John Ford I'm John Ford, I make Westerns ★ジョン・フォードはラオール・ウォルシュやハワード・ホークスとともにデヴィッド・ウオーク・グリフィスやトーマス・インスら映画の第一世代の伝統を引き継ぐ最もアメリカ的な映画監督である。ホークスが20世紀的なメカニックなな感覚を映画に導入したりウォルシュが無駄のない乾いたストーリー・テリングを映画に持ち込んだとしたならばフォードは19世紀的な絵画的風景とアメリカ的な詩情を映画に持ち込んと言っても良かろうが、はやりフォードが貴重なのはこの三巨頭の中でももっともアメリカの風土を意識的に描いたことにあるだろう。前監督作品の中で西部劇は確かに多いが同世代の他の監督と比べて最多という訳ではない。しかし西部劇はフォードであり、フォードは西部劇の監督だと断言しても誰も文句は言わないだろう。そうフォードは西部劇であり西部劇は映画そのものである。 【ジョン・フォードの生涯1895-1973】 1895年2月1日、メイン州、ケープ・エリザベスにアイルランドからの移民の夫婦ショーン・オフィーニーとバーバラ・カランの13番目の末っ子として生まれたショーン・アロイース・オフィーニー。一家はポートランドに移ると父は酒場を開いた。1913年にショーンはポートランド・ハイスクールを卒業する。13才年上の兄フランシス・オフィーニーは既に誕生したばかりのハリウッドでフランシス・フォード名でユニヴァーサル社の監督・脚本・俳優として活躍しはじめていた。兄を頼ってハリウッドにやって来たショーンは大道具係の助手として働くようになり、兄にならってフォードを名乗りジャック・フォードとなった。俳優も兼ねるようになり、デヴィッド・ウォーク・グリフィスの『国民の創生』ではKKK団に一員として出演。16年には助監督となりフランシスの監督主演ヒットシリーズ『名金』など101バイソンなどユニヴァーサル傘下の西部劇に多数付いた。そしてフランシスの監督作品でカウボーイの落馬シーンをローアングルで撮影したショットを見た社長のカール・レムリに気に入られ17年には早くも監督となりハリー・ケリー主演の2巻ものの西部劇を多数監督する。『譽の名手』'17からは5巻ものを撮るようになり、'21年にはフォックス社に移りトム・ミックスやジョン・ギルバート主演作を、そして'23年の『侠骨カービー』からはジョン・フォードを名のるようになった。1924年には大陸横断鉄道建設を描いた大作『アイアン・ホース』で大ヒットを飛ばし30前にして大監督となった。1928年のサウンド版『四人の息子』をへて『黒時計連隊』'29以降はトーキーを撮り喜劇や刑務所もの、冒険活劇などはば広く活躍。脚本家ダドリー・ニコルズとコンビを組むようになり、30年代には名優ウィル・ロジャース主演作を中心に故郷のアイルランドを舞台とした『男の敵』ではアカデミー監督賞を受賞、1939年の『駅馬車』以降は西部劇の監督として世界的に知られるようになった。以後もフォックスを中心にアメリカの田舎を舞台とした、時には左翼的な『怒りの葡萄』や『タバコロード』を撮り戦争中は最前線で記録映画も撮っていた。戦後は戦争映画でも実力を発揮するが、『駅馬車』でスターとなったジョン・ウェインやヘンリー・フォンダなどスターを生み出すとともにスタッフや脇役まで含む「ジョン・フォード一家」をなして映画会社とのバランスをうまく保ちつつ自身の作品を生みだした。50年代にはもはやアメリカ映画の最高の監督として知られ騎兵隊三部作、そして『捜索者』など野心的な西部劇もあり困難な映画状況でもジョン・フォード作品を貫いた。グランド・キャニオンのあの有名な風景はフォードに敬意を表して決して他の西部劇の監督は撮影しなかったほどである。多くの研究文献や伝記が存在するがインタビューに関しては決してまともに答えず「芸術家」扱いされることを否定し続けた。テレビ作品も監督した晩年は大作『シャイアン』そして女でけを主人公にした中国が舞台の『荒野の女たち』など完成されたストーリーテリングで最後までその威厳を失うことはなかった。1973年8月31日カリフォルニアのパーム・デザートの自宅で癌のためその頑固な生涯を閉じた。
【撮影監督ガブリエロ・フィゲロアとジョン・フォード】 撮影前に、フォードは私の仕事ぶりを知りたがり、エミリオ・フェルナンデスとの仕事をしているところを見物に来た。「エル・インディオ」※1)はいつも、どんなシーンであるかの説明をするだけで、私は自分の置きたい位置にカメラを据えていた。それが私の構図の決め方だったのだ。そしてフォードは私に同じやり方を望んだのだった。撮影はヴェラクルスでおこなわれた。フォードは到着するなり私に言った。「我々は明日ここで仕事をすることになる。ここをタバスコ地方に想定するには光がもっと強くなくちゃならん。そこが警察署だ、そこからはじめる。君は好きな所にカメラを置きたまえ。こいつは素晴らしいショットだ。」私はカメラを少し高い位置に置いた。そして翌朝フォードが皆と朝の挨拶を交わしにやってきた時に「カメラを覗いてみてください。」と声をかけた。しかし彼は何の答えもなく行ってしまったのだ。で、私は訊ねた。「カメラを覗こうともしないんですか?」「何のためにだ?」「私は監督でしかないんだぜ。」とフォードは答えた。我々が一緒に仕事をしている間彼は一度もカメラを覗くことはなかった。ただ、私がどのレンズを使っているのかを聞いただけだった。 Gabriel Figueroa : La mirada en el centroより(翻訳 中崎静秋) ※1)エミリオ・フェルナンデスはアメリカでの脇役時代に「エル・インディオ」と呼ばれていたがその後、メキシコ映画の巨匠監督となって50年代のメキシコ映画の全盛期を代表する人物となった。晩年にはサム・ペキンパーの『ワイルド・バンチ』でもメキシコ革命軍の首領役や『ビリー・ザ・キッド21才の生涯』などの出演した。