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PLANET Masters Collectionコミュの"ヌーヴェルヴァーグの誕生"

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"ヌーヴェルヴァーグの誕生"
《「カイエ・デュ・シネマ」と「シネマテーク・フランセーズ」》
■「カイエ・デュ・シネマ」の創刊者アンドレ・バザンを精神的な父親とし、シネマテーク・フランセーズという場所を母胎にして、フランスにヌーヴェル・ヴァーグと呼ばれる運動が誕生する。これはフランス映画がもはや戦後ではなくなったことを意味することでもあった。戦前の映画作家たちはすでの巨匠然として撮影所での映画作りを続けていた。一方戦後に大量に公開されるアメリカ映画に熱狂した1930年代生まれの若者たちはアメリカの音楽ジャズを聞き、アメリカの俳優に憧れていた。これはなにもフランスに限ったことではなく世界じゅうがアメリカに憧れていたと言ってもいいだろう。もちろん左翼はソ連に憧れたのが50年代であり、インテリはイデオロギー的には左翼でありながらアメリカ文化を享受していたのである。イタリアの「ネオリアリズム」が世界に浸透するとこの方法はハリウッド以外の映画にはかなりの影響を与えた。日本でも左翼系の独立プロがネオリアリズムを指向した映画作りを始めたが、この「ネオリアリズム」を単なる映画運動として捉えるのではなく、映画の「文体」の優れた方法として捉えたのがアンドレ・バザンであったと言えるだろう。バザンの編集する「カイエ・デュ・シネマ」には多くの若き評論家が集まってきた。若者たちはアンリ・ラングロワの「シネマテーク・フランセーズ」で過去の映画を大量に見る。そしてその中から導き出される自らの方法論を具体化するために映画製作をはじめなければならない。しかしフランス映画界は戦前から続く映画会社のスタジオの中で巨匠たちが製作を続けており、若い生意気な評論家には入り込む隙間がなかったのである。「カイエ・デュ・シネマ」にあつまった連中はまずは批評を武器にしてフランス映画を攻撃し、アメリカ映画を評価する。ゴダール、トリュフォー、シャブロル、リヴェット、そして年長のロメール。彼らは批評からはじめ50年代半ばには仲間をあつめて短篇劇映画を製作するようになっていた。それらの作品はかつて20年代のアヴァンギャルド映画の興隆とな全く異なった流れである。こうして1958年に祖母の遺産をつぎ込んでクロード・シャブロルが『美しきセルジュ』を撮り、『いとこ同志』を撮った。フランソワ・トリュフォーは配給会社の娘と結婚して最初の長編『大人は判ってくれない』を1959年に撮りあげた。1960年にはジャン・リュック・ゴダールが『勝手にしやがれ』を公開し、フランス映画界はこの1年2年間で一気に若返るのである。もちろん若い監督たちの作品からは若いスターたちが誕生する。ジャン・ポール・ベルモンド、ジャン=クロード・ブリアリ、ジェラール・ブラン、ジャンヌ・モロー、ブリジット・バルドー、ベルナデット・ラフォンもはや戦前のフランス映画の巨匠たちになすすべはなかった。ただジャン・ルノワールやロベール・ブレッソンそしてジャック・ベッケルら一部の監督たちはヌーヴェルヴァーグの若い監督たちによって逆に再発見されることにもなったのである。

【ヌーヴェルヴァーグ・最初の映画】
■「処女作にはその監督のすべてがある。」とはトリュフォーの言葉である。今回上映の短編作品は、ヌーヴェル・ヴァーグの若者たちのごく初期の作品ということになるのだが、当然彼らがこの作品を作った時期、つまり1950年代の半ばから終わりにかけては未だヌーヴェル・ヴァーグという呼び名はなかった。ゴダール、トリュフォー、リヴェット、シャブロルも批評家として「カイエ・デュ・シネマ」で活躍を始めており、まだまだ無名。「カイエ」にはアンドレ・バザンという理論的支柱が存在し、ネオ・レアレスモからアメリカ映画まで、いわゆる作家主義(作家理論)を展開していたのだ。しかし若者たちは別に批評家になりたかったわけではなく、いつ自分が監督になるのか、その時期をてぐすねひいてまっていた。こうして古いスタジオ製作の映画ではなく彼らはカメラを持って街に飛び出したのだった。というわけでこの上映に勇んで駆けつけた諸君もカメラを持って街に出てみてはいかが、「銃と女と車があれば映画は出来る」とはゴダールの言葉だが、彼等はカメラとともに何を持って街にでたのだろうか。そこに彼らの映画のすべてがある。「カイエ派」の仲間たちはこうして56〜58年に短編をそして59〜60年にかけて長篇映画を監督するようになった。その最初の試みはジャック・リヴェットの『王手飛車取り』である。これはシャブロルが製作と共同脚本、出演者にはゴダール、トリュフォー、シャブロルリヴェットそしてジャック・ドニオル=ヴァルクローズが出演しジャン=マリー・ストローブが助監督を務めていた。1958年12月11日、彼らの理論的支柱バザンは白血病で亡くなった。ヌーヴェルヴァーグの中心人物バザンは若者たちの活躍を観ることはなかった。「カイエ・デュ・シネマ」の編集は57年から年長のエリック・ロメールが務めていた。

「あこがれ」Les mistons 1958/France/26min
 監督・脚本●フランソワ・トリュフォー 製作●レ・フィルム・デュ・キャロス 
 原作●モーリス・ポンス 撮影●ジャン・マリゴ 音楽●モーリス・ル・ルノ
 出演●ジェラール・ブラン、ベルナデット・ラフォン 
■テニスのカップルの女の子に恋心を抱いた少年とその仲間達は冷やかし半分カップルの後をつけ…。
■この作品の翌年1959年に『大人は判ってくれない』で衝撃的なデビューし、カンヌ国際映画祭で受賞することになるトリュフォーが、残酷に、叙情的に描く幼年期の情景。ジャン・ヴィゴに影響されたスローモーションもある。トリュフォーが撮影しほったままにしていた『水の話』をゴダールが編集し完成させていたが、その後トリュフォー自身の短編第一作として初めて完成させた。ジュラール・ブランはこの後、クロード・シャブロルの『いとこ同士』でジャン・クロード・ブリアリと共演するが監督もするようになった。ベルナデット・ラフォンはトリュフォーの『私のように美しい娘』などでコメディエンヌとしての才能を発揮した。トリュフォーは1932年生まれ、47年にシネクラブを組織し、アンドレ・バザンと知り合って映画批評を書きはじめた。バザンは未成年のトリュフォーの保護者でもあった。54年に短編「ある訪問」を撮った後、56年ロッセリーニの助監督を務め57年配給会社の令嬢と結婚し製作会社レ・フィルム・デュ・キャロッス社を設立。その後この作品にかかった。

「男の子はいつもパトリックという名前なのね」
 Tous les garcons s'appellent Patrick (Charlotte et Veronique)1957/France/21min
 監督●ジャン=リュック・ゴダール 脚本●エリック・ロメール 製作●ピエール・ブロンベルジェ
 撮影●ミシェル・ラトゥーシェ 録音●ジャック・モーモン
 音楽●ピエール・モンシニー(ベートーベンなど) 編集●セシール・ドキュジス
 出演●ジャン=クロード・ブリアリ(パトリック)アンヌ・コレット(シャルロット)
ニコール・ベルジェ(ヴェロニク) 
■シャルロットとヴェロニクは共同生活をしている大学生である。それぞれパリの街頭で知り合った魅力的な男の子に声をかけられる。部屋に帰った二人はその新しいボーイフレンドの自慢を始めるが名前は同じパトリックであった。似ているようで違うこの「二人」のパトリックはしかし…。
■「シャルロットとヴェロニク」とも呼ばれるロメールの喜劇をゴダールが映画化。勘違いより生じた喜劇的シチュエーションを描く。『シャルロットと彼女のジュール』に続く初期のゴダールのフクション短編。ロメールが脚本を書き、ロメールの初期のシリーズの番外編でもある。製作はサイレント時代のジャン・ルノワール作品の制作から始まり、ヌーヴェルヴァーグの多くの監督たちにデビューするチャンスを与えたフランス最大のプロデューサーの一人であるピエール・ブロンベルジェである。ゴダールは1930年生まれで52年から「カイエ・デュ・シネマ」で批評家として活躍し 56年にはドキュメンタリーの短編『コンクリート作戦』を撮っていたが一方でロメールが16mmで撮っっていた短編に『紹介、またはシャルロットと彼女のステーキ』に主演している。

「獅子座」 Le signe du Lion 1959/France/100min
 製作●AJYM(クロード・シャブロル) 監督・脚本●エリック・ロメール 台詞●ポール・ジェゴフ 撮影●ニコラ・エーエ カメラ●ピエール・ロム オペレーター●アラン・ルヴァン
 音楽●ルイ・サゲール 演奏●ジュラール・ジャリ 録音●ジャン・ラヴィシエール 
 監督補●ジャン=シャルル・ラグノー 製作主任●ジャン・コテ 製作代表●ロラン・ノナン
 編集●アンヌ=マリー・コトレ 編集補●モニック・ゲラール、モニック・テセール
 出演●ジェス・ハーン(ピエール・ヴェセルリン)、
ヴァン・ドゥーテ(新聞記者ジャン=フランソワ)、ジャン・ル・プーラン(乞食)、ポール・ビシリア(ウィリー)、
ジル・オリヴィエ(キャティ)、ジルベール・エダール(ミシャル・カロン)、クリスティアン・アレール(フィリップ)、
ポール・クロシェ(フレッド)、ソフィー・ペロー(クリス)、ステファーヌ・オードラン(ホテルの女主人)、
マルカ・リボフスカ(子供の母)、マーシャ・メリル(パリ祭のブロンド娘)、フランソワーズ・プレヴォスト(エレーヌ)、
ジャン=リュック・ゴダール(パーティの音楽狂)、マリー・ディボア(カフェの女)
■作曲家を名乗って遊び暮らすピエールのもとに大金持ちの叔母が死んだという電報が届く。遺産で大金持ちだ思い上ったピエール友達を呼び、借金して派手なパーティを開催。ところがその後相続話はおじゃん! 40歳の誕生日を目前に無一文に。パリはバカンスで友だちはいなくなり、生活費にも困り、いよいよピエールはホームレスの仲間入り…。
■エリック・ロメールが39歳の時にカイエ・デュ・シネマ誌の編集をしながら手掛けた35mm長編処女作。公開は63年以後になったがゴダールの『勝手にしゃがれ』トリュフォーの『大人は判ってくれない』シャブロルの第二作『いとこ同志』リヴェットの『パリはわれらのもの』と並ぶヌーヴェルヴァーグ「カイエ派」の長篇デビュー作である。アイディアは”穏やかで、無頓着で、一見横暴なところがある”この作品の台詞を担当したポール・ジェゴフ本人をロメールが見たときの印象であり、叔母の遺産で映画作りを始めたクロード・シャブロルの逸話がミックスされたものだと言われるが、主人公がパリの浮浪者になるあたりはルノワールの『素晴らしき放浪者』のヌーヴェルヴァーグ・ヴァージョンとも言えるだろう。
■エリック・ロメール(本名ジャン=マリー・モーリス・シェレール)は1920年ロレーヌ地方のナンシー生まれ。大学で文学を専攻し。その後パリのリセで教師をする傍ら映画評論を執筆。1950年「シネクラブ・デュ・カルチェ・ラタン」の機関誌『ラ・ガゼット・デュ・シネマ』を編集発行していた。そこにはジャック・リヴェット、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらが執筆参加していたが、半年で廃刊、アンドレ・バザンらのシネクラブ「オブジェクティフ49」による「カイエ・デュ・シネマ」創刊に合流し寄稿する。一方で1950年より16mmで短編映画を製作し『極悪人の日記』(50)、『紹介、またはシャルロットとステーキ』(51)、『模範的な少女たち』(52)、『ベレニス』(54)、『クロイツェル・ソナタ』(56)などはゴダール、リヴェットらの若い仲間が協力して製作された。そして57年から63年まで「カイエ・デュ・シネマ」の編集長を務めた。
その後62年代にバルベ・シュローデル(現監督のバーベット・シュローダー)と製作会社「レ・フィルム・デュ・ローザンジュ」を設立「六つの教訓話」シリーズとして再び16mm短編で監督を再開し67年『コレクションする女』以後はコンスタントに作品を製作。 最新作は2004年の『三重スパイ』など現在87才フランス最年長の重鎮となった。
■製作のシャブロルは1930年生まれ。53年から「カイエ・デュ・シネマ」に寄稿するが一方でミステリ小説を書き、20世紀フォックスのパリ事務所で働いていた。56年に妻の祖母の巨額の遺産を相続し、この潤沢な資金で製作会社AJYMフィルムを設立、リヴェットの短編『王手飛車取り』を製作、1957年、エリック・ロメールとの共著「ヒッチコック」が出版しつづいて自らの監督デビュー作『美しきセルジュ』を製作(1959年1月10日公開、ジャン・ヴィゴ賞受賞)。1959年3月11日公開の監督第二作『いとこ同志』(第9回ベルリン国際映画祭金熊賞受賞)が興行的にも成功をおさめ、この収入でロメールの処女長編『獅子座』の製作した、『獅子座』は1959年夏のパリで撮影された。1960年、トリュフォーの会社レ・フィルム・デュ・キャロッスとシャブロルのAJYMフィルムとの共同製作で、リヴェットの処女長編『パリはわれらのもの』を製作・公開。

《ヌーヴェルヴァーグ左岸派》
■ヌーヴェル・ヴァーグは「カイエ・デュ・シネマ」を中心にした所謂カイエ派(カイエは右岸にあった)とセーヌ川の左側に集中していたためにそう呼ばれることになったセーヌ左岸派に別れていた。ゴダール、トリュフォー、シャブロル、リヴェットそして彼等より少し年長のロメールはカイエ派というわけだが、彼等はアンリ・ラングロワがシネマテークで日々上映する映画を見続け、批評家アンドレ・バザンを中心に作家主義を確立した。 一方、クリス・マルケル、アラン・レネ、そしてアニュエス・ヴァルダら「友人集団」はセーヌ左岸派はジャン・ルーシュとマルケルらのシネマ=ヴェリテ(映画=真実)運動を、そしてレネはヌーヴォー・ロマンの作家アラン=ロブ・グリエと共に『去年マリエンバートで』を、同じくロブ=グリエの『二四時間の情事』をマルグリット・デュラスの脚本で映画化するなど多彩な展開をしたのだった。マルケルはベトナム戦争が始まるとレネ、ヴァルダ、そしてゴダール、ヨリス・イヴェンス、ウィリアム・クライン、クロード・ルルーシュらに声をかけ、オムニバス映画『ベトナムから遠く離れて』'67などの音頭取りもした。

「ラ・ジュテ」La Jettee 1962/France/29min
 監督・脚本●クリス・マルケル 製作●アナトール・ドーマン 音楽●トレヴァ・ダンカン
 美術●ジャン・ピエール・シュドル 編集●ジャン・ラウェル ナレーター●ジャン・ネグローニ
 出演●エレーヌ・シャトラン(女)、ダヴォス・ハニッヒ(男)、 ジャック・ルドゥー、
ジャック・ブランシュ 、ピエール・ジョフロワ 、エティエンヌ・ベッケル 、
フィルベール・フォン・リフシッツ 、リジア・ボロフチク、ジャンヌ・クライン、
ウィリアム・クライン、ジェルマーノ・ファチェッティ、
■第三次世界大戦の勃発によって崩壊したパリ、しかし地下にすむ人々の間ではある実験が行なわれていた。実験台に選ばれた男は過去から未来までその意識を飛ばす。愛と時間をテーマに、スナップ・ショットのみによって構成された。ワンショットだけ女の瞼が動くことでも知られる。製作当時はシネマ=ヴェリテ派らしい写真をレネら左岸派らしい美術映画的な部分を合わせもった作品として知られたが、SF映画史にもその名を残している。1963年に、トリエステSF国際映画祭グランプリ、そして、ジャン・ヴィゴ賞を受賞した。そして後1995年にテリー・ギリアムが『12モンキーズ』としてリメイクした。
■クリス・マルケルは1921生まれ。作家として小説、エッセイを執筆する一方、ジャーナリスト、写真家、旅行家としても活動。52年、当時、短篇映画作家として注目を浴びていたアラン・レネと知り合い『彫像もまた死す』の台詞を書き、共同監督もつとめた。その後、世界各地に飛び、ドキュメンタリーを製作。62年の長編『美しき五月』は、アルジェリア戦争終結後のパリのあらゆる階層の市民にインタビューした作品で、軽量カメラによる長回しと同時録音という手法とともに新鮮な映像感覚が高い評価を受け、マルケルは<シネマ・ヴェリテ>派の代表監督と目されるようになった。同年の『ラ・ジュテ』。67年“南ヴェトナム民族解放戦線への連帯”を表明し、ゴダール、アラン・レネなどに呼びかけ、オムニバス映画『ベトナムから遠く離れて』を製作。さらに68年5月の革命の熱気の中で学生、労働者との結びつきを深め、グループ<スロン>を結成。ここでロシアの忘れられた映画作家アレクサンドル・メドヴェトキンの『幸福』を上映したことが、後のメドヴェトキンの再評価への流れを生み出していった。マルケルは'68年5月革命時に「メドヴェトキン集団」をゴダールの「ジガ・ヴェルトフ集団」に対抗するように作ったのである。『アレクサンドルの墓』は映画作家アレクサンドル・メドヴェトキンをソビエトの崩壊を背景に追跡した久々のマルケル近年の傑作であった。日本に取材した82年の『サン・ソレイユ』『AK-ドキュメント黒沢明』など映像による文化論的作品を発表した後、近年は、CD-ROMなどマルチメディアにも興味を示し、内省的な映像を探求し続けている。95年には久々のSF『レヴェル5』そして99年にはタルコフスキーについてのドキュメンタリー『アンドレイ・アルセニエヴィッチの一日』がある。

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参考上映【ヌーヴェルヴァーグの原点】
「イタリア旅行」Viaggio in Italia 1953/Italy/75min (english version)  
 スヴェヴァ・フィルム=ジュニア・フィルム=イタリフィルム=S.G.C.=マリアーヌ・フランシネック
 監督●ロベルト・ロッセリーニ 脚本●ロベルト・ロッセリーニ、ヴィタリアーノ・ブランカティ
 撮影●エンツォ・セラフィン 音楽●レンツォ・ロッセリーニ 美術●ピエロ・フィリポーネ
 主演●イングリッド・バーグマン(カテリーナ・ジョイス)、ジョージ・サンダース(アレックス・ジョイス)
ポール・ミュラー(ポール・デュポン)、
■バーグマンとロッセリーニのコンビ第1作は『ストロンボリ』であった。(すでに『神の道化師フランチェスコ』にも出演していたが)『ストロンボリ』は夫婦ものでイタリア人漁師と結婚したアメリカ女の物語である。以後『ヨーロッパ1951』'51をへて短編オムニバスの『われら女性-第3話-』の後が本作『イタリア旅行』である。こうしてロッセリーニ=バーグマン組は『火刑台のジャンヌ』'54、そして『不安』'54まで6本。その後バーグマンは結局離婚しイギリスからハリウッドに復帰し、ロッセリーニはインドにわたって『インディア』'58を撮ることになった。ロッセリーニ=バーグマンの残した娘がイザベラ・ロッセリーニであり、イザベラは80年代にデヴィッド・リンチの『ブルー・ベルベット』でスターとなりその後一時はイタリア系アメリカ人のマーティン・スコセッシと結婚していたことも知られている。

《ロベルト・ロッセリーニと新しい映画》
■ロベルト・ロッセリーニ(1906-1977)は1945年敗戦国イタリアの瓦礫の中にカメラを持ち込んで『無防備都市』や『戦火のかなたに』を撮った。これらの作品はネオ・レアレスモ(イタリアン・リアリズム)として世界の映画に新しい流れを生みだしたのである。その後のロッセリーニは『ドイツ零年』'48や『神の道化師フランチェスコ』'49を撮るが、あまり表だった評価をされなかった。一方ネオ・レアレスモのヴィットリオ・デ・シーカと脚本家チェザーレ・ザバッティーニは『靴みがき』『自転車泥棒』以降、庶民的なイタリア喜劇に方向転換し注目されていた。そして50年代にはすでにフェリーニやヴィスコンティ、アントニオーニらのネオ・レアレスモ以降のイタリア映画の監督たちが誕生しつつあった。ロッセリーニの話題はアメリカの大女優イングリット・バーグマンとの関係においてしかなかった。
■偶然『無防備都市』と『戦火のかなた』を見たハリウッドの大女優イングリット・バーグマンがロッセリーニに宛てた手紙は「もし私が必要とあらばいつでも呼んでください」という内容であったと言われている。そしてハリウッドの大スター・バーグマンはロッセリーニに呼び寄せられハリウッドからローマへと逃避する。
ロッセリーニ自身は『ドイツ零年』で戦争三部作を終えており、その後、現在では傑作であることの疑いはないがネオレアリスタの監督としては批判されることになった『神の道化師フランチェスコ』'49を撮り終えていた。
そしてバーグマン主演作『ストロンボリ』'49にとりかかった。二人は結婚し以後バーグマンは離婚するまでロッセリーニの女優となったのだ。
■50年代以降のロッセリーニは評価も興行も芳しくなく、ただ、フランスのアンドレ・バザンを中心にした「カイエ」派が高い評価をし擁護していた。こうしてトリュフォーやゴダール、リヴェットらのロッセリーニ熱は『イタリア旅行』で絶頂に達した。リヴェット曰く「『イタリア旅行』の出現で、すべての映画は10年古くなってしまった」。ゴダールはイタリアには「イタリア映画」と「ロッセリーニの映画」が存在するとまで言い切ったし、トリュフォーは失意のロッセリーニを応援するためにも助監督として参加していた。ゴダールは1962年のオムニバス『ロゴパグ』でロッセリーニと共作し、同年自作の『カラビニエ』でロッセリーニと共同で脚本を書きあげることになる。こうしてロッセリーニは70年代まで映画作家としての貴重なキャリアを積むことになった。

「リアリズム映画とは、それ自体で、コーラス的なものである。私がとりわけ、このコーラス的なものに向かいながら(私の活動を)
 はじめたことは疑いない。私をそこに押しやったのは戦争だった。戦争はそれ自体でコーラス的なものだ。このコーラス的なもの  からその後、私が登場人物の発見に、主人公のより深い研究に移行したとすれば、それは私の監督としての活動の必然的な発展で
 ある。」 ロベルト・ロッセリーニ

「素晴らしき放浪者」Boudu Sauve des Eaux 1932/France/84min
 製作●ソシエテ・シリウス(ミシェル・シモン) 制作●ミシェル・シモン 
 監督・脚本・脚色・台詞●ジャン・ルノワール 原作戯曲●ルネ・フォショワ
 脚色・台詞協力●アルベール・ヴァランタン 撮影●マルセル・リュシアン
 美術●ジャン・カスタニエ、ユーグ・ローラン  スクリプト●シュザンヌ・ド・トロワ
 録音●イゴール・B・カリノウスキ 録音スタジオ●トビス・クラングフィルム 
 音楽●ラファエル、ヨハン・シュトラウス「美しき青きドナウ」フルート●ジャン・ブールズ 
 オルフェオン●エドワール・デュムーラン 歌「リヴィエラ海岸で」作詞・作曲●レオ・ダニデルフ 
 助監督●ジャック・ベッケル、ジョルジュ・ダルヌー
 出演●ミシェル・シモン(ブーデュ)、シャルル・グランヴィル(エドワール・レスタンゴワ)、
マルセル・エニア(その妻エンマ)、セヴリーヌ・レルシンスカ(アンヌ・マリー)、
ジャン・ダステ(書生)、マックス・ダルバン(ゴダン)、ジャン・ジュレ(ヴィクール)、
ジャック・ベッケル(ベンチの詩人)
■「素晴らしき放浪者」は個性派俳優のミシェル・シモン自身が製作・主演した作品で、自殺得しかけた浮浪者がプチブルの家庭に入りこんで引っ掻き回すという一見猥雑で野蛮な映画であった。バザンによってまさにその「猥褻な映画」としてトーキー作品としてはその音楽の使い方も評価される。ヌーヴェルヴァーグの監督達によってパリの街頭で撮影された自由な映画として知られるようなったのは60年代になってからである。エリック・ロメールの「獅子座」はまさにこの映画の主人公ブーデュの変奏と言えるだろう。その後80年代にはハリウッドでもリメイクされるようになる。主演のシモンはこの後、ヴィゴの『アタラント号』でも似た役柄をこなした。書生役で『操行ゼロ』や『アタラント号』そして晩年トリュフォーの『緑色の部屋』にも出演するジャン・ダステも顔を出している。
■印象派の画家オーギュストの息子として生まれたジャン・ルノワールは20年代から映画界に入り、24年に父の遺産で製作会社を設立、モデルでもあった妻のカトリーヌ・エスランを主役に据え「チャールストン」や「マッチ売りの少女」などアヴァンギャルド映画風の作品を数本撮る。30年代にいわゆるフランス印象派、あるいは詩的リアリズムと呼ばれたジャック・フェデー、マルセル・カルネ、ジャン・ドラノワらとともにトーキー初期のフランス映画を代表するフランス的な作品。特にスターとなったジャン・ギャバンの主演の文芸作「どん底」「大いなる幻影」「獣人」で世界的に知られるようになるが、一方では同じ時期に「素晴らしき放浪者」「ボヴァリー夫人」「ピクニック」「ゲームの規則」「トニ」など当時は受け入れられなかったまさに自由奔放な作品も撮っていた。戦中はハリウッドにも渡って「南部の人」などを撮る。そして戦後はインドで「河」そしてイタリアで「黄金の馬車」次いでフランスに帰還して「フレンチカンカン」を撮る。カラーでいかにもフランス的な題材の「フレンチカンカン」ようやく映画界に復帰した。しかし 一方では、50-60年代にアンドレ・バザンらカイエ派によってルノワールの忘れられた作品、失われかけた作品、つまり「ピクニック」「ゲームの規則」「トニ」「黄金の馬車」ら製作当時は評価されることのなかった呪われた映画を高く再評価されるようになり、特にバザンの研究所が出版され、ヌーヴェルヴァーグの真の父親(シネマ・ドゥ・パパ)としてフランス映画最大の巨匠として知られるようになった。
《ヌーヴェルヴァーグの父、ジャン・ルノワール》
■アンリ・ラングロワのシネマテークに通いながら映画草創期から戦前戦後を通じて世界のあらゆる映画を見続ける若きヌーヴェルヴァーグの監督予備軍。彼らは批評家アンドレ・バザンを中心に50年代のフランスの映画批評を活性化しはじめる。創刊された「カイエ・ドゥ・シネマ」誌を中心にヒッチコックやホークスなどそれまでは、ただの娯楽映画の監督でしかなかったアメリカの連中を映画作家として再評価、特にアメリカ映画主義を唱えた。しかしフランスの巨匠たちには極めて冷たく(トリュフォーはフランス映画の墓堀人とまで言われた)、ジャック・フェデー、ジャン・ドラノワ、ルネ・クレール、ジュリアン・デヴィヴィエら20-30年代から活躍する監督たち(パパの映画たち)の中でヌーヴェルヴァーグが認めたのは唯一ジャン・ルノワールであった。ルノワールだけが彼らフランス映画の神様であった。こうしてヌーヴェルヴァーグは50年代のB級を含むアメリカ映画を父にルノワールの胎内からアンドレ・バザンという先生のもとに誕生したのである。ルノワールは晩年ハリウッドに住みそこで亡くなった。トリュフォーは年に2、3回ハリウッドのルノワールを訪ね最後まで堅い友情で結ばれていた。
(写真左上はゴダールとルノワール、右下はルノワールにインタビューするトリュフォー)

「ジャン・ルノワールは世界最大の映画作家だ─これは客観的な分析や研究による結論ではなく、わたしの─わたしもまた映画を作る人間としての─個人的な直感である。しかしながら、これはわたしだけの偏見ではなく、他の多くの映画作家がいだいている直感でもある。ところで、直感といえば、ジャン・ルノワールこそ、直感の映画作家ではなかろうか?」以下は『素晴らしき放浪者』とミシェル・シモンについて「ミシェル・シモンは、おそらく、最もジャン・ルノワール好みの俳優であった。「ミシェル・シモンの顔はギリシャ悲劇の仮面のようにすばらしい」とルノワールは言った。『牝犬』を見れば、まさにそのとおりであることが確認できるだろう。だが『素晴らしき放浪者』では、このミシェル・シモンが喜劇を演じ、しかもふつうならば単にちょっと滑稽でしかないものが、ひとたび彼によって演じられると、見事に、神話的な典型にまで高められるのである。『素晴らしき放浪者』には、およそ笑いを巻き起こすものについてのありとあらゆる形容詞があてはまる─滑稽、お道化、オトボケ、ひょうきん、ドタバタ、奇妙奇天烈。放浪の詩─それがこの映画だ。一つの階級にだけ安住することなく、もうひとつの階級に自由に移り住みたいというこころの昂揚、自然の、あるがままの、気儘な生き方をすること。この映画の主人公のブーデュという放浪者は、いうなればヒッピーという言葉が生まれる以前のヒッピーであったのだ。ルネ・フォーショワの原作がありきたりの卑属なヴォードヴィル芝居であったので、それだけいっそう、この映画のできばえにはおどろくべきものがある。」
フランソワ・トリュフォー
「アタラント号」L'Atalante 1934/France/89min
 製作●J・L・ヌーネズ/ゴーモン 監督●ジャン・ヴィゴ 撮影●ボリス・カウフマン
音楽●モーリス・ジョベール 撮影助手●ルイ・ベルジェ、ジャン・ポール・オルフェン
 原案●ジャン・ギネー 脚本・台詞●ジャン・ヴィゴ、アルベール・レイラ
 唄・作詞●シャルル・ゴールドブラット 美術●フランス・ジュールダン
 編集●ルイ・シャヴァンス
 出演●ジャン・ダステ(ジャン)、ディタ・パルロ(ジュリエット)、ミシェル・シモン(ジュール親爺) ルイ・ルフェーブル(少年水夫)、ルネ・ブレッシュ、プレヴェール兄弟
■ジャン・ヴィゴの4作目で長編第1作にして遺作でもある。船を舞台にした映画の中でも『キートンの蒸気船』やジョン・フォードの『周遊する蒸気船』とともに映画史上の最高傑作の一本。ジャン・ルノワールの処女作『水の娘』の影響も強く見られる。この映画史上の傑作は日本ではながらく未公開のままであったがシネクラブでの上映は時々行われていた。
■主演は『新学期・操行ゼロ』で生徒たちに愛されていたあのユゲ先生役のジャン・ダステ。そしてジャン・ルノワールの『素晴らしき放浪者』でのブーデュ役の延長にあるようなジュールを演じるミシェル・シモンに加えルノワールの『大いなる幻影』でジャン・ギャバンを助けるドイツの女を演じるディタ・パルロ。加えて『新学期・操行ゼロ』のコーサを演じたルイ・ルフェーブルが少年水夫として登場するのは見逃せない。
■製作当時は配給会社ゴーモンの要請で当時ヒットしていたC・A・Bixioのシャンソン「LE CHALAND QUI PASSE」を挿入し同タイトルで1934年4月24日に初上映、同年9月に公開されたが、その後忘れられ、「呪われた映画」の一本となっていた。
しかし1990年にカットされていた合計12分のシーンを加え、ヴィゴの意思に近い形に修復されカンヌ映画祭で上映された。
■本作撮影中すでにヴィゴの肺結核はかなり悪化いた。そして本作の撮影を終え1934年の10月5日に「Lourdes」「Lignes de la Main」「Chauvinisme」「Au Caf(カフェにて)」という4本のオリジナル脚本と他の脚本家によって書かれた8本の企画「L'Evad du Bagne」「L'Execution de Marin縦he 」「Le Timide Qui Prend Feu」「Matine(昼興行)」「La D仔sse」「L'Inventeur」「M.Evariste」「Si On Paritait」を残して亡くなった。

《呪われた天才ジャン・ヴィゴ発見!》
 「1946年のある土曜日の午後、アンドレ・バザンとラ・ルヴェ・デュ・シネマ誌の同人によって運営されていたシネクラブ「ラ・シャンブル・ノワール」が「ル・セーブル・パテ座」で催した上映会で、わたしは、ジャン・ヴィゴの2本の劇映画 ということは実質的に彼の全作品を一挙に発見する幸福を得た。館内に入るまえはジャン・ヴィゴという名前すら知らなかったわたしだが、全体の上映時間が200分にも満たないこの2本の映画にたちまち心を奪われ、すっかり惚れ込んでしまったのだった。
 最初は『新学期・操行ゼロ』のほうに共感した。たぶん、当時のわたし自身がこの映画に登場する学童たちよりもほんの三、四歳うえという年齢だったから、すっかり感情移入してしまったのだろうと思う。しかし、二本の映画を何度も見直しているうちに、わたしは『アタラント号』のほうが決定的に好きになり、いまや、わたしにとっては、たとえば「あなたにとって世界の映画のベストテンは?」といったたぐいの質問に答えるような場合に、この一本を忘れることは絶対に不可能になったのである。ある意味では、『新学期・操行ゼロ』のほうが『アタラント号』よりも稀有な作品ではある。文学にせよ、映画にせよ、子供を描いた真の傑作は五本の指で数えられるくらいしかないからだ。 子供時代をテーマにした作品はわたしたちの心を二重にゆさぶる。芸術作品としての感動に加えて、さらに自分の思い出と重なり合ったノスタルジックで親密な感動がこみ上げてくるからである。子供を題材にした映画は、その意味で、きまって過去のある一時期の思い出の追体験なのだ。半ズボンの時代に、小学校に、黒板に、夏休みに、人生の旅立ちの時代に、わたしたちの心を誘わずにはおかぬものだからである。「処女作」といえばまず大部分がそうしたものだが、『新学期・操行ゼロ』にも、実験的な側面が目立つーシナリオにはありとあらゆるアイデアがぎっしりとつめこまれているし、撮影にも、「よし、ここにはひとつ、どんなことになるか、ものはためしだ」といった精神がみちあふれている作品なのだ。たとえば、学園祭の特別観覧招待席は同時に縁日の玉投げスタンドになっていて、生きた人間たちのなかにマネキン人形がいくつか入り交じっていると言ったぐあいだ。いわば当時のージャン・ヴィゴにとっては同時代の映画作家であるールネ・クレールのようなアイデアだが、ともかくちょっと古くさくはあるだろう。しかし、この種の理屈っぽいアイデアを1とすれば、あとの9はことごとく目をみはらせる斬新さなのだ。それは、滑稽かと思えば詩的だし、詩的な昂揚に走るかと思えば胸をつく悲痛さにみちているのである。そして、そのどれをとっても視覚的な効果は抜群だし、まさに鮮烈なイメージであり、かつてないほどのなまなましい迫力にささえられている。(以下略)」 フランソワ・トリュフォー

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