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市野川容孝コミュの「論潮」(1月)

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さらに市野川です。図に乗って、コラム(=「論潮」)の「1月」を、貼り付けておきます。
このコラム、実はあと1回(=12月)でもう終わりなんですけど、何せ小さいメディアなもんで、誰が読んでくれてるのか、そもそも読んでる人がいるのか、よく分からないまま書き続けてきました。もうとっくの昔の原稿なんで、いささか間抜けな感じもしますが、その分、版権も問題ないようだし、この場を使って、自分で掲載します。

先の「3月」も含めて、コミュニティにご参加の方から、忌憚なきご意見をいただければ幸いです。罵倒でも全く構いません(こういうところでどういうコミュニケーションが成立するのか、しないのか見てみたい気もするので)。

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市野川容孝「論潮〈1月〉」『週刊読書人』2005年1月7日号

議会制民主主義の再考を──ニヒリズムと教条主義の間で考え続けること

 2005年年最初の本コラムを書いているのは、04年12月中旬だが、まさに今この時点で、あらためて問うべき危急の問いがある。それは、議会制民主主義とは何であり、何でありうるかだ。
 ヴァルター・ベンヤミンの「暴力批判論」(1921年)は、他の出来事にあてはめる前に、まず当時のドイツの状況に厳密に照らし合わせなければならない。ここで提示された「法を措定する暴力」のうち、「血の匂い」がし「犠牲を要求する」「神話的暴力」とは、具体的には、「血まみれの猟犬」を自負し、1919年1月の国民議会選挙を成功させるため、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトを虐殺へと追い込んだ、ドイツ社民党のノスケらの暴力を指す。これに対置される「神的暴力」、「血の匂い」がせず「犠牲を受け入れる」暴力とは、すなわちローザ・ルクセンブルクらのことである。ただし、ローザらの神的暴力を、独裁を称揚し、議会制民主主義を侮蔑し続けたカール・シュミットと混同しては絶対にならないし、最近のネグリも含め、マルクス主義の一部に脈々と流れる議会制蔑視とも混同してはならない。ローザらの神的暴力は、いかに逆説に満ちていようと、ベンヤミンが言うように「議会のための暴力」なのだから。
 2005年1月のイラク国民議会選挙に向けて、04年11月から駐イラク米軍は、再びファッルージャの総攻撃を開始した。そして12月9日、日本の小泉政権は、この米軍の側に立つ自衛隊のイラク派遣の一年延期を決定した。だが、酒井啓子「米軍のファッルージャ攻撃は、イラク社会分裂をもたらす」(『世界』)によれば、1月の選挙でイラクが安定することは難しい。なぜなら、スンナ派とシーア派の溝が深まっているからだ。選挙での勝利に向け準備を始めたシーア派は、ファッルージャでのスンナ派攻撃にきわめて冷淡で、スンナ派は、これを自分たちへの敵対と見ている。酒井によれば、「シーア派とスンナ派という二つの宗派が、ファッルージャ攻撃と制憲議会選挙を契機として、決定的に分裂しつつあるという悲劇的な展開の危険性が、日々強まっている」。
 アメリカでは──。ブッシュ再選を後押ししたのは、全米で7千人といわれるキリスト教原理主義者である、と青木冨美子は分析する(「米国はいつから「神の国」になったのか──ブッシュ再選を支えた福音主義者」『論座』)。だとすると、現下の世界情勢は一層、宗教対立の色を深めていることになる。アンドリュー・デウィットと金子勝は、アメリカでの、ネオコンに続く「テオコン」(=テオロジーとコンサーバティブの略語)の登場について論じている(「ネオコンからテオコンへ」『世界』)。しかし、アメリカ人のすべてがブッシュを支持しているわけではないし、また宗教対立を超えようとする力が、アメリカの中にあることも事実だ。ブッシュ再選を良しとしない、ある無名のユダヤ系アメリカ人女性の言葉。9・11の直後は、「連帯感というか、おたがいにケアしてあげたいという気持ち──ひとりひとりのこころに慈愛に富んだ気持ちが満ち満ちた時間があったの。ところが残念なのは、その後急にだれがなにをしても止めようのないはげしい怒りだとか、復讐をしてやろうだとか、そんな悪どいほどの凄まじい力が吹き荒れてきて、みんな掬いとっていってしまった。……やられたらやり返すみたいなことを止めようともしないで、自分たちこそ正義なのだからやり返すのが当然だと居直っている」(高山文彦「アメリカ暗夜行路」『現代』)。犠牲を受け入れ、血の匂いのしない神的暴力の、神話的暴力への反転。これをさらに反転させる議会制民主主義はいかにして可能か。
 パレスチナでは──。故アラファト議長の存在と役割を過少評価することはできない。だが、過大評価できないことも事実だ。ハリル・シュカーキは、アラファトが民主化と憲法制定に消極的だったことに批判的にふれつつ、ハマスその他のイスラム過激派の台頭によってもたらされたパレスチナ内部の対立を収集する道として、イスラエルのガザ地区撤退前に、速やかにパレスチナ全土で選挙を実施すべきだと説く(「アラファト後のパレスチナ」『論座』)。山内昌之「後継なき独裁者のアラファトの「政治家失格」」(『諸君』)のアラファト評はさらに手厳しいが、選挙の実施によって、決して一筋縄ではいかないパレスチナを、しかし一つに和解させる「カオスにみちた民主主義」、「多元的な民主主義」を確立する必要性を、やはり説いている。しかし、ここでも気になるのは、この選挙とその後の民主主義が何によって支えられるのかだ。神話的暴力(の応酬)なのか、それともこれを停止させる神的暴力なのか。
 そして、日本──。思えば、日本の今日の国会と日本国憲法そのものが、途方もない犠牲を要求した神話的暴力(アジア諸国への侵略)と、犠牲を受け入れた神的暴力(広島、長崎など)の上にある。だが、この議会そのものが今やイラクでの神話的暴力に加担している。この延長線上で、集団的自衛権の可否を争点とした憲法改正問題がせり上がってきている。座談会「もはや民意を問う段階である」(『中央公論』)で興味深いのは、九条のなし崩し的解釈をまだ続けてよいかのように語る葛西敬之(JR東海会長)に対して、前内閣法制局長官の秋山収が、これ以上は認められないと毅然とはねのけている点である。
 デリダへの追悼文で、ジュディス・バトラーは、彼のベンヤミン論である『法の力』に言及しながら、デリダとともに「正義はいまだ来ぬ概念である」と言う(「自分の生と名に、いかに最後に応えるか」『現代思想』)。正義などこの世にはありえないという「ニヒリズム」と、正義はすでに私たちの側にあるという「教条主義」の狭間で、正義を考え続けること。ベンヤミンからデリダを経由して、私たちに与えられたこの課題に照らして、議会制民主主義を今一度、考え直さねばなるまい。

コメント(5)

稲葉振一郎さんが市野川先生の記事を取り上げています。

市野川容孝「論潮 2005年回顧」『週刊読書人』第2618号
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20051216#p1

しかし、何でこの人口調が喧嘩売ってるみたいなんだろう・・・
HiroCさん、情報どうも。

いや、いいんです。稲葉君と私は、同じ小学校に通った仲なんで、よく知ってるんです。ああいう、ぞんざいな口のきき方も、私にとっては普通だし、私も同じような口のきき方を、彼にはします。でも、見ず知らずの人に、あいつは(時々)やるから、問題なんだよね。
さっき、稲葉君のHPに書き込みをしておきました。
同じ小学校だったんですか!初めて知りました。確かに知り合いじゃなければ、ああいう口調はできないですよね。

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