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「セユ」コミュのEpisode09:カサ03

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 僕と彼女、貴子が二ヶ月という短い蜜月期間に一緒にしたこと、その七割は読書であった。あとの三割は散歩か。
 高円寺に住んでいるという彼女となぜ国分寺で知り合ったのかは分からない。しかし貴子はしばしば国分寺に現れていた。そして僕の行き付けのジャズ喫茶で本を読んでいたのだ。
 貴子はキース・ジャレットを好み、僕はセロニアス・モンクを好んだ。貴子は江國香織を時間をかけて読み、僕はその日の気分で様々な本を比較的速いペースで読んだ。
 僕らは何度か顔を合わせるうちに挨拶をするようになり、ある日貴子が言ったのだ。「ねぇ、貴方、私の彼氏になってみない?」って。
 それまでの人生で女っ気の無かった僕はさして深く考えずに了承した。めでたく恋人の誕生である。
 でも僕には付き合うことの意味がよく分からなかった。僕達はとりあえず国分寺のジャズ喫茶で本を読み、感想を語り合った。しかしそれはカンガルーとヤモリが新品のウィンドウズの使いやすさについて語り合うような上っ面だけの会話で、僕らは本当は何も話していなかったのだと思う。
 貴子が一冊読む間に僕は四冊は本を読むことが出来た。そして本の種類も傾向も内容もまったく違った。音楽の趣味は、ただそれがジャズであることしか接点は無かったんだと思う。
 ジャレットの静けさを好む貴子と、モンク世間を斜に見た姿勢と体臭を好む僕が、二人で一緒の時間をすごしていたのだ。なんだか変な感じである。
 貴子は時々公園に行きたがった。大学も二年目になって東京、あるいは多摩の地理に少し明るくなった僕は貴子を井の頭公園や昭和記念公園に連れて行った。
 貴子はいつも品のいいスカートにシンプルなトップス、サンダルに籠のバッグといった姿だった。シンプルな服装でもそれぞれの質は非常に高いもので、貴子のふわふわとしたお嬢様的な性格とあわせて静かな魅力をたたえていた。
 貴子は公園に行くといつもサンダルを脱いだ。そして裸足で歩くのだ。
「貴方もやってみて。きっと素的よ。」
 でも僕はサンダルではなく安物のスニーカーをいつもはいていたから、足を洗うのが面倒で、裸足なのはいつも貴子一人だった。

 彼女と本屋音楽の話意外にどんな話をしていたのだったか。
昔の話をした気もする。貴子の昔の恋人の話や、貴子の建築家の両親の話。ペットの犬の話や家族で行った海外旅行の話を僕は貴子に聞かされた。
 僕は何を話したのか。男子校時代の汗臭い話、あるいは簡単なカクテルの講義をした記憶もある。あとはほとんど一人の作家しか読まない貴子に僕のおすすめの作家について語ったくらいか。

 貴子は美大生だといっていた。どこの美大であるかとか、何を専攻しているかとかは僕はあまり聞かなかった。興味が無かったのではないが、なんとなく貴子が聞かれることを嫌っていたような気もした。
「何でも聞いてよ。全然問題ないから。」
 貴子はいつもそう言っていた。
 でも貴子も僕に何も尋ねてこなかった。僕の大学の名前くらいしか知らなかったと思う。
 だから貴子が望んでいたことは、僕には伝わらなかった。そして、僕が貴子に望んでいたことがかなえられたこともなかった。

 僕らはただ、一緒にいたのだ。そしてそこには愛情と呼べる類の感情は無かった。そんな気がする。恋人らしいことは僕らはほとんどしなかった。貴子に触れたいと思ったこともあまり無かったし、貴子が僕の手を握ったこともほとんど無かった。

 でも、ただ一度だけ、僕らは口付けを交わしたことがある。
 それは僕らが最後に会った日だった。五月の上旬、ゴールデンウィークの直後。冬が帰ってきたのかと思うような肌寒い日だった。
 僕らは吉祥寺にいた。
 貴子は雨上がりの肌寒い井の頭公園でいつものようにサンダルを脱ぎ、一時間ほど歩いてから足を洗ってサンダルを履いた。
 ヨウジヤマモトのネイビーのハイネックセーターを着て、より鮮やかなブルーのチェックのスカートを着ていた。そしてその上になぜか一品だけ安物の白いフルジップのパーカーを羽織っていた。いつもの籠のバッグ。足を洗うときに預けられたサンダルはY−3。両家のお嬢さんだな。本当に。ただ、あまりの寒さに間に合わせで買ったというその白いパーカーだけが貴子の幼さを表しているようで、なんとなくかわいらしかった。
 貴子はよほど寒かったらしく、珍しく僕の腕にしがみついてきた。
 僕はボーダーのTシャツにベージュのカーディガン、穴のあいたジーンズに黒いベロアの上着という、貴子と比べなんとも安っぽい格好だった。

 僕と貴子の服はまるまる1シーズンくらい違った。なんだかそれは僕らの距離を表していたような気がした。月と地球?もうちょっとかな。アポロがあっても多分届かないくらい。

 そして僕ら吉祥寺の伊勢丹の近くのジャズ喫茶に入った。吉祥寺に遊びに来るときによくくる店。多少大きな声で話しても文句を言われない簡単な店。
 貴子はローズヒップを、僕はエスプレッソを頼み、しばらく何も言わずにそれを啜っていた。
 僕らは他の恋人達と異なり、言葉を必要としなかった。或いは僕らは恋人ですらなかったため、言葉が存在する「場」が無かったのかもしれない。

でも、きっと恋人であるか否か、そんなことは重要ではない。愛しているかどうかなんて、どうでもいい気がする。重要なのは二人の人間がいて、関係できるかどうかだ。

関係。僕は貴子と関係できたのかな?

 二人が時間をかけてカップを空け、やっと体が温まった頃に、店内の照明が2トーンほど落ちた。
 僕は懐中時計を上着のポケットから取り出しで時刻を確認する。五時半。バータイムか。
「その時計、いつも見てるけどやっぱりいいわね。」
 貴子は窓から灰色の空を見上げながら静かに言った。貴子から僕に話し掛けることはあまり無かったから、僕はしばらくそれが貴子の質問だとわからなかった。
「ああ。オリスの手巻き時計。大学の近くの質屋で見つけたんだ。ムーンフェイスが欲しかったんだよ。」
 貴子は手を伸ばし、その懐中時計を手に取った。キャップは無く、白い文字盤、黒いアラビア数字、そして中央にムーンフェイスというシンプルな懐中時計。たまに巻くのをわすれて大切なときに時刻がわからないという厄介な相方ではあったが、気に入っていた。
 貴子はしばらくムーンフェイスを眺めていたのだと思う。貴子は時計をつけていない。時間に縛られない女の子なのだ。土地鑑もひどく悪いから、貴子のあとに歩くと、いつも行っている公園までの道のりもよく間違えた。
「月が好きなのね。」
 貴子はとろんとした目で言った。初めてみる目だった。普段の貴子は桜の花みたいに明るいのに。
「ああ。僕はいつか月に帰りたいと思ってるよ。」
 本気だった。
「いつか貴方の絵を描きたいわ。」
 貴子は言った。そして僕に時計を返した。

 沈黙。

「バータイムだ。お酒は飲めるかい?お嬢さん。」
「少しなら。」
 僕は右手を挙げて店員を呼び、夜のメニューを見た。カクテルの数には自信があるようだ。ウィスキーを飲む気分ではなかった。
「僕はジン・トニック。」
 どこに行っても大差の無い無難なカクテル。
「君は?」
 貴子はメニューを選ぶのに酷く時間がかかる。漫画を一冊読むのに二時間かかると言っていた。
「チャーリー・チャップリン。」
 聞いたことの無いカクテルだった。
「このカクテルの色が好きなの。」
 注文するのは僕。いつのまにか客は僕らだけだった。
 運ばれてきたジン・トニックはやはり無難な外見であり、無難な味であった。チャーリー・チャップリンはロックスタイルのカクテルで、柑橘系のいい香りがした。
 貴子はしばらくその色を眺めていた。僕は貴子に合わせてゆっくりとジン・トニックを飲んだ。
 僕らの間の言葉はしばらく途切れていた。珍しくも無いことだが、この夜は別だった。
 僕らは見詰め合っていた。
 あれだけ長く貴子の目を見たのは、後にも先にもあの時だけだっただろう。
 僕らは二時間ほどかけてゆっくりと、ゆっくりと酒を飲んだ。
 何かが普段と違った。

 僕はテーブルにひじをつき、手が自然と貴子の顔に伸びた。貴子の顔に触れるのは初めてだった。
 貴子は酔っているのか、僕の手に自分の手を添えた。温もりが伝わる。
「貴子、大丈夫か?」
 普段の様子と違う貴子を見て、僕は少し心配になりそう尋ねた。
「大丈夫。全然問題ない。多分ここの空気のせいね。」
 空気。夜のジャズバーの空気。流れているのは貴子の好きなジャレット。くたびれた皮のソファ。すこし曇ったガラス窓。
「少し酔ったみたい。空気に。」
 貴子はそういいながら僕の手に静に頬擦りした。
「空気と、貴方と、夜と、音楽に酔ったの。」

 僕はなんと言うべきだったのか、分からなかった。

ただ、まるで大草原に放たれた一匹の小動物のような貴子がたまらなく愛しくなった。もう片方の手をそっと貴子の頬に添える。

 そして、ひどく不器用に貴子の顔を引き寄せ、口付けた。ひどく短く、浅いキス。
 一度顔を離し、今度は時間をかけて。貴子は唇を静に震わせていた。

 ジャレットのピアノが止まり、新しい客が入ってくる。淡い魔法は甘い余韻を残して解けた。

 僕らはどちらとも無く上着を着、勘定を済ませた。僕が全部払おうとしたが、貴子は僕が払うより早く半額分払ってしまった。年下のくせに。
 危なっかしい足取りで階段を下る貴子。店の入り口で僕は貴子を抱きしめた。しかしそこにはさっき感じていたような特別な感情は無かった。

 吉祥寺駅。貴子の家に僕は行ったことが無い。貴子も僕の家に来たことが無い。ひどく非現実的で、不思議な、凡庸な恋人達。
 僕は魔法の残り香を手繰ろうと、高円寺まで送ろうかとたずねた。
 しかし貴子は黙って首を静に横に振る。

 そうだね。歌は終わったんだ。

 それから何日も僕らは会わなかった。そして三週間目に貴子から別れを告げるメールが来た。僕は驚くほどすんなりとそれを認めた。あと一日経っていたら、多分僕が別れを告げていた。

 それ以来、貴子とは会っていないし、連絡もしていない。国分寺の喫茶店に貴子が来なくなったからだ。やっぱり会いたくないんだろうと僕はチープな考えに落ち着く。
そうやって、僕らは完全に接点を失った。だから、今貴子が何をしているのか、何を考えて誰と生きているのか、全く分からない。でもきっと幸せに生きているのだろう。

しかし、あと何年かしたら、お互幸せになってから会えたら、そういうのって素的だと思う。

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