ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

「セユ」コミュのEpilogue05:セユ04

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 男は酷く長い話をした。あたしはただそれを聞いていた。それは馬鹿みたいな話だった。
 あたしは自分の過去を知らない。あたしは叔母さんに育てられた。それだけで十分だった。男がしたのは母親の話だった。
 その男はロダと名乗った。身長は、そう、あたしより少し高いくらい。ひどく細身だった。ホリが深くて、鼻が高かった。黒いくしゃくしゃの前髪が目を隠してる。でもその合間から見える目はすごく綺麗で悲しげだった。長い長いまつげ。グラスを持つ指はすらりと細くて、折れそうなくらいキャシャで、長かった。見てるだけでトリハダが立つような真っ白なシャツを着ていて、ゾクッとするような黒いパンツを履いていた。すごく不思議なシルエットのパンツ。割かし太くって、それなのに逆に細さを引き立てるような。茶色のベルトは上品で、新宿によくいる金持ちのフリをしたがる男のベルトのように説明過多じゃない。シンプルで、かつ説得力があるデザインだ。ジャケットは信じられないほど深い紫色のベロア。あたしはこんなに紫が似合う人に初めて出会った。
 ロダは、サイドカーを飲みながら、煙草を吸っていた。ロダの細い指のアイマに揺れる煙草からは、今まで見たことがないような形の煙が出ていた。ルカ叔母さんの煙草の吸い方をあたしは綺麗だと思ったけど、この人にはかなわない。理屈じゃないんだ。煙の形そのものにまで美学を染み渡らせている。バーの空調はとても古い。頭上で回るファンに吸い込まれていくその煙は、とても甘い香りを放ちながら、ラグナレクの荘厳さと同時に、一輪の花が散る瞬間の儚さをも併せ持っていた。綺麗な人。
「ミヲ、君はセユとカサの娘だ。」
 ロダは言った。あたしは煙草に火をつけた。マルボロメンソールライト。あたしの舌にはこれが一番馴染む。あたしは肺一杯に煙を吸いこみ、一直線に吐き出す。熱い煙はあたしの喉を焦がし、肺を真っ黒に染めていく。それは百本のベンモウを持った微生物みたいに確かにあたしの肺胞の一つ一つに入り込み、そこを犯してくんだ。それはとてもスウィートな感覚。自分がどんどん汚れていくって実感。
「変な名の両親ね。」
 あたしは笑った。でもきっと笑顔なんて出来ていなかった。なぜかしら。自分が自分でなくなっていく感覚。ロダはあたしの隣の席に座ってカウンターに肘をつき、うなだれ気味に煙草を吸っている。その体のラインは台風の風で折れる寸前まで屈んだ柳みたいに綺麗だ。ひどく憂鬱で、今にもここからいなくなりたいって言いたげなその影と、同時にあたしに全てを語ってしまいたいっていう貪欲な、その目。怪しい瞳ってこういうのを言うんだっていうお手本にしたいような目をしている。海が全部干上がって、地表が残らず砂漠化した惑星のような色の瞳。
 マスターは力なく氷を削っている。ロック用の、丸い氷。アイスピックを持つ手はどこかおぼつかなくて、ロダとマスターが出会ってから今までの時間の長さと残酷さを酷く端的に示している。その氷を削る機械的な音は語りかける。人は、老いるのだと。

 ロダは語った。母のことを。その女、セユ。新宿の最高級娼婦。人を食う烏。時間を食う女。ノボル叔父さんが、ロダが、そしてカサ、或いは父が愛した女。

 ロダは語った。ロダが母を殺したことを。

そしてロダは去っていった。きっともう永遠に会うことはないんだろうな。

 マスターはいつの間にか眠り込んでいた。鳩時計が三時を告げる。サティのピアノはいつの間にか止まっていた。あたしは一口も飲まなかったブラッディマリーのグラスを見つめる。トマトジュースはみごとに分離して、金魚鉢の底の土のように何層かに別れ、そのアイデンティティを保っていた。
 あたしの思考はいつものような空回りするほどの驚異的な速度を失い、しかし、海底を歩む深海魚のように神秘的なほど的確な論理展開を手に入れていた。どんどんあたしがあたしじゃない人になっていくのを感じる。ミヲっていう人間の物語が終わってく。
そうだ。カサだ。きっと叔母さんがかつて言っていた、かつて期一緒に暮らしたという男だ。
「会ってみたいな。」
 あたしは呟く。乾いたバーの空気の中でその声はとてもウェットに響いた。そして、その時、あたしは一つのことを理解した。ルカ叔母さんがあたしにかけた呪い、それは、探すこと。あたしはこの首から掛けられた時計を何百人もの人間に見せてきた。叔母さんはきっと、あの時計を知っている人を探しているんだと思ったから。でもそれは、灯台下暗で、マスターも時計のことを知っていた。ロダも時計を知っていて、それどころかこの時計をルカ叔母さんに渡したのもロダだったわけだが、それは正解じゃなかった。だって二人に時計を見せても何も変化は起きなかったのだから。そうだ。正解は、カサだ。カサに時計を見せるのだ。カサ、時計の持ち主。あたしの、父親。
 あたしはこれからカサを探すんだ。叔母さんはきっとそのためにあたしに呪いをかけた。あたしはカサを探すんだ、そして、きっとカサを殺すんだ。あたしは感じる。この小さな体の上にのしかかった、誰かの殺意を。それはとても明確で行儀良くまとまっていて、礼儀正しくあたしの頭上に鎮座ましましている。いつかその殺意が隠している牙をむき出してあたしを襲う。その瞬間を考えるとゾクゾクする。あたしは人を死なせたことはあるけど、殺したことはないから。
 そして、セユ。素敵な女だったのだろう。ルカ叔母さんがいつか化け物と称していたような部類の人間。いや、烏か。
 あたしのライターには手描きの絵が入っている。あたしが描いたカラスアゲハ。あたしは蝶だ。カラスアゲハだ。花から花へ渡り歩く。しかし空を優雅に舞う蝶は、相手を食らうことはできない。蝶じゃ駄目なんだ。烏にならなければ。

 あたしは席を立った。マスターはまだ眠っている。コートをハンガーから取り外し、店から出た。鳩時計は四時を告げた。

 深夜の歌舞伎町。かつては日本人で溢れていたこの町。今では酔って歩いているのは外国人マフィアや不法滞在者達だ。あたしはこのゴミ箱をひっくり返したような町の真ん中を歩くのが好きだ。
  全く似合わない真っ白なコートを着た中国人が顔を真っ赤にしてふらふら歩いている。男の左耳には大仰なピアス。妙な形の眼鏡。上等な作りだが下品な雰囲気のコートの左胸の部分が奇妙な形に膨らんでおり、両脇から男を支える韓国人ホステスは作り笑いをしているが、その膨らみに体が当たると顔色を変える。
  南米系の男が二、三人路上に座り込んで煙草のようなものを吸っている。全員が力なく宙を見つめ、その瞳は黄色く淀んでいる。遠くから乾いた銃声のような音が、急ブレーキを踏む自動車の音が、何語かも分からない女の悲鳴が、男の怒号が聞こえる。
  ホーチミンの顔がプリントの施された帽子を被った白人男とチェ・ゲバラの顔が縫いこまれた下品なジャケットを着た黒人男のカップルが腕を組みながら二人連れで歩いてきて、あたしの前でその固く結ばれた腕をはずして両脇を抜け、あたしの背後でまた腕を組んだ。
 数年前までファーストフードチェーン店であった店の前を通る。マフィアの抗争で潰された店。報復を恐れ、或いはあまりに演技が悪いからといって新規入店も無い哀しいペナント。割られたガラス、散乱したイスや食器。笑顔の女性タレントがでかでかと載ったメニュー。あたしはその割れていないガラスを覗き込む。そこには、歌舞伎町にはあまりに不似合いな19歳の少女が映っている。
 少女は小柄で、細身ではあったが、そのシルエットは魅力的な曲線を描いている。黒いエナメルのスカート。紫と黒のボーダーのニーソックス。哲人的なダークブラウンのブーツに咲く金属製の薔薇のモチーフ。ポロックの色使いをモンドリアンの構図で再現したような形而上学的な模様のセーターの上に、豹柄やゼブラ柄など、さまざまな動物の毛皮の模様の生地のパッチワークで作ったぞっとするような存在感のジャケット。首からは懐中時計をさげている。金色と茶色の間の光沢のある髪。赤紫のアイシャドウの下の、大きくつぶらな瞳。口角の上がった、ぞっとするほど鮮やかな紅の唇。小さく整った鼻。思慮深げでかつ病的な印象の睫毛。丁寧に時間をかけて施された、蝶の柄のマニキュアが施された指がその化粧っ気の薄い白い頬を撫でている。
「新宿の伝説の娼婦、セユ、か。」
 あたしはまた歩き出す。その時、日本人らしい男があたしの方を向いているのに気づく。男はオメガの時計をし、アルマーニのスーツとコートを着込み、にグッチの眼鏡をしていた。歳は30と少しといったところで、一見エリートサラリーマンといった風貌であったが、多分マフィア付の会計士か弁護士といったところかしら。オメガのスピードマスターをはめている。
「君、日本人だよね。」
 男は話しかける。歌舞伎町で日本人同士が顔を合わせるのは非常に珍しい。フランスの外人部隊で日本人同士が顔を合わせるくらいかしら。
「ええ、そうよ。」
 あたしは答える。そして、男の目に見慣れた光と熱を感じる。
「この町で日本人と会うなんて珍しいな。よかったら、朝までまだ時間があるし、酒でも飲まないかい。」
 男は言う。あたしは笑いそうになったが、なんとかこらえた。
「安くないわよ。」
 あたしは男を真っ直ぐに見て、モデルみたいに腰に手を当ててポーズを取る。それだけで男から感じる熱は上がる。単純で、浅はかで、馬鹿な男だ。
「さすがだね。君、名前は。」
 男は尋ねる。
「セユ。」
 あたしは答えた。酷く簡潔に。今日の天気が雨だって答えるくらいに簡潔に、無感動に。
「セユ。初めて聞く名だな。」
「昔は知られた名だったわ。貴方、この街長くないわね。さ、行きましょ。」
 男は笑った。金持ちだ。適当に遊びも覚えたって顔。素晴らしい。ブラボー。ハラショー。あんたみたいなタイプはあたしの大好物よ。
  あたしは笑った。
  セユは笑った。
 セユは男の手をとって歩き出す。
 セユのブーツから、奇妙な音がし出した。
その音は耳をつんざくほどほど圧倒的に大きく、かつ不安を覚えるほど微かで密やかに響いた。大麻を吸っていた南米系の男達は黄色い目を見開き、本能的な恐怖に顔を歪ませた。韓国人ホステス達は、冷や汗をかいて足を止め、支えを失った中国人男性は、その音を聞いて一瞬右手を懐の膨らみに伸ばしかけ、すぐに手を下ろして力なくその場に座り込んだ。白人男性と黒人男性のカップルは手を取り合って、不安げにあたりを見回している。歌舞伎町を包む、セユの足音。躓くようなシンコペーション。不協和音のポルタメント。

  すべてのゴミ捨て場から、腐った果物や浮浪者の食べ残しの残飯や死体の腕や血や脳漿や嘔吐物をあさっていた烏が一斉に飛び立ち、12月の風が雲を払い、月が顔を出した。病的な美しさを湛える青い月だった。
  影が出来るほど力強く、かつ妖しいその月の光は、生まれたての一羽の烏を祝福するかのように、倦怠と退廃を貪る歌舞伎町の夜に降り注いでいた。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

「セユ」 更新情報

「セユ」のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング