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津久見市立堅徳小学校コミュの昔の徳浦(昭和30年代)

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【公楽部】
私が子どもの頃,徳浦には公楽部(こうらくぶ)という名前の古い映画館がありました。もともとは芝居小屋で花道もあり,当然,椅子席ではなく畳敷きの升席でした。夜になると座布団を持って家族でよく映画を見に行ったものです。昭和20年代までは田舎周りの旅芝居もよく来たそうですが,私が記憶している昭和30年代にはもっぱら映画館として営業していました。当時は日本中が映画ブームで,私は,若大将も大魔神もゴジラもモスラもマタンゴもみんなこの映画館で見ました。

【三角店】
公楽部から天神様の橋の方に行くと橋の手前でY字路になっていて,その三角形の敷地に小さな駄菓子屋がありました。その形から「三角店」と呼ばれて子どもたちに親しまれていました。いつもおばあさんがひとりで店番をしていて,まだ子どもの多かった昭和30年代には五円玉や十円玉を握りしめたわんぱく坊主たちでけっこう繁盛していました。

【天神様】
三角店の側の橋を渡ると神社(愛称は「天神様」)があり,境内は子どもの遊び場になっていて,そこに行けば誰か遊び相手がいたものです。今は立派な道路ができていますが,鳥居の前には(子どもの頃の印象では)大きな広場があって,その中央には土を盛った本格的な土俵がありました。お祭りの季節には露店がいっぱい出てずいぶんにぎわったものです。お盆のときには,土俵の上に大きな櫓を建てて,太鼓や三味線の伴奏で「津久見音頭」や「扇子踊り」などを踊っていました。

・・・書き出すときりがないのですが,私の子どもの頃の徳浦の記憶です。もうこの歳になると,懐かしいというよりは夢の中の出来事のような感じさえします。

皆さんにも,ちょっと昔のことや今のことを書いていただけるとうれしいです。よろしくお願いします。

コメント(15)

下記のサイトに,三角店のあった場所の写真や昔(昭和初期)の徳浦に関する記事があります。(「ぶんご紙飛行機」より)
http://www.bungo.or.jp/~hiko-ki/sitaura/tokuura/h15/3kaku/3kaku.htm
「仲良し公園」では私もよく遊んでいました。夏休みには朝のラジオ体操があって,首に出席表をぶら下げて通いました。昔は「白梅幼稚園」は下(しも)のもっと山のほうにありました。

「ぶんご紙飛行機」は津久見在住の方が運営しています。写真がたくさんあって楽しめます。権現様の通学路は昔と変わってなくて懐かしいですね。
昭和40年前後が津久見の最盛期ではなかったでしょうか。徳浦に映画館があったくらいですから当然ですが,市街地にも映画館が2つありました。たしか,ひとつは「水晶館」という名前だったと思います。

当時,津久見市の人口は4万人を少々超えるくらいで,商店街もにぎやかでした。子どもも多く,私がいた頃の堅徳小学校は1学年3クラス,二中はなんと1学年9クラスでした。

徳浦の車道にはダンプカーがたくさん走って危険なので,小学生の安全のために権現様の通学路が整備されたと聞いています。中学校と高校には2つのトンネルを抜けて自転車で通っていました。すれ違うダンプカーが怖かったです。
たしかに,「離合停車」とか「離合待ち」とか,他ではあまり耳にしませんね。合ノ元のトンネル,単線区間の特急にちりん,楽天地のケープルカー,津久見の人ならではの言葉かもしれません。電車

> しかし、このサイトには地元の人が入って来ないですね〜

地元の人にとっては身近すぎて入って来にくいのかもしれませんね。お互いに誰だかすぐにわかってしまうでしょうし。
> 楽天地のケープルカー

正式名称は「別府ケーブルラクテンチ」だったんですね。今はどうなっているのかと思って検索してみたら,経営難で2003年にいったん閉鎖して,新たに「別府ワンダーラクテンチ」として2004年3月に再オープンしたとのことでした。アヒルの競走はまだやってるのかな?
http://www.wonder-rakutenchi.jp/
こんばんは
私が現役の生徒だった昭和30年頃の昔話をちょっと書いてみます:

【朝日神社】
それまで水晶山の上の方にあった権現様(と呼ばれていた神社)が採石が進むにつれて危険になり、下(しも)の山道に新しい神社を建ててそこに移る事になりました。
ヒノキ造りの立派な朝日神社が出来、ご神体引越しの際は大変なお祭りでした。
以前に比べて参拝もしやすくなって神社は賑やかになりました。
我々もしょっちゅうそこで遊んだ事を覚えています。

ただし、この山道はあまり整備されておらず(特に学校側の下り道がたびたびがけ崩れしていたので)通学での使用は禁止で、徳浦から小学へ通うには海辺の広い道を通るように指導されていました。
当時の生徒数はたしか700名程居ましたので、登下校時の道は子供で溢れていました。
石を満載した10トンダンプが引っ切り無しに爆走する道を、大勢の小学生がわいわい通学していたんですから、いま思えば怖いものがあります。

『堅徳小学校百年史』(昭和52年発行)によると、権現様が水晶山から遷宮されたのは昭和33年(1958年)のことのようです。私は小学校に入学する前ですので、残念ながら記憶に残っていません。
でも、まだ新しい木の香りがする権現様の境内で遊んだ記憶ははっきりあります。神社の奥の崖のほうまで行くと海の景色がきれいでいつまでも眺めていました。

通学路の学校側の坂道はよく崖崩れがあって怖かったことを憶えています。今見ればたいした高さではないのですが、当時は怖くて歩けませんでした。
いつ頃だったか、やはりダンプの通り道は危ないということで、道幅を広げて修復されたのを憶えています。ちょうど、YS-11という国産旅客機が就航した頃だったような気がします。
私も少し前までは昔のことを思い出すなんてことはなかったのですが、はやりそういう歳になったってことでしょうか。
他の皆さんも「昔の徳浦/堅浦(昭和40年代)」とか「今の堅浦/堅浦」とかのトピックを立ててくれるとうれしいです。
そして、とり@ラジカルさん、私も知らない昭和30年代の徳浦のことをもっと教えてください。
よろしくお願いします。
稲尾投手物語・・・ような題名だったでしょうか。

鉄腕稲尾投手の生い立ちを描いた映画を小学校の時に「公楽部」に見に行った記憶があります。(昭和33年頃?)

白黒映画で、稲尾投手が自分で出演していましたね。
稲尾さんの素人っぽい演技、特に嵐の中で舟を漕ぐ熱演などを思い出します。


不世出の大投手・稲尾和久さんの冥福をお祈りします。

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