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『遊郭・赤線跡』コミュの上村行彰著『日本遊里史』(1929年)の巻末付録

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上村行彰著『日本遊里史』(1929年)の巻末付録として掲載されている『日本全国遊廓一覧』における、佐賀県佐賀郡東川副村 (諸富町 )について調べています。

佐賀県の他の遊廓地域の情報としては、具体的な所在地や○○楼が存在したと言ったような詳細な情報がネット上でも入手できますが、この地域のものはありません。
また、現地調査・郷土調査でもまだ具体的なものが見つかっていません。

ご存知の方がいたら、情報よろしくお願いします。

コメント(23)

はじめまして。
確かに『日本遊廓一覧』に東川副村の遊廓(諸富遊廓)は載っています。
こういう地方の遊廓は情報が非常に少ないので、現地の図書館で郷土史の史料を漁るか、現地の人に直接ヒアリングしてみるしかないと思います。
こういうマイナー(?)遊廓になると地元以外での情報収集が非常に難しいと思うので、地元密着で調べてみるしかないでしょう。
図書館の係員に「遊廓の史料を探しています」と正直に言うと探してくれることもあります。まあ、「ない」とつっけんどんに言われて「いいから探して下さい!」と食い下がったら実は図書館の奥底に眠っていた・・・ということも実際にあったので、ある意味根気が要る作業だとは思います。
吉原や洲崎や島原、飛田・旭などの大規模かつ全国的知名度の遊廓だと、逆に情報が多すぎてものによっては全く逆のことが書いてあったりしてどれを信じていいのかわからないこともありますけどね(笑
『全国遊廓案内』(1930年、日本遊覧社編)はご覧になりましたか? 手元にあったので必要ならば該当箇所を引用しますが…。
>ゆき ちゃん服喪さん
『全国遊廓案内』(1930年、日本遊覧社編)は見たことありません。 該当箇所を引用をお願いします。
ありがとうございます!!

>のぶ参暴長さん
コメントありがとうございます。
時間がある時、もっと頑張ってみます!!
でもサラッとした記述ですよ。


以下引用です。

東川副村諸富遊廓 は佐賀県佐賀郡東川副村諸富にあって、汽車は長崎本線佐賀駅で諸富行電車がある。それを利用して諸富で下車すれば宜ろしい。目下貸座敷は十一軒、娼妓は約百三十人位居て、主に九州地方の女が多い。店は陰店制で御定まりは一泊五円位。又時間で三円五十銭でも遊興ができる。台の物が附く。有名な筑後川は町の東を流れて居る。

……全然具体的じゃないですね。

『全国遊廓案内』は具体的な記述のところとそうじゃないところの差が激しいんですよね…。

ちなみに三一書房の「近代庶民生活誌」の14巻に再録されてますよ。14巻付録の例のビデオが貸し出しNGの図書館が多いんですが、ようやく見つけてこれからDVDに落とすところですw

補足しておくと、「諸富行電車」とは昔佐賀駅を起点にしていた国鉄佐賀線のことだと思います。
確かに佐賀線には「諸富駅」があったので。
また、佐賀線は廃止まで電化されていなかったので、「電車」という表現は間違いで当時はSLが走っていたことでしょう。
Google mapで調べてみたところ、「佐賀県佐賀郡東川副村諸富」は今の佐賀市諸富町大字徳富あたりに集落が固まっているので、
そこら周辺のどこかに遊廓があったと思われます。
諸富あたりは、かつては「東川副村」だったのですが、1955年に東川副村と新北村が合併して諸富町になったそうです。
また、2005年に諸富町が佐賀市に編入されています。
「本丸を陥落させるにはまず外堀から」と諸富地区あたりの歴史を引き続き調べていたら、遊廓のこととは別に、ある「謎」が出てきました。
6.で自分で『全国遊廓案内』にある「諸富駅」は国鉄佐賀線(現存せず)の諸富駅と書いたのですが、
佐賀線の諸富駅は昭和10年5月25日開業、でも『全国遊廓案内』は昭和5年発行・・・。
この5年のギャップは何ぞや?著者は予言者なのか?(笑
佐賀線以前に諸富まで「電車」などの鉄道が走っていたというデータもないし、マニアックな本なので重版された形跡もないし、
(『全国遊廓案内』は初版本が発禁処分を受けてますが)
ちょっと「公開調査」でブログに書いて広く情報を募集してみます。
7.の謎、自己解決しました(笑
更に調べてみたところ、その昔佐賀駅から遊廓があった諸富まで「佐賀馬車軌道」という、今のチンチン電車のような鉄道が走っていたようです。
それが昭和2年に「佐賀電気軌道」に改名、でも「電気」といっても「会社のビジョンとしては将来電化しますよ〜」という意味で、当時は小型SLか前の会社の通り馬車でも走らせていたようです。
その諸富までの路線は昭和3年に廃止されたので、『全国遊廓案内』が発行された時は既に「電車」はないってことですね。
諸富までの交通は、昭和6年の国鉄佐賀線開通まで待つことになりますが、佐賀線の「諸富駅」と佐賀電気軌道の「諸富駅」は、古い地図を見る限り位置が違っているようで、後者の諸富駅は筑後川沿いにあった模様。

ここまででわかることは、

1.『全国遊廓案内』にある「電車」は間違い。佐賀電気軌道の諸富までの区間は廃止まで非電化。
(会社に「電気」って書いてるので、筆者が電車と勘違いした可能性が高いですね〜)

2.佐賀電気軌道の「諸富駅」と佐賀線の駅は距離にして600mほどずれている。
なので、佐賀線の諸富駅と思って調べると少し支障が出るかも!?
前者の諸富駅は、おそらく今の国道444号線の「石塚」交差点あたり。

3.『全国遊廓案内』の筆者が遊廓のことを調べたのは、もしかして昭和3年以前の可能性あり?
(要するに、佐賀電気軌道佐賀駅〜諸富間が廃止される前)

肝心の遊廓のことがわからなくて申し訳ないですが、何か足しになればと思います。
>のぶ参暴長さん
のぶログ、拝見しました。
自分も、佐賀市諸富町大字徳富or大字あたりを調べています。
三川橋、法泉寺付近ではないか??と思っていますが、国道444号線の「石塚」交差点あたりが駅だったとしたら少し遠いかな・・・・と。
まだ、まだ、コレだッ!!という手がかりはありません。
引き続き調べてはいるのですが、
なかなか尻尾を出してきませんね〜ふらふら
でも、諸富地区に遊廓があったのは確実で、遊廓の妓楼にあったという恵比寿さんが現存してるそうです。

また、ご存じだと思いますが、佐賀市には今宿遊廓もあって、売防法施行まで赤線として残ってたそうです。
今でも建物が残っているみたいで、佐賀市民のネットアンケート(?)でも「保存すべき建造物」にランクインされています。
そこの跡をGoogle mapで見てみたら、確かにいかにも遊廓がありそうな地形ですね、俺のカンがそう申しております電球

それ以上のことは、目下調査中であります。
佐賀出身者としてはあまりに興味深いお話です。
佐賀市街の遊廓としては皆さまの書きこみにもある今宿が知られているかと思います。段階で言うと現在の佐賀市高木町にまずそのような一帯が設けられ、しかしそこでは佐賀県庁に近過ぎて職員の風紀が乱れると問題になり現在の今宿町に移されたと聞いています。
高木町にも数年前まではそれと思しき建築物が僅かながら残存していたはずですが、母の話では最近(ここ半年〜一年ほどの間に)火災で焼失した建物があるとのことで残念至極です。
(余談ですが、佐賀市街では歴史的にも貴重な建造物が火災で失われることが本当に多いのです。別トピに挙がっていた「松原親和通り」一帯も数年前に被害に遭い様相が変わりました。市内に一軒だけ残っていた古き良き銭湯も、数ヶ月前に全焼したと聞きます。本当に悔しくてなりません)
こちらで挙がっている諸富の遊廓については全くもって初耳で、驚きました。近日中に帰省しますので是非ともあの辺りを訪れてみたいと思います。
諸富方面の地理に詳しくない上にかなりおぼろげな記憶ですが、諸富、北川副辺りは昭和20年終戦直前の佐賀空襲の被害が大きかった一帯だと聞いたことがあります。あまりにも面影が消えているということになると、空襲によってまちが消滅してしまったということも可能性としてはあるのかもしれませんね。
のぶ参暴長さんのブログもじっくり拝見しながら、下調べしてみたいと思います。

※誤字があったので011を削除して再書きこみしました。
>かこぴんさん

はじめまして。
諸富遊廓については、情報がなさすぎてもう頭打ちです(笑
もう現地の古老か郷土史に詳しい人あたりに聞いてみるしかないかと。
今のところ、唯一の望みは「佐賀県史」か「佐賀市史」あたりに記述がないかな〜?ということです。

>諸富、北川副辺りは昭和20年終戦直前の佐賀空襲の被害が大きかった一帯だと聞いたことがあります

これは全く知りませんでした。
ちょっと調べてみたところ、昭和20年8月5日に諸富地区が空襲を受けてますね。
「諸富津周辺は筑後川沿いに倉庫が並び、空襲の標的になった。終戦当時は焼け野原だった」
という発言もあるので、諸富遊廓も焼けてしまった可能性が大ですね。
そんなに大きな遊廓ではなかったみたいなので、赤線に移行せずそのまま歴史の闇に・・・かもしれません。
追記。

俺が知るかぎりの残り手段は、佐賀県立図書館か市立図書館で遊郭の資料を探してみることですけど、
図書館でダメモトで「遊郭の資料下さい」と調査課に相談してみたりすると、ヒマな図書館(?)ならけっこう探してくれたりします。そして予想もしなかった「お宝」が出てくることもあります。
ブログに書いた鳥取の倉吉はその集大成みたいなもので、「お宝」を見つけた時は自分でもかなり興奮しました。地元の方や市役所からも「よくぞここまで調べました!」とお褒めのメールをいただきました(笑
絶対出てくるとは限りませんが、俺の経験上戦前の地元ガイドブックには大なり小なり遊廓の案内があることが多いので、
もし図書館に行かれる時間があれば、ピンポイントで大正後期〜昭和10年前後あたりの佐賀市のガイドブックありませんか?と聞いてみるのもいいと思います。
これは佐賀に限らず、全国の遊廓を調べる時にちょっとしたヒントになると思います。

・・・っても、お盆なので図書館閉まってるか(汗
>のぶ参暴長さん
きめ細かなご指南、本当にありがとうございます!
佐賀空襲の件など、本来なら地元民の私がきちんと調べるべきところをすっかりちゃっかり逆輸入させていただいた形に。申し訳ございません。

ところで、皆さまは既にチェック済みかもしれませんが、このようなブログを見つけました。
諸富の筑後川沿いに建つ老舗割烹「津田屋」さん。
お店の公式ブログのようですので、リンク貼りも特に問題ないと判断しこちらに載せます。
http://sanmarusanmarusan.sagafan.jp/

このブログで「恵比須」というワードでブログ内検索しますと、いくつかの記事が出てきます。その中の2009年11月21日の記事に、興味深いことが書かれています。
一部要約しますと、
先々代の生前の話によれば、この津田屋さんの敷地内に現在いらっしゃる恵比須さんは、昔、諸富津に遊郭が栄えていたころ○○楼という店にいた恵比須さんを譲り受け、旧津田屋の中庭に迎え、さらに津田屋が現在の場所に移った際もともに移ってきたものです。
といったことです。
遊郭の栄えていたエリアが「諸富津」であることが、はっきり書かれています。

これは、現在の住所区分における「佐賀市諸富町諸富津」と解釈してよいのか。
(もしそうでしたら、地図でご確認いただいて分かる通り「諸富津」はかなり狭い町であり、さらに面積の半分近くを味の素工場が占めています。一日あれば充分歩いてまわれるでしょう)
それとも、昔「諸富津」とされていたくくりが別にあり、それのことなのか。

いずれにしてもこの「津田屋」さんのご主人に恵比須さんについてのお話を伺うことができれば、かなり核心まで近づけるのではと思っています。
母にそれとなく「津田屋さんに行きたい」とメールしましたら「どうしたの急にあんな高いとこ?」と怪訝そうな返事が返ってきましたが、まち歩きそのものは決して嫌いじゃない母のこと、くわしくこのいきさつを話せば協力してくれるものと。もちろん無理なら一人で乗りこんでみます。

もうひとつ、全然別の話ですが、何年か前に神保町の古書まつりで見つけた「佐賀県の地名一覧」的な本を帰省時に父に強奪されたのですが(泣)、その本で諸富を調べたら、あるいは何かヒントを見出せるかもしれません。

そして当方ひまひまフリーランサーゆえ、今回の夏休みも多少長くとれます。
現地、そしてのぶ参暴長さんに具に伝授いただいたノウハウでもって県立図書館、市立図書館も訪ねてみようと思います。お盆時期少々ずらして行けますので。

諸富方面に親戚でもいれば一番早かったのですがねえ。死んだ祖父ならきっと遊郭詳しかっただろうなあ(笑)。とにかくベスト尽くしてみます。
こんにちは。

>現在の住所区分における「佐賀市諸富町諸富津」と解釈してよいのか。
>それとも、昔「諸富津」とされていたくくりが別にあり、それのことなのか。

これは難しいですね。
「住宅表示に関する法律」という悪法で、戦後に地名がガラリと変わってしまった所もありますし、
「今の諸富町一帯が『諸富津』と呼ばれていた」という解釈も出来る可能性もゼロじゃないかなと。

で、諦めずにあれこれ全国の図書館の目録を調べていたら、面白そうなものを見つけました。
池田史郎という佐賀藩研究家の研究資料の中に「諸富津の問屋と遊女」という項目を見つけました。
江戸時代のものだと思いますが、閲覧可のようなので明日早速見に行ってきます。
いつもの「国会図書館近代史料デジタルアーカイブ(長」で佐賀県統計書を見てみたら、
やはり諸富遊廓の数字がありました。

明治13年:貸座敷13軒 娼妓5名
明治14年:同21軒 同23名
明治15年:同32軒 同64名
明治16年:同31軒 同47名
明治17年:同25軒 同89名
明治18年:同19軒 同53名
明治19年:同13軒 同34名
明治20年:同13軒 同34名
明治21年:同10軒 同29名

明治40年 貸座敷10軒 娼妓26名

明治中期には既にあったことが公式資料から明らかですね。
明治15年〜18年にかけて、まるで「バブル」のように栄えたことが数字だけでもわかりますが、
諸富に一体何があったんでしょうね?
この数字の変化は、諸富津に一時的に何かがあって、ちょっとしたバブルが起こったことが確かです。


大正13年 貸座敷12軒 娼妓49名 芸妓7名

昭和元年 貸座敷10軒 娼妓36名 芸妓4名
昭和3年 貸座敷10軒 娼妓27名 芸妓8名
昭和4年 貸座敷9軒 娼妓27名 芸妓7名
昭和5年 貸座敷9軒 娼妓21名 芸妓12名
昭和9年 貸座敷5軒 娼妓13名 芸妓3名
昭和10年 貸座敷5軒 娼妓10名 芸妓8名
昭和12年 貸座敷5軒 娼妓12名 芸妓11名

大正・昭和の諸富遊廓は、明治のバブルはどこへやら、数字的にも冷え込んでますね。
昭和5年から9年にかけて、貸座敷の半分が潰れてることになりますが、
恐らく昭和3年に佐賀市から諸富までつながっていた鉄道が廃止になり、
昭和10年に国鉄の佐賀線が開業するまで表立った交通手段がなかった影響かもしれません。
(バスくらいはあったと思いますが)

どれだけ諸富遊廓が衰退していってるか、訪れた客の数を見ても

昭和元年:5,296名
昭和3年:3,805名
昭和4年:3,685名
昭和6年:1,637名
昭和9年:769名
昭和12年:760名

どんどん衰退していってることがわかります。
単純計算ですが、娼妓1人あたりの稼ぎも、昭和元年が147円11銭だったのに対し、
昭和12年になると63円30銭くらいまで落ち込みます。
これは経営的には赤信号(倒産)に近いヤバさだったと思われます。

統計書の数字だけを見ても、なかなか面白いことがわかりますね。
特に佐賀県統計書は、他の都道府県の統計書は大正時代までしかないのに、これだけ昭和以降のもデジタル保存されているので、研究者にとってはありがたいですね。PC上で数字が見れるので、それもタダで(笑
佐賀に帰ってまいりました。
取り急ぎ、実家にあった『日本歴史地名大系 42 佐賀県の地名』(平凡社・1980)の中に関連する記述を見つけました。
詳細なものではありませんが、場所についてはある程度当たりがつきましたので、近々現地へ行ってみます。
諸富遊廓の明治17年の娼妓の大増加の理由がわかりました。
『性風俗史年表』によると、明治17年7月に佐賀市外にあった上芦町の遊廓が廃止され、「娼妓の大半は諸富町の貸座敷に移籍」との記載がありました。
これと統計書の数字が一致したということになりますね。
夏休みに帰省した時は急な体調不良で家から出られず、今回の帰省でやっと諸富へ行けました。といってもかなり急ぎ足でまわったため、見落とした何かもきっとあると思います。とあるお寺の住職さんにお話を伺うことができ、特に栄えていたエリアや、その辺りが佐賀空襲で全滅に近い被害を受けたことなどわかりました。実際その界隈をできるだけじっくり歩きましたが、当時を匂わせるものは、特に建築物としてはほぼ見つけられませんでした。

すみません実は今も時間なくて、ざくっと。後日またゆっくり書きますので。

009でWolfenden-Mixさんが書かれている石塚交差点。ここ(の辺りにもきっとあったのでしょう)を数十メートルR208側へ進んだところにR444と左へ行く道の二俣があります。この辺りが非常に遊び場の栄えていたところで、同時に空襲で凄惨な被害を受けたところでもあったようです。当時の港はそこからほんの50mほどさらに北へ行った辺り。

また、R208を挟んで北側と味の素工場の間も大変賑わいのある繁華街だったそうです。なんせ敵の一番の狙いは味の素でしょうから、ここも一部の家を除いてボロボロに燃えてしまったそう。このエリアで2点ほど、気になるものを見つけました。私道かな?という感じの未舗装の小道にかかっていたアーチ、何故かちょっとうねうねとへび道になっている参道。何かしら関係あるのかどうなのか、今回は判明せず。古い携帯画像な上に思いきり逆光だったりと見づらいですが、一応載せます。

筑後羽犬塚の遊女が諸富に移されたのが宝暦元年(1751)。その後、鍋島直正の意向で全滅したりまた復活したりと、詳しく書くと長い歴史を諸富も辿っているようです。

今回はこんなざっくりとですみません。写真一番右は帰りに寄った今宿。
かこぴんさん、調査お疲れ様でした&ありがとうございました。
空襲で焼けたのは予想はしてましたが、そのまま忘れ去られた感がある諸富遊郭にもようやく光が当たりつつありますねわーい(嬉しい顔)

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