである。
 ユルゲン・クリンスマンは1964年7月30日、ゲッピンゲンのパン屋の息子として生を受けた。1973年にTBギンゲンに加入後、本格的にサッカーを始める。その一方で学業でも優秀な成績を収めるなど、この頃から既にクリンスマン家自慢の孝行息子だった。有名な話だが彼のパン作りの腕前はプロ顔負けだという。
 
 1981/82シーズンに当時2部リーグに属していたシュツットガルト・キッカーズの一員としてプロデビューを飾り、1984年、前シーズンに19得点を記録した活躍を認められ、キッカーズと同じ街に本拠地を置くVfBシュツットガルトへと活躍の場を移した。1987年12月には西ドイツ代表としてのデビューも飾り、翌年の欧州選手権でも活躍。クリンスマンの名は瞬く間に世界中に広がり、沢山の報酬を得るようにもなった。
 しかし、ユルゲン・クリンスマンという人間は常に己を戒める術を心得ていた。CMに出るためにサッカーを続けるような選手が少なくない現代で、彼の生き方は実に簡素なものだった。1989年にインテルに迎え入れられても尚、練習場には中古車で通うなど、スーパースターらしからぬ態度はインテリスタのみならず世界中のファンに好感を抱かせたものだ。しかもなんというプロフェッショナル。試合中に彼が気を抜く姿など一度も目にしたことはなかった。
 
 1990年ワールドカップでは彼のキャリアを通じて最も重要なゴールが、決勝トーナメント1回戦のオランダ戦で記録される。因縁のライバル関係にある両国の試合は、質、雰囲気共に最高の試合だったが、両国の選手はあまりにもエキサイトしすぎていた。フランク・ライカールトがルディ・フェラーにつばを吐きかけ一発退場。応戦してもいないフェラーも退場処分を受け、西ドイツはクリンスマンの1トップでの戦い方を選ばざるを得なくなった。オランダのゴール前を固める獰猛なディフェンス陣。素晴らしい反応を見せるゴールキーパーのハンス・ファン・ブロイケレン。そんな難しい状況の中でクリンスマンのゴールが生まれたのは後半15分の事だった。彼がサッカー人生において最も重要で困難な仕事をやってのけた瞬間だった。その後、両チームとも1ゴールずつ挙げ、2-1で西ドイツが勝利。準々決勝以降は危なげない試合運びで史上3度目の世界王者に輝いた。
 
 1994/95シーズンにはトッテナム・ホットスパーで超人的な活躍を見せ同シーズンのプレミアリーグ最優秀選手に輝く。トッテナム入団当初はドイツ人ということもあり快くは迎え入れてもらえなかったが、月日が経つにつれ彼の人柄の良さに皆が気付き、バイエルン・ミュンヘンに去る際には全てのファンがクリンシとの別れを悲しんだ。
 そして迎えた1996年欧州選手権。ドイツ代表はかつてのタレントを失い苦戦が予想されたが「チームこそがスター」との考え方の下、クリンスマン、マティアス・ザマーらを中心としてチームは一致団結。ドイツ代表は見事に3度目となる欧州選手権優勝を成し遂げたのである。
 
 その後もクリンスマンは常に世界のサッカーシーンの中心に位置し、1998年ワールドカップ出場を最後に現役を引退。引退後はアメリカ合衆国でコンピュータとスペイン語の勉強に勤しむかたわら、アマチュアリーグで「ジェイ・ゲッピンゲン」という偽名を使い再びストライカーとして活躍。そして2004年7月26日、かつてのパートナーであるルディ・フェラーの後を受け、ドイツサッカー協会過去100年の歴史で9人目となる代表監督に就任。低迷を続ける母国の復権を誓う。
■本名:プレベン・エルケーア・ラルセン
■国籍・出身地:デンマーク
■生年月日:1957/9/11
■身長・体重:183cm、73kg
■代表歴:1977/6/22デビュー(通算69試合,38得点)
■所属クラブ:
1973-75 フレドリクスボア
1976 バンローズ
1976-78 1.FCケルン(ドイツ)
1978-84 ロケレン
1984-88 エラス・ベローナ(イタリア)
1988-90 バイレ

■個人タイトル:

■代表・クラブタイトル:

■コメント:
    『猛牛』

 80年代半ば、その攻撃力から「ダニッシュ・ダイナマイト」の異名を持った
デンマーク代表において、攻撃の中心となったデンマーク史上最強のストライカー。
ミカエル・ラウドルップとのコンビから繰り出される攻撃は強力であり、
デンマーク代表は1984年の欧州選手権では準決勝進出、
1986年ワールドカップでは大会初出場ながらベスト16入りを果たした。
その屈強な体躯によるパワーある突進から強烈なシュートを放つさまから
「バッファロー」の呼び名を持つ。

 1957年9月11日、フレドリクスボアで生まれたエルケーアは、生まれ故郷にてサッカーを開始、1973年よりトップデビューを果たすと、1976年に加入したバンローズでの7得点を挙げる活躍が注目され18歳にして名将バイスバイラー率いる西ドイツの1FCケルンとプロ契約を結ぶ。しかしその気質が災いし、わずか9試合に出場、1得点を記録するに終わり翌シーズンには奥寺等、他外国人選手との争いに勝てず、シーズン途中にベルギーのロケレンへ移籍。その地にて才能を大きく開花させることとなる。ポーランド代表歴代最高FWと称されるルバンスキとのコンビによって数多くの得点を記録、在籍6シーズンすべてにおいて2桁得点を挙げ通算188試合98得点と活躍、キャプテンを努めるまでに成長したのである。その活躍に目をつけたイタリアの地方クラブ、エラス・ヴェローナが彼の獲得を決定。この獲得がヴェローナに奇跡をもたらすこととなる。移籍初年度となった84/85シーズン、ヴェローナは開幕3連勝を果たし、5節にはユベントスを2ー0と退けるとそこから勢いに乗り、開幕から引き分けを含む14試合負けなしと快進撃を続け、終わって見ればシーズン通算15勝13分2敗。2位のトリノに4ポイント差をつけ、ヴェローナにとってスクデットと言う大きすぎるタイトルをもたらしたのである。エルケーア自身もユベントス戦、ローマ戦とビッククラブとの試合で貴重な得点を記録、スクデットに大きく貢献した。

 代表デビューは1977年6月22日のフィンランド戦。それまで国際舞台に縁の無かったデンマークだったが1984年の欧州選手権フランス大会に出場を果たすと初戦こそプラティニ擁するフランスに敗戦をきっするが、その後スペイン戦でPK戦の末破れるまで勝ち続け、準決勝進出と言う素晴らしい結果を残した。欧州選手権で勢いをつけたデンマークは1986年のワールド杯に初出場を果たす。初戦のスコットランド戦ではエルケーアの得点で1ー0でワールド杯初勝利を飾ると、続くウルグアイ戦では、エルケーアのハットトリックを含む大量6得点を記録。古豪ウルグアイを6ー1で破ったことにより「ダニッシュ・ダイナマイト」は世界に知れ渡ることとなった。その後、優勝候補であった西ドイツをも2ー0で破りグループリーグを首位で通過。デンマークの更なる活躍に期待されたが決勝トーナメント第1戦のスペイン戦にて敗退。ブトラゲーニョに4得点を許し5ー1で大会敗退となった。1988年6月14日に代表を引退。代表通算69試合38得点 。
 ヴェローナで4シーズンを過ごしたエルケーアは後に母国デンマークに戻りバイレBKにて2シーズンを過ごし現役を引退した。ダニッシュ・ダイナマイトの中核をなしたエルケーアは1984年は3位、85年は2位とそれぞれバロンドールの投票で高順位を獲得しているがそのどちらも1位はプラティニに奪われている。バロンドールに選出される能力がありながら、神の領域にいたプラティニの前ではその存在も霞む他なかったのは残念な所である。
■本名:ケネス・マティソン・ダルグリッシュ
■国籍・出身地:スコットランド
■生年月日:1951/3/4
■身長・体重:177cm、73kg
■代表歴:1971/11/10(通算102試合,30得点)
■所属クラブ:
1964-66 グラスゴー・ユナイテッド
1966-67 カンバーノールド
1967-77 セルティック
1977-90 リバプール(イングランド)

■個人タイトル:

■代表・クラブタイトル:
1977-78 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1980-81 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1983-84 UEFAチャンピオンズカップ優勝

■コメント:
 ボールコントロールに優れ、抜群のスピードと得点感覚によってゴールを量産、まさに次元の違うプレーによってファンを魅了し、あのデニス・ローと共にスコットランドを代表する名プレーヤーである。

 地元グラスゴー・ユナイテッドなどのクラブで育ち、1967年、セルティックに入団、自身の夢であったレンジャースへの入団は果たせなかったが、ここでその才能を大きく開花させる。デビュー戦にて6得点を記録し注目を浴びると、その後も得点を量産、10シーズン通算204試合出場112得点を挙げ4度のリーグ優勝並びに4度のカップ戦優勝に貢献し一時代を築いた。キャリアの全盛期となる26才でプレミアリーグ、リバプールへ移籍、当時世界最強を誇ったリバプールスタープレーヤー、ケビン・キーガンの背番号「7」を引き継ぐと、並外れた得点能力を見せて活躍、7度のリーグ優勝、3度のチャンピオンズ・カップ制覇に貢献する。(1985年からはプレーイング・マネージャーを務めリーグ優勝、引退後は監督としてブラックバーンをリーグ優勝に導いている。)「ヘイゼルの悲劇」「ヒルズボロの悲劇」によって欧州カップ戦から閉め出される事がなければ、それ以上のタイトルを手中にしていたのは間違いないであっただろう。

 1971年11月10日のベルギー戦にて代表デビュー、
その後は不動のストライカーとして10年以上もの間君臨し
歴代最多の102試合出場記録と同時に、デニス・ローと並ぶ歴代最多得点記録の30得点をマークした。ワールド杯にも3大会連続の出場を果たしたが、クラブレベルほどの活躍を見せる事は出来なかったのは残念な所である。
■本名:ルドルフ・フェラー
■国籍・出身地:ドイツ(西ドイツ)
■生年月日:1960/4/13
■身長・体重:177cm、71kg
■代表歴:1982/11/17デビュー(通算90試合,47得点)
■所属クラブ:
1968-75 TSV1860ハーナウ
1975-80 オッフェンバッハ・キッカーズ
1980-82 1860ミュンヘン
1982-87 ベルダー・ブレーメン
1987-92 ローマ(イタリア)
1992-94 マルセイユ(フランス)
1994-96 バイヤー・レバークーゼン

■個人タイトル:

■代表・クラブタイトル:
1990年 ワールドカップ優勝
1992-93 UEFAチャンピオンズカップ優勝

■コメント:
 クリンスマンと並ぶ歴代2位の代表得点記録、代表通算47得点をクリンスマンより18試合も少ない試合数で成し遂げた80年代を代表するストライカー。典型的なストライカーであり、特にペナルティエリア内では絶対的な強さを誇ったフェラーだが、そのプレーゾーンは非常に広く、チャンスメーカーとしても素晴らしい能力を発揮した。代表通算90試合47得点。

フランクフルトの東、ハナウの町で生まれたフェラーは17歳のときにオッフェンバッハ・キッカーズにてトップデビューを果たすと、すぐにレギュラーに定着。3シーズンを過ごしたあとバイエルン・ミュンヘンのライバル、1860ミュンヘンに移籍をする。移籍2年目となる81/82シーズンには37試合37得点と、1試合あたり1得点を決める活躍を見せ、2部リーグ得点王に輝く。この活躍が認めたらたフェラーは翌シーズンより1部のヴェルダー・ブレーメンへ移籍。ブレーメンでも前シーズンの好調を維持し、新しいチームにすぐに馴染むと移籍初年度ながら1部リーグでも23得点を挙げ得点王を獲得、翌年にはドイツ年間最優秀選手賞を受賞しその地位を確固たる物とした。

 代表では1982年11月17日北アイルランド戦でデビューを果たすと1984年にはフェラーにとって最初のビッグトーナメントとなった欧州選手権フランス大会に出場。フェラーはここで2ゴールを決める活躍を見せるも西ドイツは1回戦敗退。2年後のメキシコワールドカップでは、フェラーはベンチで多くの時間を費やすこととなった。というのも当時の代表監督、ベッケンバウアーはルンメニゲのパートナーにクラウス・アロフスを起用することを好んだからである。しかしフェラーは根気よく出場のチャンスを待ち続け、準決勝後半に途中交代で出場を果たすと89分には得点を決め2−0でフランスを退け決勝進出を決めた。決勝のアルゼンチン戦では再び後半からの途中出場。フェラーはここでも途中出場ながら同点弾となる貴重な得点を決めるがブルチャガに決勝点を許し惜しくもワールドカップ優勝を逃してしまう。勝負の世界に「たら・れば」は厳禁だが、もしフェラーがフル出場を果たしていたら結果は逆のものになっていたのかもしれない。

 メキシコでのフェラーの力強さと才能はイタリアのローマをひきつけ87/88シーズンよりイタリアへ渡る。ここで5シーズン過ごし90/91シーズンのコパ・イタリア優勝に貢献した。セリエAにおいても挙げたゴール数は通算45得点と量産的なものではなかったがそのテクニカルなゴールはローマファンのみならずイタリアの人々に深い印象を与えている。ローマ在籍中に地元ドイツで行われた1988年欧州選手権では後に優勝チームとなったオランダに準決勝で敗れる。しかし2年後行われたワールドカップイタリア大会、決勝トーナメント1回戦で再びオランダと合間見える。この試合で見事リベンジを果たしたが、フェラー自身はライカールトとの間に起こった「つば吐き事件」によりわずか22分で共に退場する事となってしまった。セミファイナルのイングランド戦で復帰を果たすと埋め合わせをするべく、フェラーは精力的に走り回り、その突破は決勝戦にてPKを誘い、このPKをブレーメがしっかり決めワールドカップ優勝を果たし、フェラーは自身初のワールドカップをローマのホーム、オリンピコにて高々と掲げた。フェラーは後にマルセイユに移籍。八百長事件によりリーグタイトルは剥奪されるがチャンピオンズ・リーグでは決勝でミランを退けフランスクラブ初のビックイヤーを獲得すると1994年アメリカワールドカップにも出場しこれを最後に代表を引退(90試合47得点)その後レヴァークーゼンに2シーズン在籍すると現役生活にピリオドを打った。

 現役引退後はドイツ代表のケアマネージャーを経て代表監督に就任。2002年ワールドカップでチームを準優勝に導いたことは記憶に新しいことだろう。
■本名:マティアス・シンデラー
■国籍・出身地:オーストリア
■生年月日:1903/2/10 - 1939/1/23
■身長・体重:179cm、63kg
■代表歴:1926/9/28デビュー(通算43試合,27得点)
■所属クラブ:
1918-24 ヘルタ・ウィーン
1924-26 ビエナーAS
1926-39 FKオーストリア

■個人タイトル:

■代表・クラブタイトル:

■コメント:
  『紙の男』

 オーストリア史上最高の選手と言われる。1930年代に脅威的な得点能力で世界を席巻した同国代表、通称「ブンダー・チーム」の代表選手で、『紙の男』と呼ばれたほど痩身だったが、卓越したテクニックと強力なシュートで活躍、モーツァルトに例えられるプレーぶりで人気を博した。チェコスロバキア(注:当時は同じ帝国領)のコズラウで育ち、ビエナーASでオーストリア杯を二度制したあと、FKオーストリアに加入。リーグ優勝と3度のカップ制覇に加え、オーストリア、ハンガリー、イタリアなどのクラブチームが参加する国際大会のはしり、ミトローパ杯で33年と36年に優勝、遺憾なく強豪ぶりを発揮した。こうした一連の活躍は、オーストリア代表に歩調を合わせるように30年代前半に頂点を迎える。26年、23歳で代表デビューは果たしていたものの、ヒューゴ・マイスル代表監督の試行錯誤の間、チームからは遠ざかっていた頃もあった。やがて代表にかかせない存在になると、30試合で101得点という驚異的なゴールラッシュの原動力になり、他国記者から「驚愕の(ブンダー)チーム」と呼ばれるようになる。対スコットランド戦5ー0、対ドイツ戦6ー0、31年プラター・スタジアムでの再戦では、シンデラーがハットトリックを決めて5ー0の完勝、対スイス戦8ー1、対ハンガリー戦8ー2。当時「世界最強」というプライドを保持したまま衰退しつつあったイングランド相手にも、敗れはしたが、ウェンブリーであと一歩のところまで追い詰めた。
 34年のイタリアW杯でも優勝候補だったが、ムッソリーニの圧力に後押しされた開催国に敗れて涙を飲む。リベンジを誓ったフランスW杯は、予選を突破しておきながら、母国がドイツに併合されたことで夢と消えた。
 
 ユダヤ人だったシンデラーは徐々に追い詰められる。ドイツサッカーへの転向が許されず、ウィーンの隠れ家に身を潜め国外脱出を画策していたが、ナチスの影に苦しんで35歳の若さで自殺。伝説のチームともども、戦争という暗い歴史の向こうに姿を消した。
■本名:福田正博
■国籍・出身地:神奈川県横浜市
■生年月日:1966/12/27
■身長・体重:176cm・68kg
■代表歴:90年7月27日韓国戦デビュー(45試合9得点)
■所属クラブ:
1989-2002 浦和レッズ(三菱重工業)

■個人タイトル:
1995 Jリーグ得点王

■代表・クラブタイトル:

■コメント:
   『ミスターレッズ』

 1989年、三菱重工業に入社。当時三菱重工業サッカー部は日本リーグ2部に降格していたが、それを1年で復帰させる原動力となる。その後も三菱自工サッカー部→そしてJリーグの浦和レッズのエースストライカーとして、リーグ発足後の浦和レッズの成績低迷に苦しみながらも、日本代表の中心的な選手としても活躍した(代表でのポジションはMF)。いわゆる「ドーハの悲劇」の時の代表メンバーの一人でもある。

 1995年にはJリーグ日本人選手初の年間得点王を獲得し、ベストイレブンにも選ばれた。その後も浦和レッズの中心選手としてサポーターから愛され、度重なるケガやチームの2部降格などの苦難を乗り越えて活躍を続けたが、2002年のシーズンを最後に現役を引退した。翌2003年には埼玉スタジアム2002で、5万人以上の観衆を集めて引退試合が行われた。ちなみに、J2に降格した時の試合で、勝ってもJ2に降格することをすでに知っていた彼は、皮肉にもVゴールを決めた後、表情ひとつ変えなかった。そこへ、それを知らなかった(と思われる)池田学が彼に抱きついたが、それを拒否して振り払うという出来事もあった。

 引退後は日本サッカー協会の普及活動に協力する「アンバサダー」となり、サッカー解説者として活躍している。現在のサッカー解説者の中で一番多く複数のテレビ・ラジオ局と契約を交わしていることもあって、日本代表の海外遠征をはじめとする海外取材がほかの解説者と比較して際立って多い。そのため、福田についたあだ名が「世界を股にかける男」。

 現在も浦和レッズのサポーターの間での彼への人気は根強い。浦和が2004年の第2ステージで優勝した時には、中継解説者として中継席にいた福田に向かって、サポーターが現役当時の応援である「ゲットゴール福田」コールをし、チームの苦難の時代を支えた彼を称えた。

 福田のプレースタイルは、柔らかいボールタッチのドリブルはスピードも兼ね揃えており、ドリブル突破からのチャンスメイクや自らの得点で観客を沸かせた。スピードなら同世代の絶対的エースであったカズを凌いだ。ドーハの悲劇世代ではカズに勝るとも劣らない潜在能力もケガやチームの不調で100%発揮できたとは言えない。

 ミスターレッズ、福田正博 、背番号9

 浦和レッズサポーターは、あなたの勇姿を永遠に胸に刻んで忘れないであろう。
■本名:ジュゼッペ・メアッツァ
■国籍・出身地:イタリア
■生年月日:1910/8/23 - 1979/8/21
■身長・体重:169cm、73kg
■代表歴:1930/2/9デビュー(通算54試合,33得点)
■所属クラブ:
1924-40 インテル
1940-42 ミラン
1942-43 ユベントス
1944 バレーゼ
1945-46 アタランタ
1946-47 インテル

■個人タイトル:

■代表・クラブタイトル:
1934年 ワールドカップ優勝
1938年 ワールドカップ優勝

■コメント:
 イタリア史上最高の選手とも言われるほどのプレーヤー。インテルの生え抜きで、17歳でデビューするとそのシーズンいきなり当時としては最高記録の33得点をあげ得点王になり一気にサポーターのアイドルになる。翌シーズンも得点王になり、チームのセリエA初代チャンピオンに大きく貢献する。ドリブルのうまさ、シュート力、パス能力全てに優れ、イタリアの初代ファンタジスタとも言われる。
 代表でも19歳で選ばれ、地元開催の34年ワールドカップではMVPともいえる活躍を見せ、チームの優勝に大きく貢献する。翌38年大会はキャプテンとして望みここでもチームの連覇に大きく貢献した。1934、38年にイタリアがワールドカップを連覇したときに、連覇を経験した選手はフェラーリとこの選手の2人だけである。結局代表では54試合33得点をあげルイジ・リーヴァに抜かれるまで代表通算得点記録を保持していた。(歴代2位)。得意技は相手DFを全員をドリブルで抜き去った後、GKを誘き出しておいて、バカにし
たようなチップキックでゴールに流し込むというものだった。
 彼がインテル時代にセリエAであげた248ゴールはいまでもチーム記録となっており、DFが重視される現代の戦術や長くチームに留まる選手が少なくなってきたことからも、今後この記録は破られることはないと思われる。

 晩年は左足に血行障害を抱え、足がいつも凍るように冷たくなってしまい、ユーベやミランでもプレーしたが、全盛期ほどの活躍をすることはできなかった。
 彼の存在の偉大さは、死後ミラノのスタディオ・サンシーロがスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァと命名されたことからも想像がつき、ミラノの象徴だったことがわかる。
■本名:デニス・ロー
■国籍・出身地:スコットランド
■生年月日:1940/2/24
■身長・体重:175cm、71kg
■代表歴:1958/10/18デビュー(通算55試合,32得点)
■所属クラブ:
1957-60 ハダースフィールド(イングランド)
1960-61 マンチェスター・シティ(イングランド)
1961-62 トリノ(イタリア)
1962-73 マンチェスター・ユナイテッド(イングランド)
1973-75 マンチェスター・シティ(イングランド

■個人タイトル:
1964年 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)

■代表・クラブタイトル:
1967/68 UEFAチャンピオンズカップ優勝

■コメント:
  「ジャックナイフ」、「金髪の悪魔」

 60年代、B・チャールトン、G・ベスト等と共にマンチェスター・Uにて一時代を築きその歴史に名を残した、「金髪の悪魔」の異名を持つストライカー。ロングシュートやアクロバティックなシュートなども得意としたが、特筆すべきはそのヘディング能力である。自分よりもずっと長身のDFとの競り合いにも負けることなく、得点を量産。その鋭さから「ジャックナイフ」と呼ばれ相手DFに恐れられた。端正な容姿と豊かな才能に恵まれたローの魅力は男女問わず人々を魅了し、彼に憧れ「デニス」の名を我が子に付けるのが当時流行した。デニス・ベルカンプのデニスもローの名前からとってつけられたのは有名な話である。

 1940年2月24日、アバディーンの貧しい漁師の息子として生まれ、幼い時はスパイクを買うのも苦労したと言う。15才の時ハダースフィールド・タウンに所属すると、1年後クラブ最年少記録となる16才でトップデビューを果たす。当時ハダースフィールドの監督だったビル・シャンクリーのもと技術を磨き、3シーズン在籍後マンチェスター・シティに移籍。ここで44試合21得点と素晴らしい活躍をすると、当時イングランドの移籍金最高額となる11万5千ポンドでイタリアのトリノへ移籍をする。しかしイタリアでの経験はローにとって苦しいものであった。交通事故での怪我による戦線離脱、そして海外でのプレーのため代表戦に招集されることが難しく、ローはわずか1シーズンで英国に戻ることを決意する。

 その時ローに目をつけたのが、当時マット・バスビーによって率いられていたマンチェスター・ユナイテッドである。ローはマンチェスター・Uでのデビュー戦で2得点を決めるとその後得点を量産。最初の5シーズンで222試合160得点と素晴らしい活躍を見せ、2回の優勝とFAカップ獲得に貢献、自身も1964年にバロンドールを受賞した。そして1968年、チャンピオンズカップファイナル、マンチェスター・Uは聖地ウェンブリーにてベンフィカを破り、クラブ悲願のチャンピオンズカップを制覇。しかしその場にローの姿は無かった。ローは度重なる激しいプレーのため膝の怪我が悪化し、手術を受け、その日は病院のベッドからの観戦を強いられていた。チャンピオンズカップは後日マット・バスビーの手によって入院中のローの元へ届けられたと言う。

 代表デビューは1958年10月18日ウェールズ戦。ローはデビュー戦で1得点を決めるとその後代表では代表通算55試合に出場、30得点を記録したのだった。この30得点はケニー・ダルグリッシュの30得点と共にスコットランド代表歴代最多得点だが、ダルグリッシュが102試合30得点である事から、ローの驚異的な得点力は容易に想像が付くところだろう。

 ローはマンチェスターUに11シーズン在籍後、古巣マンチェスター・Cに移籍し、ここで1シーズン過ごすと1974年、34歳で現役を引退した。

 ちなみに、ローのリーグ戦の最後の得点は74年の最終戦、マンチェスターシティーの一員として出場した試合で、古巣のマンチェスターユナイテッド戦であった。そして、皮肉にも彼のゴールが、かつて栄光の時代を過ごしたマンチェスターユナイテッドの2部への降格を決める得点となってしまったのだ。
■本名:フリスト・ストイチコフ
■国籍・出身地:ブルガリア
■生年月日:1966/2/8
■身長・体重:178cm、72kg
■代表歴:1986/10/7デビュー(通算83試合,37得点)
■所属クラブ:
1976-84 マリツァ・プロフディフ
1984-85 ヘブロス・ハルマンリ
1985-90 CSKAソフィア
1990-95 バルセロナ(スペイン)
1995-96 パルマ(イタリア)
1996-97 バルセロナ(スペイン)
1997-98 CSKAソフィア
1998 アル・ナスル
1998-99 柏レイソル(日本)
2000-03 シカゴ・ファイアー(アメリカ合衆国)

■個人タイトル:
1990年 ゴールデン・ブーツ(38ゴール)
1994年 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)
1994年 ワールドカップ アメリカ大会得点王(6ゴール)

■代表・クラブタイトル:
1991/92 UEFAチャンピオンズカップ優勝

■コメント:
 ブルガリア史上最高のフットボールプレーヤー。パワー、スピード、テクニック全てを兼ね備え、特に驚異的な破壊力を備えた左足は対戦相手に恐怖すら抱かせた。強烈なキャラクターの持ち主であり、「ゴールの数だけカードを貰う」と揶揄されることもあったが、その不屈な精神力がファンのハートを掴んだのもまた事実である。37歳までという長きに渡って現役を続けたが、それは優れた戦術眼と味方を生かすパスセンスを持ち合わせていたことの証明でもあるだろう。

 母国のCSKAソフィアでプロデビューを果たし、88-89、89-90と2年連続の得点王、89-90シーズンには38得点でゴールデンブーツ賞にも輝いている。その才能をクライフに見初められ、バルセロナに移籍を果たす。

 ここでリーガ4連覇を始め、数々のタイトルを獲得、92年にはサンプドリアを破ってチームに初となる欧州王座をもたらすなど、ドリームチームの中心選手として黄金期を築き上げた。特にロマーリオとのコンビネーションは抜群で、自身のみならず相棒の得点量産にも大きく貢献、ロマーリオの得点王はストイチコフの存在なくしてはありえなかっただろう。

 その後1度はイタリアに渡るものの、すぐにバルサに復帰すると、カップ・ウィナーズ・カップ、スペイン国王杯、欧州スーパーカップの三冠を達成。「フリスト」とはブルガリアで「キリスト」を意味する言葉であるが、正にストイチコフは“バルセロナの神”であった。

 しかしどんな出会いにも別れは訪れる。ファン・ハールと反りが合わずバルサを離れると、その後は各国のクラブを転々とし、日本の柏レイソルにも2シーズン在籍した。そしてMLSで4シーズン活躍した後、DCユナイテッドを最後に2003年12月、遂に現役を引退した。引退試合はカンプ・ノウで行われ、“愛すべき暴君”との別れが多くの人々に惜しまれていたのは言うまでもない。

 ブルガリア代表でも黄金世代の代名詞的存在としてチームを牽引。1994年にワールドカップ出場を果たすと、それまで国際大会とは無縁だったブルガリアは快進撃を続け見事ベスト4に進出、ストイチコフ自身も6得点をあげ大会得点王に輝いた。バルサでの活躍もあわせて、この年のバロンドールに選出されている。
■本名:ルイジ・リーバ
■国籍・出身地:イタリア
■生年月日:1944/11/7
■身長・体重:179cm、78kg
■代表歴:1965/6/27デビュー(通算42試合,35得点)
■所属クラブ:
-1962 ラベノ・モンベッロ
1962-63 レニャーノ
1963-76 カリアリ

■個人タイトル:

■代表・クラブタイトル:
1968年 欧州選手権優勝

■コメント:
 スピード抜群のドリブルと強烈な左足のシュートを武器に60年代後半から70年代にかけて活躍、代表42試合出場35得点のイタリア代表最多得点記録を持つストライカー(愛称ジジ)。

 18才の時セリエCのレニャーノでキャリアをスタートさせ23試合6ゴールを記録、その活躍が当時セリエBのチームであったカリアリのフロントの目にとまり、当時としては破格の3750万リラで引き抜かれる。移籍初年度から素晴らしい活躍を見せ8得点を記録、このシーズンのA昇格に貢献する。その後シーズンを重ねる事に才能を開花させセリエA12シーズン289試合出場、156得点を記録、内3度の得点王にも輝いている。カリアリ史上唯一のスクデット獲得にも大きく貢献した(69/70シーズン21得点)代表としても1965年6月にデビューを果たし、1974年W杯を最後に代表引退するまでチームの柱として活躍、1968年欧州選手権優勝、1970年W杯準優勝に大きく貢献し通算35得点を記録する。プロとしてのキャリアを終えた後、カリアリのフロント入りを経て会長にも就任、また、イタリア代表のチームマネージャーも務めるなどイタリアサッカー界に多大なる功績を残した。そして2005年2月、カリアリで開催されたロシアとの親善試合キックオフ前にカリアリの背番号「11」が本人に手渡され、永久欠番となった。

 全盛期にはユベントスやインテルなどの強豪から数々のオファーを受けたがカリアリでのスクデットの夢に固執し、そしてそれを現実にした素晴らしい選手、現在では少なくなった「チームへの忠誠」を重んじた尊敬に価するプレーヤーであった。
■本名:アントニオ・ジ・オリベイラ・フィリオ(カレッカ)
■国籍・出身地:ブラジル
■生年月日:1960/10/5
■身長・体重:179cm、75kg
■代表歴:1982/3/21(通算62試合,29得点)
■所属クラブ:
1977-82 グアラニ
1983-87 サンパウロ
1987-93 ナポリ(イタリア)
1993-96 柏レイソル(日本)
1997 サントス

■個人タイトル:

■代表・クラブタイトル:
1988/89 UEFAカップ優勝

■コメント:
 素晴らしいスピードのあるドリブルと、並外れた決定力は、歴代のブラジルを代表するストライカーと言え、また87/88シーズンから過ごしたセリエAナポリにて、あのマラドーナとセリアA史上最強と言うに相応しいコンビを見せてナポリの一時代を築き上げた。

 グアラニで頭角を現し、1978年ブラジル全国選手権優勝に貢献、その後1982年3月21日西ドイツ戦にて代表デビューを果たした。直後の1982年ワールドカップでは若きエースとして期待を集めるが、直前の負傷によってメンバーから外れた。翌1986年ワールドカップでは5試合5得点と文句無しのエース的活躍を見せ、その実力を証明、 1987年にマラドーナがエースとして君臨するナポリへ移籍する。ここでのマラドーナとのコンビは素晴らしく、2人だけで数多くの得点を記録、88/89シーズンにUEFAカップを制すると89/90にはスクデットを獲得する。

 1993年からは当時2部のチームであった柏レイソルへ移籍、世界屈指の実力を見せつけJ1昇格に大きく貢献した事でも日本ではよく知られている。その後サントスを経て一線を退いたがブラジル4部リーグ、カンピナスのクラブ会長を務めながら
40を過ぎるまで現役でプレーした。
■本名:イアン・ジェームス・ラッシュ
■国籍・出身地:ウェールズ
■生年月日:1961/10/20
■身長・体重:183cm、79kg
■代表歴:1980/5/21デビュー(通算73試合,28得点)
■所属クラブ:
1977-80 チェスター(イングランド)
1980-87 リバプール(イングランド)
1987-88 ユベントス(イタリア)
1988-96 リバプール(イングランド)
1996-97 リーズ・ユナイテッド(イングランド)
1997-98 ニューカッスル・ユナイテッド(イングランド)
1998-99 レクスハム
1999-00 シドニー・オリンピック(オーストラリア)

■個人タイトル:
1984年 ゴールデンブーツ賞(32ゴール)

■代表・クラブタイトル:
1983/84 UEFAチャンピオンズリーグ優勝

■コメント:
 氷のような冷静さとカミソリのように鋭い直感を併せ持ち
シンプルなダイレクトシュートでゴールを量産したウェールズ史上最高のストライカー。15年間所属したリバプールでは素晴らしい得点能力を発揮し、70年代より続くリバプール黄金期は、ラッシュの活躍により80年代末まで続くこととなる。

 北ウェールズのセントアサフで生まれ、エバートンファンとして育つ。17歳の時チェスター・シティでトップデビューを果たすと翌シーズンには33試合14得点を記録。その活躍が認められ1980年、当時10代の選手としては最高額の30万ポンドでリバプールへ移籍する。リバプールに移籍した彼はその才能を一気に開花させ、在籍2年目の81/82シーズンには17得点を挙げリーグ制覇に貢献、その後リバプールは彼の活躍によりリーグ3連覇を達成する事となる。3連覇目となる83/84シーズンには彼自身、32得点を記録しリーグ得点王を獲得、その年のプレミアリーグ年間最優秀選手に選出されると欧州得点王となるゴールデンブーツ賞をも受賞し、同年のチャンピオンズカップをも制覇した。

 その後も3シーズンで66得点と驚異的な活躍を続ける彼に1987年、ユベントスが320万ポンドのオファーを出すとクラブはそれを受け入れる。しかし、ユベントスでは29試合7得点と不本意な成績に終わり、わずか1年でリバプールに復帰をする。復帰後は再び輝きを取り戻し89/90シーズンには4シーズンぶりのリーグ制覇を成し遂げるとともに様々な記録を樹立した。20世紀レコードとなるFAカップ44得点はそれまでの記録保持者デニス・ローを上回り、皮肉にも少年時代大ファンだったエヴァートンを相手に25得点と、マージーサイドダービーにおける最多得点記録も樹立。ワージントンカップでは史上初めてワージントンカップを5回獲得した選手となり、ジョフ・ハーストと並ぶ49得点を記録した。

 90年代後半に入りR・ファウラーの台頭によりリヴァプールでの居場所を失うとトップでのプレーにこだわるラッシュはリーズに移籍。慣れないMFとしての役割を見事にこなすがゴールの喜びを忘れられないラッシュはニューカッスル、シェフィールド・U、レグザムとチームを渡り歩く。最後はオーストラリアに渡り、そこで3週間の契約を全うさせ現役を引退した。

 代表デビューは1980年5月21日のスコットランド戦。通算73試合に出場、ウェールズ代表歴代最多得点となる28ゴールを決めるもウェールズは国際トーナメントに出場することは出来ず、ラッシュの夢であったワールドカップ出場も果たすことは叶わなかった。
 引退後は英国とオーストラリアで「Ian Rush Finishing School」を開校、少年たちに自分が体験した最高の瞬間を伝えるべく、日々点の取り方を教えている。いつもわずかなチャンスを追い求め、熱心にボールを追い、時にはディフェンスの最終ラインまで下がることもしばしば、勝つための執念を決して無くすことのないラッシュは現代では珍しくなってしまったストライカーであった。
■本名:オリバー・ビアホフ
■国籍・出身地:ドイツ
■生年月日:1968/5/1
■身長・体重:191cm、90kg
■代表歴:1996/2/21ポルトガル戦デビュー(通算70試合,37得点)
■所属クラブ:
1974-78 エッセナーSG
1978-85 シュバルツバイス・エッセン
1985-88 バイヤー・ユルディンゲン
1988-90 ハンブルガーSV
1989-90 VfLボルシア・メンヘングラッドバッハ
1990-91 SVザルツブルグ(オーストリア)
1991-95 アスコリ(イタリア)
1995-98 ウディネーゼ(イタリア)
1998-01 ミラン(イタリア)
2001-02 モナコ(フランス)
2002-03 キエーヴォ(イタリア)

■個人タイトル:
1997-98 セリエA得点王

■代表・クラブタイトル:
1996 欧州選手権優勝

■コメント:
 長身を生かしたヘッドは抜群の決定力を持ち、ポストプレーから幾多のチャンスを演出した元ドイツ代表ストライカー。

 1985年夏、バイヤー・ユルディンゲン・ジュニアチームに加入、最初のシーズンにいきなり30得点を記録、1986年にブンデスリーガにデビューを果たし今後の成長に期待の持てる新人として注目を集める。しかし、フェルドカンプ監督の解任と同時に、ビアホフも居場所を失いハンブルガーSV、ボルシアMGと渡り歩くものの、その存在が重要される事はなく、オーストリアへ新天地を求める。ここでヴィーバッハ監督の信頼を得、チームの中心としてこのシーズン23得点を記録する大活躍を見せ得点王獲得、この活躍から本人の憧れでもあったイタリアへ渡る事となる。初年度となるアスコリではB降格などの辛い経験をする事となるが95/96シーズンから加入したウディネーゼで断固たる地位を確立し、97/98シーズンには27得点をあげてセリエA得点王を獲得している。98/99シーズンからはミランへ加入、20得点を記録してスクデット獲得にも大きく貢献している。その後モナコを経てキャリアの最後に再びセリエAへ復帰、自身現役最後の試合となる最終節ユベントス戦にてハットトリックを達成し有終の美を飾った。

 1996年2月21日ポルトガル戦にて代表デビューを果たしこの年開催された欧州選手権の決勝にて2得点を記録し優勝に貢献、その名前を世界に知らしめる事になる。その後不動の地位を確立し1998年、2002年ワールド杯と2大会連続でワールド杯にも出場、自身最後の大会となった2002年ワールド杯ではスーパーサブとして5試合に出場し準優勝に貢献した後、代表を引退した。代表通算70試合37得点。
■本名:アルベルト・ロージャー・ムー・ミラー
■国籍・出身地:カメルーン
■生年月日:1952/5/20
■身長・体重:176cm、72kg
■代表歴:1972/3/5デビュー(通算79試合,28得点)
■所属クラブ:
1965-70 レクレール・ドゥアラ
1970-72 レパード・ドゥアラ
1972-77 トレーネ・ヤウンデ
1978-79 バランシエンヌ(フランス)
1979-80 モナコ(フランス)
1980-84 バスティア(フランス)
1984-86 サンテチエンヌ(フランス)
1986-89 モンペリエ(フランス)
1989-90 サンピエロワーゼ(レユニオン)

■個人タイトル:
1976年 アフリカ年間最優秀選手(フランスフットボール誌)
1990年 アフリカ年間最優秀選手(フランスフットボール誌)

■代表・クラブタイトル:

■コメント:
 カメルーンの生んだ神秘のカリスマとも言えるストライカーであり独自のリズムによるドリブル、天性の得点感覚、驚異的な身体能力を持って見るものすべてを魅了した。

 弱冠13才でエクレール・ドゥアラと契約、ここで高いポテンシャルを開花させその後加入したレオパード・ドゥアラではリーグ優勝に貢献している。1976年にはアフリカ最多得点者となりフランスフットボール誌が選出するアフリカ最優秀選手賞を受賞し、1978年にフランスへ渡るが多くの出場機会に恵まれず、各クラブを渡り歩く事となる。1984年に加入した2部リーグサンテチェンヌにて輝きを取り戻しシーズン22得点を挙げるなど活躍、フランスキャリアの最後となったモンペリエでもその才能は発揮されたが、すでに30才を超えておりその才能が発揮出来る場を見つけるまでに、あまりにも時間がかかり過ぎた。

 そんなミラが国際的に世界を驚かせ注目を浴びたのは1990年ワールド杯、38才の時。1972年3月5日ザイール戦にて代表デビュー以来、チームを牽引し1982年ワールド杯にて母国をワールド杯に導き、1984年、88年のアフリカ選手権優勝に貢献、1984年アフリカ選手権では4得点で得点王も獲得している。
 その後現役を引退し移住先であるレユニオン島のアマクラブでプレーしている所を当時母国大統領(スポーツ大臣)直々に説得され代表復帰を果たす。迎えた1990年ワールド杯にて38才という年齢を感じさせない素晴らしいプレーで観客を魅了、なんと4得点を挙げる活躍でアフリカ勢初のベスト8進出に大きく貢献して見せたのである。この活躍から自身2度目となるアフリカ最優秀選手にも選出されたに終わらず42才で迎えた1994年ワールド杯にも出場し得点を記録、ワールド杯における最年長得点記録を樹立したのである。
■本名:グンナー・ノルダール
■国籍・出身地:スウェーデン
■生年月日:1921/10/19 - 1995/9/15
■身長・体重:188cm、95kg
■代表歴:1942/6/28デンマーク戦デビュー(通算33試合,43得点)
■所属クラブ:
1936-40 ヘルネフォルスIF
1940-44 デゲルフォルスIF
1944-48 ノルチェーピング
1948-56 ミラン(イタリア)
1956-58 ローマ(イタリア)
1959-61 カールスタッド

■個人タイトル:

■代表・クラブタイトル:
1948 オリンピック優勝

■コメント:
  伝説として語り継がれるミランの「グレ・ノ・リ」トリオの一人。同じスウェーデン出身のグンナー・グレン、ニルス・リードホルムより半年早くミランに入団し、圧倒的なパワーを武器にセリエA歴代2位となる225ゴールを挙げ5回の得点王に輝いた。この記録は僅か9シーズンの間に達成されたものであり、もう少し早くイタリアに渡っていれば、シルビオ・ピオラの持つセリエA歴代最多得点記録を塗り替えていたかもしれない。
 
 当時アマチュア大国として知られていたスウェーデンは、戦後初めて行われた1948年ロンドン・オリンピックでサッカー金メダルを獲得する。優勝の立役者は7得点を挙げ得点王にも輝いたグンナー・ノルダールだった。ノルダールの名は瞬く間にヨーロッパ中に広まり、イタリアのミランがスウェーデンの大男にオファーを申し出る。
 イタリアに活躍の場を移したノルダールは、すぐさま得点を量産しミランのアイドルとなる。ノルダールがホームシックにかかるやいなや、ミランは我らのアイドルを助けるため彼の家族をイタリアへ呼び、同じスウェーデン出身のグレンとリードホルムを獲得する。環境にも慣れたノルダールは爆発的な勢いを得、セリエのピッチを震撼させた。ディフェンダーをなぎ倒し、シャツを引っ張るマーカーでさえ引きずってゴールを決める姿は、やがて野牛と呼ばれるようにさえなった。ノルダールの活躍もありミランでは2回のリーグ優勝を経験。1956年にローマへと移籍し2シーズンを過ごした後、母国スウェーデンに帰郷しカールスタッドでキャリアを終えた。
 
 栄光に満ちた現役生活を送り、クラブレベルではこれ以上ない成績を残したノルダールだが、スウェーデン代表としては1948年11月のオーストリア戦を最後に協会から声がかかることは無かった。当時のスウェーデンはプロ選手の召集を良しとせず、よりにもよって世界最高のストライカーを代表チームから締め出したのだ。ノルダールはスウェーデン代表として33試合に出場し43得点を挙げた。ある試合では1人で5得点を挙げたこともあるほどだ。1958年、スウェーデンは母国で開催されたワールドカップで準優勝の好成績を残すが、もしノルダールがいれば最も喝采を浴びた選手は17歳のブラジル人少年ではなく、年老いたスウェーデン人ストライカーだったかもしれない。
 
 余談だが彼のニックネームである「消防士」はノルダールがIFKノルチェーピングに入団する際、一定の収入を約束するためにクラブ側が用意したポストであり、アマチュア国スウェーデンではノルダールは建前上、消防士として生計を立てていた。この偉大な消防士はピッチの上でのみ、猛火を振るったのだ。
■本名:ウーベ・ゼーラー
■国籍・出身地:ドイツ(西ドイツ)
■生年月日:1936/11/5
■身長・体重:170cm、75kg
■代表歴:1954/10/16デビュー(通算72試合,43得点)
■所属クラブ:
1946-72 ハンブルガーSV

■個人タイトル:

■代表・クラブタイトル:

■コメント:
 50年代から70年代にかけ、ドイツのシンボル的存在として愛されたスター選手。その小柄で太った体型からは想像も付かない俊敏な動きとジャンプ力を備え抜群の得点感覚によってゴールを量産、けして器用なテクニックはなかったがどんなピンチにもけして諦めないファイティング・スピリットによって多くのファンの心を掴んだ。元ドイツ代表ストライカー。

 ハンブルガー SV で活躍した父親(エルビン・ゼーラー)の影響もあり幼年期よりサッカーを始めると16才の時には西ドイツ代表ジュニアユースなどで活躍を見せるまでに成長する。その後父親と同じハンブルガー SV にてトップデビュー、59/60シーズンの国内リーグ優勝、62/63シーズンの国内カップ優勝に貢献、ブンデス・リ−ガ開設となる63/64シーズンには30得点を挙げブンデスリーグ初代得点王を獲得する活躍を見せた。引退後はチームの会長に就任し、低迷していたチームの立て直しに尽力するなど生涯ハンブルガー SV 一筋であった。

 弱冠17才にて西ドイツ代表デビュー(1954年10月16日)。その後1958年から4大会連続してワールド杯に出場を果たし1966年、1970年時にはキャプテンとしても活躍、1970年大会ではゲルト・ミュラーにエースストライカーの座を譲り自身は中盤に下がって、労を惜しまない素晴らしいプレーを見せた。
(ワールド杯通算19試合9得点、代表通算72試合43得点)
■本名:アルツール・フリーデンライヒ
■国籍・出身地:ブラジル
■生年月日:1892/7/18 - 1969/11/20
■身長・体重:不明
■代表歴:1914/9/29デビュー(通算16試合,7得点)
■所属クラブ:
1909-?? FCゲルマニア
19??-?? イピランガ・バイーア
19??-?? アメリカーノ
19??-?? パウリスタノ
19??-?? サンパウロ
19??-35 フラメンゴ
詳細不明

■個人タイトル:

■代表・クラブタイトル:

■コメント:
 ギネスブックには、スポーツを含む様々な記録が収められており、サッカーにも十分な紙面を割いている。今まで最も多くの得点をあげたのは誰か?残念ながらペレではない。神様の記録を48点も凌ぐ男、名をアルツール・フリーデンライヒという。
 
 フリーデンライヒについてわかっていることは少ない。同時に、彼の時代にしては多いとも言える。1910年代から20年代に活躍した「チグリ(虎)」の呼称を持つストライカー。おそらくブラジル・サッカー初のスター選手だう。身長・体重不明、プレースタイルは断片から推し量るしかない。17歳でトップデビューし、FCゲルマニアを皮切りに、6つのチームでプレーした。43歳で引退するまで、取るも取ったり、1329ゴール!

 もっとも、フリーデンライヒの評価が高いのは、何もそ の天文学的なゴールの多さだけではない。彼はブラジルにおいて、民族的な障壁をうち破った初めての選手だった。名字から明らかなように、父はドイツ人、母はブラジルの人。ムラートと呼ばれる混血児だった彼は、父親の血をより強く受け継いでいたものの、白人社会では異端として扱われた。自身を白人と認識していた本人には随分なショックで、以後ロッカールームで髪に半時間もこてを当てるのが日課になったほどだ。それでもじきに破格の得点力が買われ、白人の助っ人としてチームに参加するようになる。こうして徐々にサッカーは、一部のエリートから庶民のもとへ下りていった。
 1914年7月21日、今日では非公式の国際試合とされるが、フリーデンライヒは遂に代表のユニフォームを着た。非白人としては初めてのことだ。相手はイングランド のクラブ、エクセター。2ー0で勝ったものの、ディフェンダーと衝突して歯を2本折ったと伝えられる。
 
 フリーデンライヒは代表で17試合にしかプレーしてい ないが、19年のコパ・アメリカで得点王を取って優勝した。この時の彼の人気がいかに凄かったかは、彼が履いていたスパイクが宝石店のショーウィンドウに飾られたことからもわかる。まさに黄金の足というわけだ!30年のワールドカップにも出場できたが、38歳の高齢だったので辞退た。もっと後の、出自を恥じることのない時代に生まれていれば、代表得点がたった7ゴールでおさまること(ほぼ確実に)なかったことだろう。大切なのは、彼が先鞭をつけたことだ。レオニダスが、ペレがそれに続いた。ブラジルは自他ともに認める世界一の強国となった。そして現在は当分太陽が沈む様子もないし、将来そうなるだろうと信じる者もない。それもすべて、フリーデンライヒの冒険から始まったのだ。1892年7月18日生ー1969年11月20日没。享年84歳。
■本名:アンリ・パトリック・エムボマ・デム
■国籍・出身地:カメルーン
■生年月日:1970/11/15
■身長・体重:185cm、85kg
■代表歴:1995/12/24デビュー
■所属クラブ:
-1993 スタード・ドゥレスト(フランス)
1993  パリ・サンジェルマン(フランス)
1993-94 シャトール(フランス)
1994-95 パリ・サンジェルマン(フランス)
1995-96 メツ(フランス)
1996-97 パリ・サンジェルマン(フランス)
1997-98 ガンバ大阪(日本)
1998-00 カリアリ(イタリア)
2000-02 パルマ(イタリア)
2002  サンダーランド(イングランド)
2002-03 アル・イテハド(リビア)
2003-04 東京ヴェルディ1969(日本)
2004-05 ヴィッセル神戸(日本)

■個人タイトル:
2000年 アフリカ年間最優秀選手(CAF)

■代表・クラブタイトル:

■コメント:
 高い身体能力を生かした突破からの強烈なシュート、打点の高いヘディングによってゴールを量産、攻撃の要でいて精神的支柱として活躍した元カメルーン代表FW。

 フランス国内のクラブを渡り歩いた後、1997年からJリーグ(ガンバ大阪)に参加、Jデビュー戦にて驚異的な身体能力を見せつけゴールを記録し注目され通算28試合25得点を記録して得点王を獲得した。「浪速の黒ヒョウ」とまで呼ばれ強烈なインパクトを残し、翌年SERIE Aカリアリへ移籍、ここで2シーズンを過ごし40試合出場15得点を記録するがチームのB降格に伴い00/01シーズンよりパルマへ加入する。しかし、パルマではスタメンを確保する事が出来ず01/02シーズン途中よりプレミアリーグサンダーランドへレンタル移籍した後リビアのクラブ、アル・イティハドを経てJリーグへ復帰を果たした。怪我の影響もあり、ガンバ大阪で見せたようなパフォーマンスには至らず2005年5月、現役引退を発表した。

 1998年フランスW杯、初戦オーストリア戦、第2戦イタリア戦と、守備的なポジションで起用され活躍するには至らなかったが、続く第3戦のチリ戦では攻撃的なポジションでプレー、本来の力を発揮し1得点を記録する。第1戦から攻撃的ポジションでのプレー機会さえあればカメルーンの予選リーグ突破もあったのかもしれない・・・。2000年のアフリカ選権、シドニーオリンピックの両大会では、共に4得点を記録し優勝に貢献、この年のアフリカ最優秀選手に選出された。2002年のアフリカ選手権にて連覇に貢献したが、2002年W杯では初戦アイルランド戦での1得点以外、その高い能力は影を潜めた。
■本名:ラウル・ゴンサレス・ブランコ
■国籍・出身地:スペイン
■生年月日:1977/6/27
■身長・体重:180cm、70kg
■代表歴:1996/10/9デビュー
■所属クラブ:
1994- レアル・マドリード

■個人タイトル:

■代表・クラブタイトル:
1997/98 UEFAチャンピオンズリーグ優勝
1998年 インターコンチネンタルカップ優勝
1999/00 UEFAチャンピオンズリーグ優勝
2001/02 UEFAチャンピオンズリーグ優勝
2002年 インターコンチネンタルカップ優勝


■コメント:
 左利きのテクニシャンでありスピードも抜群、そして何よりも、得点感覚に天才的才能を擁し素晴らしいゴールを量産、現在のレアル・マドリード、そして現スペインの至宝とも言うべきスター選手。

 1992年よりレアル・マドリードに所属、下部リーグで数々の記録を打ち立て1994年17才でトップデビューを飾り貴重なゴールを決めるデビュー、このシーズン通算9ゴールを記録してチームの優勝に貢献する。97/98シーズンにはチーム32年振りとなるチャンピオンズ・リーグ制覇を果たしこの年のトヨタカップにも来日、この試合で貴重な決勝点を決めチームの勝利と共に自身もMVPを獲得する。98/99シーズンには25得点を記録して初の得点王を獲得、99/00シーズンには自身2度目となるチャンピオンズ・リーグ制覇を果たしレアル黄金時代の到来と共に、その存在は更に大きく飛躍する事となる。00/01シーズンにはリーグ制覇と共に自身2度目となる得点王(24ゴール)を獲得、優勝を逃したチャンピオンズ・リーグ(準決勝で敗れる)でも7得点を記録し得点王2冠を達成する。更に翌シーズンには自身3度目となるチャンピオンズ・リーグ制覇も果たした。

 スペイン代表として挑んだ1998年ワールドカップ、1得点は記録したもののチームはグループリーグ敗退、さらに2000年欧州選手権ではPKを外して批難を浴びるなどの苦い経験もするが、今となってはそれも現在のラウルがあるための肥しであったのかもしれない・・・・。
 2002年ワールド杯では5試合に出場し3得点を挙げる活躍を見せたが足の負傷で出場出来なかった準々決勝韓国戦で、チームはPK戦に沈んだ。この試合に彼が出場していたならば間違い無く違う結果となっていたと容易に想像出来るであろう。2003年2月12日、ドイツとの親善試合にて2得点を挙げ、同じクラブに所属するイエロの代表歴代最多得点記録(29得点)を塗り替えた。その記録が今後、どこまでのびるかも、注目していきたい所である。

 余談だが、2005年9月28日のチャンピオンズリーグのオリンピアコス戦でベッカムのクロスをヘッドで合わせてゴール!!これで、ラウールは1995年以来10年間で大会97試合に出場し、レアルの英雄のディ・ステファノの記録を抜いて史上最多の50ゴールを挙げた。
■本名:ロバート・チャールトン
■国籍・出身地:イングランド
■生年月日:1937/10/11
■身長・体重:173cm、72kg
■代表歴:1958/4/19デビュー(通算106試合,49得点)
■所属クラブ:
1954-73 マンチェスター・ユナイテッド
1974-75 プレストン・ノースエンド

■個人タイトル:
1966年 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)

■代表・クラブタイトル:
1966年 ワールドカップ優勝
1967/68 UEFAチャンピオンズカップ優勝


■コメント:
 卓越した得点能力とテクニックを備え、あのディ・ステファノの後継者とまで称されるファンタジーで人々を魅了した60年代イングランド代表ストライカー。「ミュンヘンの悲劇」から生還し、マンチェスター・ユナイテッドの復活、そして黄金期に大きく貢献した事でも知られる。

 イングランドの北東部にある小さな町アシントンに生まれ
母親はニューカッスルの伝説的スターとして君臨したジャッキー・ミルバーンの姉。素晴らしい血統を持つ彼は、このミルバーンに憧れ2才年上の兄ジャッキーと共に幼年時代よりサッカーを始める。15才の頃、約20ものクラブから誘いを受け1954年10月4日にマンチェスター・ユナイテッドの一員となるとその2日後、チャールトン・アスレティック戦にてデビューを果たす。当時チームにはトップ・テイラーという絶対的なストライカーがいたため多くの出場機会は与えられなかったが、彼が怪我から戦列を離れたのきっかけにチャンスをものにすると1957年のリーグ連覇に大きく貢献する。そんな中、1958年2月6日に悲劇は起こる・・このシーズンのチャンピオンズ・カップにて敵地でレッドスターを敗り帰国途中、給油で立ち寄ったミュンヘンにて飛行機は離陸に失敗し炎上、犠牲者22人の中にはチームの主力8人も含まれていた。彼もまた重傷を負うが、当時の指揮官マッド・バスビーと共に奇跡的に命はとりとめ、やがてこの2人によってチームは再建される事になる。
 チームの象徴的存在として君臨し事故から5年の歳月を経た頃にはデニス・ロー、ジョージ・ベストといったスーパースターを擁し最強のチームを形成、1963年FAカップにて優勝を遂げ久々のタイトルを獲得すると64/65、66/67シーズンリーグ優勝、そして、あの事故から10年後となる67/68シーズンには祈願であったチャンピオンズ・カップのタイトルをクラブにもたらしヨーロッパ制覇の夢を達成して見せた。1973年、ブレストン・ノースエンドにてプレーイングマネージャーとして迎えられ1年間プレーした後現役生活に別れを告げた。

 1958年4月19日スコットランド戦、ゴールを挙げる華々しい代表デビューを果たすが当時代表監督であったウィンター・ボトムは2ヶ月後に控えたワールド杯メンバーから外す。その後レギュラーに定着し1962年大会には全4試合に出場1得点でベスト8に貢献、1966年大会では全6試合に出場し3得点を挙げ優勝に大きく貢献した事から、この年の欧州最優秀選手(バロンドール)にも選出された。
 
 イングランド史上最も成功した伝説的プレーヤーであり、彼の武器でもあった左足から繰り出す強烈な「キャノンシュート」は今尚真似出来たプレーヤーは存在しないといわれている。
■本名:ジョゼ・ロベルト・ガマジ・オリヴェイラ
■国籍・出身地:ブラジル
■生年月日:1964/2/16
■身長・体重:173cm、68kg
■代表歴:1985/4/28デビュー(通算106試合、55得点)
■所属クラブ:
1980-83 ビットーリア
1983-89 フラメンゴ
1989-92 バスコ・ダ・ガマ
1992-96 デポルティボ・ラコルーニャ(スペイン)
1996 フラメンゴ
1996-97 セヴィージャ(スペイン)
1997 ビットーリア
1997-98 クルゼイロ
1998-99 ボタフォゴ
1999-00 ネサ(メキシコ)
2000 鹿島アントラーズ(日本)
2000-01 ビットーリア
2002 バスコ・ダ・ガマ
2002-03 アル・イテハド(サウジアラビア)

■個人タイトル:
1989年南米年間最優秀選手

■代表・クラブタイトル:
1994年ワ−ルドカップ アメリカ大会優勝

■コメント:
 小柄であったが、生まれながらの得点感覚で抜群の決定力を誇りスピード、テクニック、ポジショニングとストライカーにとって重要な要素を世界レベルで備えたスタープレーヤーであった。90年代、ロマーリオとのコンビは世界最強の2トップと称され常に期待を裏切らない活躍を見せファンを魅了した。

 1983年、19才で加入したフラメンゴで頭角を現し、この年のブラジル全国選手権優勝に貢献、同年にメキシコで開催されたワールドユースでも主力として活躍し優勝に貢献し脚光を浴びる。バスコ・ダ・ガマへ移った後も1989年のブラジル全国選手権優勝に貢献するなど目覚ましい活躍を見せ1992年に当時無名に近いデポルティボにて欧州デビューを果たした。加入シーズン、いきなり29得点を記録し得点王を獲得、リーグ3位躍進の原動力となり、その後チームは強豪の一角に数えられるまでに。1995年にはクラブ初タイトルとなる国内カップ優勝を成し遂げている。その後母国へ戻りボタフォゴでは州選手権優勝に貢献するなど活躍、2000年にはジーコの要請もあり鹿島アントラーズでもプレーしたが怪我の影響や環境に馴染む事が出来ず、約3ケ月で帰国し、キャリアの最後をサウジアラビアで過ごし現役を引退、現在は元ブラジル代表ジョルジーニョと共にスポーツエージェント会社経営をスタートさせている。

 代表デビューは1985年4月28日ペルー戦。その後一時代表から離れるも1987年に代表復帰を果たし1989年コパ・アメリカでは6得点を挙げ得点王獲得と同時に母国40年振りの優勝を成し遂げその地位を築いた。1990年、1994年、1998年と3度のW杯にもメンバーとして選出されW杯通算15試合7得点、1994年アメリカ大会では優勝に大きな役割を果たした。1996年にはアタランタ五輪にオーバーエイジ枠で出場するなど10年以上に及ぶ代表キャリアの中で未公認試合を含め106試合に出場、通算55得点と高い決定力を誇った。
■本名:高木琢也
■国籍・出身地:長崎県
■生年月日:1967/11/12
■身長・体重:188cm・82kg
■代表歴:1992/5/31アルゼンチン戦デビュー(通算45試合27得点)
■所属クラブ:
1991-97 サンフレッチェ広島
1998-99 ヴェルディ川崎
2000 コンサドーレ札幌

■個人タイトル:

■代表・クラブタイトル:

■コメント:
   『アジアの大砲』

 国見高から大商大、フジタを経て1991年にマツダSCに入団。1993年にチームがサンフレッチェ広島として発足すると、長身を生かしたヘディングを武器に得点を重ね、攻撃の中心選手として活躍し「アジアの大砲」と呼ばれ、ハンス・オフト率いる日本代表のエースストライカーとして招集される。また、1993年アメリカW杯予選では「ドーハの悲劇」の日本代表メンバーでもあった。1998年にヴェルディ川崎へ移籍、2000年にコンサドーレ札幌へ移籍してその年引退。引退後はサッカー解説者として活動している。

 2005年、将来のJリーグ参入を目指して結成されたV・ファーレン長崎から監督就任のオファーがあったが、解説者としての仕事の都合から監督就任は見送り、技術アドバイザーとしてチームを支えることになった。主としてサッカー解説のないときに来県して指導している。
■本名:ダヴォール・シュケル
■国籍・出身地:クロアチア
■生年月日:1968/1/1
■身長・体重:183cm・83kg
■代表歴:1991/2/27デビュー(通算68試合,45得点)
■所属クラブ:
1984-89 NKオシエク
1989-91 ディナモ・ザグレブ
1991-96 セビリア(スペイン)
1996-99 レアル・マドリード(スペイン)
1999-00 ア−セナル(イングランド)
2000-01 ウェスト・ハム(イングランド)
2001-03 1860ミュンヘン(ドイツ)

■個人タイトル:
1998年ワールドカップ フランス大会得点王(6ゴール)

■代表・クラブタイトル:
1997/98 UEFAチャンピオンズリーグ優勝
1998年 インターコンチネンタルカップ優勝

■コメント:
 強烈でいて繊細な左足を持ち、シュートの巧さは世界最高と称された元クロアチア代表不動のエースストライカー。クロアチア代表最多得点記録保持者であり1998年ワールド杯では得点王を獲得、その能力の高さを証明し、日本を予選リーグ敗退に追いやる決勝点を挙げた事でも記憶に残るプレーヤーといえるだろう。

 ユーゴスラビアから分裂する前の地元NKオシエクにてキャリアをスタート、86/87シーズンよりレギュラーとして活躍し、シーズンを重ねる事にゴール数を伸ばし88/89シーズンには21才で18得点を挙げ得点王に輝いている。この活躍から強豪ディナモ・ザグレブへ引き抜かれ2シーズン60試合34得点の素晴らしい決定力を見せたがタイトルには恵まれず、91/92シーズンよりスペインへ渡る。セビリアでも不動のエースとして君臨し5シーズン通算153試合76得点の記録を残し強豪レアル・マドリードへ引き抜かれると、移籍1年目に24得点を挙げる活躍を見せリーグ優勝に大きな役割を果たす。翌97/98シーズンにはチャンピオンズ・リーグ優勝に貢献したがリーグ戦では10得点しか挙げられず、30才という年齢から衰えは隠せないかと思われた。しかしシーズン終了後、その不安を一掃する所かその名を世界中に知らしめる大会が行われる・・1998年ワールド杯である。

 ユーゴスラビアUー21代表として出場した1987年ワールドユースチリ大会、通算6得点を挙げ優勝に貢献し脚光を浴び、1990年ワールド杯にてユーゴスラビア代表メンバーにも選出されている。ユーゴスラビアからの分裂以後不動のエースとして君臨し、クロアチア代表として初の国際舞台となった1996年欧州選手権では3得点を挙げベスト8進出に貢献、なかでもデンマーク戦で見せた名手シュマイケルの頭上を超すループシュートは今尚語られる程素晴らしいものであった。
 1998年ワールド杯欧州予選では5得点を挙げたが、ホームギリシャ戦での同点弾(1ー1)、ホームデンマーク戦での先制弾、(1ー1)アウェイギリシャ戦での決勝弾(0ー1)はチームに勝点をもたらす貴重な得点であった。迎えた本大会では全7試合に出場、内グループリーグ、アルゼンチン戦以外の6試合で1得点づつ挙げ通算6得点、3位という好成績に貢献したばかりか、自身も得点王に輝き歴史に名を残した。
 2002年ワールド杯でもメンバーとして来日したが、初戦メキシコ戦でのプレーが冴えず、結局この1試合のみの出場に終わったのは残念であった。レアル・マドリード退団後はイングランドへ渡りアーセナル、ウェスト・ハムでプレー、その後2001年よりブンデスリーグ、1860ミュンヘンでプレーし02/03シーズンを最後にキャリアの幕を閉じた。

 クロアチア代表通算69試合45得点、クラブ通算423試合198得点、その決定力がいかに高かったか、この記録が証明しており、今後もクロアチアの英雄として語られる事だろう。
■本名:ジョフリー・チャールズ・ハースト
■国籍・出身地:イングランド
■生年月日:1941/12/8
■身長・体重:182cm・77kg
■代表歴:通算49試合24ゴール
■所属クラブ:
1958-72 ウェスト・ハム
1972-75 ストーク・シティ
1975-76 ウェストブロムウィッチ・アルビオン

■個人タイトル:

■代表・クラブタイトル:
1966年W杯イングランド大会優勝

■コメント:
 60年代に活躍したイングランド代表ストライカー。
恵まれた体格を活かしたポストプレーに長け、運動量も豊富。得点能力は言うまでもなく、大事な場面での勝負強さが最大の持味。サッカー界の謎となるワールド杯でのゴールで語り継がれる。

 ウェスト・ハムにてボビー・ムーア、マーティン・ピータース等と供に活躍し64年FAカップ、65年カップ・ウィナーズ・カップのタイトルに貢献、1966年ワールド杯にてメンバーに選出される。

 ワールド杯では控えだったものの、エースのジミー・グリーブスが負傷の為、代わりに準々決勝より出場する。決勝ではイングランドの1点目を挙げ、2点目をマーティン・ピータースが挙げ、2−1とした。このまま逃げ切ればマーティン・ピータースがヒーローであったが、89分に西ドイツにFKを与え、同点とされてしまう。そして運命の延長戦で95分にその時が訪れた。彼の放たれたシュートがクロスバーに当たり、ボールが垂直落下、これを見て主審はゴールを宣告したため猛抗議する西ドイツ。結局判定は覆らないまま、その後ハーストはこの試合3得点目を決め、ワールドカップ決勝唯一のハットトリックを達成し、国民的ヒーローとなった。

 引退後、79/81シーズンにチェルシーの監督をし、現在はウェスト・ハムの役員となっている。98年に彼の功績を称え、女王陛下よりナイトの爵位を受け、サーの称号を得た。
■本名:クリスチャン・ビエリ
■国籍・出身地:イタリア
■生年月日:1973/7/12
■身長・体重:185cm、82kg
■代表歴:1997/3/29デビュー
■所属クラブ:
1989-90 ボラト
1990-92 トリノ
1992-93 ピサ
1993-94 ラベンナ
1994-95 ベネチア
1995-96 アタランタ
1996-97 ユベントス
1997-98 アトレチコ・マドリード(スペイン)
1998-99 ラツィオ
1999-05 インテル
2005- ミラン

■個人タイトル:
97-99 リーガ・エスパニョーラ得点王(24ゴール)

■代表・クラブタイトル:

■コメント:
 「ボボ」、「さすらいのヘラクレス」

 ガッチリとした体格からは想像も付かないスピード感溢れるテクニックを持ちどんな体勢からでもゴールを狙える柔軟な身体能力も持ち合わせる。左右両足から繰り出される強烈なシュート、身長を生かした空中戦、ポストプレーに至るまでの高い能力によってイタリア代表エースストライカーと言うに相応しい活躍を見せた。

 60年代から70年代にかけて活躍した名プレーヤー、ロベルト・ビエリを父親に持ち、幼少時代をオーストラリアで育つ。セリエC1ポラトにてキャリアをスタートさせ、翌年よりトリノ養成スクールへ、ここですぐにユースチームのエースとなり1991年12月のフィオレンティーナ戦でAデビューを果たす。その後、各チームを渡り歩き97/98シーズンよりスペインへ活躍の場所を移す。ここで24試合24ゴールと言う素晴らしい活躍を見せイタリア人初の得点王獲得、名実ともにスタープレーヤーの仲間入りを果たす。翌98/99シーズンよりセリエA(ラツィオ)へ復帰した後

当時史上最高額となる移籍金58億円でインテルへ加入する。
 01/02シーズン、序盤こそ出遅れたものの復帰後はゴールを量産、22得点を挙げる活躍を見せたが、最終節にユベントスに逆転されスクデット獲得に至らなかったのは非常に残念な所である。翌02/03シーズンには24得点を挙げ自身初のセリエA得点王となったがリーグ終盤戦の怪我から試合に出場する事が出来ずユベントスの連覇を阻む事はならなかった。インテル在籍中、常に2桁得点を挙げエースと言うに相応しい活躍を見せたが獲得したタイトルは04/05シーズンのコパ・イタリアただ1つ・・、このシーズン終了後、戦力外となり、ライバルチームであるミランへ加入し人々を驚かせた。

 代表デビューは1997年3月29日、ワールド杯欧州予選モルドバ戦。1998年W杯本大会では5得点を記録しエースストライカーである事を証明して見せた。
 2002年本大会でも初戦エクアドル戦にて豪快な2得点を挙げるなど素晴らしい能力を示し、決勝トーナメント韓国戦でも先制ゴールを奪うなどしたがその後決定的チャンスを逃すなど集中を欠き、試合にも敗れたのは残念であった。更に2004年欧州選手権では不発に終わり、リッピ体制となった今、序所にその居場所を失いつつあるのは寂しい所、今一度、その雄姿でファンを沸せて欲しいのだが・・。
■本名:エドアルド・ゴンサウベス・ジ・アンドラージ(トスタン)
■国籍・出身地:ブラジル
■生年月日:1947/1/25
■身長・体重:170cm、69kg
■代表歴:1966/5/15デビュー(通算64試合,32得点)
■所属クラブ:
1959-63 アメリカ
1963-72 クルゼイロ
1972-73 バスコダガマ

■個人タイトル:

■代表・クラブタイトル:
1970年ワ−ルドカップ メキシコ大会優勝

■コメント:
 「白いペレ」

 1970年メキシコ・ワールドカップでのブラジル代表チームは、王国の歴史上でもまれに見る強豪であった。言わずと知れた「神様」ペレ、卓越したテクニックのリベリーノ、全試合得点という驚異的な記録を作ったジャイルジ
ーニョ、「オウム」の名で親しまれた司令塔ジェルソンなど、特にオフェンス面において溢れんばかりのタレントを擁していた。トスタンの名もそのリストから決して洩れることがない。彼はこの大会、ペレに勝るとも劣らない活躍で攻撃陣をリードし、「神様」の3度目の優勝を演出して世界大会からの勇退に花を添えた。

 170センチ69キロという実に南米人らしい体格をしたトスタン(本名エドアルド・ゴンザウベス・ジ・アンドラージ)は、これまた南米の選手らしく華麗なテクニックを誇った。ゴールセンスに溢れ、軽快なドリブルでディフェンスをかい潜り、確実なシュートでとどめをさした。技巧派ながらゲームの流れにも精通して、センターフォワードとしてプレイしながらも何度も味方にチャンスを作り出した、まれに見る戦術家でもあった。

 まだ少年の頃、ベロ・オリゾンテを本拠地とするアメリカでプレーしていたが、彼の才能に惚れ込んだクルゼイロが膨大な移籍金を払って引き抜いた。16歳で同地区のライバルに移ったトスタンは、たちどころに本領を発揮、3年後にブラジル代表のユニフォームを着るまでに成長を遂げる。デビューは66年イングランド・ワールドカップ本大会直前。そのままメンバーに加わり、ハンガリー戦ではあろうことかペレの代役として出場し、同点ゴールを決めている。試合には破れ、ポルトガル戦も落として一次リーグ敗退となったが、その活躍はガリンシャやペレ(25歳だったが)に次ぐ新しい才能を予感させた。
 まだ20歳そこそこの若者だったにもかかわらず、60年代後半のトスタンは飛ぶ鳥を落とす勢いだった。65年からミナスジェライス州選手権を5年連続で制し、自身は66年から3年間も得点王の座を守り通すなど、特に得点において顕著な活躍を見せた。70年メキシコ大会の南米予選でもゴールを量産、コロンビア、パラグアイ、ベネズエラを相手にさっさと本大会出場を決めるなど、獅子奮迅の活躍でチームに貢献した。
 だが69年、一つのクリアボールが運命を変える。コロンビアでのリベルタ・ドーレス杯の試合中、相手ディフェンダーの蹴った力強いボールがトスタンの左眼を直撃。網膜剥離という大怪我を負い、二度も外科手術を受けなければならないはめになった。選手生活を左右する大事故なだけに、本大会への出場は絶望的と思われた。しかし、彼はまさしく奇跡的に復活した。俊敏な動きを見せて、戦列に復帰できるコンディションにあることをアピールした。こうして役者は揃ったのだ。

 70年ワールドカップにおいて、トスタンは6試合に出場して2得点を挙げたが、真の貢献度は数字でははかり知れない。前回王者イングランド相手の唯一のゴールを生むきっかけとなったドリブル突破も見事だったが、圧巻はペルー戦だった。リベリーノの先制点をお膳立てしたパスから、憎らしいほどのテクニックで自ら2度立て続けにゴールを決め、4点目のジャイルジーニョのゴールをアシストした。準決勝でも勢いは続き、クロドアウドの同点ゴールのアシスト、ジャイルジーニョのゴールに絡んだチャンスメイクなど、得点におけるありとあらゆる場面で顔を出した。優勝という結果も当然の活躍ぶりであった。

 72年、州選手権での優勝を最後に、トスタンはクルゼイロを去りバスコ・ダ・ガマに移った。結局、彼にとってはそれが最後のタイトルとなった。医師免許を持つ彼は、長くプレーすればするほど左眼の怪我が致命的な障害になることを知っていたのだ。サッカーの世界から身をひいたとき、トスタンはまだたったの26歳だった。引退後は眼科医として第二の人生を歩んでいる。
 トスタンの栄光は、70年のブラジルの戦慄とともに輝きを放ち続けている。人は彼のことをこう呼んだ。「白いッペレ」。少なくとも、トスタンが「本家」と大きく異なっていたのは、肌の色と、あまりにも足早に駆け抜けていったキャリアのたった二つに過ぎない。
 1947年1月25日生まれ。
■本名:ヴィンチェンツォ・モンテッラ
■国籍・出身地:イタリア
■生年月日:1974/6/18
■身長・体重:172cm、68kg
■代表歴:1999/6/5デビュー
■所属クラブ:
1990-95 エンポリ
1995-96 ジェノア
1996-99 サンプドリア
1999- ローマ

■個人タイトル:

■代表・クラブタイトル:

■関連コミュ:
 http://mixi.jp/view_community.pl?id=111698
 
■コメント:
 「AEROPLANINO」(小型戦闘機)

体格には恵まれないものの,ゴールに対する嗅覚に優れ,本来右利きであるにもかかわらず左足から繰り出されるシュート力は驚異的である.

エンポリにてデビューし,94-95シーズンにレギュラーとして30試合に出場し17得点をマーク,すぐにセリエBのジェノアに引き抜かれ,セリエB1年目ながら21得点を上げ得点王を獲得、翌シーズンにはサンプドリアにて念願のSERIE Aデビューをはたす.
ここでの活躍も素晴らしく1年目22得点、2年目20得点とイタリアを代表するストライカーとして成長、98-99シーズンにチームがB降格というつらい経験を経て翌シーズンにローマへ移籍する.

ローマ加入後もその決定力は衰える所を知らず初年度から18得点をマークする.00-01シーズン,バティストゥータの加入によりサブに甘んじる日々を過ごすが,限られた時間の中で貴重な得点を幾度となく決め,その決定力はイタリア人FWの中でも1、2位を争うものである事を証明しローマ18年振りのスクデット獲得は、その存在がなければ成し得なかったと思われる.

01-02シーズン、序盤は怪我によって出遅れたが第26節ローマダービーでは4得点を記録する大爆発を見せる.
04-05シーズンでは,モンテッラ・トッティ・カッサーノで破壊力抜群の魅惑の3トップを構成し,得点王には届かなかったものの決定力の高さや得点感覚の鋭さを改めて示した.

今シーズンでは,インテル戦,サンシーロでの11年ぶりの勝利に貢献する初ゴールを記録するも,いまだ1ゴール(2005/11/16現在)にとどまっており,今後の活躍を期待したい.

なお余談ではあるが,彼の代名詞である飛行機パフォーマンスは,数年前に特許が与えられ登録商標になっているそうである.
■本名:ヤン・クーレマンス
■国籍・出身地:ベルギー
■生年月日:1957/02/28
■身長・体重:188cm、84kg
■代表歴:1977/3/26デビュー(オランダ戦)
■所属クラブ:
1974-78 リエルセ SK
1978-92 クラブ・ブルージュ

■個人タイトル:

■代表・クラブタイトル:

■コメント:
 鋭い戦術眼、優雅なプレースタイル、豊富な運動量、高い決定力、常にチームをリードするキャプテンシーを備えた元ベルギー代表スタープレーヤー。ベルギー代表としてキャップ数最多記録保持者でもある(96試合)。

 少年時代からリエルセのユースチームで育ち1974年にトップ契約、すぐに大柄で俊足のストライカーとして注目を集める。
 1978年、当時国内最高となる移籍金でクラブ・ブルージュへ移ると名将ヘンク・ウーワート監督と共にクラブ黄金期を築く。79/80シーズンには29得点を挙げるなどの活躍を見せてリーグ MVP に選出 自身初の国内リーグ優勝に大きく貢献した。その後多くの海外ビッグクラブが獲得に動いたがキャリアのすべてを国内リーグで過ごしベルギーリーグ通算517試合に出場、85/86、89/90シーズンのリーグ優勝にも大きく貢献した。

 代表デビューは1977年3月26日のオランダ戦。1980年欧州選手権で母国を決勝に導いた事で世界中にその名を知らしめると1986年ワールド杯では3得点を挙げ4位という好成績に貢献した。
 ファンタジー溢れるゲームメーカーからゴールゲッターの2役を果たし常にチームの中核として絶大な存在感を示し続けた。引退後は指揮官として活躍中である。
■本名:ルトヘラス・ヨハネス・マルチナス・ファン・ニステルローイ
■国籍・出身地:オランダ
■生年月日:1976/7/1
■身長・体重:188cm、79.37kg
■代表歴:1998/11/18デビュー
■所属クラブ:
1993-97 デン・ボッシュ
1997-98 ヘーレンフェーン
1998-01 PSVアイントホーフェン
2001- マンチェスター・ユナイテッド(イングランド)

■個人タイトル:
02-03プレミアリーグ得点王
01-02、02-03UEFAチャンピオンズリーグ得点王

■代表・クラブタイトル:

■コメント:
 恵まれた身体能力を生かし、その天性とも言える得点感覚によってゴールを量産、ファンバステンの再来との評価に値するオランダ代表ストライカー。

 FCデンボシュでキャリアをスタートさせ、96/97シーズンに12得点を上げて1997年SCヘーレンフェーンへ移籍、ここでも13得点を上げ、当時オランダ最高額となる650万ドル(推定)でオランダ名門PSVへ加入する。PSVへ加入した98/99シーズン、もともと高い評価を得ていた能力を更に開花させ34試合31得点をマーク、初の得点王を獲得する。翌シーズンもその勢いは留まる事を知らず、3月までに29得点(22試合)を叩き出す。しかし、右膝じん帯断裂という大怪我によって、このシーズンの残り試合出場の断念とともに、期待された2000年欧州選手権出場も絶望的になりここから約1年に渡るリハビリの苦痛を味わう事となる。

 そして2001年3月、ようやくトップチームに復帰し、1度は消滅したマンチェスターUへの移籍も成立させ、8試合連続得点のプレミア新記録を樹立するなどの活躍を見せ、このシーズンのプレミア選手投票によるMVP を獲得、また、このシーズンのチャンピオンズ・リーグでは通算10得点を挙げて得点王を獲得した。02/03シーズンには25得点を挙げ得点王獲得、クラブの覇権奪回に大きな役割を果たした。

 今後のオランダ代表の命運を握る選手であると同時に、サッカー界においても、その天性の能力は、大きな財産となる事が期待出来る。2006年のワールドカップでも得点王候補に挙げられるくらいの期待されているFWにこれからも注目していきたい。
■本名:アラン・シモンセン
■国籍・出身地:デンマーク
■生年月日:1952/12/15
■身長・体重:165cm、58kg
■代表歴:1972/7/3デビュー(通算52試合,20得点)
■所属クラブ:
1958-63 バイレFC
1963-72 バイレBK
1972-79 VfLボルシア・メンヘングラッドバッハ(ドイツ)
1979-82 バルセロナ(スペイン)
1982-83 チャールトン・アスレチック(イングランド)
1983-86 バイレBK

■個人タイトル:
1977年 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)

■代表・クラブタイトル:
1974-75 UEFAカップ優勝
1978-79 UEFAカップ優勝

■コメント:
「小さな巨人」

 小柄ながら凄まじいダッシュ力とドリブルを擁してボルシアMG第2期黄金時代を築いたデンマークウィングプレーヤー。ボルシアMG在籍時にUEFAカップを2回、ブンデスリ−ガ3連覇など数々のタイトルを獲得して1977年にはバロンド−ルに選出されている。

 サッカー選手であった父親の影響から地元バイレにあるスポーツクラブにて本格的にサッカーを始める。本来ここでは7才からの入団が規則であったが、その類稀な才能はこの時すでに片鱗を見せており5才での入団が認められている。18才でトップ昇格するが当時デンマークにはプロチームは存在しておらず海外でプロキャリアをスタートさせる事を志すと、20才の時にベルギーのアンデルレヒトや西ドイツのハンブルガーSV等からのオファーを受ける。シモンセンが選んだのはボルシアMG、18才の時にもラブコールを受けた事もあるがこの時は自身の教育過程が終了していなかったために断念したクラブである。1973年1月27日、ハンブルガーSV戦においてプロデビューを果たし74/75シーズンよりレギュラーに定着、ゴールを量産するばかりかチャンスメーカーとしても絶大な存在感を示し、このシーズンから始まるリーグ3連覇を始め2度のUEFAカップ優勝に貢献する働きを見せた。76/77チャンピオンズ・カップではチームを決勝に導き、この年のバロンド−ルに選出された最大の要因となったが、リバプールとの決勝の舞台では一時は同点となる得点を記録しながらその後の失点から欧州の頂点には立てず、翌シーズン同大会では5得点を挙げ大会得点王となったものの準決勝にて再びリバプールに敗れている。79/80シーズンよりバルセロナにて活躍しカップ・ウィナーズカップ制覇に貢献、その後イングランドを経て、キャリアの最後は自身を育ててくれたバイレにて母国サッカーリーグ発展のためにプレーした。

 代表デビューは1972年7月3日アイスランド戦。同年ミュンヘン五輪ではブラジルを敗る2つの得点を挙げ注目を浴びるが当時デンマークにはまだタレントが揃っておらず、キャリア全盛時にはW杯、欧州選手権とも無縁であった。30才を過ぎてようやく訪れた欧州の舞台、1984年欧州選手権では開幕戦(vsフランス)にてDFレルーとの接触により骨折、本人にとっては不本意な閉幕となる。1986年W杯もチームはベスト16という好成績を残すが、全盛期を過ぎたシモンセンの出場した試合は1試合に終わった。キャリアのピーク時に代表として活躍の場がなかった事が非常に残念なところである。

 1978年、ボルシアMG時代にジャパンカップ(現キリンカップ)第1回大会にて来日、5試合4得点を決め優勝に貢献し、観客を大いに沸せてくれた事を懐かしむ日本のオールドファンも数多いであろう。1994年からフェロー諸島の監督として長期に渡り手腕を振るったが、2001年11月30日に代表監督を辞任する事を表明した。
■本名:ヌワンコ・クリスチャン・カヌ
■国籍・出身地:ナイジェリア
■生年月日:1976/8/1
■身長・体重:197cm、80kg
■代表歴:1994/5/5デビュー
■所属クラブ:
1991-92 フェド・ワークス
1992-93 イウアンヤンウ
1993-96 アヤックス(オランダ)
1996-98 インテル(イタリア)
1998-04 アーセナル(イングランド)
2004- ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン(イングランド)

■個人タイトル:
1996年 アフリカ年間最優秀選手(CAF)
1999年 アフリカ年間最優秀選手(CAF)

■代表・クラブタイトル:
1994/95 UEFAチャンピオンズリーグ優勝
1995年 インターコンチネンタルカップ優勝

■コメント:
 難病である心臓弁膜症を克服した心優しきファイター。恵まれた体格を活かしたポストプレーには定評があり、足元も器用な現代的FW。
 
 弱冠15歳でナイジェリアのクラブチーム、フェド・ワークスに入団し、そのシーズンに早くも30試合に出場、9得点を挙げている。この頃のカヌは他の同年代プレーヤーと比べて体格、技術共に際立っており、世界で最も将来を渇望される選手の一人だった。1993年U-17優勝を機にアヤックスに引き抜かれ本格的なキャリアを歩み始めると、1994/95シーズンには10代にして早くも欧州チャンピオンズリーグ優勝を経験。1996年にはナイジェリアにオリンピック金メダルをもたらし、同年インテルに移籍した。
 誰もが羨むエリートコースを歩んでいたカヌだが、インテルで受けたメディカルチェックで重大な事実が判明する。それが心臓弁膜症という大病であり、この耐えがたい事実はインテルとカヌ自身に大きな影を落とした。だがインテルのフロントはそれを理解し、カヌに病気を克服するための時間を与える。1996年11月28日、アメリカで数時間にも及ぶ手術を受け、なんとか一命をとりとめた。だが「走る事ができるようになる可能性は有るが、サッカーをプレーする事など論外」という医師の言葉が示しているように、選手生命は絶たれたように思われた。それでもカヌは決して諦めなかった。必死にリハビリに励み、一人で歩けるようになり、走れるようになり、やがてボールを蹴り始めた。
 
 1998年2月9日、サッカー界にとって最良の日が訪れる。ヌワンコ・カヌが15ヶ月間のブランクを経て、再びピッチに登場したのだ。アウェーのフィレンツェにも関わらず、観客は大きな歓声を上げカヌの勇気を称えた。結局インテルで過ごした3シーズンは12試合に出場し1得点を挙げただけだったが、カヌにとってこの3シーズンで得たものは、計り知れないほど大きいものだった。

 1994年5月5日スウェーデン戦にて代表デビュー。同年ワールド杯には17才という年齢が障害となってメンバーに選出されず1998年ワールド杯でもリハビリからの復帰直後という事もあり、それほどの活躍には至らなかった。25才で挑んだ2002年ワールド杯でも初戦アルゼンチン戦での負傷が響き思うようなパフォーマンスを見せられずチームもグループリーグで敗退する事となった。

 余談だが、自分と同じ思いをさせたくないと願い「カヌ心臓病基金」を設立、チャリティーマッチを開催するなどボランティア活動に熱心である。
■本名:長谷川健太
■国籍・出身地:静岡県
■生年月日:1965.09.25
■身長・体重:177cm、75kg
■代表歴:通算27試合4得点
■所属クラブ:
1992-99 清水エスパルス

■個人タイトル:
1999 エスパルス栄誉賞

■代表・クラブタイトル:
1996 ヤマザキナビスコカップ 優勝(清水エスパルス)
1999 J1リーグ 2ndステージ 優勝(清水エスパルス)

■コメント:
 清水エスパルスの象徴的なストライカー

 小学生のころサッカーを始め、清水東高校時代は清水東三羽烏として大榎克己、堀池巧とともに高校サッカーで活躍。右足から繰り出される正確なクロスボールは、「ケンタリング」とも呼ばれた。 筑波大学へ進学し、卒業後日産自動車サッカー部(現横浜F・マリノス)へ入る。1991年のJリーグ発足時に地元・清水にできた清水エスパルスのメンバーになる。1993年にはサッカーワールドカップアメリカ大会への出場をかけた最終予選に日本代表として出場。ドーハの悲劇を味わった。1999年にエスパルスのメンバーとしてJリーグセカンドステージ優勝を経験。同年引退。引退後はサッカー番組の解説者や、サッカーの指導者になった。

 2005年シーズンからは古巣の清水エスパルスの監督をつとめ、指導者としても輝かしいスタートを切っている。

 余談だが、漫画「ちびまる子ちゃん」の作者のさくらももことは小学校時代に同級生であり、ちびまる子ちゃんの作中には長谷川健太をモデルにしたサッカー好きの少年「ケンタ」が登場している。
■本名:ロイ・ルドルフ・アントン・マカーイ
■国籍・出身地:オランダ
■生年月日:1975/3/9
■身長・体重:188cm、81kg
■代表歴:1996/10/5デビュー
■所属クラブ:
1993-97 フィテッセ
1997-99 テネリフェ(スペイン)
1999-03 デポルティボ・ラ・コルーニャ(スペイン)
2003- バイエルン・ミュンヘン(ドイツ)

■個人タイトル:

■代表・クラブタイトル:

■コメント:
 188Cm の長身ながら俊足であり、ドリブルから放たれる強烈なシュートが持味、空中戦に強いのは言うまでもなく足下の技術にも長け前線で攻撃の起点ともなれる。また、どんな体勢からでもゴールを狙う危険極まりないストライカーである。

 93/94シーズン母国オランダリーグ、フィテッセにてトップデビュー、翌シーズンより若きエースとして君臨しシーズンを追う事に才能を開花させると96/97シーズンには19得点を挙げオランダを代表するストライカーの1人にまで成長を遂げた。(このシーズンの得点王は PSV のリュック・ニリス、21得点)オランダでの活躍から22才でスペインリーグ、テネリフェへ加入、1年目は7得点と振るわなかったが2年目には14得点を挙げる活躍を見せ

 99/00シーズンより強豪デポルティボ・ラ・コルーニャへ引き抜かれるとこのシーズン22得点を挙げクラブ祈願のリーグ初制覇に大きな役割を果たす。翌シーズンには鳴り物入りでクラブへ加入して来たトリスタンに主役の座を奪われるがそれでも16得点を挙げ01/02シーズンには国内カップ優勝に貢献、翌シーズンには29得点を挙げ自身初となる得点王のタイトルを手中にしたまた、このシーズンのチャンピオンズ・リーグ開幕バイエルン戦ではハットトリックを達成しており、この活躍もあって03/04シーズンよりバイエルンへ引き抜かれる事となる。開幕後の合流だった事もあり序盤戦は連係不足であったものの、その後は本来の決定力を披露、チームは無冠には終わったが通算23得点を挙げる活躍を見せ翌04/05シーズンには22得点、更には14アシストでアシスト王にも輝きチームの覇権奪回に大きな役割を果たしている。

 代表デビューは1996年10月5日ウェールズ戦。1998年ワールド杯では代表候補に挙がりながらも落選する。その後代表監督に就任したライカールトには重要視され2000年欧州選手権にも出場、2002年ワールド杯欧州予選を戦いまさかの予選落ちを経験、アドフォカード監督の元では貴重な戦力として見なされ2004年欧州選手権予選オーストリア戦では得点も挙げている。2006年ワールド杯ではファン・ニステルローイ等を押し退けてレギュラーポジションを獲得するのは難しいかもしれないが、状況を打開出来るスーパーサブ、バックアップメンバーとして活躍し、更に言えば今後オランダのヒーローともなれる逸材である。
■本名:ミロスラフ・クローゼ
■国籍・出身地:ドイツ(ポーランド出身)
■生年月日:1978/6/9
■身長・体重:182cm、81kg
■代表歴:2001/3/24デビュー
■所属クラブ:
1998-99 FCハンブルク
1999-04 1.FCカイザースラウテルン
2004- ベルダー・ブレーメン

■個人タイトル:

■代表・クラブタイトル:

■コメント:
 素晴らしいスピード、そして圧倒的な高さを兼備えたドイツ代表FW。左右両足でゴールを狙え、現役時代のフェラー(現代表監督)を彷佛させるプレー、決定力に至ってはミュラーを思い起こさせる程のドイツに久々に現れた本格的ストライカーである。

 地元、バラウバッハ・ディーディルコップというクラブで育ちFC ハンブルグを経て1999年にカイザースラウテルンヘ入団するとアマチームにてその才能を開花させトップ昇格、01/02シーズンは、すでに16得点を記録する活躍を見せチームのエースとして君臨する。その後やや伸び悩んだが04/05シーズンより加入したブレーメンにて完全復活、15得点10アシストの活躍でリーグ3位の好成績に貢献した。
 また、このシーズン第31節ビーレフェルト戦では相手GKにエリア内で倒されPKを得るも、「あれはファウルではない」と自ら主張し審判の判定を覆している。まだ0ー0のスコアであった時間に起こった事でありこの出来事は最高のフェアプレーとしてドイツ五輪協会から表彰も受けている。

 その名前が一躍世界的になったのは2001年3月24日のワールドカップ予選アルバニア戦。途中出場にて初出場を果たすと、貴重な決勝弾を挙げて初代表初得点を記録、国民のヒーローとなった。続くギリシャ戦でも2試合連続となるゴールを記録したが、その後は経験不足もあり調子を落とす。しかし2002年2月13日のイスラエル戦で見事ハットトリックを達成させる活躍を見せ、フェラー代表監督の信頼を完全に得ると同年5月18日のオーストリア戦でもハットトリックを達成して見せた。
 2002年ワールドカップ本大会でもそのヘディングの強さは群を抜いており全7試合に出場し5得点を挙げる活躍、初戦サウジアラビア戦ではハットトリックも達成しており、それほど前評判の高くなかったチームのファイナル進出へ大きく貢献したのである。

 余談ではあるが、父親はフランス当時2部チームにあったオセールの元選手であり、母親はポーランドのベストプレーヤーに2度も選ばれた事のある有名なハンドボールの選手であった。1年間で一気に代表まで登りつめる事が出来たのはこの血統によるものと本人も語っている。
■本名:オマール・エンリケ・シヴォリ
■国籍・出身地:アルゼンチン・イタリア
■生年月日:1935/10/02
■身長・体重:170cm、72kg
■代表歴:1956/1/22デビュー(通算28試合,17得点)
■所属クラブ:
1952-57 リバープレート
1957-65 ユベントス(イタリア)
1965-69 ナポリ(イタリア)

■個人タイトル:
1959/60 セリエA得点王
1961 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)

■代表・クラブタイトル:

■コメント:
 強気でいて短気な性格であったが、その洗練されたテクニックと左足での正確かつ強烈なシュートによってゴールを量産、代表としてもアルゼンチン代表、イタリア代表としてプレーしたアルゼンチン人選手。愛称カベソン(デカ頭)、エル・グラン・スルド(偉大なるレフティー)。

 テアトロ・ムニシパルでプレーした後若くしてリバープレートへ引き抜かれる。当時リバープレートの監督を務めたチェザリーニは、すぐにシヴォリの才能を見抜きトップデビューにさほど時間はかからなかった。その期待に応えるかのように得点を量産し3度のリーグ優勝に貢献、1956年1月22日ペルー戦にてアルゼンチン代表デビューも果たしV・アンジェリッロ、H・マスキオ等と共に破壊的な攻撃力を発揮すると翌年のコパ・アメリカを制している。この活躍から欧州各国のクラブは競ってスカウトに動き1957年、当時としては世界最高額となる1000万ペソでユベントスへ引き抜かれる。移籍1年目にして22得点とゴールを量産し桁違いな実力を発揮、スクデット獲得に貢献し更に59/60、60/61シーズン連覇に加え59/60シーズンには27得点で得点王にも輝いている。
 また、イタリア国籍を取得していたため1961年には欧州最優秀選手も受賞。(当時バロンド−ルは欧州国籍選手にしか認められていなかった。)しかし、その短気な性格が災いしピッチ内外でトラブルも多くセリエAにおいては通算30回以上の退場処分を受けている。チームメートや監督ともトラブルも多く、その結果1965年にユベントスを離れナポリへ移籍、ここでは時を同じくして加入したブラジル人ストライカーアルタティーニと大親友となり在籍した4年間、そのコンビでファンを魅了した。セリエA通算12シーズン278試合146得点。

 当時、国籍さえ取得していれば、何ケ国でもプレー出来た事からイタリア国籍取得後の1961年4月25日、ボローニャで行われた北アイルランド戦にてイタリア代表デビュー、この試合で決勝弾となる初得点を挙げ、3キャップ目で迎えた故郷アルゼンチン戦では2得点を記録し勝利に貢献、翌年のW杯にも出場を果たしている。

 引退後は母国へ戻りリバープレート、アルゼンチン代表監督等を務めた他ユベントスの南米スカウトを務め、2005年2月、すい臓癌のためその生涯を終えた。偉大なるレフティーの伝説は、今後いつまでも語り継がれていくだろう。
■本名:イヴァン・ルイス・サモラノ・サモラ
■国籍・出身地:チリ
■生年月日:1967/1/18
■身長・体重:178cm、78kg
■代表歴:1987/6/19ペルー戦デビュー(通算69試合34得点)
■所属クラブ:
1986   コブレサル
1986-87 コブレ・アンディノ
1987-88 コブレサル
1988-91 ザンクト・ガレン(スイス)
1990-92 セビリア(スペイン)
1992-96 レアル・マドリード(スペイン)
1996-01 インテル(イタリア)
2001-02 アメリカ(メキシコ)
2002-03 コロコロ

■個人タイトル:
1997年:南米最優秀選手

■代表・クラブタイトル:

■コメント:
ヘリコプター

178cmとけして大柄ではなかったが滞空時間の長い強力なヘディングシュートで多くのゴールを陥れ、熱い情熱と闘争心溢れるプレーは母国の英雄として君臨するに終わらず世界中のファンを魅了した元チリ代表スタープレーヤー。

 母国エルサルバドル市のコブレサルで頭角を現し1988年にスイスへ渡る。けして強いとは言えないチームの中で抜群の存在感を示しチームを牽引すると2シーズン目には23得点を挙げ得点王を獲得、この活躍により注目を集め翌シーズン途中にスペインリーグセビリアへ引き抜かれる。ここで2シーズン通算59試合21得点と高い決定力を見せて能力の高さを証明し92/93シーズンより強豪レアル・マドリードへ加入、移籍1年目からレギュラーとして34試合26得点を記録、当時デポルに在籍したベベットの29得点には及ばず得点王のタイトルは逃すもスペイン国王杯優勝に貢献、94/95シーズンには28得点を挙げ得点王のタイトルを獲得すると同時に5シーズン振りのリーグ優勝をチームにもたらした。96/97シーズンよりセリエAインテルへ活躍の場を移し、このシーズンのUEFAカップ決勝第2戦では終了間際に同点弾を記録するなどの活躍を見せた。結局PK戦の末、その栄冠を伏兵シャルケ04へ譲るが翌シーズンのUEFAカップでは見事優勝を成し遂げ雪辱を果たしている。
 98/99シーズンにロナウドに背番号「9」を譲り、自身は「18」を背負う事となったが1と8の間に小さく+と刻んで「9」へのこだわりを見せた。2001年にメキシコ名門アメリカへ移籍しデビュー戦でハットトリックを達成するなど健在振りを発揮しリーグ優勝に貢献、キャリアの最後は自身が幼い頃に憧れたカルロス・カセリが活躍した母国チームコロコロにてプレーし現役を引退した。

 代表としても1987年6月19日ペルー戦のデビュー以来エースとして活躍、通算69試合34得点と高い決定力を記録している。残念なのは、自身が選手としてピークであった1990年、94年ワールド杯をロハス事件によって棒に振ってしまった事であるが、それでも出場停止処分の解けた1998年ワールド杯南米予選ではサラスとの「ZaーSaコンビ」によってゴールを量産、2人で23得点を挙げ母国を4大会振りのワールド杯に導いただけでなく、本大会でも抜群のコンビでベスト16進出への原動力となった。2000年シドニー五輪ではオーバーエージ枠で出場、6得点を叩き出し得点王を獲得し母国を銅メダルに導き格の違いを見せつけた後、2001年9月1日フランスとの親善試合を最後に代表を引退した。

余談ではあるが「もっとも抱かれたい男」と、あのマドンナがコメントするほど南米1、いや、世界1セクシーなプレーヤーとして女性ファンの心も掴んでいた。
■本名:パウリーノ・アルカンターラ
■国籍・出身地:スペイン、フィリピン
■生年月日:1896/10/07
■身長・体重:不明
■代表歴:1921/10/07デビュー(5試合6得点)
■所属クラブ:
1912-16 バルセロナ
1916-17 ボヘミアン・マニラ(フィリピン)
1917-27 バルセロナ

■個人タイトル:

■代表・クラブタイトル:

■コメント:
 バルサの伝説のストライカー

 スペイン名門バルセロナ、その長い歴史において今尚歴代最多得点記録として残る374ゴールを挙げ、伝説的ストライカーとして語り継がれているのが、このフィリピン系スペイン人アルカンターラであり、初めて欧州でプレーしたアジア生まれのサッカー選手としても歴史に名を残している。

 1896年、当時フィリピンのイロイロに赴任していたスペイン人軍人の息子として生まれ、幼い頃からサッカーに慣れ親しんで育つ。1910年に勉強を続けるためバルセロナへ移住、その影響もありバルセロナのファンとなるとユースチームに参加、その実力はすぐに認められ1912年8月14日、弱冠15才でトップデビューを果たし、この試合でハットトリックを達成させ鮮烈なデビューを飾った。

 1916年から18年まで生まれ故郷であるフィリピンに戻りボヘミアン・マニラでプレー、この間にフィリピン代表にも召集され日本で開催された極東選手権競技大会に出場、バルセロナで初めて国外の代表でプレーした選手として記録される事になる。スペイン帰国後はディフェンダーとしてプレーしていたが英国人監督ジャック・グリーンウェルによってアウトサイドにコンバートされると、その得点能力を遺憾なく発揮するようになる。バルセロナでの活躍はスペインサッカー協会の目にもとまりアルカンターラを1920年アントワープ五輪に出場させようと代表に召集するが彼は医学の勉強を最優先としていたためこれを辞退、彼が出場していたならスペイン代表が2位に甘んじる事はなかったであろう。
 翌年10月7日ベルギー戦にてようやく代表デビューを果たしたがキャップ数はわずかに5試合(6得点)にとどまっている。現役引退後はスペイン代表のコーチングスタッフとして参加するなどサッカーに関わる仕事に携り1964年2月13日、バルセロナにて亡くなっている。

 余談だが、アジアサッカー協会オフィシャルによると1922年3月30日フランス戦において、その強烈なシュートによってゴールネットに穴を開けた選手として人々の記憶に残っているらしい。

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