ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

反原発!原子力発電反対!!コミュの58年間隔の巨大津波地震だ!

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
相変わらず、毎度、毎度、捏造、偽装にやっきになっているなバッド(下向き矢印)

大地震と大津波の遡上高は明治三陸38.2m(1896年)昭和三陸28.7m(1933年)そして今回の38.9m(2011年)だexclamation

明治と昭和の間隔はもっと短く37年だダッシュ(走り出す様)

30年後にまた大津波が来る位の想定で備えても遅い位だバッド(下向き矢印)

小出助教もおっしゃるようにexclamation ×2危機の想定はリスクの最大値を想定し、それに備えるのが防災の基本だexclamation ×2



こういう過小評価と甘い予測(1000年に1度!600年に1度!)が東日本大惨事と福一の大事故を引き起こしたのだ足バッド(下向き矢印)

いい加減に学習しろ足足バッド(下向き矢印)


巨大津波地震「600年間隔」=東北太平洋沖で評価見直し―政府調査委
時事通信 11月24日(木)20時51分配信

 東日本大震災の巨大地震を受けて見直しを進めてきた大規模地震の長期評価について、政府の地震調査委員会が、東北地方太平洋沿岸で巨大津波を伴う地震の発生間隔を「600年程度」とする報告書をまとめたことが24日、分かった。
 東北太平洋沖の巨大地震としては、貞観地震(869年)が知られており、発生周期は「1000年に1度」との見方が強かった。調査委が、宮城県から福島県沿岸で津波の堆積物を詳細に調べた結果、過去2500年間に推定4回の巨大津波があったことが判明。今回を含めれば5回になり、調査委は巨大地震の発生間隔を「400〜800年程度で平均600年程度」と結論付けた。 



5.7m防波堤等...

ただの岸壁の高さで何にも対策してなかったという事だ。

津波は2~3mしか想定していなかったそうだな↓↓

4月18日の参議院予算委員会の東電、清水正孝は

「昭和33年チリ地震の津波の14~15mを想定していた」

と防津波体制で虚偽を説明していました。

想定通りの津波でこの惨状は

まさに偽装と怠惰のていたらくだ↓



福島第一原発、襲った津波は14〜15mに
< 2011年4月10日 2:33 >「東京電力」は9日、福島第一原子力発電所が東日本大震災で発生した津波に襲われた時の映像を公開した。

 この映像は、東日本大震災が起きた先月11日、福島第一原発の職員が撮影していたもの。押し寄せた津波が施設とぶつかった際に、高くしぶきを上げている様子が映っている。高さは約20メートルになったとみられる。

 また、東京電力は、福島第一原発を上空から撮影した津波の前と後の写真2枚を公開。津波で海沿いの木々が広い範囲で押し流されたことがわかる。東京電力によると、施設を襲った津波は高さが14〜15メートルに達していた。福島第一原発が想定していた津波の最大の高さは5.7メートルだった。

 また、津波によって、原子炉建屋など主要な施設がほぼ全て4〜5メートルの高さまで浸水したという。

 福島第一原発は、津波によって電源設備やポンプなどが流されたり、破壊されたりして、原子炉を冷却する機能が停止し、その後、水素爆発や放射能漏れが起こり、今も深刻な状況が続いている。

 また、復旧作業を阻んでいる高濃度の放射性物質を含む汚染水を、施設内の集中廃棄物処理施設に安全に移すための準備段階がほぼ終わった。東京電力は10日から、「トレンチ」と呼ばれる作業用トンネル内の汚染水を、タービン建屋内の復水器に移す作業を始める予定で、高濃度の汚染水の「玉突き排水」を本格化させたい考え。



東電は'60年のチリ地震の津波しか想定しておらず

14~15mの津波しか想定していなかったと18日予算委員会で東電社長が回答しています。

しかし既に、38.2mを明治三陸津波で

23~28.7mを昭和三陸津波で経験していた

充分で重大な知見を完全に意図して無視してきた

政府、官僚、東電による安全対策の重大な過失でした。


東日本大震災の津波が、岩手県宮古市の重茂(おもえ)半島で38・9メートルの高さまで達していたことが、東京海洋大学の岡安章夫教授の調査で分かった。


 岸から400メートル離れた同半島の姉吉漁港近くの山の斜面で、津波によって木が倒れていることを発見した。

 斜面を駆け上がった津波の遡上(そじょう)高として、明治三陸地震(1896年)の記録を初めて抜いた。明治三陸地震では、同県大船渡市の綾里(りょうり)地区の38・2メートルが最大記録。東日本大震災では、宮古市田老(たろう)地区の小堀内漁港近くでも37・9メートルの遡上高が確認されている。


昭和三陸津波...1933年(昭和8年)3月3日、三陸沖のマグニチュード8.3の地震で起こされた津波で、明治三陸津波につぐ大津波。遡上高は三陸町綾里で 23.0〜28.7mに達し、死者・行方不明者は岩手県を中心に3,064人に及んだ。津波による家屋被害数は明治三陸津波とほぼ同じである。



南三陸町志津川高校から見た津波の様子 Tsunami attacking in Minami-Sanriku

http://www.youtube.com/watch?v=8vZR0Rq1Rfw



大津波...惨禍は国会議員、保安院、東電によって軽視、無視された結果だった

三陸海岸にある記念石碑には

高き住居は児孫は和楽 想え惨禍の大津波 此処より下に家を建てるな

明治29年にも昭和8年にも津波が来襲し、部落は全滅し、生存者はわずかに数人しかいない


という事が書いてある。

明治29年、高さ38メートルの大津波が2万人以上の命を奪い、昭和8年にも3千人以上の命を奪い

37年前の失敗がまた繰り返されてしまったのだ。


事実、この石碑下50メートル下まで、今回の津波は押し寄せた。

此処より下に家建てるな…先人の石碑、集落救う


過去の津波で壊滅的被害を受けた姉吉地区にある石碑(27日、岩手県宮古市で)=菊政哲也撮影

 「此処(ここ)より下に家を建てるな」――。

 東日本巨大地震で沿岸部が津波にのみこまれた岩手県宮古市にあって、重茂半島東端の姉吉地区(12世帯約40人)では全ての家屋が被害を免れた。1933年の昭和三陸大津波の後、海抜約60メートルの場所に建てられた石碑の警告を守り、坂の上で暮らしてきた住民たちは、改めて先人の教えに感謝していた。

 「高き住居は児孫(じそん)の和楽(わらく) 想(おも)へ惨禍の大津浪(おおつなみ)」

 本州最東端の●ヶ埼(とどがさき)灯台から南西約2キロ、姉吉漁港から延びる急坂に立つ石碑に刻まれた言葉だ。結びで「此処より――」と戒めている。(●は魚へんに毛)

 地区は1896年の明治、1933年の昭和と2度の三陸大津波に襲われ、生存者がそれぞれ2人と4人という壊滅的な被害を受けた。昭和大津波の直後、住民らが石碑を建立。その後は全ての住民が石碑より高い場所で暮らすようになった。

 地震の起きた11日、港にいた住民たちは大津波警報が発令されると、高台にある家を目指して、曲がりくねった約800メートルの坂道を駆け上がった。巨大な波が濁流となり、漁船もろとも押し寄せてきたが、その勢いは石碑の約50メートル手前で止まった。地区自治会長の木村民茂さん(65)「幼いころから『石碑の教えを破るな』と言い聞かされてきた。先人の教訓のおかげで集落は生き残った」と話す。

(2011年3月30日07時22分 読売新聞)


http://www.youtube.com/watch?v=qkLqVr_Qk_w&feature=player_embedded

まんが日本昔ばなし「みちびき地蔵」 宮城県気仙沼市
http://www.youtube.com/watch?v=pCAbYlODSc0&feature=player_embedded

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

反原発!原子力発電反対!! 更新情報

反原発!原子力発電反対!!のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。