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敗軍の将コミュの【武将】真田幸昌(大助)を知る

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戦国最強のサラブレッド!!


真田幸昌(さなだゆきまさ)
【生没】1601年8月22日〜1615年6月4日:享年13歳(大坂夏の陣にて自刃)
【家紋】六文銭

※真田大助の呼び名で有名。


1600年12月。関ヶ原の合戦。西軍に与した真田昌幸・幸村父子は九度山へ蟄居となる。そのすぐ直後に生まれたのが幸村の長男、幸昌である。ご存知幸村の父、昌幸の名前を逆にしたものであって、ここからも幸村が昌幸を尊敬していた事が伺える。

さて、幸昌の父は幸村。そして母は大谷吉継の娘である竹林院である。言い換えるなら幸昌は祖父に真田昌幸、大谷吉継を持つ事になる。まさに戦国最強のサラブレッド!

大谷吉継は西軍武将の中でも名将中の名将。関ヶ原では小早川秀秋の裏切りを予測しており、わずか600人の寡兵で小早川隊1万5千人の兵と互角以上に戦った事は語り草となっている。
また、豊臣秀吉をして「百万の兵を指揮させてみたい」と言わしめたほど。

さて、この幸昌の初陣は大坂冬の陣となる。
幸村は幸昌を伴って九度山を脱出、大坂城へと参じた。
冬の陣では父幸村と共に真田丸へ籠もり徳川軍を何度も迎撃する活躍を見せる。

大坂夏の陣では伊達政宗軍の片倉重長隊と激突し、相手武将を討ち取るという活躍を見せる。
そして幸村最期の特攻の時、幸昌も父と共に戦いたいと涙ながらに訴える。しかし幸村は「お前は大坂城の落城を見届けてくれ」と言われ、父の命令には逆らえずに大坂城へ戻り、豊臣秀頼に付き従う。

真田幸村討ち死にの翌日。大坂城落城。秀頼は自刃。
まだ13歳の幸昌は皆から脱出するように勧められたが、幸昌はこれを拒否。戦国時代の終焉を見届け、父の最後の命令を果たしてから自刃した。

墓所は和歌山県九度山町の善名称院ほか。また、父の信繁同様に各地に生存伝説が残る。
また現在の大阪城の淀殿、豊臣秀頼らの自害の地に建てられた地蔵の前に、淀殿や秀頼、大野治長と並んで真田幸昌(大助)の名前も記されている。


【関連トピックス】
真田昌幸(前編):http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29104993&comm_id=2696953
真田幸村(前編):http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29316158&comm_id=2696953

コメント(8)

長いこと放置してましたがやっとできました。
祖父が真田昌幸と大谷吉継だなんて凄すぎですよね^^;
もう少し早く生まれていたら徳川の天下は解らなかったかも知れませんよ☆
片倉影綱? 幸昌が討ち取った片岡重長と同じ苗字ですね。関係者でしょうか?
ちなみに秀頼も秀吉と織田家・浅井家の血筋が混ざってるのかな。これはこれですごいうれしい顔
あ、いけない。本文『片倉重長』に修正しましたあせあせ
片倉影綱は小十郎でしたか。戦国BASARA2では登場するので知ってました(爆)
クリリ☆さん

毎度、ご苦労様でございます。
毎回楽しく読ませて頂いてます。

やはり幸村・大助親子は戦国時代…いや、せめて秀吉全盛期に存在させたかったですね〜。

想像するとワクワクします♪
クリリ☆さん

お疲れ様です。
正直、大助についての知識は殆んど無かったので、
大変勉強になりましたよわーい(嬉しい顔)
幸村と茶臼山で戦死したのかと思っていたら…涙

真田幸隆、期待してますウインク
>大一大万大吉さん
どんな才能ももはや運命には逆らえなかったって感じですね。伊達政宗なんかは天下を諦めて自分の地位を確保したけど、真田家の義を貫く姿勢はカッコいいです。

>治部さん
私も大助の話を知ったときはかなり胸躍りましたよ。わずか13歳。勿体無いなぁ。
幸隆もこうなったらやるしかないですね。長篠の合戦で討ち死にでしたね。真田家は器用に生きられないんですね。でもそこが魅力w

北条といい、真田といい、民を大切にする大名が敗軍に回っている気がします。そりゃそうだよなぁ。天下取ろうなんてよほど我欲が強くないと。
むしろ秀吉から天下を奪還した徳川はそれなりに評価もできるんですよね。黒船来るまで泰平だった訳だし。

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