ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

「セユ」コミュのEpilogue04:カサ07

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  新宿駅の東口を出た僕は、駅前の喫煙所でしばらく煙草を吸うことにした。雨の平日にも関わらず、ここには人がいる。喫煙所ではサラリーマンや学生や、浮浪者が一斉に空に向かって煙を吐いていた。僕は彼ら後ろの木陰で煙草をとりだした。雨は本降りだったし、傘を持っていなかった。煙草が湿っていないか気になったが、存外簡単に火はついた。サラリーマン風の男が、左手で傘を持ちながら、右手で煙草を吸っている。僕は左手の時計に目をやった。でも時計のガラスは砕け、文字盤はゆがみ、針は重力に抗えなかった。ロンジンというロゴも酷く歪んでいた。僕はそれでも構わず時刻を読み上げる。7時35分。その声を聞いた隣の女が変な顔で僕を見た。僕も女を見る。女はキャビンマイルドを吸っていて、一つ八十円で売っているドーナッツのような色のチリチリの髪を肩まで伸ばし、酷く派手な青緑のアイラインを塗っていた。女はここ一ヶ月ほどその日着る服とメイクの順番以外に考え事をしていませんでしたという顔で僕の目を見た。そして十秒ほどで目をそらし、煙草の火を消して新宿通りを東へと歩いていった。あの化粧は雨で崩れないのだろうか。
   もう一度時計を読み上げる。5時丁度。素晴らしい。この時計が正時を指すのはとても珍しいから。丁度煙草も吸い終わったところだったので、僕は雨の振る新宿通りを横切り、歌舞伎町のほうへと足を進めた。
  新宿の雨が好きだ。新宿の街は酷く不潔だ。そして貧しい。いつかルカが言っていた。
  「表参道に降る雨と、渋谷に降る雨と、新宿に振る雨は全て違うんだ。勿論六本木や吉祥寺に降る雨も。雨ってやつは、降る場所で全然違う。私は渋谷に降る雨が好きだね。なんていうか、裏表がなくって。」
  僕は新宿の雨が好きだ。そしてそれはつまり、僕は新宿が好きだってことだろう。
  靖国通りの交通量は多く、僕は信号を待ちながら歌舞伎町を見た。夜はきらびやかなネオンの看板も、昼間見るととても汚らしい。いや、新宿にある建物のほとんどは汚らしいか。あの象の皮膚のような無機質なコンクリート。何十年経っているか分からない老朽化した雑居ビル。本当の金持ちは新宿なんかで酒を飲まない。結局、どれだけ時代が変わっても新宿は貧しい者の街だ。ノボルさんの父親は、新宿で酒を飲んでいたと聞いた。全共闘に参加していたノボルさんの父は、仲間と安い酒を飲みながら、夜通し来るはずの無い革命の話をしていたそうだ。きっと、新宿の匂いってそのころから変わっていないんだ。
  歌舞伎町一番街のネオンをくぐる。それはまるでくたびれた老兵のようだ。コマ劇場の前には、雨宿りをする浮浪者が何人もいた。彼らはわけの分からない言語をうわごとのように呟きながら、ぼうぼうの髭を撫でていた。その中で、特等薄汚い格好をした白髪頭の男が僕の方を見た。目が合った。
「ああああ、あんた、ちょっとちょっとちょっとちょっと、あんただよ、あああ、あんた、あんたさあ、もしかしてさあ、ちょっとちょっとちょっとちょっと、あんた、もしかしたらさあ、ほら、おまえだろう、ほら、おまえだよ、なんていったかなあ、ああああ、おぼえていないか、ほら、おれだよ、おまえ、おまえ、なんていったかなあ、おれだよ、おれ、ちょっとさあ、あんたさああああ。」
  白髪頭の老人はヤニで汚れきった黄色く変色した目を鬼のように見開き、僕のほうへよろよろと近づいてきた。しかし老人は路上に出て雨に打たれると、その場にしゃがみこみ、動かなくなった。そして大声でこう言った。
「ああああ、あめだああ、たいへんだあ、ほおしゃのおにやられるんだ、おれはああああ、し、し、し、し、しのはいだ、まぐろをくっちゃいけねぇって、おれのおふくろがいってた、ま、ま、ま、ま、まぐろにはあ、しの、し、し、し、しのはいがあああ、あるって、お、おふくろ、が、いって、たんだああ。」
  浮浪者たちは笑っている。白髪頭の老人は頭を抱えて泣き叫んでいる。僕は彼を一瞥し、コマ劇場前の広場を横切った。向かいの映画館には行列ができている。並んでいるのはカップルが多い。恋愛映画かな。
  行列の中ほどに、整髪スプレーを一週間で使い切るんじゃないかというほど不自然な髪型をした男がいた。瞼の上や、唇の周り、そして耳に金属製のアブラムシのようなピアスをしている。男は隣に並ぶ女と手をつなぎ、なにやら話している。男の声は妙に高く、そして大きかったから僕には男が何を話しているかがわかった。
「だからさあ、ね、あの日俺はほんとにクラブにいたんだよ。ああ、そうだよ。みっちゃんとかに聞いてみろって、お前。来なかったのはお前じゃんよ。なんだよ、それじゃまるで俺がお前とのデートすっぽかしたみてぇじゃん、違うって、な、あの夜さ、俺のセンパイがDJやるってんでさ、早く行っちゃったんだってば、メール見なかったのかよ、それでさ、すっげぇ人来たから中で会えなかったってだけだろ?違うって、いたよ。本当だってば。」
  男の話を聞きながら相手の女はひどく不満そうな顔をしていた。飲みかけのジュースに繁殖したカビのような色の髪の女だった。下瞼にひどく眠たそうなくまを作っていて、ファンデーションをたっぷりと塗ってはいたが、そのあごは確かに黒かった。他の客はみんな半そでなのに、その女だけ長袖を着ている。男の方を見て話してはいるが、きっとあの女の目には男は見えていなかっただろう。
  行列を眺めながら映画館を右に曲がり、そこからしばらく歩いた。そして区役所通りの手前から、細い道に入る。この辺は歌舞伎町の奥地だ。ここらの看板は夜になれば虫をおびき寄せる毒花のような灯りを放つが、雨の昼間に見ると滑稽なだけだった。パブ、クラブ、ソープ、ヘルス、SMバー、イメクラ、キャバクラ、ホストクラブ、ハプニングバー、ありとあらゆる欲望がここにはある。ビルとビルの隙間から猫が飛び出してきた。猫は何か赤いものを咥えていたが、僕と目を合わせるとそれを取り落とした。それは人間の人差し指のようにも見えたが、よく分からなかった。猫はすぐにそれを咥えなおして去っていった。あの猫は昨夜耳の裏まで掃除したのだろうか。
  「止まり木」は、猫が出てきたビルから30メートルほどのところにあった。
  時計を見る。4時半。右手を振る。5時20分。それから僕は空を見た。鉛色の空。まだ開店までは時間がある。

  僕は新宿区役所の向かいにあるドーナッツショップに入った。眼鏡をかけた女の店員はびしょ濡れの僕を見て少し驚き、他に客がいなかったからか妙に親切に話しかけてきた。
「あああ、大変。雨、強いみたいですね。タオル、ありますけど、使いますか?」
  僕は頷く。スニーカーの中までぐっしょりと濡れていて、一歩歩くごとに中から水が漏れた。
「はい、どうぞ。ああ、大変ですねぇ。もう。こんなに降って。おかげで随分暇なんですよ。」
  僕はタオルで髪を拭き、体を拭いた。
「財布とか大丈夫ですか?」
  僕は頷く。ポケットから取り出した安物の革財布は、完全に変色していて、水が滴っていた。
「まあ、大変。うーん、そうだ、タダでいいですよ。ね、ここだけの話ですけど、最近賞味期限偽装って流行ってるでしょ、あれ、実はうちの店でもやってるんです。だから、もしかしたらうちの店も営業停止になるかもしれないんで、そしたらあたし、ここのお店止めるんで、もう関係ないかな、とか思ってるんですよ。だから、タダで差し上げますよ。」
  眼鏡の店員は、ひそひそと話した。黒縁の眼鏡。女の髪はマッシュルームヘアだが、マッシュルームというよりはシメジか何かに見えた。背は高くなく、幾分上唇がめくれ上がっている。黄色いユニフォームを着た女は、きっとこの街の底に住む烏のことなんて何にも知らないのだが、なぜかこの街に酷くなじんでいた。僕にはその女がひどく逞しく見えた。
「ありがとう。お言葉に甘えるよ、ところで、よかったら傘かなにか無いかな、煙草がしめっちゃってさ。新しいのを買ってきたいんだ。」
「あら、何吸うの?私の分けてあげましょうか?」
  女は僕に酷く近づいて話す。すっかり僕と友達か何かになったと思っているのだろう。
「マルボロメンソールのライト。」
「あら、ちょうどいいわ。私今二箱持ってるの。一箱あげるわね。ちょっと待ってて。」
  女は従業員以外立ち入り禁止のドアを開け、3分ほどで煙草を持ってきた。
「ありがとう。ところで、珈琲と昔ながらのドーナッツもらえるかな。」
「勿論。あ、これ分かってると思うけど他の人に言っちゃ駄目よ、あたしたちの秘密。」
   僕は見たことも無い形のドーナッツと、酷くまずい珈琲をもって二階に上がり、窓際の喫煙席に座って煙草に火をつけた。
   新宿には雨が降り続いていた。窓の外では傘をさしたサラリーマンが色々な方向に歩いていた。彼らはみんな一人一人別の物語を持っているのだろう。そう思うと僕がここで煙を吐いているのも僕の物語の一部なのだろう。
   昔、僕は自分の人生は何も始まっていないと思っていた。これから僕が何かをすれば、僕の人生はそこからだと信じていた。しかし、高校に入ったときに分かった。僕はもう人生のある程度を終えてしまっていたのだと。僕は中学時代を失ったのだと。僕は今日一日を暮らすことで、今日一日を過去にしている。そして僕の物語はその分決定され、終わりに近づいているのだ。
  もし僕が自分の人生を本にまとめるとしたら、どこをクライマックスにするだろうか。きっと僕は、あのセユとの日々をクライマックスにする。
  僕とセユは世界中の雨が世界中の森に降っているような静けさの中で、涙が出るほど優しい夜の懐の中で、そして退廃と倦怠の海の中で愛し合った。僕らは世界を満たし、同時に世界を空にしていった。
  誰かを愛することは、世界を広げながら、同時にひどく限定する行為だ。
  僕はセユを愛していた。そしてセユは僕を愛していた。しかし、セユはいなくなった。その理由があのころの僕には分からなかった。
  僕は煙草の火を消し、席を立って階段を下りた。さっきの眼鏡の従業員はもういなかった。髪を赤く染めた蓮っ葉な視線の女がめんどくさそうに僕に声をかけた。

  区役所通りに降る雨は、昼間より幾分優しくなった。
  僕はまた止まり木まで歩く。時計を見ると、もう3時40分だった。もう一度時計を見る。6時20分。ため息。
  鉛色の雲が徐々に黒くなり、ネオンが煌々と輝いている。色とりどりの看板に灯りがつき、サラリーマン達が徐々に歌舞伎町に集まっている。「止まり木」灯りは消えていた。そういえば今日は定休日だった。まぁいい。僕はきっともう二度とここには来ないのだから。

  六月の雨は静かに新宿を溶かしている。僕がセユに最後に会ったのもこんな雨の中だった。
  ネオンの灯りが雨ににじみ、夜の新宿が明るくなっていく。僕は区役所通りから靖国通りに出て、まっすぐ駅へと向かった。
  セユは最後に僕に言ったのだ。
「カサ、生きて。お願い。生きるの。私は貴方を生涯をかけて探してきたの。カサ、生きて。」

  新宿駅の東口前には雨にもかかわらず多くの人がいた。何人かの学生、何人かのサラリーマン、OL、ホステスにホスト、ヤクザ、中国人や韓国人の観光客。
  雨、雨、雨。僕は新宿通りのスクランブル交差点を渡る。雑踏の中、そっと両手を広げた。両手一杯に雨を浴び、一本の橋の上を歩くように歩む。すれ違う人々の目は、ひどく曇って、或いは濁っていた。僕は目を閉じた。世界の音が消える。雨の音が聞こえる。
  僕は両手を下ろし、足をとめると目を開けて空を見た。セユが昔言っていた。雨の日の月が一番綺麗だって。僕はかつて月に帰りたかった。きっとセユもそうだったのだろう。セユは、月に帰れたのだろうか。

  その時、雨雲の上の月が、僕にも見えた気がした。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

「セユ」 更新情報

「セユ」のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。