(1)ビシャの見解 まず手始めに、2004年12月20日号の『ドイツ医師報 Deutsches Aerzteblatt』という雑誌に載った、医学史関連の囲み記事を紹介します。この雑誌は、ドイツ連邦医師会の機関誌です。 この囲み記事は、ボン大学の医学史研究所の所長をつとめているハインツ・ショットさんという人による記事ですが、ここで、ショットさんは、フランスのX・ビシャ(Xavier Bichat 1771-1802)という人の書物の一節を引用しています。まずビシャのテクストの引用ですが、こう書いてあります。「私は、以下のことを根本原理として立てるのに十分すぎるくらいの証拠を、これまでに提示してきたと思う。(1)脳は、内的な生命[=消化、血液循環等]の器官および機能に対して、直接的な影響を及ぼしていない。(2)したがって、この内的な生命の諸機能が、重い脳損傷の後に停止する場合、この停止は脳損傷によって引き起こされるのではない。私は、脳の活動が有機的生命[=内的な生命]と全く無関係に独立していると考えているわけでは、さらさらない。しかし、この生命が脳──これについて私たちはまだわずかのことしか知らない──からは単に二次的で、間接的な影響しか受けないと主張することには、根拠があると思う」。 この引用に続けて、ショットさんは、次のようなコメントを付しています。「ここでビシャは、『脳死は有機的諸機能に直接、影響するのか』を問うているのだが、彼はこう断言している。植物的(有機的)生命は脳の影響からかなり独立して機能する、と。1960年代の終りになって初めて[こうは考えない]現代の脳死診断が登場する」。 私の方から、少し補足します。ここで引用されたビシャの『生と死に関する生理学研究』(1800年)には、「脳の死 la mort du cerveau」という概念がすでに出てきており、しかもビシャは、私の理解では、この「脳の死」をもって人の死とすることは早過ぎるとし、「心臓の死」と「肺の死」まで待たないと、死を正確に判断することはできない、と言っています(拙著『身体/生命』岩波書店)。 ショットさんの上のコメントも、そういうことを含意しているのですが、その上で、そういう死の概念は、「1960年代の終りになって初めて」書き換えられて、現代的な「脳死」概念が登場する、と記しています。ショットさんは、脳死を人の死とするのが妥当かどうか、価値判断を交えずに書いていますが、しかし、それでも自分たちの西洋近代医学が、かつて人間の死をどう定義していたのか、そして、それがいつ変化したのか、そういうことについて(この雑誌を読むであろうドイツの)医師たちに反省を促している。これはこれで、私はドイツ連邦医師会の一つの見識だと思います。そういう歴史的反省を促す記事を載せている、という点で、です。 私の印象ですが、日本のお医者さんたちの雑誌には、あまりこういう歴史的反省を促す記事は載らないんじゃないでしょうか。最新の知識を(欧米から)吸収することには大変、力を入れるけれども、自分たちの来し方を見て、今をとらえなおすということは、あまりなされていないように思います。
(2)19世紀末のドイツの医学事典から もう一つ、例をあげます。それは、19世紀末に出されたドイツの医学事典の、「仮死」という項目に出てくる記述です。それによると、死の徴候の第一群としては、呼吸の停止、血液循環の停止、感覚反応の消失、体温の低下(27度以下)、全身の筋肉の弛緩などがあり、その第二群としては、眼球の軟化、死斑、死後硬直がある。しかし、第一の徴候群は、蘇生可能な仮死状態でも見られるものであるため、これらをもって即座に死亡判定を下してはならない。「以上に列挙した基準から明らかなのは、最も確実な死の徴候は、腐敗の開始とともに現れるもの[=眼球の軟化、死斑、死後硬直]であるということ、しかし、これらは、死が本当に訪れていることが疑いえない段階にならないと現れないということである。見せかけだけのものであれ、本当のものであれ、生命が終焉した直後の第一段階においては、死がはっきり確かめられる徴候は存在しない。だから、これらの疑う余地のない徴候[=眼球の軟化、死斑、死後硬直]が、まだ何一つ現れないうちは、仮死の可能性を考えなければならない」(Real-Encyclopadie der gesammten Heilkundez. 1889, S.486)。 さて、この医学事典ですが、私はこれをどこでコピーして手に入れたのか。ドイツの図書館で、ではありません。東京大学医学部の図書館で、コピーしたんです。つまり、何が言いたいかというと、本田さんや山田さんが学生時代に、こういう文献を読まれたかどうか知りませんが、明治期の日本のお医者さんは、こういう事典を一つ一つ読みながら、死亡判定というものを、どうやって行なったらいいかを学んでいったわけです。 ビシャのテクストにしても、あるいはこのドイツの医学事典にしても、その記載に照らすかぎり、現代的な脳死が人の死だと考えるようなことはしていません。