エリザベト・ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(Élisabeth-Louise Vigée Le Brun 1755-1842)は18世紀後半から19世紀初頭までを代表する肖像画家で、女性という性を男性と同等に置くという観念すらなく、性差によって職業や生活までを規定されていた時代に、自分の才能のみによって激動の時代を生きぬいた数少ない女性のひとりだと思います。彼女の評価は、その人生の大きな部分をフランス王妃マリー・アントワネットとの関係と関連付けられ、当時としては異例な、女性であるヴィジェ=ルブランの絵画アカデミーへの“歴史画”ジャンルでの入会許可は王妃の肝入りによるもので、彼女への評価はむしろ肖像画の分野でのそれであろうとも、単純に才能よりも王妃の偏愛の賜物による評価であれば、王妃の衣装商であったローズ・ベルタンのように革命後には世間から忘れ去られ、その長きに亘る画歴を重ねることもなかったであろうし、その亡命期間に行く先々での大きな歓迎も無かったと思われ、ルーヴルをはじめ、現在でも彼女の絵画を大小様々な美術館で見ることもなかったとのではないでしょうか。
ヴィジェ=ルブランは1755年4月16日、パステル画家であったルイ・ヴィジェ(Louis Vigée)と美しく貞淑な妻ジャンヌ・グレッサン(Jeanne Graissin)との間にパリで生まれ、サン・トゥスタッシュ教会で洗礼を受けました。生まれてすぐにエペルノンの農家へ預けられ、6歳の折にトリニテ修道院への寄宿生活の為にパリへ戻りました。7,8歳になる頃にはノートや学校の壁など、あらゆる場所にデッサンをしていたそうで、父親ルイは彼女のデッサンを前に、娘の画家としての優れた才能をこの頃から認識したようです。11歳で親元へ戻り、14歳を過ぎた頃からパリでも評判の美貌を噂される女性に成長しました、この時期に父親が亡くなるという悲劇に見舞われますが、その悲しみの中でも彼女の情熱は常にデッサンに向けられたそうです。長じて、王立絵画アカデミーの画家、ガブリエル・ブリアール(Gabriel Briard)に師事、後にはジョゼフ・ヴェルネやジャン-バティスト・グルーズ(Jean-Baptiste Greuze 17258-1805)などの当時著名であった画家達にも師事し、ヴェルネからは写実的な技法を、グルーズからはその耽美的なロマンティシズムを習得しました。1768年に母親のジャンヌが裕福な宝石商のル・セーヴル(Jacques-François Le Sèvre)と再婚します。1770年、時の王太子妃としてオーストリアからマリー・アントワネットがフランスへ輿入れして来た頃、ル・セーヴル=ビジェ一家はオルレアン公爵家のパリでの豪壮な邸宅であったパレ・ロワイヤルの向い、サン・トノーレ通りに居を構え、ヴィジェ=ルブランは14歳から職業画家として活動を始め、ヴェルダン夫人とシャルトル公爵夫人による庇護を受けて肖像画家として成功します。そのような中で、彼女自身のアトリエが無許可で肖像画の依頼を受けていたことにより差し押さえられ、組合サロンに彼女の作品を展示することを快諾した聖ルカ組合に入会を申し込み、1774年10月25日に聖ルカ組合会員になりました。彼女は非常に真面目な女性で、彼女を一目見ようと言い寄ってくる依頼主の肖像画を描くことを断るのもしばしばであったと云われています。こうして若い女流画家は王国内の偉大な人物のひとりとしてその第一歩を印したのでした。
1775年には王立絵画アカデミーに2点の肖像画を納め、それに因ってアカデミーの公開講座を受講する資格を得ます。1775年8月7日にヴィジェ=ルブランは、画家で画商でありながら根っからの遊び好きとして知られたジャン=バティスト=ピエール・ルブラン(Jean-Baptiste-Pierre Le Brun)と結婚しました。彼は多くの時間を絵を描くことよりも女の尻を追い掛け回すような貪欲な男であり、自分の出世に彼女の名声を利用したのでしたが、しかし才能ある画商としてヴィジェ=ルブランのその後のキャリアを手助けをしたのもまた彼であったといわれています。1780年2月12日、ヴィジェ=ルブランはひとり娘のジャンヌ・ジュリー・ルイーズ(Jeanne-Julie-Louise)を出産しました。妊娠中は出産に対する緊張と極度の不安に苛まれれながらも絵筆は離さなかったそうです。
1779年に初めて王妃の肖像画を描いて以来、王妃はヴィジェ=ルブランの描く肖像を気に入り、常に好意的に接したことが彼女の出世に少なからず影響を与えたのは事実で、この時代にヴィジェ=ルブランはパリでもっとも高額な画家のひとりと目されるようになりました。しかし、王妃の寵愛が高まれば、自ずとその立身を羨やみ、妬みや嫉みも囁かれ、後に王妃がその乱費を糾弾された折にはヴィジェ=ルブランも『浪費の画家』や『乱痴気騒ぎの容疑者』、『黄金で飾られた部屋に住み、札束を燃やして暖をとる浪費家』などと揶揄されることとなるのですが、1780年代はヴィジェ=ルブランにとってもっとも輝かしい時代であったといえます。1783年5月31日に王妃マリー・アントワネットの助言により国王ルイ16世は、ヴィジェ=ルブランの王立絵画アカデミー会員として異例の『歴史絵画』部門での許可します。この日には奇しくも彼女のライヴァルであった同じく女流画家のアデライド・ラビーユ=ギアール(Adélaïde Labille-Guiard 1749-1803)も共に入会を許可されるのです。しかし彼女達の入会は国王の第一画家で、アカデミーの会長でもあるピエール(Jean-Baptiste Marie Pierre 1714-1789)の意志に反しての出来事でした。この時期に彼女は毎年サロンへ作品を出品し、それらの中には、後にナポレオンの総統時代と皇帝時代に外務大臣となったタレイラン・ペリゴール公(Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord 1754-1838)の妃となるグラン夫人(Catherine Noël Verlée(Woriée) 1761-1834)の有名な肖像画(1783年)なども含まれ、大きな評価を得ました。その才能は殊に肖像画の分野において発揮されました。ヴィジェ=ルブランが多くの顧客を持ち得たのは、それまでの肖像画にはない新たな試みが行われたことで、それはモデルに従来の形式的なものではなく自然でありながら、更にそのモデルを表現する上で最も相応しいポーズをとらせたことだといわれています。