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井伏鱒二コミュの「山椒魚」最後の推敲と大胆な削除

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 みなさんは、特に若い皆さんはどの「山椒魚」を読まれたでしょう。
 米寿を迎える著者が愛着深い処女作に筆を入れ、大胆に文章を削る時どんな思いだったのでしょうか。

 今を去る昭和60年、新潮社版自選全集発行の際、ほとんどの作品に推敲が加えられ、特に山椒魚については、最後の山椒魚と蛙の和解する場面の17行が消え、改訂されました。

 私が教科書で出会った当時(改訂前)には、この後山椒魚と蛙はどうなったのか?想像してみようという問いが用意され、仲直りのシーンを思い浮かべましたが、今は読後の感想も少々異なるところです。とはいっても、岩波文庫は以前のまま、全集を刊行した新潮社の文庫も作者最後の推敲とは別に以前のままで増刷していますが。

 皆さんにとってこの削除部分はどのような「重み」があるでしょう?
 有るのと無いのとでは味わいがかなり違うようです。
また、作品と文章にこだわった老大家の執念や生き方についてどのようにお考えでしょう?
ぜひ、お聞かせください。

 山椒魚の最後の部分を比較してみます。
………………………………………………
 更に一年の月日が過ぎた。二個の鉱物は、再び二個の生物に変化した。けれど彼等は、今年の夏はお互いに黙り込んで、そしてお互いに自分の歎息が相手に聞こえないように注意していたのである。
………………………………………………
(自選全集版はここで完結する。 しかし旧版はこのあとに以下が続いていた)
………………………………………………
 ところが山椒魚よりも先に、岩の凹みの相手は、不注意にも深い歎息をもらしてしまった。それは「ああああ」という最も小さい風の音であった。去年と同じく、しきりに杉苔の花粉の散る光景が彼の歎息を唆したのである。
 山椒魚がこれを聞きのがす道理はなかった。彼は上の方を見上げ、かつ友情を瞳に罩めてたずねた。
「お前は、さっき大きな息をしたろう?」
 相手は自分を鞭撻して答えた。
「それがどうした?」
「そんな返事をするな。もう、そこから降りてきてもよろしい」
「空腹で動けない」
「それでは、もう駄目なようか?」
 相手は答えた。
「もう駄目なようだ」
 よほど暫くしてから山椒魚はたずねた。
「お前は今どういうことを考えているようなのだろうか?」
 相手は極めて遠慮がちに答えた。
「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」
 

コメント(15)

最終推敲されていない『山椒魚』派です。

ぜい肉がないのは美しいけれど、
ある程度ついていないと
魅力は感じられないという典型が、
最終版の『山椒魚』ではないでしょうか。

以下私の解釈を述べさせていただきます。

最後の蛙の言葉は、読者に大きな疑問を
投げかけるはずです。
なぜ、「今でもべつに」怒ってはいない、なのか。
「今はもう」ではないのか。
蛙は始めから、怒っていないということだったのか。

山椒魚が、岩屋に入ってきた小エビを
閉じ込めなかったのは、小エビが山椒魚と
同類ではなかったからであり
蛙は、自分と同類(両生類)なので閉じ込めた。

山椒魚は自分と似たものに一緒にいてもらって、
同じ苦痛を味わわせて、孤独を減らしたかった。
月日が流れても、憎みあう2匹。そして最後の言葉。
蛙は「今でもべつに」怒っていないと言う。

蛙が山椒魚の気持ちを理解するようになり
空間を共有したものとして、優しい気持ちに
なるのは想像できる。
そのような場合、最後には「今はもう」怒って
いないという心境になるだろう。
ところが、「今でもべつに」である。

蛙は水の中を自由自在に泳ぎ回っていたが、
泳ぎ回る自由よりも、一切の自由はないが
似たものと一緒にいることを
ーたとえそれが憎しみあっている仲だとしてもー
ひとつの生き方として納得していたのだ。


削除部分に、人生観の「重み」を感じました。

削除されていない『山椒魚』を、推します。
どっちもいいです。

僕は、ないのが好きです。
たぶんこれまた時間が経ったら変わるかもです。
井伏さんは晩年まで山椒魚の推敲を重ね、この改定のあともインタビューで「どうにかしてこの山椒魚を何とかしてやらないと」みたいな事を言っていたように思います。(山椒魚は作品のタイトルという意味でなく、登場人物としての山椒魚を指すようです)
もしも井伏さんがもっと長生きしていたらまた違う内容に変わっていたのかもしれないな、とも思います。
人間の人生というのが一面や一時期の様子だけでは語れないように山椒魚も変化し続けた過程も含めて山椒魚という作品、あるいは現象ともとらえることができる気もします。
とはいえ、自選全集のおりですし最後の改定になったわけですから、この削除は非常に気になるところです。
みなさん、ありがとうございます。
だんだんと私なりに考えがまとまってきました。
以下述べてみます。

米寿を迎える著者がその処女作を削った。
著者には最後の改訂、定本決定版となる覚悟があったはず。
もう以前から迷っていて、最後と決めた時だからこそ実行されたことに違いないと思う。

作品を磨きつづけるということ。
最後まで手離さない愛着深い愛娘のような作品。
堅い大理石を一鎚々々刻む彫刻のように、それは最後完成したのだろうか。

向けられてあるのは新しい読者のはずだ。
削除してその先の結末を読者の想像に託したいのか。
初めての読者はこの先をどう想像するだろう。

ならば私達は不幸にも結末の一つを知ってしまったのか。
こう思いながらホッとする旧作を願っていることも確かだ。
初めての読者となって最終改訂版を読みたい。
しかしそれはもう叶わないことだ。
新潮カセット文庫の「さだまさし」の巻末に
なぜかさだまさしと井伏先生の対談があります。
ひじょうに貴重な井伏先生の生の声が聞けます。
山椒魚の改変について、さだまさしが質問をします。
その答えは・・・
はぐらかしの名人といわれた井伏先生、
それは答えといえるかどうかわからない内容ですが、
先生の口調を聞いて、私の目にも涙の点滴でした。
人によって感じ方はちがうと思いますが。
推考です

顕微鏡は使わないという前提で…


蛙も山椒魚も他を捕食する生き物

死は食うか食われるかの世界の住人で、寿命で死ぬのは稀な生き物たち

その点が「同類」

寿命を感じた井伏鱒二は「同類」ではなくなってきた

食うか食われるかといった熱さで文壇に棲んだ孤高の井伏鱒二

浅いですが… m(__)m
あたし卒論でこれやってます♪

色んな論文を読んでるとこで、
皆さんの意見も読んで面白かったです。
井伏が弛まず進化を続けた結果が削除だったのだと思います。
すっきりして骨太になった感がありますね。

と、いいつつ、僕は削除前 肯定派。
トピック外れ且つ立て続けをお許し下さい。
トップ画像が変わりましたね。
気分が変わっていいですね。

と、いいつつ、僕は前の写真が好きだったかも。
私はこの写真の方が好きです。

氏の作品に表れた人柄、その人柄の現れた丸い顔。
この丸い感じをなぞって切り抜くようなトリミング?カットの仕方がなんといっても気に入ってます。

このトピック立てたのは私ですが、外れました。すいません。
みなさん、いろいろに書き込んでいただきありがとうございます。
トピックを立てておきながら外したので少し復習しながら、でも、やっぱり脱線ですかね。

ー[前半部]山椒魚の心とは反対の言動がつづく。
幽閉の悲しみに対して
「いよいよ出られないといふならば、俺にも相当な考えがあるんだ」
岩屋の外の光景を眺めることを好みながら、小魚達を嘲笑して
「なんといふ不自由千万な奴等であらう!」
ー[中間部]孤独を自覚し悲しむ。
決心、再び行動、徒労に終わって弱音を吐く。
感動するものに目を避ける。
「ああ寒いほど独りぼつちだ!」
ー[後半部]蛙を閉じ込める。
自分と同じ状態に置くことの痛快さを知る。
「一生涯ここに閉じ込めてやる!」
お互いにずっと張り合っていく。

………………………………………………

推敲前には和解のシーンが用意されていましたが、
和解後、つまり推敲前の小説のつづきですが、山椒魚は蛙を逃がすのでしょうか、
逃がせば、また、孤独です。
山椒魚にとって和解は、
A)仲良く岩屋で暮らすことを期待してでしょうか?
B)後悔と反省をしまた孤独を選ぶことでしょうか?
C)どちらでもなくもっと別の和解なのでしようか?
みなさん、どう思われますか。
このあたりに推敲削除の意図が見え隠れしているような気がします。
好き嫌いでいったら、削らないほうが好きです。

最後の和解、すごく好きです。

それをはじめによんで、今までもずっとそれを読んできたので、最後に和解して終わらないと、完結しないように感じてしまいます。
こんなにユーモラスかつさみしいラストをよくも思い付いたものだ、とずっと思ってきましたので。
新旧どちらが好きという選択から離れてみる。
削除はなされ、作品は決定版となった。
この削除の意味するものは何だろう、意味のないはずはない。
ずっと疑問が頭にあった。
批評家の言など気持ちに合わぬとたかをくくり、思いにまかせて想像してみた。
(トピックを立ててから、???が巡るが批評などでは実感が湧かないと読みもせず)

自選全集の第一巻の巻末には「覚え書」がある。「山椒魚」については6行が裂かれ、その前半には発表経緯、後半には、こう記されてある。
-------------------
山椒魚は岩屋に幽閉されると孤独でたまらなくなるさうだが、おなかが空いてたまらなくなると自分の手を食べることがあるさうだ。手は形が人間の手に似ている。後年になつて考へたが、外に出られない山椒魚はどうしても出られない運命に置かれてしまつたと覚悟した。「絶対」といふことを教えられたのだ。観念したのである。
-------------------
年譜によれば
「幽閉」と題された本作品の原型の発表は学生朗読会。大正8年(1919年) 21歳
加筆後「山椒魚-童話-」と解題し発表「文藝都市」。昭和4年(1929年) 32歳
そして今回の削除。昭和60年(1985年) 88歳

山椒魚とは人間のことだ。人間を書いた小説だ。
作者は旧作を加筆し改変する時、いつもその当時の自分に戻るはずだ。
飄々とした作風にユーモラスな題材で深刻さを覆っているが、著者には懐かしくも文学を志した若々しい気持ちのつまった処女作だ。
その狙いは人間の心理を丸づかみしてみせるぞという気概と野心に満ち溢れたもの。
哲学的な主題に真正面から取り組んだ愛着深いこの作品への思いは他の作品に対するものとは全く異なっていたと感じられる。

そんな作品には、改訂前、微笑みがあった。
しかし、著者はこれを望まず微笑みを捨てた。
自分の死を目前に意識して遂に迷っていた改訂に鉈を振るったのだと思う。

人間を主題として書いたはずのこの小説に、そうさせたのは何なのだろう。
確実なのは時が流れたこと。最初の発表から60年以上が経った。
作者の見る人間が、人間観が変わったのではないだろうか。
経過した60年には、戦争があった。敗戦があり、絶望があった。平和が訪れた。希望が生まれ、繁栄を遂げた。

しかし、人間のエゴは変わらない。むしろそんな人間にあきれ果てたのではないだろうか。
人間の内面観察を60年以上の間も続け、死を目前に結論したのではないだろうか。

平和を支えたのは両陣営の大量の核兵器の均衡にすぎなかった。
平和の意味するものは憎しみと疑いの上の互いの無関心でしかなかった。
互いの理解と協力による平和はついに来なかった。

全て競争に勝つ事が美徳となった。
勝つ事が優先され、それは善であり、正しいこととなった。
他者が勝利するくらいなら、卑怯な邪魔してでも同等でありたい。
自分が不幸のままなら、幸せになれないなら、他人にも不幸を味あわせてやりたい。
他人の漏らす悔しさの嘆きには、平時には味わえないほどの愉快を実感してしまう。
(悟られはせぬか、顔に出てはいないかと、ひた隠しにしながら)
自分の心の中の嫌らしい部分を見透かされたようなものがそこにはある。

やはり人間はこういう生き物でしかないと言いたかったのではないのだろうか。
作品「山椒魚」は、この削除によって人間の悲しく救いのない側面を今はっきりと際立たせ、結論し完成したのだと思う。
大家と呼ばれ、米寿を迎えた著者が死を前にして、その処女作を仕上げ、発表当時の若々しい企てのままに遂に完成したのだ。
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ちょっと力み過ぎました。

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