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不定期連載小説。コミュの「Sign to West」 ミガキアキラ

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主要登場キャラ
 タッピ
  主人公。物語開始時、中学三年生。
 ハル
  ヒロイン。物語開始時、22歳くらい。
 サイントゥウエスト
  競走馬。

競馬モノです。
もちろん競馬を知らなくても問題ありません。

コメント(34)

   prologue

 それは、オレの出会いと別れの物語だ。

 美しい記憶は色あせない。
 むしろ時間が経つにつれ、いっそう輝きを増していく。
 オレの中のそれは、今でも心の真ん中で光を放ち続け、まるで現在のオレのほうが影に入ってしまってるようだ。
 現状に不満があるわけじゃない。
 愛する家族。妻と二人の子供。
 オレみたいなダメ人間が、こんなごくありふれた家庭を築けたことは、ほとんど奇跡とさえ言える。
 幸せといえば幸せなんだろう。
 だけどさ、たまには感傷に浸ったっていいだろう?
 今のオレは、そういう気分なんだ。

 きっかけと呼べるものがあるとしたら、とある日のうちのバカ息子との会話だった。
 最近のヤツは、どうやら競馬に興味を持ち出したらしい。気持ちはよくわかった。オレが最初に競馬に手を出したのも、だいたいこいつと同じくらいだったから。一般的にどうなのかは知らないが、そう珍しいことでもないだろう。
 ……バカ息子との間に競馬の話が成立するようになったときから、予感はしていたのだ。
 会話の中で、一頭の馬の名前が口をついた。
 サイントゥウエスト。
 あまりにもあっさり自分の口から流れ出たその名前に、オレはひどく驚いた。
 それはある種のタブーだったはずで、あの日から今までの長い時間、オレの口から決して出ることのない言葉だったのだ。
 時間というのは偉大だ。
 オレは、アイツの名前を簡単に口に出来るくらい大人になってしまったんだ。
「どうかした?」
 夜になって、奥さんが声をかけてきた。自分でも気付かないうちに、どこかおかしな様子が出てしまっていたのだろう。
 オレは、自分で言うのもなんだが恐妻家なので、問い詰められたらぺらぺらしゃべってしまいかねない。なんでもないよ、と言って風呂に逃げ込んだ。
 オレは今も昔も、ただの競馬ファンだ。だからアイツを見るのは競馬場かテレビの前だけで、実際に会ったことさえない。
 それでもアイツのことは忘れられないし、過去のことだからと簡単に話すのも難しい。
 頭っからぬるいシャワーを浴びながら、オレはアイツの姿を思い描いた。

 それは、オレの出会いと別れの物語だ。
 そして、オレの初恋の物語でもある。
 サイントゥウエストに関する記憶には、いつでも彼女の姿があった。

 最初の記憶。
 そう――あれは十三年前の初春。

 オレは、ハルに出会った。
   Memory 1 出会い

「やい、サイントゥウエストはどう思う?」
「まあなあ、ちっと狙いにくいわな」
「前走は強かったけどな」
「つっても新馬戦じゃねえかよ。当てになるかって」
「だからって、軽々切れるかってーと、そうでもないだろ」
「まあなあ。連下候補ってとこか」
「いや、買うなら単勝さ。あっさり勝つか、ボロ負けか」
「とりあえず単勝押さえといて、軸はライカウインドってとこか」
「そりゃ、いくらなんでも無難すぎねーか?」
「坊主、お前はどう思う?」
 床に座り込んでいたオレは、声をかけられて顔を上げた。
 周囲は喧騒に満ちている。週末の場外馬券売り場。いつだって馬券好きで一杯の、鉄火場。
 声をかけてきたのは、五十がらみの頭の薄いおじさんだった。作業ズボンみたいなボトムスにMA-1のジャケットを着ていて、なぜだか中には腹巻を巻いている。だからオレは、この人をハラマキさんと呼んでいる。顔見知りではあるが本当の名前は知らない。
「……サイントゥウエスト?」
 オレはぼーっとしてたので、半分くらいしか話が聞こえてなかった。
「そうだよ。坊主はどう見てる?」
「言っとくけど、今日の?メインレース?は弥生賞じゃないよ」
「わかってるって。雑談だよ。外れたって文句言わねえよ」
「そうだね。たぶん来ないんじゃないかな。そういう感じがする」
「?勘?か?」
 にやにや笑いながら言うハラマキさん。
「?勘?だよ」
 からかうような物言いにちょっとムカついたが、この人はいつもこういう感じだ。
 オレの周囲には、ハラマキさん以外にも何人かの馬券オヤジどもがいる。みんな等しく社会からあぶれてしまったような姿形をしていて、混じっているとこっちまで酒臭くなってしまいそうだ。
 一番付き合いが長いのはハラマキさんだが、他のオヤジ連中とも面識はあった。みんなオレの大事なお客さんたちだ。
 週末になると、オレは決まって場外馬券売り場に赴いた。競馬場もいいのだけど、熱心な警備員に当たると補導されてしまいかねない。だから最近はもっぱらこっちだった。ここは気楽でいい。子供がいることなんて誰も気にしやしないし、何かあったとしても顔なじみがいるので、かばってもらうことができる。
 馬券売り場に設置されたモニターには、第九レースの馬場入りの様子が映し出されていた。
 今日のメインレースは弥生賞である。三歳限定のG?レース。三着までに入ればG?皐月賞への優先出走権を手に出来るトライアルレースだ。
 しかし、オレにとっての?メインレース?は弥生賞ではなかった。その二つ前の、今まさにスタートしようとしている第九レース。今日、一番自信のあるレースだ。
「本当に一番人気が来ないんだろうな」
 ハラマキさんの隣にいる、比較的若そうな眼鏡のおじさんが話しかけてきた。年季の入ってそうなスーツにきっちりとネクタイを締め、頭は七三に分けている。一見サラリーマンのようだが、どこか言い知れない疲れが染み付いているようで、シャツの襟元は汚れているし眼鏡のレンズは指紋だらけだ。
 サラリーマンを見ていて、ああ、と直感した。
 どうやらこの人は、勤めていた会社をクビになったようだ。
 毎朝出勤する振りをして家を出ているが、勤めるべき会社はない。家族にはまだ言い出せずにいて、こんなところで時間を潰す。そんな中、たまたまオレのうわさを聞きつけて……ってとこか。
 なんとなく、そんなイメージが頭に浮かんだ。
 とはいえ特に興味はない。オレは普通に答える。
「来ないよ」
「……本当に本当だろうな」
「信じられないなら、べつに信じなくてもいいけど」
「じ、自由になる金を全部突っ込んだんだ。も、もし外れたら……」
 かなり切羽詰ってるようだ。怖ぇー。人でも殺しそうな顔してるぞ、こいつ。
「おいおい、落ち着けよ」
 ハラマキさんが、馴れ馴れしくサラリーマンの肩を抱いた。
「あ、ああ」
「大丈夫だって。坊主を信用しろよ。こいつが自信あるって言ったレースは百発百中なんだ。俺だってそれでたんまり儲けさせてもらってんだからよ」
「で、でも、結局のところはただの?勘?なんでしょう?」
「こいつの?勘?は天下一品なんだ。つーかお前さん、後戻りできないんだろ? おどおどしたって始まらねえよ。もっとどしっと構えてろ」
「あ、ああ」
 どうでもいい。心の底からどうでもいい。
 こんな一目でいろいろわかってしまう人間に、オレは塵ほどの興味も抱けない。
 ただ、使える金を全部突っ込んだってのはありがたかった。賭ける額が大きくなれば、それだけバックも大きくなるからだ。
 ほどなく第九レースがスタートした。
 一番人気は馬群に沈んだ。
 勝ったのはブービー人気。
 オレが指定したうちの一頭。
 ようするに、大当たりってやつだ。
 目の前で炸裂した単勝万馬券に、疲れきってるサラリーマンは狂喜乱舞した。
 喜びに水をさすつもりはなかったけれど、取りっぱぐれたらかなわない。オレは自分の取り分をきっちり回収し、地べたにひれ伏して礼を言うサラリーマンを適当にあしらって、その場を離れることにした。
「おい、帰んのか?」
 ハラマキさんが声をかけてきた。
「トイレ。弥生賞は見てくよ」
「サンキューな。これで今日も上手い酒を呑めるってもんだぜ」
「来週もよろしく」
「また儲けさせてくれよ? エスパーくん」
 オレは背中を向けたまま、適当に手を振った。

   ☆ ☆ ☆
 子供のころから、異常に?勘?が良かった。
 といっても、その度合いを人に説明するのは難しい。しょせん感覚的なものだし、わかりやすい基準もないのだし。
 それでもあえて説明するとしたら、オレは?何か?を前にしたとき、その?何か?のことがなんとなくわかるのだ。選択肢ならどちらを選んだらいいかわかるし、さいころなら次にどの目が出るか大体わかるし、人間なら何を考えているかぼんやりとわかる。
 小五のとき、三十前の美人でも不細工でもない女教師が担任になった。一目見て、彼女がオレに強い興味を抱いていることがわかった。彼女はなかなか欲望に忠実で、ちょっとそれらしいことを言ったらすぐに食いついてきた。そしてその先生の家に初めて泊まったとき、彼女に言われた。
「どうして君は、私のしてほしいことが全部わかるの?」
 どうやら気に入られたようだったので、オレは小学校を卒業するまで、その先生の家に入り浸りになった。
 オレの?勘?が最も役立つのは、やっぱりギャンブルだった。
 一番効率が良いのはパチンコで、件の女教師を連れて、オレはパチンコやスロットで荒稼ぎした。台を見れば、出そうかどうかがわかるのだ。一日というスパンで見れば、マイナスになる日はなかった。
 しかし失うものもあって、それは友人や恋人といった人間関係だった。
 オレは?勘?が良すぎるため、相手が何を考えているかなんとなくわかってしまう。たとえば嘘なんてすぐに見破れるし、逆に相手が騙されそうな嘘をつくことも出来た。オレは誰からも嫌われないように振舞えたし、相手の気持ちを思った通りに誘導することができた。
 そうした環境が、かえってオレを蝕んだわけだ。
 オレは自分以外の人間が、みんなバカに見えた。ゲームのNPCか、ロボットみたいに思えた。そんなやつらに、心を開くことなんて出来るわけがない。
 そんなオレが惹きつけられるのは、予想を超えた行動や出来事ってやつだった。
 たとえばオレには一人だけ親友がいるのだが、そいつの場合、オレの予測とは正反対のことをしたりする。なんとなくこうするんじゃないかな、という?勘?を、見事に外しやがるのだ。
 オレの?勘?は万能ではない。対象によっては上手く働かないときがある。
 一緒にいて面白くて、オレはすぐにそいつと仲良くなった。
 ギャンブルで言えば、やっぱり競馬だった。
 競馬は、同じ公営ギャンブルの競輪や競艇と比べ、異常なくらいファクターが多い。馬の状態、血統、ローテーション。騎手の腕、作戦、精神状態。天気。風。馬場差。坂。コース状態。コース形態。様々な相性。距離。ペース。脚質。頭数。輸送。相手関係……。これくらいは簡単に挙がる。
 そのせいか、ときとしてオレの?勘?は見事に外れた。それが、とても愉快だった。
 オレは競馬に惹かれた。パチンコに比べて稼ぎは悪かったけれど、儲かるかどうかは二の次だった。
 オレは毎週末、競馬を見る。
 そこではいつも、予想外の結末が待っている。

   ☆ ☆ ☆
 用を足し、オレはトイレの鏡の前に立った。
 なんだか生気のない、女みたいな顔が映っている。白いニットキャップと、耳の後ろにのぞく赤い髪。オレは長期休みのたびに髪を染める。こんなところに出入りしているので、軽い変装という意味もあるのだが、まあ趣味みたいなもんだ。
「……若さがねーなー」
 オレはぼんやりつぶやいた。
 急に頭が締め付けられるような感覚がして、俺は帽子を取って首を振った。鈍い赤がさんばらに散り、少し楽になった気がした。
 オレはため息をつきながら、トイレを出た。
 どこで弥生賞を見ようかと思った。元のところに戻ってもいいが、すでに集金済みなので、用はない。ハラマキさんは悪い人ではないが、少々鬱陶しいのだ。たまには一人でゆっくりとレースを見たい気もする。
 そうしてあてどなく歩いていると、背後から高い声に呼び止められた。
「ちょっと君!」
 誰だ?
 振り返ると、女がいた。
 ……誰だ?
「良かった。見失ったかと思った」
 背の高い女だった。オレは成長途上の166cmだけど、女はそれより高そうだ。全体的に華奢で、そのせいで余計ひょろひょろして見える。
 二十歳くらいだろうか。セーターにジーンズの地味な格好をしていて、大きなバッグをたすき掛けにしている。旅行者みたいなスタイルだ。そういえば、イントネーションがちょっと変な気もする。
 十人いれば八人くらいは美人と言いそうなルックスだったけど、つり気味の目といい、起伏の乏しいスタイルといい、オレからすれば魅力を感じられなかった。ようするにタイプじゃないということだ。
「……なんか用?」
「うん。ちょっとね。あの……」
 ナンパだろうかと思った。
 オレはちょくちょくナンパされるので、知らない人から声をかけられることには慣れている。
 おとなしく次の言葉を待つ。しかし目の前の彼女はなかなか言葉を発さなかった。なんだか戸惑ってるような感じだ。
「え? あれ?」
「なんだよ」
「……えと、もしかして、男の子?」
「…………」
 オレは無意識に眉をひそめてしまった。
 まあ、これもよくあることだった。オレはしょっちゅう女と間違われる。特に今なんて、目の前のおねーさんと同じくらいまで髪を伸ばしている。具体的に言うと肩にかかるくらい。遠目から見れば間違えられるのも仕方ないかもしれない。
 オレは脱いでいたニットキャップをかぶりなおし、それから胸を張って言った。
「男だけど、なんか不都合が?」
「いや、ちゃうねん。その……ごめん」
「べつに。……で、なんか用ですか、おねーさん?」
「あ、うん……」
 目の前の彼女は、確かに好みのタイプじゃなかった。けれど、大阪弁と言うのはなかなかポイント高くないか?
 オレが聞きなれない方言にひそかに胸をときめかせていると、おねーさんは気を取り直すためか一つ咳払いをした。
「さっき、なんか男の人たちの中におるのを見てね、どういうことなんかなって。なんか変なことになってるんやったら、ちょっとどうにかしなあかんって……」
 なるほど、そういうことか。
「べつに変なことにはなってないよ。あのおっさんたちは知り合い。つか、お客さん」
「お客さん?」おねーさんは不思議そうな顔をした。
 ようやく状況を把握できてきた。ようするに、汚らしいオヤジ連中の中に一人女の子がいたので、心配になって声をかけてきたってことなのだろう。
 まあ勘違いだったわけだけど、なかなか良い心がけと言えるかもしれない。そのおかげで、こうして会話できてるわけだし。
「オレさ、予想屋やってんの」
 だからオレは、会話を移行した。彼女の興味を引こうと思ったのだ。
「予想屋? なにそれ」
「競馬だよ。競馬の予想するんだ。んで、当たった場合だけ利益の20%。一万儲かったら二千円、十万だったら二万円ってね。信頼あるからこそ成り立つんだけど、けっこういい商売だよ」
 オレは自分の特性を生かし、場外馬券売り場で地味に予想屋をやっていた。
 競馬は一日に十二レース行われる。いくら?勘?が働きにくいとはいえ、その中に一つ二つは結果を確信できるレースがある。
 それを売り物に、客を掴んでいるのだ。
 少人数を相手に細々とやっているからか、今のところ大したトラブルはなかった。オレの予想は、オレにとっては当たり前なのだが、良く当たる。それがかえって秘密性を高めてるらしい。みんな、美味しい話はなるべく自分だけのものにしたいようだ。
 べつに自分で馬券を買っても良かったのだけど、一応未成年は馬券を買ってはいけないことになっている。律儀に法律を守ることもないのだが、変なリスクを背負うより良い方法を選んだのだった。
「さっきのレース、見てた? 一人大口のお客さんがいてさ、押さえといたほうがいいって言っといた単勝に十万も突っ込んでやがんの。連は外してたけど、それでも一千万オーバー。だからオレの取り分は二百万ちょい。ほら」
 オレはジャケットの内ポケットから封筒をのぞかせた。中を見たおねーさんが目を丸くした。
「このあと暇? 遊びに行こうよ。おごるからさ」
 よほどびっくりしたのだろう。
 おねーさんはしばらく口をパクパクさせていたが、ようやくぽつりと言った。
「……あんた、どんな子供やねん」
「見た目ほど子供じゃないよ。いろいろとね。ほらほら、遊びに行こうよ」
 これから弥生賞だったけれど、もうどうでもよかった。今となっては、目の前のおねーさんのほうが優先だ。
 ほら、今にもこの女はうなずく。
 オレにはそれがわかる。
 それが――あれ?
「……末恐ろしいわ」
 おねーさんがつぶやく。
 オレはそのおねーさんの考えてることがわからなかった。
 おかしい。なぜだかまったく?勘?が働かないのだ。
「子供がそんなお金持っとったらあかんやん」
「……あ、うん」
 オレは呆然とつぶやく。
「ほら、返しに行こ」
 おねーさんは、唐突にそんなことを言った。
「は? なんで?」
「なんでって……、子供がこんなことしとったらあかんやろ」
「こんなことってなにさ」
「なにって……。こんなヤクザなこと」
 なるほど。言い得て妙かも。ヤクザはノミ屋だけど。
「でもさ」
「でももなんもないわ。そもそも子供のくせなんでこんなとこにおんのよ」
 ……子供子供って。
 オレは子供を連呼されて、なんかムカついてしまった。
「……そういうおねーさんだって、こんなとこにはそうとう似合ってない気がするけど?」
「うちは……関係ないやろ。ほっといて」
「言っとくけど、オレは法律に反するようなことはやってないよ。馬券だって買ってないしさ。予想して謝礼もらうのは、犯罪じゃないと思うけど」
「そういうこととちゃうやろ!」
 おねーさんが声を荒げた。なんだか怒っているようだった。
 オレはなぜ怒られているのかわからなかった。
 こういうときに働くのがオレの?勘?だったはずだ。どうすれば相手の怒りを静めることができるか、今までのオレならなんとなくわかってきたのだ。
 しかしなぜだか?勘?が働かない。
 だからオレは、ついムキになってしまう。
「じゃあ、どうしろってんだよ。この金はちゃんともらったもんだ。返せったって、向こうが受け取ってくれないよ。オレが持ってたらいけないってんなら、捨てりゃあいいのか? それとも警察に届けるか? 好きにすりゃいいじゃん。つーか、こんな金いらねーよ」
 オレは金の入った封筒を投げるように捨てた。
 おねーさんは怒った顔のままそれを拾い、ぎゅっと目を細めてオレをにらみつけた。
「……これは警察に届けます」
「持って帰れば? べつにいいよ、オレは」
 おねーさんはさらに目つきを鋭くして、がしっとオレの腕を掴んだ。
「な、なんだよ」
「立ち会うねん。うちが警察に届けるのちゃんと見とき」
「は? いいよべつに。めんどくさい」
「いいから来ぃや!」
 おねーさんがぐいぐいオレを引っ張る。引きずられるまま、オレは馬券売り場から連れ出されそうになる。
 その途中で、モニターが視界に入った。
「ちょ、ちょっと舞った。……おい無視すんなよ。頼むからちょっと待ってってば」
 おねーさんはようやく歩調を緩め、オレを振り返った。
「なによ?」
「おねーさんさ、なんでここにいたの?」
「は?」
「だって、競馬が好きそうに見えないし」
「……好きやったら悪いんか?」
「そうなの? じゃあせめて弥生賞だけでも見ていかない? ほら、もう始まるとこだよ」
 オレはモニターを指差した。画面の中では、今にも各馬のゲート入りが始まろうとするところだった。
「…………」
 おねーさんは答えないが、立ち止まったままだ。本当に競馬が好きなのかもしれない。
 変な感じだった。あったばかりの女に説教され、無理やり腕を引っ張って連れて行かれそうになり、さらに一緒に競馬を見ているのだ。なかなか素晴らしい想像の斜め上だ。
「……なに笑ってんのよ」
 おねーさんに言われて、オレは自分がニヤけているのに気づいた。
 なかなか面白い。オレは?勘?が良すぎるばかりに、逆に?勘?が働かないものに惹かれてしまう。予想外の事態に弱いのだ。今のこの状況こそが、まさにそれだ。
 そして――
 予想外のヤツは他にもいた。
「うあっ!?」
 おねーさんが声を上げた。
 同時に、場外馬券売り場全体が大きくどよめいた。
 モニターの向こう。
 G?弥生賞。
 レースが始まる直前に、一頭の馬が勝手にゲートから飛び出したのだ。
 その馬は、地上と数十センチしかないゲート扉の下の隙間から、にゅるっとところてんのように無理やり這い出た。とても馬なんて大きな動物のすることとは思えず、だから競馬場がどよめいたのだ。
 オレもまた我が目を疑った。こんなもんを見るのは生まれて初めてだし、そんなことが可能だとは夢にも思わなかった。
 まるで猫のような柔軟性を見せつけたその馬は、静止しようと駆け寄ってくる係員たちに抗うようにばたばたと暴れた。
 モニターの向こうの競馬場や、オレのいる場外からは、ところどころで笑い声が起こっていた。
 しかしオレは、その誰よりも良い笑顔をしていただろうと思う。
 予想し得ない事態。
 これ以上に予想外なことは、そうそうない。
 オレはいっぺんに、そいつに惚れてしまった。
 小柄な栗毛。
 ――サイントゥウエスト。
 一人でげらげら笑うオレを、隣のおねーさんが難しい顔で見つめていた。

   ☆ ☆ ☆
 新学期が始まった。
 オレは休みの間だけの赤い髪を黒に戻し、短く刈った。
 今日から中学三年だ。といっても、特に何が変わるというわけでもないけれど。
 時間の無駄としか思えない始業式。校長だか教頭だかの話がだらだら続く。
 オレは朝礼台のほうを見ていなかった。だからその女が台の上に上がったことに、声が聞こえるまで気付かなかった。
「ええと、今日からこの学校で先生をやることになった……」
 がばっと顔を上げた。
 聞き覚えのある声。
 間違えようもない。
 あの日と違った生真面目なスーツ姿。あまり似合ってないリムレスの可愛らしい眼鏡。
 ――あの女だ!
「……なんてこった」
 ヤバいと思った。
 あの女は、オレが場外馬券売り場でしていたことを知っている。
 しかも教師で、オレの通う学校に勤めることに……。
 お先真っ暗だった。これからのことを考えると、頭が痛かった。

 ――それが出会い。
 オレはハルに出会ったのだった。
   Memory 2 トライアル・ウィーク

 弥生賞が終わって、オレは一人で興奮していた。
 結果としてサイントゥウエストは負けたのだけど、その日一番目立ったのは、間違いなく彼だった。
 ゲートの下をくぐるという前代未聞のパフォーマンスをしてみせたあと、サイントゥウエストは再びゲートの中に入れられた。レースをしなければいけないのだから当然といえるのだが、ただ彼の内面を考えてみたとき、それはあまりに酷だったかもしれない。レースが始まり、サイントゥウエストはものの見事に出遅れた。
 五馬身ほどの出遅れは、致命的と言って言い過ぎではない。しかしサイントゥウエストは、猛然と追い上げた。追い上げて、追い上げて――力尽きた。
 第四コーナーで先頭集団に取り付いたサイントゥウエストだったが、失速。人気を裏切る、八着敗退。
 それでも。
 それでも彼の能力の一端は示されたのだし、何よりファンは彼に魅せられた。
 ――こんな馬は見たことない!
 その想いは、後にもっとはっきりとした形で証明されることになるのだけど、それはもう少し先の話。
「おねーさん、冷静だね。競馬好きなんじゃなかったの?」
 一人で興奮して喋りまくるオレとは対照的に、ハルは無表情だった。
「……好きっていうか、興味があるの。でもあんまりわからん。ただ見てるだけ」
「初心者なんだ。だったら、オレが教えてあげようか?」
「…………」
 オレたちはすでに場外馬券売り場の外に出ていて、すぐそこに桜木町の駅が見えた。
 無言のままハルはつかつかと歩いていき、二百万の入った封筒を無造作に白い箱に入れた。いわゆる『恵まれない子供たちに愛の手を』。
 額も知らずに、ありがとーございますー、とマヌケにのたまう人たちを尻目に、ハルはやっぱり無表情なまま歩き出す。
 オレの手はすでにハルから解放されていたのだけど、いそいそとその背を追った。
「ねぇ、警察に届けるんじゃなかったの?」
「……よう考えたら、なんて説明したらいいかわからん。それに一割とかもらわれへんし」
「ふうん。おねーさんてさ、もしかして、すげーいい人?」
「…………」
「ま、オレはいいけどさ。それより、もう帰っちゃうの? せっかくだから、ちょっと遊びにいかない?」
 ハルは足を止め、くるりと振り返った。
「うちの悪いくせやねん。ほっといたらええのに、つい口をはさんでまう」
「そうなんだ。やっぱりいい人なんじゃないの?」
「……もう、そういうのはやめとこって思っててんけど、やっぱり今日もや。やめといたらええのに、下手に声かけたりするから……こういうことになんねん」
「いいんじゃん、お節介。こうやってお知り合いになれたんだからさ」
「…………」
「もっとしゃべってよ。かわいいよ大阪弁。オレ、おね―さんの声、もっと聞きたいな」
 ハルは、オレを睨んだ。死ね、と言わんばかりだった。
「言っとくけどな……」
「なになに?」
「うちはあんたみたいな人間、大っ嫌いや」

  ☆ ☆ ☆
 ――大っ嫌いや。
 面と向かってそこまで言われたのは、生まれて初めてだった。キツいわりに、なんだか柔らかい感触のあるその響きが、どうも耳にこびりついて離れない。
 オレは窓枠に肘を着き、ぼけっと外を眺めている。オレのいるのは一般棟の校舎の二階、その廊下。中庭を挟んで向かいには特別棟の校舎があって、その一階には職員室がある。窓は開け放たれたままで、中の様子がよく見える。
 窓際の席をあてがわれた新米教師が、机に向かって何か書き物をしていた。
 オレがぼけっと眺めているのは、その新米教師にほかならない。
「ねぇ、タッピせんぱぁい。そんなにあの地味な人が気になるんですかぁ?」
 オレにべったりしなだれかかるようにして、るりが話しかけてきた。
「……べつに」
「そんなこと言って、ずっと見てるじゃないですかぁ」
「…………」
 五月に入っていた。そろそろダービーが気になりだす季節だ。
 あのおねーさんがこの学校にやってきて、すでに二ヶ月が過ぎようとしている。その間、オレたちは、なんというか、お互い膠着状態だった。オレは自分からあの女――ハルに声をかけようとは思わないし、向こうから話しかけてくることもない。
 通学路ですれ違っても無視。廊下ですれ違っても無視。
 それでもオレは、どうしても意識してしまってつい目をそらしてしまうのだが、ハルは違った。驚くべきことに、あの女はまったくこっちを気にしないのだ。
 ハルの受け持ちは、一年のいくつかのクラスだった。担当教科は数学。いずれにせよ、三年のオレとはさっぱり接点がない。
 とはいえ、だ。同じ学校にいるのだから、顔を合わすことはある。顔を合わせば、オレはあの日のことを思い出してしまうし、何を言われるかとどきどきしてしまう。
 しかしハルは、まったくオレを気にかけない。
 ……不気味だった。
 何を考えてやがるのか、さっぱりわからない。
 ハルは教師だ。生徒が馬券売り場なんかに出入りしていたら、注意するのが筋ってもんだろう。たとえ生徒だと知ったのが後のことだったとしても、いくらなんでも無視ってのはありえない。
 不気味だし、なんかムカつく。
 こっちばっかり意識して、バカにされてるみたいじゃないか。
「…………」
 ハルに対して、オレの?勘?は相変わらず働いてくれなかった。
 あの女は、オレにとってはイレギュラーな存在なのだ。
「そういえば、せんぱい。面白い話があるんですけど」
 るりがオレの腕を引っ張った。くりくりとした日常的に潤んでいる瞳が、なんか哀願してるみたいにこっちを見上げている。
 るりは一つ下の中二だった。去年の暮れごろ、なんか視線を感じるなと思ったら、ずっとこっちを見ているかわいい娘がいたので、オレのほうから声をかけた。そんなノリで、もう半年ほどの付き合いになる。
 清純派とかふざけた肩書きのつくアイドルみたいな外見のクセに、るりはけっこうあなどれない性格をしている。頭の横で二つにくくった髪と短いスカートをヒラヒラさせて、無邪気さの裏になんかいろいろな計算を働かせているのだ。
 考えてみれば、オレのほうから声をかけたのだって、実はるりにそう仕向けられたようなものだった。後悔しても後の祭り。別に後悔してないけど。
「なんだよ、面白い話って」
 オレが促すと、るりはうれしそうに目を輝かせた。
「あのねあのね、あたしとあの地味な人、実は親戚なんですよぉ」
「はあ?」
「ほらほら、イトコに似たやつあるじゃないですかぁ。なんかね、うちのママのイトコの、子供なんだって」
「ええと、ハトコだっけ?」
「そう、それそれぇ」
 ハトコ。言葉としては知ってるが、実感としてはかなり薄い言葉だ。
 確かに親戚なんだろうけど、少なくともオレは、自分のハトコとなんて会ったこともない。
「へぇ」
「すごいでしょ? うれしくない?」
「なにが?」
「だって、あの人のこと気になってるんでしょ? ほら、これでつながりができましたよぉ?」
「……できたのかなあ」
「だって彼女のハトコなんですよ? これで声かけるきっかけができたじゃないですかぁ」
「誰が彼女だって?」
「あたしあたし♪」
 オレはるりを無視して、ちょっと考えてみた。
 るりの親戚というのを取っ掛かりにしてどう声をかけるか、ということではなく、はたして自分はあの女に声をかけたいのか、ということだ。
 オレはずっとあの女が気になっていた。
 なぜハルは、あの日のことに触れようとしないのだろう。
 もちろん黙っていてくれてるのだとしたら、ありがたい。ありがたいのだけど、意図が読めないだけに気味が悪い。
 そこまで考えて、オレは気付いた。というか、最初から気付いていたんだろうけど、あらためて自覚した。
 オレがあの女を気にするのは、話しかけてこないからではなく、意図が読めないっていう一点だ。
 あの女には?勘?が働かない。オレには、あの女が何を考えているのかわからない。
 だからこそ、オレは気にしてしまっているのだ。
「無視しないでくださいよぉ」
 るりがふてくされたような顔をしている。興味を引こうとしてるのか、小ぶりな胸をぐいぐい押し付けてきた。
 るりは悪いやつじゃないのだが、ちょっと人目を気にしなさ過ぎる。校内ではいちゃつかないと最初に約束させたはずなのに、ちっとも守ろうとしない。
 なおも無視していると、るりはますます頬を膨らませた。
「あんまし無視してると、お仕置きしちゃいますよぉ?」
「なんだよ、お仕置きって」
「ハルせんせ〜いっ!」
 るりは突然、向かいの校舎に向かって手を振った。
 ハルがこちらを向くのが見えて、オレは慌ててしゃがみこんだ。
「せんせ〜い! なにしてるんですかぁ〜?」
 あっぶねー。もう少しで見つかるところだった。
 ……というか、べつに見つかってマズいこともない。なんで慌てて隠れなきゃいけないんだ?
 どくどくいう心臓を押さえながら、オレは頭上のるりを睨みつけた。るりはいたずらっぽい瞳でちらりとこっちを見て、何食わぬ顔でハルと会話している。
 ……さっきまで『地味な人』とか嫌そうな顔で話してたくせに、よくそんな嬉しそうに話しかけられるな。しかも校舎越しに。
「…………」
 まあ、今のはちょっと面白かった。面白かったけれど、仕返しをしないわけにはいかない。
 オレは目の前の短いスカートからのぞく足を、さわさわとくすぐってやった。るりはうふんと色っぽい声を漏らした。……逆効果だ。
 オレはため息一つ、窓の向こうから見えないように気をつけて、頭を下げたままこそこそ逃げ出すことにした。
「あ、待ってくださいよぉ。せんせ〜い、バイバ〜イ!」
 るりもハルに別れを告げ、オレのあとをついてきた。
 職員室からこちらが見えない位置まで移動して、オレはようやく頭を上げる。中途半端な姿勢でいたので腰が痛い。
「ねぇ、せんぱい。次の休み、暇ですかぁ?」
 歩きながら、るりが訊いてきた。
「次の休みっていつ?」
「……週末ですよぉ」
「ムリだってば。何回も言ってるだろ?」
 オレの週末はいつも予定が詰まっている。場外馬券売り場。あそこでは、いつだって馬とお客がオレを待っている。
「……まあ、わかってて訊いたんですけどぉ」
 るりはすねたような顔をした。
 もちろんるりには、週末がダメな理由を言ってない。というか、誰にも言ってない。オレが競馬好きであることは、こちら側の人間は誰も知らないのだ。
「どうせ愛人さんと遊ぶんでしょ?」
「なんだよ、愛人って」
「あたしが本命だからぁ、他のは全部、愛人です」
「なんだそりゃ」
「べつにいいんですよ。せんぱいモテるし、他の人ともエッチしたいだろうし。でもそういうのはちゃんと報告しといてくださいよぉ。隠されると、悲しくなりますから……」
 オレはぽんぽんとるりの頭に手を置いた。
「わかったわかった」
「で、週末は暇ですかぁ?」
「ムリ」
「……で、いるんですか、愛人さん?」
「いないよ」
 ほんとはいるけど。

   ☆ ☆ ☆
「せんぱぁ〜い!」
 そして週末。
 オレはけたたましいインターフォンと、窓ガラスがびりびり震えそうなるりの声で目を覚ました。
「…………」
 ドアを開けると、満面の笑みのるりが抱きついてきた。
「きゃぁ、寝起きのせんぱいかわいい☆」
 オレは無言でるりを引き離した。
「……なにしてんの?」
「遊びに来ましたぁ!」
「今日、土曜日だぞ。……土曜日だよね?」
「まあまあ、たまにはいいじゃないですかぁ」
 オレはドアを閉めた。
「ああっ、ちょっと、せんぱ〜い!?」
 ドンドンドン、とドアを叩く音がする。
 ダメだ。近所迷惑きわまりない。
 オレは再びドアを開け、やれやれと呆れたように見える顔を作った。
「なんか用ですか?」
「そんな冷たいこと言わないでくださいよぉ」
「ええと、とりあえずさ、用件だけ言ってよ。返事は明日するから」
「せんぱい、お出かけしましょうよ」
 るりはするりとそんなことを言った。
「お出かけ? どこに?」
「どこでもいいですよぉ。どこか行きたいところありますか?」
 競馬場、とはもちろん言えずに、オレはあくびをした。
「じゃあ決まり。あたしん家に行きましょう。ママがね、たまにはせんぱいのお顔を見たいってだだばっかりこねるんです。いいでしょう、せんぱい?」
「ええ〜」
「あたしのママ、嫌いですか?」
「なんでそうなるんだよ」
「じゃあ決まり♪ ほらぁ、早く着替えてくださいよぉ」
「…………」
 追い払うのは簡単だった。帰れと強く言えば、るりはおとなしく引き下がっただろう。
 だけどオレは、結局るりの言うことに従った。着替えて、一人暮らしのマンションを出て、るりと一緒に彼女の家に向かう。
 なんとなく、試されてるような気がしたのだ。
 るりは、オレが彼女のわがままに付き合うかどうか試していた。もちろんそれは?勘?なので、根拠なんてさっぱりない。大体、そんなことをする意味がどこにあるってんだ? 何を考えてるかわかるのに、結局のところ、何が何だかわからない。おかしな話だと自分でも思う。
 ちんたら歩きながら、ちょっとだけハラマキさんたちの顔が頭をかすめた。
 オレが馬券売り場に行くことは、あくまで習慣であって約束ではない。オレが行かないこともあるし、客のほうが来ないこともある。
 だから一日くらい勘弁してね。オレは心の中で手をあわせた。
 同じ学区だし、るりの家はそう遠くない。ほどなく、三階建てのなかなか立派な一戸建てが見えてきた。
「ただいま〜。ママぁ、せんぱい来たよぉ〜」
 ドアを開けるなり、るりは奥に向かって大きな声をあげた。廊下の向こうから、ぱたぱたぱたとスリッパの音がした。
「あらあらあら。久しぶりねぇ、タッピくん」
 るりの母親だった。見るからにるりとそっくりで、るりの将来はこんな感じだろうと容易に想像がつく。この母娘は異様に仲が良くて、歳の離れた双子って感じだ。
「こんにちは、しのぶさん」
「あいかわらずかっこいいわねぇ。元気そうで良かったわ」
「ママねぇ、せんぱいを呼ぶって言ったら、パパとデートするときより気合入れてるんだよぉ」
「るりちゃん! バカなこと言うんじゃないの。もうしょうがないんだから」
 和やかな雰囲気、というやつが、オレは苦手だった。あと母親ってやつが苦手で、家庭の団欒ってやつも苦手だ。つまり、ここにはその全部が揃っていた。
 ……どうやってテンション上げるんだって話だ。
 控えめに言って、ちょい憂鬱だった。
 でもまあ、しょうがない。生きていくうえで、憂鬱とは回避し得ないものだ。
 そんなことを考えているオレは、きっと油断していたのだろう。憂鬱さにかまけて、その先にもっととんでもないことが待っていると考えもしなかったのだ。
 るりの案内で、オレは居間に通された。
 そしてオレは固まった。
「あ、紹介するねぇ。この人がタッピせんぱい。あたしの彼氏。えへへ」
 それからるりは、オレにその女を紹介する。
「こちらがハルせんせい。あたしの遠い親戚。知ってるよね、タッピせんぱい?」
 ……そう来るか。
るりはイヤらしく笑っている。してやったりという顔だ。
「……こんにちは」
 薄い笑顔で、ハルが言った。
 その声は、やはりイントネーションが少し違っていて――
 オレはため息もつけなかった。

   ☆ ☆ ☆
 ハルは、その方言からわかるとおり、関西の出身だ。
 高校だか大学だかで関東に来て、それからこっちで生活しているらしい。
 親戚のるりと同じ学校に勤めることになったのは、当たり前だがまったくの偶然で、それ以来、ちょくちょくるりの家に遊びに来るようになったそうだ。それまでは会ったこともなかったとるりは言っていた。
「ハルちゃん、学校のほうはどう?」
「まあ、ぼちぼちやってますよ」
「ねぇハルせんせい、先生って面白い?」
「んー、どうやろねぇ。まだ始めたばっかりやから、わからんわ」
「まだ一ヶ月だもんねぇ。慣れないか」
「毎日毎日がいっぱいいっぱいで……。それやから、今日みたいな日は、なんかぼけっとしてまうんですよ」
「うちでよかったら、いくらでもぼけっとしていって」
「…………」
「せんぱい? どうしたんですかぁ、元気ないですよ?」
 お昼時。オレたちは四人でテーブルを囲み、昼食をいただいていた。
 オレがいて、隣にるり。その向かいがるりの母親なので、ハルはオレの正面に座っていることになる。
 オレは顔を上げられなかった。ハルの顔をまともに見ることができないのだ。
 ああ、くそ。なんだってんだ。
 オレらしくない。こんなのはまったくオレじゃない。一人の人間にこれほど感情的に揺さぶられるなんて、あってはならないことだ。
 これは単純な後ろめたさじゃないだろう。馬券売り場にいるところを見られた。オレは学生でハルは教師だ。当然、後ろめたい。だけど、それだけじゃないんだと思う。
 きっとオレは恥ずかしいのだ。
 馬券売り場にいるところを見られたのが恥ずかしい。本当のオレの姿を見られたのが恥ずかしい。誰にも見せなかった、誰からも隠していた自分を見られてしまった。それを、オレは恥ずかしいと感じているのだ。
 その上、この女はオレに内面を見せない。オレにはこの女の考えていることがわからない。
 心の中で笑ってるんじゃないだろうか。そんな気がした。
 それはもはや?勘?なのかどうなのかさえわからない。ただの気のせいかもしれないが、今まで頼りにしてきた直感だ。やっぱり当たっているのかもしれない。
 キツかった。まるで針のむしろだ。
 オレは目を伏せたまま、もそもそと料理を口に運ぶ。もちろん味なんかしやしない。
「ねぇ、せんぱぁい」
 るりがオレの肩を揺さぶってきた。
 そういえば、こいつの狙いはなんだったんだろう。ハルに会ったことで、オレが動揺するところを見たかったんだろうか。だとすれば大成功だ。
 しかしるりは、なんだか本当に心配しているようだった。いや、それ以外の不安も見て取れるような気がする。
 でもオレは頭が働かなかった。とりあえず、大丈夫とだけ言っておいた。
 食事が終わり、オレはリビングのソファに座っていた。本当は二階のるりの部屋にでも逃げ込みたかったのだが、るりが一階でテレビを見始めたのだ。他人の家で勝手に行動するわけにもいかず、しかたなくオレも一階にとどまった。
 三時を過ぎたころ、ふいにハルが口を開いた。
「るりちゃん。チャンネル変えてもええかな」
「ん? いいよぉ。なに見るの?」
 ハルがリモコンを操作した。テレビに映し出されたのは、競馬だった。
 もうそんな時間か。オレは競馬のことなんてすっかり忘れていた。
「ハルせんせい、競馬なんか見るんだ?」
「うん」
「さては、一攫千金大もうけ狙ってるなぁ?」
 おどけたようなるりの口調に、ハルは朗らかに笑った。
「そんなん、馬券なんて怖ぁてよう買わんわ」
「そうなんだ。見てて面白いものなのかなぁ。先輩は興味あるんでしたっけ?」
「え? ええと……」
 急に話を振られて、オレはあからさまに動揺した。
 オレの周囲の人間は、オレが競馬をすることを知らない。しかしハルは、オレが競馬をすることを知っている。
 仮にここで知らないと答えると、ハルにいらぬ疑問を与えることになってしまう。それは、沈黙のダムを決壊させるきっかけになりかけない。どういうこと? とでも訊かれれば、オレは黙っている自信がない。
 そうしてオレが逡巡していると、ハルがちらりとこちらを見た。
 ……ぐっ。
 そんなわけがない。
 そんなわけがないのだが、なぜだか心の内側を見抜かれているような気分になった。
 ぞわっと全身が総毛立つ。
 ひどく気持ちが悪かった。いつも?勘?で見抜いてばかりのオレなのだ。見抜かれるほうの気持ちなんて考えたことがなかった。こんなに……気分の悪いもんだったのかよ。
「タッピくん、やったっけ」
 ハルが話しかけてきた。
 とうとう来たか。オレは無意識に身構える。
「顔色悪いで。どうしたん? 体調悪いん?」
「……やっぱり、調子悪いんですか?」
 るりに顔を覗き込まれて、オレは思わず顔をそらす。
「……大丈夫だよ。べつになんでもない」
 るりはちょっと泣きそうな顔をしている。自分がわがままを言ったせいだとでも思ってるんだろう。
 ハルが一つ咳払いをした。オレとるりの顔が近づきすぎて、それが気になったらしい。
「仲良いのはいいけど、二人とも中学生なんやから、ちゃんと節度のある付き合いせなあかんよ」
「はぁい」とるりが返事をした。「あたしたちは、清く正しくぷらとにっくってやつですよ♪」
 どこがだよ、と思うが、もちろん口に出したりはしない。
 ふと気付いたように、ハルが言った。
「タッピくんや、……もしかして、どっかで会ったことない?」
「…………は?」
 オレは自分の耳を疑った。
 ……この女は、一体何を言ってるんだ?
 ハルの顔は、ごく普通に思ったことを口にしたようだった。?勘?が働かないので信用なんてできないのだが、どうもおかしな駆け引きはしてないように感じられた。
「なぁんかそれ、古い口説き文句みたいですよぉ?」
 るりが言って、ハルが慌てたように弁解した。
「ち、ちがうちがう。そういうんやないってば。……まあそうやな。気のせいかもな。あ、そっか。学校ですれ違ったんかもしれん。きっとそうやな」
 確かに何回かすれ違ってる。でもそういうことじゃない。
 ……まさか。
 オレはその恐ろしい想像に、体ががくがく震えるようだった。
「……冗談だろ?」
「え? なんか言いました、せんぱい?」
 るりの言葉など耳に入らない。
 信じられない。というか、信じたくない。
 ……気付いてなかったのか?
 ハルはオレに、あのとき馬券売り場にいた少年がオレだってことに、まさか気付いてなかったとでもいうのか?
「先生と生徒の恋愛って、なんかいろいろややこしいんじゃないですかぁ?」
「だ、だからそんなんとちゃうってば」
「ほんとかなぁ。だってせんぱい、かっこいいしなぁ」
「もう。るりちゃん、いいかげんにしぃや。大人をからかうもんやないで」
「あ、怒ったぁ。そういうとこが怪しいなぁ」
「もう……」
 ハルとるりの頭の悪い会話を聞きながら、オレは茫然自失だった。
 ハルは気付いてなかった。おいおい、嘘だろ? そんなバカな、と思うが、この様子だとどうやらそれが真実らしい。
 なるほどね。そりゃ話しかけてこないわけだ。放置されるはずだ。なんせ気付いていないんだ。声をかける道理がないもんな。
「…………」
 ……ありえねぇー。
 なんだそりゃ。今までの長々としたフリは何だったんだよ。
まったく、まったくマジで……。
「ふざけんな!」
 と、叫びたかった。けどもちろん叫べるわけもなく、オレはソファの上でうなだれた。
 テレビには、競馬が映っている。ダービートライアル、プリンシパルステークス。
 このレースには、サイントゥウエストも出走している。弥生賞に負けてG?皐月賞に出られなかったように、プリンシパルステークスに負ければ、サイントゥウエストはダービーに出走できない。
 でもそんなことはどうでもよかった。
 もう何をする気もおこりゃしない。
 ハルの頭越しに見える画面の中で、サイントゥウエストはきわどい勝利を挙げていた。

   ☆ ☆ ☆
 暗くなる前に家に帰りついたオレは、果てしない脱力感に襲われた。
 この一人でぐだぐだやってた二ヶ月を返してほしい。つか返せこのヤロウ。
 ひとしきりベッドでぐったりしていたオレは、ふとビデオを予約録画していたことを思い出した。
 リモコンを手に取り、巻き戻し、再生。
 さっきはまともに見れなかったプリンシパルステークス。
 サイントゥウエストは、これまでと違って、二番手からレースを進めていた。若手の騎手が必死でなだめ、かろうじて折り合いがついてはいるが、サイントゥウエストは『もっと好きに走らせてくれ!』と訴えているようだった。
 サイントゥウエストは、出遅れて負けた弥生賞以外の二戦を、圧倒的スピードで逃げ切って勝った。しかしそれは、逃げたというよりも、自分のスピードで走ったら相手がついてこれなかったと言ったほうが近い。
 彼の持ち味は、比類なきスピードなのだ。
 プリンシパルステークスのレース振りに、その特性はとてもじゃないが見られない。人の意向によって、中途半端なスピードの中でもがいている感じだった。
「……お互い、持ち味を封じられたらツライよな……」
 オレは、ぼんやりとそんなことをつぶやいた。
   Memory 3 東京優駿

「ダービーでも見に行くか」
 ハラマキさんが唐突にそんなことを言った。
「……いきなりなに言ってんの?」
「見たことあるか?」
「そりゃあるよ」
「そうじゃなくてよ、生でだよ」
 ない。オレはあんまり競馬場には行かない。
「たまにはいいんじゃねえか? 気分転換もかねてよ」
「…………」
 気分転換ねぇ。
 ハラマキさんが何を言いたいのか、オレにはよくわかる。?勘?なんて働かさなくたって、こればっかりはあからさまだ。
 ハラマキさんはオレに気を使っているのだ。
 ここはいつもの場外馬券売り場。そしてオレの周囲には……ハラマキさんしかいない。
 なぜ?
 簡単だ。先週今週と、続けてオレの?勘?が外れたからだ。
 信用があるからこそ成り立つ商売。信用を失えば、はいそれまで。
 オレの予想屋稼業は、今やあっさりと終わりを告げようとしているのだった。
 見事なまでの手のひら返しに、しかしオレは恨む気なんてさらさらない。これが当然。これが必然。?勘?の鈍ったオレになんて、何の意味もないってことだ。
「それにしても薄情なやつらだなあ。今までどれだけ儲けさせてもらったと思ってやがんだ」
 ハラマキさんはそんなことを言ったが、オレからすればむしろハラマキさんのほうが不思議だった。当たらないオレの予想になんて付き合うことないだろうに。
「そりゃ坊主の?勘?にはずいぶん助けてもらったけどよ、それだけでここに来てんじゃねえぞ」
「ほかになにがあるってのさ」
「俺の周りにはよ、競馬好きがいないんだよ。わかるか? 馬券好きと競馬好きは違ってことよ」
 わかるかよ。なに言ってんだこのオヤジ。
「俺が馬券買ってんのは道楽だ。競馬で儲けようなんて気は十年前の十年前に捨てちまったい」
「オレの予想に乗って儲けてたくせに」
「そりゃたまには良い目も見ねえとよ」
 ハラマキさんはガッハッハと笑った。おかしなオヤジだ。
 オレの?勘?は失われたわけじゃなかった。けれど鈍ったのは確実だ。競馬の予想を外したことからも、それが実証されている。
 なぜだろう、とオレは考える。
 そもそも、なんで?勘?が鋭かったのか、自分でもよくわからない。生まれたときからそうだったのだ。むしろそれが自然だと思ってたくらいだ。そんなオレが、?勘?の鈍った理由を考えるってのも無理がある気がする。
 でも――心当たりがないこともなかった。
 あの日、るりの家に無理やり連れていかれた日。
 ハルの視線に、オレは心を見抜かれているのかと思った。ひどく気持ちが悪くて、自分の?勘?も似たようなものだと思い、初めて自分のことを嫌悪した。
 それ以来だ。オレの?勘?はあっさりと鳴りをひそめた。
「それでも三回に一回は当たってんだ。そう悲観することもねえよ」
「……こういう場合はね、外れた二回のほうが重要なんだよ」
「そんなもんかね。自分で予想すりゃ、三割も当たんねえぞ?」
「十が三になれば、少なくとも信用する気は失せるよ」
「贅沢なこったな」
 脆いもんだと我ながら思う。
 オレの?勘?も、信用とやらも。
 でもこれでいいとも思う。
 そんな薄っぺらいつながりなんて、いっそなくなったほうが清々するってもんだ。
 で、あとはこのオッサンだけだ。この人がいなくなりゃもっとすっきりするのに。
 そしてハラマキさんは言う。
「ダービーでも見に行くか?」
 ……気を使われるのは嫌いだ。?勘?が鈍くなるくらい、なんてことないのだ。もともとオレが変だっただけで、今のほうがむしろ普通なのだ。それなのに気なんか使われたら、なんか大変なことのように思えてしまうじゃないか。
 こんなのは大したことじゃない。ごく当たり前のことだ。オレは普通に戻っただけなんだ。
「……やめとくよ」
 だからオレは断った。気分転換なんて必要ない。オレは今までどおり、週末に競馬を見るだけだ。
「そっか。ま、気が変わったら言ってくれよ。俺はいつでも空いてるからよ」
 家族とかいないのかよ。オッサンのくせに。

   ☆ ☆ ☆

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