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市野川容孝コミュの「脳死」再考──医療の歴史社会学の観点から

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市野川です。
もう一つ、今年5月のシンポジウムでの発言をアップしておきます。
このシンポジウムで、一番、私の印象に残ったのは、あるお医者さんが、かなり苛立ちながら口にした、「脳死は人の死なんです、なぜなら、レスピレーターなしには〈生きられない〉からです」という言葉でした。この大いなる矛盾にこそ問題の本質があり、しかもそれはまだ未解決なのです。
*****************

「脳死・臓器移植法」緊急シンポジウム──脳死移植法・改正2案の決定待ってください(2006年5月13日、東京都立障害者福祉会館)

【司会】本田勝紀
【発言者】横田裕行(日本医大高度救命救急センター)、福嶌教偉(大阪大学・心臓血管外科)、西河内靖泰(全肝連)、光石忠敬(日弁連)、市野川容孝(東京大学)、山田真(八王子中央診療所)


市野川容孝
「脳死」再考──医療の歴史社会学の観点から

 先ほど本田さんから説明があったように、今日は本来なら、小松美彦さんが、ここでしゃべるはずだったようですが、ピンチ・ヒッターということで参りました。
 時間も押しているようなので、手短にしゃべります。
 今日は、「脳死再考──医療の歴史社会学の観点から」というタイトルでしゃべりたいと思いますが、「歴史社会学の観点」ということについて、まず簡単に説明します。「歴史」というのは、時間軸を立てて、昔はどうだったのか、今はどうなのか、何が変わったのか、その変化は妥当なものか、といったことを考えるということです。「社会学」というのは、今いる自分の社会ではない、別の社会と比較しながら考える、ということです。ここでは、ドイツを取り上げます。

【1】「脳死は人の死ではない」──西洋近代医学の原則

(1)ビシャの見解
 まず手始めに、2004年12月20日号の『ドイツ医師報 Deutsches Aerzteblatt』という雑誌に載った、医学史関連の囲み記事を紹介します。この雑誌は、ドイツ連邦医師会の機関誌です。
 この囲み記事は、ボン大学の医学史研究所の所長をつとめているハインツ・ショットさんという人による記事ですが、ここで、ショットさんは、フランスのX・ビシャ(Xavier Bichat 1771-1802)という人の書物の一節を引用しています。まずビシャのテクストの引用ですが、こう書いてあります。「私は、以下のことを根本原理として立てるのに十分すぎるくらいの証拠を、これまでに提示してきたと思う。(1)脳は、内的な生命[=消化、血液循環等]の器官および機能に対して、直接的な影響を及ぼしていない。(2)したがって、この内的な生命の諸機能が、重い脳損傷の後に停止する場合、この停止は脳損傷によって引き起こされるのではない。私は、脳の活動が有機的生命[=内的な生命]と全く無関係に独立していると考えているわけでは、さらさらない。しかし、この生命が脳──これについて私たちはまだわずかのことしか知らない──からは単に二次的で、間接的な影響しか受けないと主張することには、根拠があると思う」。
 この引用に続けて、ショットさんは、次のようなコメントを付しています。「ここでビシャは、『脳死は有機的諸機能に直接、影響するのか』を問うているのだが、彼はこう断言している。植物的(有機的)生命は脳の影響からかなり独立して機能する、と。1960年代の終りになって初めて[こうは考えない]現代の脳死診断が登場する」。
 私の方から、少し補足します。ここで引用されたビシャの『生と死に関する生理学研究』(1800年)には、「脳の死 la mort du cerveau」という概念がすでに出てきており、しかもビシャは、私の理解では、この「脳の死」をもって人の死とすることは早過ぎるとし、「心臓の死」と「肺の死」まで待たないと、死を正確に判断することはできない、と言っています(拙著『身体/生命』岩波書店)。
 ショットさんの上のコメントも、そういうことを含意しているのですが、その上で、そういう死の概念は、「1960年代の終りになって初めて」書き換えられて、現代的な「脳死」概念が登場する、と記しています。ショットさんは、脳死を人の死とするのが妥当かどうか、価値判断を交えずに書いていますが、しかし、それでも自分たちの西洋近代医学が、かつて人間の死をどう定義していたのか、そして、それがいつ変化したのか、そういうことについて(この雑誌を読むであろうドイツの)医師たちに反省を促している。これはこれで、私はドイツ連邦医師会の一つの見識だと思います。そういう歴史的反省を促す記事を載せている、という点で、です。
 私の印象ですが、日本のお医者さんたちの雑誌には、あまりこういう歴史的反省を促す記事は載らないんじゃないでしょうか。最新の知識を(欧米から)吸収することには大変、力を入れるけれども、自分たちの来し方を見て、今をとらえなおすということは、あまりなされていないように思います。

(2)19世紀末のドイツの医学事典から
 もう一つ、例をあげます。それは、19世紀末に出されたドイツの医学事典の、「仮死」という項目に出てくる記述です。それによると、死の徴候の第一群としては、呼吸の停止、血液循環の停止、感覚反応の消失、体温の低下(27度以下)、全身の筋肉の弛緩などがあり、その第二群としては、眼球の軟化、死斑、死後硬直がある。しかし、第一の徴候群は、蘇生可能な仮死状態でも見られるものであるため、これらをもって即座に死亡判定を下してはならない。「以上に列挙した基準から明らかなのは、最も確実な死の徴候は、腐敗の開始とともに現れるもの[=眼球の軟化、死斑、死後硬直]であるということ、しかし、これらは、死が本当に訪れていることが疑いえない段階にならないと現れないということである。見せかけだけのものであれ、本当のものであれ、生命が終焉した直後の第一段階においては、死がはっきり確かめられる徴候は存在しない。だから、これらの疑う余地のない徴候[=眼球の軟化、死斑、死後硬直]が、まだ何一つ現れないうちは、仮死の可能性を考えなければならない」(Real-Encyclopadie der gesammten Heilkundez. 1889, S.486)。
 さて、この医学事典ですが、私はこれをどこでコピーして手に入れたのか。ドイツの図書館で、ではありません。東京大学医学部の図書館で、コピーしたんです。つまり、何が言いたいかというと、本田さんや山田さんが学生時代に、こういう文献を読まれたかどうか知りませんが、明治期の日本のお医者さんは、こういう事典を一つ一つ読みながら、死亡判定というものを、どうやって行なったらいいかを学んでいったわけです。
 ビシャのテクストにしても、あるいはこのドイツの医学事典にしても、その記載に照らすかぎり、現代的な脳死が人の死だと考えるようなことはしていません。

(3)「日本イデオロギー」的反脳死論の誤り
 これに関連して、もう一つ言います。
 戸坂潤という哲学者が、1930年代に「日本イデオロギー」なるものを批判しましたが、1990年代に脳死をめぐる議論の中で、「日本イデオロギー」的反脳死論とでも言うべきものが出されました。先ほど、光石さんが言及した、脳死臨調の少数派意見で、梅原猛さんたちが提示したものです。
 これは、まず第一に、事実認識として間違っている。今、見てきたように、西洋近代医学は、デカルト哲学(=精神や意識を身体に優越させる考え)にもとづき、精神や意識の消失をもって人間の死と定義したことなどありません。
 ただし、この原則が歴史上、一度だけ外されたことがあります。それはナチの時代で、1920年にK・ビンディングという刑法学者と一緒に『生きるに値しない生命の抹消の解禁』という本を書いた精神医学者のアルフレート・ホッヘは、自伝の中で次のように書いています。「ハイデルベルクの小児病院で9歳になる女の子が原因不明の脳障害によって死んだ。この子は全く意識がなく、脈拍その他からしても、一時間以内に死ぬだろうと思われた。この疾患がどのように進行するのかを解剖によって確認することが学問的に見て必要なのではないか、という話が持ちあがった。そのとき、この子の父親がやってきて、全く正当なことなのだが、病状からしてもう生きる望みがないのなら、子どもを引き渡して欲しいと言った。もう一時間して父親がやってきたときに子どもが生きていたなら、私はこの子をそのまま引き渡すということになったが、もしその前に死んだなら、私たちは解剖することができた。まだ若く、意欲に満ちていた私は、モルヒネをほんの少量、注射することによって、まだ明滅する生命の灯火を完全に消し去ろうかと考えた。看護婦が食事をしているあいだ、私は充填した注射器を手にして子どものベットの傍らに座りながら、揺れ動いた。やるべきか、やらざるべきか。このとき初めて直面した問題を、私は後にビンディングとともに、ある論考[=Die Freigabe der Vernichtung lebensunwerten Lebens. 1920年]の中で論じた。医師はどんな場合でも延命する義務があるという立場を、私は拒否する」(A. Hoche, Jahresringe. 1934, S.289-90)。
 ここでホッヘは、「全く意識はない」けれども「脈拍」はきちんとある、つまり心臓も肺もまだ機能している女の子を、もう死んでいることにしたがっているわけです。こういう死の定義の書き換えが、後に何をもたらすことになったのかについては、今日は論じません。
 しかし、ホッヘのこういう死の定義の書き換えは、さらに第二次大戦後、元に戻されたと、私は理解しています。
 もう一つの観点から、「日本イデオロギー」的反脳死論を批判します。それは単なる事実誤認にとどまらない。「デカルト哲学に基礎をおく西洋近代医学由来の脳死概念は、精神の死をもって人間の死と定義しているからダメなのだ」という批判は、臓器移植法制定(1997年)以降、「本人が同意しているなら(脳死と同様)精神や意識が消失している他の状態も、死としてよいではないか」と考えさせたい論者たちによって逆用されうるがゆえに、ある意味で最も危険な思想となってしまったのです。
 議論の立て方は、こうでなければなりません。現在の脳死概念もまた、人間の死を「内的な生命」「有機的生命」(ビシャ)の終焉によって定義する西洋近代医学の原則を基礎としている。そう認識した上で、はたして現在の脳死概念とその判定基準およびその方法が、この原則に忠実であるか否かを問いただすべきなんです。
この点で、多くの人が疑問を抱いている。先ほど光石さんが、シューモンの主張にふれられましたが、医学者の内部からも、脳死がはたして人の死と言えるのかどうかについて、疑問が出されている。
 私の隣には、横田先生、福嶋先生、山田さん、本田さんと四人のお医者さんが、今日はいらっしゃいますが、先ほどの議論を聞いていても、この四人の間でも、見解は分かれている。でも、皆さんお医者さんの資格をもっていて、例えば私なんかにも、必要なら死亡判定を下せるわけですよね。そういう人たちの間で、あるお医者さんは、この状態では死んでいると言い、別のお医者さんは、いや死んでない、というようなことがおこるのだとすれば、それは私は大変、無責任ではないかと思います。できれば、後で、お一人、お一人に、脳死は人の死なのか否か、なぜそうだ/そうでないと言えるのか、お聞きしたいくらいです。
 先ほど、福嶋先生のお話で、心臓移植を受けた患者さんが、こんなに元気になったということが紹介されました。本当にそうだと思います。でも、同じことはこの私の今の身体を使ったって、できます。今こうしてしゃべっている私の身体から、心臓でも、肝臓でも摘出してもらって、重い心疾患、肝疾患の患者さんに移植してもらっても、患者さんはビデオで見せていただいたケースと同じように、多分、良くなるでしょう。でも、そういうことはしないでしょう。なぜですか。私が死んでいる、とは言えないからでしょう。じゃあ、人間の死とは何なのか、どうして、そう言えるのか。このことを、やはりはっきりさせるべきなんです。昔の原則ときちんと照らし合わせて、です。昔と変わるというなら、それでいいです。医学の進歩というのは、そういうもんなんだから。でも、なぜ、そのように変えていいのか、昔はそうでなかったものを、そういうふうに変えていい理由は何なのかを、私にきちんと説明してほしい。

【2】最近のドイツの事例から

 もう一つ、今度は「社会学」に力点を置いて、しゃべります。つまり、日本とは別の社会、ここではドイツですが、ここでどういうことが起きているかについて話します。

(1)代理決定の問題点
 今年、つまり2006年の1月末に、ドイツのエッセン州で、透析が恒常的に必要な腎臓病の女の子(11歳)に対して母親(37歳)が提供者となって生体腎移植で行なわれました。ドイツのZDF──日本のNHKみたいなものです──はこれに関連して、いくつかの事実を報道しました。
 第一は、ドナー・カードが普及していないこと。あるアンケートでは、68%が死後の臓器提供に同意している一方で、そのうちの12%しかドナー・カードで(提供拒否を含む)意思を明示していない。
 そのため、代理決定をせまられるケースが圧倒的に多い。2004年のデータでは、ドイツで臓器提供(摘出)が検討されるケースのうち、80%以上が本人の意思が不明で、家族等による代理決定がせまられたのだが、代理決定をせまられたケースのうち、脳死状態からの臓器摘出に賛成したのは約60%で、残りの約40%は同意しなかった。脳死を人の死として、そこから臓器を摘出することへの抵抗感はドイツでも強いということです。
 この代理決定が、決定者本人に大きなストレスを生むケースもまた少なからずあります。ZDFは、数年前、事故で脳死状態になった自分の息子(当時15歳)からの臓器提供に同意したが、それを今では深く後悔しているという母親のインタビューを報道しました。その中で母親は「脳死状態の自分の息子は、まだ身体も温かく、死んでいるとは思えなかった。息子に酷いことをしてしまったと今は思っている」と述べていました。ドイツの臓器移植法(1997年制定)は、本人ないし家族が、特段、制限しないかぎり、複数の臓器が医師側の判断によって摘出されてしまいます。この母親のケースもそうで、眼球も取られ、顎から胸部まで大きな縫い傷のある自分の息子の遺体を見たときには、まるで「はらわたを抜き取られた鵞鳥」のようで、その痛々しい姿が今でも夢に出てくる、と続けていました。
 先ほど福嶋先生のお話の中で、ドイツで移植を受けた子どもさんの例が出されましたが、その裏側には、日本ではなかなか報道されない、こういう陰の部分もあることを忘れてはならないと思います。

(2)保険適用の重要性
 また別のインタビューでも、1997年に息子(当時29歳)が脳死状態になり、臓器摘出に同意したもう一人の母親が「今から考えると、脳死は人の死ではない」と述べている。
 ところが、です。
 ドイツでは、たとえ「脳死は人の死ではない」と思っても、そのように行動することはできません。なぜか。医療保険の適用が、脳死と判定された段階で、基本的にストップされてしまうからです。適用が認められるのは、原則として、移植に同意した場合の(アフター・)ケアに対してだけです。
 脳死は人の死か否か。それを医学的に論じたり、文化的観点から論じたりすることは、できるし、しなければならないんだけれども、しかし、保険の適用がストップされたら、そんな議論は全部ふっとびます。保険適用がストップされて、それでも脳死は人の死ではないと言い続けて、莫大な医療費を全額自己負担できる人が何人いますか。大金持ちならできなくはないでしょうが、そんなの本当に一握りの中の一握りでしょう。
 もし、脳死を一律に人の死にさせたいと思ったら、私だったら、脳死は人の死か否かという議論は、そのままやらせておいて、まず保険適用をストップさせます。そうすれば、実質的に、脳死は人の死になるからです。脳が一律に人の死となるのは、保険適用が打ち切られるときだ、ということをはっきりさせたいがために、こういうことを申し上げているのです。日本の臓器移植法では、附則で「当分の間、健康保険の適用を認める」と定めていますが、この規定がいかに重要なものかを、きちんと認識しておくべきでしょう。

(3)生体臓器移植について
 ZDFの以上の報道は、一件の生体腎移植をきっかけとしていますが、生体臓器移植についてドイツの医学界は、これまで慎重な姿勢を示してきました。なぜなら、それは健康なドナーの身体にメスを入れ、さらに臓器を摘出するものであり、「害をなすなかれnon nocere」という(ヒポクラテス以来の)医療倫理の原則に抵触するからです。
 それゆえ、ドイツの臓器移植法は、生体臓器移植についてもチェックをかけています。しかし、日本の臓器移植法には生体臓器移植に関する規定はありません。日本でも、生体臓器移植に関する法規定を整備する必要があることは事実だと思いますし、その意味での改正の必要はあると思います。

 私からは以上です。

コメント(6)

最後に述べた、生体臓器移植に関する法規定の整備は、先日、発覚した「臓器売買」とのからみでも必要になってきました。
『ここでホッヘは、「全く意識はない」けれども「脈拍」はきちんとある、つまり心臓も肺もまだ機能している女の子を、もう死んでいることにしたがっているわけです。』

『あるお医者さんは、この状態では死んでいると言い、別のお医者さんは、いや死んでない、というようなことがおこるのだとすれば・・・ ・・・』

↑について思うこと。
<死の定義>についてのこと。

★「脳死」の状態とは、ちょっと異なってしまいますが、
<死の定義>という言葉を聞くたびに、
思い出すエピソードを書きます。

筋肉の難病をもつ友人が「危篤」の状態になり、すぐきてください、と友人数人が呼ばれて病院に行ったことがあります。
8年くらい前の体験です。

そのとき、友人は、医師や友人の家族らの試したあらゆる試み、ほっぺを叩いて反応があるか、呼びかけに反応があるか、
光を目で追うか、などに反応がなく、
もう、「いつ死んでもおかしくない」、という状態でした。

だから、お見舞いに行った人はみな心配だから帰らずに、
とても長い時間病院の待合室にいたのをよく覚えています。

しかしながら、結果として友人は奇跡的に意識を取り戻し、
今、本人のもともとの障害に起因する症状で寝たきりではありますが、後遺症などもどこもなく、元気に暮らしています。

そして、後に、友人にその時のことを話すと、私たちが見る限りは、機械の呼吸器の力で呼吸し、昏睡であり、
呼びかけてもまぶたひとつ動かない状態であったにもかかわらず、
「僕はあのとき、意識があった。だれが何を言っているか、誰と誰がいたか、どんな会話をしたか、全部を覚えている。
あとで両親に聞いた、とかではない。
でも、意識があったんだけど、目も開かなかったし、口も動かせなかった。でも、部屋の中の、来た人がしゃべっている声だけは全部聞こえてたよ。」
というのです。
そして、その話の内容も、詳細に合っていました。

私は、「いかなる状態が人の死」かという議論を聞くたび、
友人のこのエピソードが、いつも心にひっかかり、
医師には、
「危篤だ、臨終を覚悟してください」と宣告を受けた後の状態で、
「でも当人は意識があったんです!」
と主張できる当事者がいた場合、これを立証するにはどうしたらいいのだろう、と、思えてなりません。

同じように、
「死ぬ直前までいったけど、生き返った」
という当事者の体験発表を聞いてみたいです。

★また、関連して、「当人が死の直前まで行って帰ってきているのだから、友人の言った言葉はすべて事実であろう、こんな内容のでたらめを言うはずがない」と仮に100パーセント信じた上で、そうなると、もうひとつ恐ろしいと思うのは、ALSをはじめ、発語、目の動き、くちびるの動き、両手足、など、とにかく全身に障害が出て、意志を表わすことが困難になるも、最期まで、知能障害は出ない、とされる障害についてです。
今は、脳波でマウスのやじるしが動かせる最新機器もあるくらいだから、何がしかの打つ手はあるかもしれませんが、

「私は耳が聞こえていますよ」
「私は目が見えていますよ」
「私は意識は極めてはっきりしていますよ」

と、伝える手段が無いっ!!!という障害当事者にとって、
<死の定義>があいまいだ、ということは、
なんとおそろしいことだろうか、ということです。

本当に意識は冴え渡っているのだけれども瞼があかない、
発声ができないという当事者へ、
「この人はもうご臨終ですね」と 判断してしまうような医者が、
もしも、
もしもいたらどうしよう、
という、可能性の可能性、を考えるだけでも 鳥肌がたってきます。

だって、「モルヒネを打とうか少女のかたわらで考えた」医者がいるんだったら、
可能性がないわけではないってことでしょ?

脳死を人の死とする、
と、そのあと、例えばですが、
「そこで定義は、流動せずに、止まる」と思いますか。
そもそも生きる時代によって生死の定義が流動的に変化していって良いものなのでしょうか。
脳死は人の死ではない、から、脳死は人の死、へ・・・。

では、次は?

脳死じゃないけど、他者から見て「意識不明」の状態にある人は?
その状態が、1年続いた人は?
10年続いた人は?
家族が、「生かしてください!!!」と言ったとき、
「いや、死亡です。」
と判定できるその確たる根拠は?

・・・ ・・・と、知りたいことがたくさんあります。
明日はわが身となったときに、
「もう死んだことに・または、もうすぐ死ぬことに」
されそうなのに
当人は「どうしても発声ができなかっただけで」
「どうしてもまぶたが開かなかっただけで」
本当は意識もはっきりしていて、
生きようとしていて、
生きていた、なんてことが、もしもあったら大変だから。
重要な証言です。
良い死メーリングリストへ転送してもいいですか?
たいしょうさま&みなさま
読んでくださった全員のみなさまありがとうございます。
たいしょうさま>良い死メーリングリストへの転送、よろしければお願いいたします。

お医者さん、患者さん、双方の体験発表の場、というものに
機会があればだっこも、勉強の場に、聴講に行けたらと思いました。

だっこは、生まれたとき、当時の高名なお医者さまのほとんどだれもが、「この子はもう助からない。明日まで生きられるか、わからない。」
という状況で生まれました。

心肺停止、と、蘇生、を生まれてすぐ2回しました。

たとえば、1回目の心肺蘇生の途中などで、お医者さんがあきらめてご臨終ですと言ってしまったら今私は存在していません。こういうことが、
「どんなお医者さんにめぐりあたるか」の「運」で
決まってたまるかと、まず、思います。

そして、その上で、
それらのすべての状況について、まず両親の情熱があり、
医療の現場のお医者さんや看護婦さんの、これまでには前例の無い試みとしての手厚い看護体勢があり、
命を取り留めることができました。

「もう助からないかもしれない」と、専門家が見ての判断があり、そののち、でも、<可能性>としては、「死なずに助かることもある」んです。

私はその一例として存在しています。

だから、ひとの命が生きるか死ぬかについてだけは、
死の淵の瀬戸際のぎりぎりのところでも、
何が起こるか解らないものだから、
何が理由でも、いかなる状況下でも、人間を
「死に急がせる医療」はいやだ、そんなものはあってはいけないんだ、という思いを、沈黙せずに伝えたいんです。

たとえば、<脳死>から、意識が戻るような奇跡的なできごとは、「世界に一例もない」のかな・・・ ・・・。

「植物状態」と「脳死」の判定の、この人は今ちょうど境目の線の上だ!、という状態の人は世界の中を探すといるかな・・・ ・・・。そしてその状況で、当事者のそばにいる人々が願うことは何だろうか、と、思う。

そもそもが「賛成」と「反対」で決められることなんだろうか。<当事者の経験>を当事者が語り得ない、他者が聞き得ない事柄で。

考えがぐるんぐるんしてきたのでもう寝ます。(・v・)

「植物状態」と「脳死」の違いは、理解をした上で書いているのですが、そもそも、「その真ん中くらい!」という人はいないのか?
それが疑問で疑問で・・・ ・・・。

生きるか・死ぬか、のことだからね、
きっと一番大切なことだから。

大切すぎて考えがまとまりません。

でも、もしも、超個人レベルでの発言でも許されるなら、
自分は、そうまでして助かった命だから、
そして、人の命って、一番に大切で、
一番にハンパじゃない、きらきらした輝き続けるものだと
思っているから、そしてそれは最期の最期でも、
死んでからも、そうであってほしいし、
人の思いで生まれてきて人の思いで生かされてきて、
人の手でひっぱり出してもらって、おぎゃあ、ってこの世に
くるでしょ?
だから、そんなにも大切に大切にされるものが、
死ぬ時は、お医者さんの倫理観の臨床のために死に急がせられるような死に方になるのだけはいやだ。
むしろ、死の瞬間こそ、病院やホスピスや家で、選べる状況で死ねるのであれば、死にゆく個人にとって、最高の医療を、そこでこそ、発揮しなくて、いったい人生のいつ発揮してもらえるのか、と、思います。

いかなる状況であれ、死にゆく個人が最期の瞬間をどうやって素敵に迎えようかというSQLがひとつ飛ばしで、
「じゃあ尊厳死」みたいになってゆきそうな風潮があるような気がして、世の中が。いま。ちょっとこわいです。

おやすみなさい。
>いかなる状況であれ、死にゆく個人が最期の瞬間をどうやっ>て素敵に迎えようかというSQL

↑「SQL」じゃなくって、「QOL(Quality of Life)」でした。(>v<)ごめんなさい。

おやすみなさい。
皆さん、お久ぶりです。
ドジ竹です。
去る3,25に発覚した富山県射水市の射水市民病院での人工呼吸器外し7人死亡事件が起きて以来、富山の地元で孤軍奮闘(カッコ良過ぎる?本当はガムシャラでやっている)して、この事件の風化や賛美と対決しています。とにかくしんどい、というのが本音。だっこさんの書き込みを観て、励まされると同時に、「良い死ネット」出だされた投稿に載っていた情報源がだっこさんであることがわかってビックリしています。
これからも出してください、いろんな意見を!教えられる事励まされる事がドンドン出てくるようです。
本音を言えば、富山の障害者をはじめとして、障害者の今回の事件や、「脳死」・臓器移植、安楽死=尊厳死問題への反応の悪さに、私の思い上がりのせいかもしれませんが、失望している所です。連れ合いであるアパッチも最近病院でのひどい仕打ちを受けて(詳細は本人が書くかもしれませんが)やっと、積極的になってくれそうな感じです。
思えば、この問題に執着しているのは、障害者運動の原点ともいうべき、70年横浜での「母親による障害児殺し」と減刑嘆願運動に対する、青い芝の「殺される障害児・者」に人権はないにか!という告発運動。第二に、私は行けなかったのですが、連れ合いアパッチと息子が他の障害者と共にドイツの障害者安楽死施設訪問をしたこと(いっちーさんが通訳
兼同行者として参加)。その二つの経験が原動力になっているようです。
今、7人の内6人の人工呼吸器を外した医師がマスメディアの興味本位とある種の同情を受けて、自己主張をし始めました。その主張で目新しいことがあります。尊厳死許容の3ないしは4条件を提示したとされる東海大学安楽死事件判例の中の、「耐えがたい苦痛」というものが昏睡状態では確認されないため(尊厳死許容条件をクリアーできない可能性が高いため)、【新たに「脳死(状態)」で「ほんの僅かの寿命しかない」=家族の同意で人工呼吸器を外すことができる(臓器移植法の拡大解釈)】という論法を使い始めたのです。「生きるに値しない者」を「死の美化」によって(家族の看取りや、「命のリレー」という聖化された場面を演出しつつ)死なせ、その人体を資源なり研究材料として活用しよう(あるいは医療費削減、福祉負担の削減を実現)しよう、2つの「死の法」が結びつき始めているようなのです。
そういう風潮と具体的攻撃に対決するのは並大抵では出来ないように感じています。
 いい考えがあったら教えてください。

射水の問題では、実行した医師の現場復帰を求める署名が1万以上集まり、検察・警察の側も立件しにくい状態です。でも立件されない事には、事実関係は、その医療記録は闇のままになるのです。尊厳死法制化が為されなくとも、全国の病院で行なわれていると思われる同様のことが、黙認されていくのです。
だっこさんのいう「医師によって生死が決定されていく」ことが、ケアや医療費負担の増大を背景にした家族の同意によって支持されていくのです。この点では、ナチスドイツの優生政策と、行きつく先である安楽死による「生きる価値のないもの」への死とは、そんなに遠くない事だと思うのです。

少しでもこの事を考えてもらえれば、書き込みの意味は達成されます。
思い込みもありますが、意見を書き込みしてください。

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