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MOBSTERSコミュのベンジャミン・シーゲル

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ベンジャミン・シーゲル(Benjamin Siegel、1906年2月28日 - 1947年6月20日)はアメリカのギャングで、ラスベガスの開発推進者。本名ベンジャミン・シーゲルバウム (Benjamin Siegelbaum)。渾名はバグジー (Bugsy)。意味はばい菌、害虫といった蔑称で、彼自身はこの名を忌み嫌っていた。性格は荒っぽく気分屋だったが、身長180センチを越す長身で顔は映画スター並にハンサムだった。彼は服装には気をつかい、当時としては破格の200ドルもするスーツを着て、シャツはハンドメイドでシルクのもの、整髪にも手を抜かず、指にはマニキュアをしていたという。身体もジムに通い鍛えていた。ナイトクラブやレストランでは気前もよくウェイターにはチップを渡していたという。

ニューヨークのブルックリンで、オーストリア出身のユダヤ系の貧しい両親の間に生まれる。両親は彼が生まれる数年前にキエフからアメリカへ移民している。 少年時代にはストリート・ギャングとなり、マンハッタンのローアー・イースト・サイドのラ・ファイエット通りを中心として窃盗などの犯罪を働き、露天商から上納金を取り立てたりした。

若い頃、ヘルズ・キッチン地区のアパートのベランダから、下を歩く巡回中の警察官にレンガや水を入れた袋を投下したりしていた。このため、バグジーと言われるようになったとも言われている。本人はバグジーと呼ばれることを嫌っていた。バグジーとは頭が狂ったという意味で親友だけが呼べた。親しくないものが本人の前で呼んだら大変なことになった。

シーゲルは人生で1度だけ、正業についたことがある。それはタクシー運転手だった。その職業に就いた理由は、この時代にタクシー利用客といえば裕福な人だけだった。そのため、業務で客の住所を知り客を送った後に空き巣を働いていたという。

1920年頃、マイヤー・ランスキーと知り合ってその親友になった。シーゲルはランスキーを助ける一方、彼が派遣するヒットマンともなった。

10代の頃、当時ニューヨークの大物だったアーノルド・ロススタインの援助を受け、ランスキーたちと酒の密売を始める。この頃にフランク・コステロ、ヴィト・ジェノヴェーゼ、ジョー・アドニスたちと盟友になった。若い頃のシーゲルは、ナルシストでプレイボーイのアドニスが憧れの存在だった。

1920年代には、ラッキー・ルチアーノと同じウォルドルフ=アストリアの住人になっていた。

1927年にエスタと結婚。彼女はシーゲルの幼友達のホワイティ・クラカウワというギャングスターの妹。1930年と32年に女の子が生まれる。結婚を機会にニューヨーク北部のスカースデールに豪邸を購入した。しかし、シーゲルは、ウォルドーフに住み続けた。スカースデールの近所の人たちはシーゲルのことを出張の多い会社重役と思い、ギャングスターとは思ってもいなかったという。

その後、マーダー・インク(殺人株式会社)結成に関与した。1935年にはダッチ・シュルツとも同盟を結び、彼のライバルだった闇金融のルイスとジョセフのアンベルク兄弟を殺害。

1937年に昔銃撃した男が付きまとっていたし、警察にも追われていたことと、犯罪組織から西海岸での組織拡大を任されてカリフォルニア州に送られた。当地のギャングのボスのジャック・ドラグナには組織をまとめる力量がなかったし、シーゲルたちニューヨークの者からすれば、小物のローカル・ギャングだった。西海岸に到着するとハリウッドにも行った。ハリウッドのとりことなり、カメラテストまで受けた。しかし実生活での役割はあくまでギャングだった。恐喝が得意でエキストラの組合に強引に入り込み、支配権を手に入れる。大物スターから1人1万ドルも脅し取った。断ると映画の撮影が中止に追い込まれた。そうして懐に入った金は年に40万ドルにも達した。さらに西海岸の競馬通信社も取り仕切った。競馬通信社と私設馬券場の仕事はそのうち、友人のモー・セドウェイに任せた。

シーゲルは1938年、当時カリフォルニアで違法だったギャンブルをサンタモニカ海岸3マイルの沖でレックス号という船の上で開いた。3マイル沖の海上なら、法律の適用外になるというのが、シーゲルと友人のトニー・コルネロの考えだった。しかし、ロサンゼルスの郡警察がすぐに手入れに乗り出し、レックスを開店即休業に追い込んだ。そのため、2人はさらに離れた12マイル沖で始めた。しかし、今度は陸地から遠すぎで客がほとんど訪れなかった。この件で2人は大損したという。

1930年代後半、イタリアの伯爵夫人で社交家のドロシー・テイラー・ディフラッソと愛人関係にあった。そのコネを利用して、ナチスやファシストの大物幹部の暗殺を本気で計画していた。実行できなかったことを終生後悔していたという。

イグザキナー紙がシーゲルの過去について、記事を書いたとき、ドロシーはオーナーのウィリアム・ランドルフ・ハーストの豪邸に自ら出向き、記事を取り下げるように言ったという。それでも新聞はシーゲルの過去を書き続けた。

1940年代初めに、ヴァージニア・ヒルと出会い、付き合うようになった。お互いに気分屋で、彼女とはしょっちゅうひっぱたきあっていたという。彼女と出会った頃、友人に「ヴァージニアのベッドテクニックは最高」と言っていた。

シーゲルは、1931年以来ギャンブルが合法化されており、いくつかのカジノが成功していたラスベガスに目を付ける。まだ小規模なカジノしかなく、シーゲルからすれば三流に過ぎなかった。彼の夢はハリウッドの洗練された魅力をラスベガスに持ち込むことだった。それまでラスベガスに無かった壮大なホテル、フラミンゴ(現在のフラミンゴ・ラスベガス)を作るためランスキーやコステロといったマフィアのボスに頼み資金をかき集めた。フラミンゴの建設業者は、後にニューヨーク・ヤンキースの共同オーナーにもなるアリゾナの大手、デル・ウェブ社が工事を担当。建設時、第二次世界大戦後ということもあって、建設資材が不足しており、工事を急ぐシーゲルは、闇市から資材を調達したりもした。

フラミンゴの建設費は予想を遥かに上回り、建設費が足りなくなると小切手の不渡りを出したり、同じ小切手を異なる相手に売ることもした。建設費がかかりすぎたことでランスキーやコステロに建設費の横領を疑われ始めるが耳を向けない。競馬通信社の支配権をめぐってもボスたちの不興を買っていた。バグジーはカリフォルニアの競馬通信社を自分一人で独占したと考えていた。こうしてシーゲルは友人の信用を少しずつ失っていった。

シーゲルについての問題はマフィアの最高レベルでの協議を必要とした。キューバのハバナで行なわれた。会議で大きな議題となった。このときランスキーがシーゲルを擁護したことから、組織による責任追及だけは何とか逃れていた。それでもホテルのオープンまでが限界だった。

1946年には豪華なフラミンゴホテルを完成させる。しかし建設費は当初の予算を遥かにオーバーした上、愛人ヴァージニア・ヒルが建設費を掠め取っていたのではないかと疑われた。フラミンゴの建設費は600万ドルで当初の予算より500万ドルオーバーした。フラミンゴは1946年12月26日にオープンするが、当初から赤字続きで、2週間で30万ドルの損失を出し、休業。その後、未完成部分の建設を続けようとした。ランスキーとコステロは最後のチャンスを与え1947年3月に再オープンした。以前に比べ客足は伸びたが、それでも組織が予想した利益よりはるかに少なかった。少しずつ利益が上がり始めるが、その頃にはすっかり仲間たちの信用を失い目障りな存在になっていた。他にも彼の独断専行的な性格もボスたちの気に障ることになる。

さらに愛人のヴァージニア・ヒル(ホテル名のフラミンゴは彼女の女優時代の愛称)に浪費癖があり、現実に彼女が多額の現金をかすめ取ってヨーロッパに逃亡したことで、1947年6月20日夜、カリフォルニア・ビバリーヒルズのヒルの邸宅で一人ソファに座り新聞を読んでいるところをヒットマンのエディ・カニッツァーロにM1カービン銃で顔などを銃撃されて殺された(両目が吹き飛ばされ左目が部屋の反対側の壁で見つかった)。暗殺の晩フラミンゴにガス・グリーンバムとモー・セドウェイが乗り込んできて「今日から我々がここの新しいオーナーだ」と言った。その後、経営を好転させフラミンゴを世界的有名なホテルに変えた。

シーゲルの遺体はハリウッド共同墓地に埋葬された。

しかし彼の死後、フラミンゴもラスベガスも繁栄を遂げることになる。シーゲルは生きて夢をかなえることは出来なかったが、彼の死後ラスベガスは砂漠に花を咲かせた。シーゲルはギャンブル都市ラスベガスの生みの親とも言われている。なぜならこの男の夢からラスベガスは生まれたからだ。

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