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NINE BRAND∴コミュのMIKE TYSON!!

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今回の商品のテーマ ぴかぴか(新しい)BE REALぴかぴか(新しい)


常に何事もリアルでいたい。。。


この男そのものかもしれません




興味がある人はどうぞ左斜め下




名前 マイク・タイソン
(Mike Tyson/USA)
あだ名 Iron
出身地 アメリカ/ニューヨーク州ブルックリン
生年月日 1966/06/30
血液型 B型
身長 180cm
階級 ヘビー級
戦歴 プロ:58戦 50勝 6敗 44KO 2NC
(世界戦:16戦 12勝 4敗 10KO)






生い立ち

本名:マイケル・ジェラルド・タイソン。 1966年6月30日、ニューヨーク市ブルックリン地区ベッドフォード・スタイブサントに生を受ける。
米海軍衛生兵として日本に駐在する兄ロドニーと姉デニスの3人兄弟。
今は亡き母ローナは、暴力的な事が嫌いな心優しき人だったと言われる。父は未だに行方知れずである。
要するに母子家庭だったという訳だ。

10歳の時、一家は同じブルックリン地区のブローンズビルのアンヴォイ通りにある集合住宅の2階へ引越す。
しかし、ここはニューヨークでも悪名高いスラム街だった。
内気な少年タイソンは動物好きで、屋上に自分で小屋を作って鳩を飼っていたが、その鳩が悪童達のターゲットにされ、なぶり殺しにされてしまう。
タイソンは、鳩を守る為に必死で戦った。 それは内気な少年が、追い詰められた時初めて自分の奥底に眠る恐ろしいパワーに気付く時でもあった。
彼の拳は瞬く間に悪童達をKOしてしまう。

彼はこの出来事以降、一変して悪の道へ転落し、ストリートファイターとなる。
13歳の時に彼は、傷害事件を起こしてトリョン少年院に収容される。
しかし、ここでも並外れたパワーで3人の教官を次々とKOしてしまい、とうとう両手に手錠をかけられてエルムウッド・ コテージの監房に入れられる。ここでタイソンの運命が決定づけられる。 そう、ボクシングとの出会いである。

カス・ダマトとの出会い

前述の監房でカウンセラーをしていたボビー・スチュワートは、1974年全米ゴールデン・グローブ大会のライト・ヘビー級で優勝した事のある アマチュアの名選手であった。
それを知ったタイソンは彼に会うなり「オレにボクシングを教えてくれ」と頭を下げた。
スチュワートの条件は唯一つ、タイソンが真面目に勉強するなら教えてやろう、という事だった。
スチュワートは、ボクシングを始めたばかりのタイソンの稀にみる非凡な才能に驚き、友人に電話をした。
その電話の相手というのが、タイソンのもう一つの物語として知られるカス・ダマトその人であった。

ダマトはマネージャーでありトレーナーであったが、良き“人生の教師”と呼ぶにふさわしい男であった。
ダマトは、ヘビー級王者のフロイド・パターソンやライト・ヘビー級王者のホセ・トレスと言う2人の世界チャンピオンを育て上げた名トレーナーであるが、 この2人がダマトの手によって白人からも尊敬される人物に生まれ変わった事は、余りにも有名な話である。

当時71歳のダマトはトリョン少年院の南80キロのキャッツキルの警察署の上に小さなジムを持っていた。
ここへ来たばかりのタイソンのスパーリングを見て、 ダマトは彼に「マイク、もし君がここで私の言う事を素直に聞けば、君は世界チャンピオンになれる」と言った。
ダマトは一目見ただけでもう、タイソンの素質を見抜いていたのだ。
数週間後、ダマトは保証人となりタイソンを引き取る。
しかし、それまで白人と付き合った事の無いタイソンは、「今に欺かれるに決まっている」とダマトを警戒していた。
タイソンが彼を“かけがえの無い大切な人”と思う様になったのは、1981年に彼が法律上の保護者となり親子の関係が確立してからである。
彼はタイソンにボクシング以外の事、例えば人間の優しさや思いやリ等も教えた。

1981年、タイソンが14歳の時アマチュアにデビュー。同年に全米ジュニア・オリンピックで全試合KOで優勝、翌年も勝って2連覇を果たす。 1984年ロス五輪選考会で1Rダウンを奪いながらも判定で敗れる。
荒々しいファイトがアマチュアらしくないという理由であった。
アマチュアに見切りをつけたタイソンは1985年3月6日、18歳の時プロデビューした。

世界チャンピオンへ

タイソンは第一戦へクター・メルセデスを1RKO、第二戦1RKOとデビュー以来19連続KO勝ち。 その内6回連続1RKOと記録と記録を塗り替える。
一方、ダマトにはある野望があった。それは、自分が育てたフロイト・パターソンが持つヘビー級史上最年少チャンピオン記録、 21歳11ヶ月をタイソンによって破るという事であった。 デビュー当時タイソンは18歳9ヶ月であったから、約2年で世界タイトルを奪取しようというのである。
その後、早い時は9日間で2試合、1985年8月から11月にかけては6度戦って全て1RでKOしている。 カス・ダマトは1985年11月4日、タイソンのチャンピオンベルトを見る事無く、 肺炎のため他界した。享年77歳であった。

又、この頃モハメド・アリが引退し、派手なKOシーンの無い不人気のチャンピオンにファンが次第にヘビー級から離れて行く。 事態を重く見たWBA・WBC・IBFの3団体が、統一王座決定戦を企画する。
1986年11月22日、ついにタイソンは、WBC世界ヘビー級チャンピオンであるトレバー・バービックに挑戦状を叩き付けたのだった。 試合前の賭け率は1:5でタイソン有利であった。
少しチャンピオンのバービックの説明をすると、無敗の新星グレグ・ペイジを倒し、アリを破って引退に追い込んだ“大物食い”である。

試合はタイソンの一方的な展開。結局2RでTKO勝ち。
僅か335秒でダマトの野望が実現した。20歳と5ヶ月の史上最年少の世界チャンピオンの誕生であった。

1987年3月7日、今度は2つ目のタイトルであるWBA王座を取りに行く。
チャンピオンはジェームス・スミス。ファンの期待はタイソンが何ラウンドでKOするかだけであった。
試合は、ゴングと同時にスミスは足を使って逃げまわり、タイソンが懐に入るとクリンチでかわすという展開。 結局タイソンの判定勝ちで2冠制覇。

そして1987年にIBFチャンピオンのトニー・タッカーと対戦。
3Rまではタッカー優勢だったが、それからはタイソンの猛攻。大差の判定で タイソンが3冠統一チャンピオンという世界最強の地位を確立したのである。

コメント(2)

1988年、芝浦のクラブにONE WAYというバンドの来日コンサートに行くと、初来日の試合を3日後に控えたマイクタイソンが、普通にお客さんで来てました。
コンサートの後、ONE WAYのメンバーと六本木のクラブに遊びに行くと、マイクタイソンも一緒に移動して来ていました。
評判のような怖さはなく、女の子をナンパするわけでもなく、1人で元気に踊っていましたウッシッシ

深夜まで遊んでいたのに、3日後の試合は2ラウンドKO勝ちでした。
大好きになりました目がハート

Reana> ビックリですexclamation & question


ONE WAY。。。


どんなバンドなんだろうグッド(上向き矢印)


マイク・タイソンに会われたんですねぴかぴか(新しい)


羨ましいです目がハート


2ラウンドKOexclamation & question


さすがタイソンですね指でOK

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