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[異説] 超古代文明 [オカルト]コミュのアナトリアに日本政府が博物館建設

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日本政府、クルシェヒルに博物館建設
2009年04月01日付 Zaman紙

日本政府が、クルシェヒル・ケマン郡に芝で覆われた古墳型の博物館を建設した。

日本アナトリア考古学会のデニズ・エルビシム事務局長がアナトリア通信の記者に対して行った発表では、昨年、文化観光省のエルトゥールル・ギュナイ大臣と田中信明在アンカラ日本大使によって起工式が執り行われたが、今回の博物館の開館式も同氏らによって行われるという。

エルビシム氏は下記のように話した。
「日本政府によって、ケマン・カレホユックに芝を張った古墳型の非常に近代的な博物館が建設された。日本円で4億3600万円におよぶ博物館の建設入札は日本で行われ、エルトゥールル・ギュナイ文化観光庁長官と日本の田中大使によって2008年4月25日より起工式が執り行われた。受注したのは日本の鹿島建設で、ちょうど1年で工事を終了。外側に芝が施され古墳の形をした博物館の開館式は、起工式を行った両氏によって4月8日に行われる。

世界に二つとない博物館
このような博物館は外国でも見つからないと話すエルビシム氏は、下記のように続けた。
「古墳であると同時に、そばに博物館、研究施設、図書館、発掘品保管室、独自にデザインされた庭園などが揃う、世界で唯一の考古学センターだ。このセンターはアナトリア考古学を研究する学者たちにとってかけがえのない場所となる。トルコと日本だけでなく、世界中からカレホユックで研究活動をしようと集まる研究者や学生がいる。このセンターのおかげで、クルシェヒルやカマン郡の経済、社会、文化、観光が変わっていくだろう」

カレホユック
アナトリア地方の中央に位置するクルシェヒルのカマン郡チャウルカン市にあり、直径280メートル、高さ16メートルの典型的なアナトリア古墳であるカレホユックでは、文化庁文化博物館事務局の認可のもと、日本中東文化センターによって発掘が行われている。当センター発掘調査団の名誉総裁である三笠宮崇仁親王が1986年5月31日に鍬入れ式を行い、発掘調査活動が始まった。
故タフシン・オズギュチ博士の学術的支援と貢献によって始められたこの発掘調査活動は、現在オズギュチ博士の弟子であった大村教授によって継続されている。
(翻訳者:湯澤芙美)
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20090403_062609.html
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/pdf/pdfNews20090403_062609.pdf
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http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=41991741&comment_count=1&comm_id=47451

日本とトルコの友好のためにももう少し知られていいニュースですね。

博物館が建てられたのは製鉄技術で有名なヒッタイトとの関連も注目される地域です。また、この地方で出土する地母神像と、日本のいわゆる遮光器土偶との類似を指摘する説もありますね。
http://ameblo.jp/kwin/entry-10080249771.html
http://www.pref.iwate.jp/~hp0910/tayori/106p2.pdf

コメント(9)

初めて知りました。
トピ立て、ありがとうございます。
トルコに友好的に受け入れられていて良かったです。
アナトリアやハットゥシャは、いずれ行きたい♪と思っていましたが、なんだか一層、親近感が増したような気がします!(^^)
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トルコで日本調査隊発掘品展示へ カマンに博物館完成
【カイロ21日共同】
紀元前1400−同1200年ごろ、現トルコ領とほぼ同じ地域に栄えたヒッタイト帝国の滅亡後の時代に光を当てた日本調査隊の発掘成果を展示する博物館が、日本の資金協力でトルコに完成、このほどトルコ政府に引き渡された。両国の古代史研究の拠点として期待されている。

 博物館は、トルコ中部カマンのカマン・カレホユック遺跡に隣接する場所に、日本政府の文化無償資金協力、4億3600万円を投じて建設された。遺跡自体をかたどった、日本の円形の古墳にそっくりの形状。今後、出土品を搬入し、2010年7月の一般公開を目指す。

 8日に行われた引き渡し式典には、トルコ側からギュナイ文化観光相、日本側から田中信明駐トルコ大使、1985年から約四半世紀続く発掘を指揮してきたアナトリア考古学研究所の大村幸弘所長が参加した。

 アジアと欧州を結ぶ要衝に当たる遺跡からは、紀元前1200−同900年ごろで史料の少なさから謎が多いとされる「暗黒時代」のアナトリア(現在のトルコの大部分)で、地中海から伝わってきた文化が栄えたことを示す彩文土器などが出土。

2009/04/21 15:49 【共同通信】
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日本の地方紙は外報はほとんど共同通信に依存しているため、全国各地の新聞で同内容の記事が掲載されたようです。

中央紙では産経新聞が同内容の記事を掲載しています。
世界最古の鉄器発見!カマン・カレホユック遺跡(トルコ)

先日世界史に大きな一歩を刻む発見がトルコので成された。その発見というのが世界最古の鉄器の発見だ。従来世界最古の鉄器はアナトリア高原(現在のトルコ)に王国を築いたヒッタイトが紀元前15世紀頃に発見したと言われていた。しかし、今回のトルコ中央部のカマン・カレホユック遺跡で発見された鉄器はそれよりかなり前の紀元前2,000年頃の物だ。この発見を主導したのが、日本の中近東文化センターだ。中近東文化センターは1979年に東京の三鷹で開館し、以来日本に中近東の歴史の奥深さを紹介するとともに実際に中近東に赴いて数多くの調査や発掘事業にも携わってきた。今回はこの偉大な発見とその背景に迫ってみたい。



カマン・カレホユックが位置するアナトリア中央部は文明のゆりかごとも言え、アッシリア、ヒッタイトなど古代ギリシャ・ローマに先立つ文明がいくつも栄えた場所であった。ヒッタイトは紀元前19世紀頃にアナトリアに侵入し、17世紀頃に王国を築いて隆盛を極めた。紀元前13世紀にはシリアに進出し、かの有名なファラオラムセス二世とカデシュで刃を交えた。このカデシュの戦いの模様は、自己顕示欲が強かったラムセス二世のおかげでエジプトのルクソールやアブ・シンベルにも残され、またこの戦いの後に結ばれた世界最古と言われる講和条約が結ばれた。この講和条約の碑文はイスタンブールの考古学博物館に実際に残されているので明確な史実だ。エジプトに残された戦いの模様を見る限りはラムセス率いるエジプト軍が勝ったような印象を受けるが、実際にはエジプト軍は遠征しても領土を獲得しておらず、敗北を喫したという見方が強い。ちなみにこのカデシュの講和条約は戦後処理のみならず、相互の友好関係の保持、国民の保護や同盟的な内容も含まれていて、現在の国連本部にもこの講和条約のレプリカのお手本として展示されているそうだ。
(続く)
(承前)
さて、当時飛ぶ鳥を落とす勢いであったラムセス二世を退けたヒッタイト軍を支えたのが鉄器なのだ。鉄の製造に関しては、門外不出の技術として位置づけ、ヒッタイトはその力も利用してアナトリアからシリア地方に勢力を伸ばしたのだ。そしてその結果によって現代では鉄器はヒッタイトの代名詞とも言えるぐらいだ。実際にこれまで発見された鉄器もヒッタイト時代の層から発見されたものが最古であった。ところが、2000年にカマン・カレホユック遺跡でこのヒッタイト時代より前の地層から鉄器が発見されたのだ。その時点で従来の鉄器ヒッタイト起源説を覆すに相応しい発見なのだが、現代の考古学は現場で掘るよりも研究所で分析する方が大変なのだ。それから9年近い研究を重ねて、今年その鉄器がヒッタイトより前の時代の物である事が裏付けられた。

尚、中近東文化センターではこの鉄器に先駆けて、通常アナトリア史の「暗黒時代」と呼ばれたヒッタイト滅亡後の時代にこれまでの一般的な見解を覆す高度な都市文明の遺跡跡も発見している。そしてこのカマン・カレホユックにおいては、ただ発掘するだけでなく、遺跡に隣接した複合的な教育機関アナトリア考古学研究所を立ち上げ、地元民との共生、発掘業績の共有や考古学者の育成を目指している。
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http://eurasia-blog.cocolog-nifty.com/eurasia/2009/04/post-94a5.html
一か月前の記事ですが、トルコで日本の調査チームが順調に成果を上げているようです。
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日本隊、ヒッタイトの粘土板発見 トルコ中部の遺跡
2010/09/23 11:35 【共同通信】
【カイロ共同】中近東文化センター(東京都三鷹市)付属アナトリア考古学研究所(トルコ19件・カマン)は22日、鉄製武器で栄えた古代トルコのヒッタイト帝国(紀元前1400〜同1200年ごろ)の遺跡ビュクリュカレ(トルコ中部)から、くさび形文字で書かれた外交文書とみられる粘土板1枚を発見したと明らかにした。

 研究所調査隊によると、ヒッタイト帝国の粘土板の大半は当時の首都ボアズキョイで発見されており、首都から約100キロ離れたビュクリュカレのような地方都市での発見は異例という。同隊の松村公仁隊長(51)は「(同)遺跡が帝国の主要都市であった証拠」としている。

 粘土板は縦8・1センチ、横5・4センチ、厚さ2・2センチで、帝国時代の城壁付近の土砂から8月初旬に発見。帝国時代初期のヒッタイト文字が計21行刻まれていた。「貴国に派遣した使者を無事に返せ」といった趣旨で、文体からヒッタイトの王が周辺国に送った文書の控えとみられるという。
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7に追記

記事本文はこちら。
http://www.47news.jp/CN/201009/CN2010092301000262.html


さらに追記

ビュクリュカレ調査そのものがアナトリア考古博物館の事業との由。
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ビュクリュカレ
松村 公仁 アナトリア考古学研究所研究員

遺跡の概要
ビュクリュカレ遺跡はトルコの首都アンカラの南東約65km、アンカラからカマンに向かう道がトルコ最長のクズルウルマック河を渡河する所に位置しています。そこは現在と同様昔から交通の要衝だったと考えられます。

1991年、2006年に中央アナトリアの考古学的一般調査の一環としてこの遺跡でも表採調査を行いました。この遺跡はクズルウルマック河の脇にある岩山の上に大型の建築物があり、それを取り囲む形で周辺に都市が形成されています。表採した土器片からこの遺跡が前2千年紀の後半、ヒッタイト帝国時代の都市であることも判りました。

カマン・カレホユック遺跡ではこのヒッタイト帝国時代の層が薄く、なおかつ鉄器時代の居住によって破壊されていることから、これまでの目標であった中央アナトリアの文化編年を確立する上で充分な資料が得られないという問題点がありました。このビュクリュカレ遺跡はカマン・カレホユック遺跡の成果を補ってくれる遺跡です。

2008年の予備調査では地形測量、磁気探査、遺物表採作業、気球による空撮を行いました。その結果岩山の頂上部に露出していた大きな礎石を用いた建築遺構が頂上部全体に広がっていることを確認することが出来ました。地形測量の際には河に沿って高さ2 mを超える大型の石で築いた石列が新たに見つかっています。

表採遺物は岩山の頂上部では多量のヒッタイト帝国期の土器片に混じって灰色土器のような鉄器時代後半の土器片も採集され、ヒッタイト帝国期の大きな石を用いた大遺構の上に薄く前1千年期の文化層が存在していることが推測出来ます。今年度の表採品の中にはリディア王国の首都サルディスに特徴的な鳥の文様を持った土器片が一点見つかっており、ビュクリュカレ遺跡はアナトリアの文化の影響を受けていたものと思われます。

岩山の周辺に広がる都市は表採した土器片、そしてその分布からヒッタイト帝国期の単層の都市であり、直径約500 mにも及ぶ都市であったことも明らかになってきています。

このようにビュクリュカレ遺跡は当初の予想通りカマン・カレホユック遺跡の文化編年を補うヒッタイト帝国期の遺跡であることはほぼ間違いありません。
http://www.jiaa-kaman.org/jp/excavation_buklukale.html
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