ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

三流設計共同体コミュの近況報告

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
最近建築感が変わった、、というか自分の建築感に対しての明確な他者が見つかった気がします。とりあえず他者の代表は設計組織ADH、山本リケン、北山恒が筆頭かな?最近読んだ本「住宅をユニットから考える」設計組織ADH著 をよんでアル筋みたいなものを意識できました。これは前々から認識していた点が線としてある文脈を得た感じです。抽象的な言い回しなんで具体例を。。前にあげた本で彼らは現在の都市やコミュニティーを中心の問題に掲げ、それへの実験的、雛形的な新たな試みのある建築を例に上げ、それら建築がいかに問題点への処方箋となるか、というような感じで本を展開していきます。
 ここで注意したいのがすべて現実になっているプロジェクトをあげていること。要するにすぐに現実へシフトできる現実性を帯びている。ということは絶対的に制度下での話になる。 ここがプロというか学生との違いだと改めて社会的な建築への評価とはどういうものかが認識できたと思う。
 ここで俺の建築について振り返ると、完全に社会制度を睨んだ設計にはなってなくて建築に対してのアイロニー(すなわちすごくアートな側面が強い。ただしこのアートという言葉は各人それぞれ捕らえてるイメージが違うと思うからこれに対しても議論を交わす必要があるが)を表現したものとして意識的に作ってきた。
ジュリーで集まった建築家もOPで通っているところの所長もまず俺との建築ってものの捕らえ方自体が違ったのかもしれない。だから手ごたえを感じることができなくノレンに腕押し感があった。この建築に対する評価軸の問題ははじめに設計する上で意識しなければならない、あるいはプレゼンのはじめに俺と同じような評価軸で評価されている建築の例をとって自分の建築をどういう風に評価して欲しいのか相手に提示しなければならなかったかもしれない。

急いで書いたんでどこか論理の飛躍、または筋が通っていないかもしれないけどあしからず。。。
次回は「ではアートな建築って」みたいなことを書けたらいいとおもいます

コメント(9)

このまえ、チャットでちょうどこの内容に似た事を議論したんだけど、まさにりょっぺの言ってることにたどり着いたよ。その時は住宅を対象としてたけど、住宅を設計するなら住やすさは絶対必要条件。となるといきつくさきは箱や単調な形、規則正しい形とか芸術の観点からみたら程遠い物になる。でも実際、建築業界で雑誌に載ったり、評価されるのは奇怪な形をした物で、そんなことは言われなくてもみんな認識してること。内部空間といいつつも、見たものを圧倒するアートが勝るけど、そのこと自体が正しい結論というわけじゃなく、そのことについて研究し続けて行くことは建築と携わっていく以上、たどり着くことのない名目なんだって。だから、この議論の結論としては、評価軸を求めるんじゃなくて、いかに自信のアートを他者へ認識させるか、じゃないかなぁと思う。そのアートに対して、1番理解してるのは自分だし、自分以上にその建築を読める人はいないんだから。
おっっまだ3人だがにぎやかになってきたねハート

ミッチャン
自分の共感を持った建築をピックアップしてしらべてみるしかないね。俺は雑誌etcで建築閲覧してたときに、これだっ。。と思うのがなかったから嫌いだなと思った建築にたいしてアプローチしていったけど。いわばそぎ落とし続けて残ったものが俺の建築だっていう方法論。 俺がミッチャンの作品に出会ったときに、自分の持ってた建築っていう漠然とした概念にたいして「気持ち悪い」って感情を与えたのがそもそもの始まりだったね。まずは好き嫌いからはいって、じゃあなぜそんな感情が生じるのか分析してくとまたどんど先に進んでくと思う。
たかやん
少なくとも「設計」するならば求められているプログラム(たかやんが交わした議論ないでは、住宅として求められてるもの)は満たさなきゃね。おれは「設計」するならば「建物」として使用できないといけないと思ってる。(ただ「建築」ってものについては建物であるとも限らないと思うけど、、ここはちかじか今読んでる本が読み終わったらそれに絡めて話すつもり揺れるハート

さて、どんな「建物」がいい評価を獲得するかについてだけど。
俺の意見だと、(前に出てきた評価軸ということばをダブらせて使うと)雑誌ってのはそれぞれの評価軸が混在してて前のページと後ろのページとでは比べようがない。評価の次元が違う。もしたかやんの見る雑誌でみんな似たような派手な外見をまとったものならばそれは雑誌が建物を評価する軸は一定であるんだと思う。あるいは戦略的なケース(CASA BLUTUSみたいな)だという仮説。雑誌ってのは月ごとだけど10年くらいのスパン(幅)で建築を取り扱っているやつはまた見た目、空間のほかに社会の変遷がどう建築に現れて、それがどういう風に建築(平面構成や家族構成etc)に現れてきたかみたいなのもはいってくるからより複雑になってくる。
 このどれだけスパンが広くなるかによってそこでどういった建築が取り上げられ編集者はどういう評価軸をとってるかを探すとまた違った建築の見方ができると思う。
 
おれはスパンが月よりも1decade(つまり10年)とか〜イズムとか人類史になぞって取り上げられている建築のほうが興味対称でそこまで広がると「建築」って概念が拡張されてってより面白いとおもうんだが、いかがでしょう?
 

続・たかやんハート
>いかに自信のアートを他者へ認識させるか、じゃないかなぁと思う。そのアートに対して、1番理解してるのは自分だし、自分以上にその建築を読める人はいないんだから。

この部分に対してのおれの意見を述べてみたいと思います。
まずアートを他者へ認識させるという点について。おそらくそれが素敵な建物だとして他者が認識したとする。ではその先は?アートである建物を認識したものは仮に好感を持ったとして、作者は認識者にそれ以降何かアクションを期待しているのですか?と問いたくなる。

第二に、都市にアートは必要か?という問題。僕の場合アートってのは特権的(趣味程度の意味合いでアートに取り組む人間は偉いという意味はさらさらない)な人間のためにあると思ってる。都市にはいろいろな人がいてそれぞれが好みや趣味を持っているわけで、都市っていう人が生活するのに不可避的なフィールドにアートっていう一部の人間のためのものを挿入するのってどうなの?とまず議論したいなペンギン

最後に認識をさせるって言った対象はどんな人?一般ピープル?それともわれら建築の同人たち?
評価軸については様々だね!だから出来上がってすぐ雑誌に載るとかは評価されたというよりは最新情報みたいな対象でしかなくて、建築として認められたということにはならないね。
だから、評価軸について、長いスパンで取り上げられる建物が建築として評価されるものであるという論点には賛同。(←ちょっと簡略化しすぎてるけどあせあせ(飛び散る汗)

まず、アートを認識させることについて。
おれは一般の人を対象にしてるよ。「認識」だとちょっと重いから、見て、「お!」ってなってくれるだけでいい。「認識」っていうよりも「興味」かな。ほんの少しの興味でいいからもって欲しい。そのほんの少し意識を向けるために試行錯誤して、デザインを考えることが俺の考える建築かな。あたりまえのことだけど、内部を見てもらうためには中に入ってもらわなきゃわからないわけだし、そのためには注意をひきつける必要がある。ただそれだけのために時間をかけるのもわるくないと思う。「認識」はその後にしてもらいたいかな。
建築としてのアートだったら、興味を持たせる事は大事だと思う。それは外観でも内観でも必要じゃないかと思う。
アートの形は見た目だけじゃないから、その点で人それぞれなんじゃないかな?

2つ目に、都市にアートは必要かってことだけども、アートと住宅をリンクさせたときの話?それともアートと建築?
電球うちの所長が建築雑誌ってのは売れることと流行を作ることはメディの形式として不可避的なことだからそこは留意しておけだって!! とくに雑誌のは奇抜なのがウケル傾向にあって時々プログラム(家なら家としての機能)が劣ってるケースもあるからそこは読者がそれを見抜けなきゃいけない。 


たかやん
みていて「おっ」て思えるのを願うってことは今の都市景観に不満があるということの表れかな? 俺の誤読的見解でたかやんの都市感を読んでみると、街行く人々に建築家が作った建物を見て欲しい。建築家の感性と哲学の結晶である作品を見てくれ、と。この仮説の延長としてたかやんにとって都市という全体を構成する一部分に、「建築家にとっての都市は美術館のメタファー」という性格が含まれてるように見える電球 (美術館を訪れる観客の設定として現実とすこしずれがあるけどね) 外観を、内部の空間を見てくれっていう設計者の自我は意識を向ける対象を日々の煩雑なこと、たとえば通学、通勤なんかの移動することや家事、なんかの空間におけるユーザーのアクティビティーのみに意識を全部とられるんじゃなくて、あなたがいる都市空間ってこんなに楽しいものがあふれてますよ。っていう考えが設計する際にたかやんがであう衝動なのかな? こう読むとHouse to move につながる気がしますわーい(嬉しい顔)
たかやんのとおれの設計を比べるとめちゃくちゃ対照的でおもしろいなブタぴかぴか(新しい)

たしかにアートの捕らえ方は人それぞれだな!! おれのアートの捕らえ方はおもに近代以降、特に抽象表現主義にみられるようなコンセプチュアルなものを指すのよ!

都市にアートは必要かっって問題はなしにしよう。まず都市っていってもある条件を抽出してそれを共有したあとにアートは必要か?と問わなければいけなかった。 まずは都市という問題で都市をどうなんとらえるかという議論をするべきだったな。

てか都市の捕らえ方なんて卒論になるくらい重いなむふっ

参考までに建築家の都市リサーチを・・・

アーキグラム:ウォーキング・シティ、プラグ・イン・シティ
       インスタント・シティ

MVR-DV:ピッグ・シティ

R・コールハース デリリアス・ニューヨーク  
不満がないって言ったら嘘になるかなあせあせ(飛び散る汗)
ヨーロッパとか、細かく言うと、モナコとかヴェネチアとか、特徴のある都市に行ったらどれだけ日頃の生活が楽しいだろうかって思うし…
でもそれが建築の思想なのかただの私的な物なのかは判断できないあせあせ(飛び散る汗)慣れちゃってるだけだって言われたらそこでおしまいだし。統一がないってのも不満を抱いている一つの原因。だけど、いろいろな文化を取り入れることができる日本の建築はそれはそれで武器だと思ってるし、統一を重視したら前項で自分が言った事と矛盾してるしあせあせ(飛び散る汗)
おれの建築に求めるものはりょっぺが言った通りぴかぴか(新しい)
個々の建築が都市を形成して、景色となる。だれかがJuryで言ってたべるんるん
でもおれには今の日本が独自の文化を形成した景色を有しているとは思えないんだよ…
本気で建築やってる人がいるのと同時に金銭面だけで立てられてる建物なんていくらでもある、それが許せないだけ。
だから、視的なアートを作り出すというよりも、意図のあるものがアートになるんじゃないかと思う。
むふったかやん!そりゃ行ってくるしかないでしょぴかぴか(新しい) 

どっちかっていうと都市がグローバル化していってから都市ってものに際立ったコンテクスト性がなくなったのかな? まだメガロポリスとしての新宿、渋谷etcなんかは場所性があるからおもしろいけど問題はメガロポリスの周辺に点在する「田園地帯」みたいなのは現在まったくのおもしろみがないことはだれもが認めるよね。今の風景を作ってきた背景には戦後日本の住宅政策から都市の作り方に至るまで完全に質より量の合理的なプロセスが支配的だっせいだね。
都市を作るには半世紀かかるっていうよね。戦後から数えて今がちょうど都市のパラダイムが変わってる転換期だろうけど優位な方法論が不在のままだからカオスは進んでくいっぽうだし、そのほかに環境問題を考慮していくと半世紀後はかなりカタストロフな状態だから歴史的な時間軸に対して都市はよりよい成長を遂げるっていうモデル自体が崩壊してる感がある。
ここでの例が戦後の世界的経済発展のなかでの将来の都市像はメタボリズム、アーキグラム、それにSFの人気に見られる機械に依存したメトロポリスは今となってはあまり支持を獲得できない気がする。20世紀少年みたいな最近の漫画の描く近未来はあたかも昭和の町並みに権力者のみが許される高度な機械技術に支配された都市像は今でいう郊外VS都会っていう図式が今の都市風景の図式の極みのような気もする。

個々の建築が都市を形成して、景色となる。これはあまりにもずさんなしてきだな。てかいった本人の都市像が見えてこないし、第一借り物のにおいがぷんぷんだむふっ おっしゃった方と話をしてみたいよ。

本気で建築やってる人がいるのと同時に金銭面だけで立てられてる建物なんていくらでもある、それが許せないだけ。
だから、視的なアートを作り出すというよりも、意図のあるものがアートになるんじゃないかと思う。
まったく同感。ただ都市は支配者のものではなくなったからこうしたことなる意見の衝突はしかたないよね。こうなると作品はいったいカオスのなかでどんな輝き方、あるいは人間にアプローチできるんだろうってのがもっぱら俺の命題のひとつ。意図あるアートの意図はどうやって見る人に伝えられるのだろう。この問いは俺の建築を始めてから一番最初にあった問いそのものだよ!!!

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

三流設計共同体 更新情報

三流設計共同体のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング