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プロレス文化研究会コミュのプロレス文化研究会第34回集会報告

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岡村正史さんによる、先日の集会のまとめが完成しました。
ホームページも更新済みです。

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テーマ:力道山前夜を闘った柔道家たち
日時:2009.2.7
場所:ル・クラブジャズ


■1.研究発表
 塩見俊一氏(立命館大学大学院社会学研究科)
「戦後日本における大衆娯楽としてのプロレス生成に関する一考察−『プロ柔道』に着目して−」


0.問題設定

 プロレスは新規な外来文化として大衆娯楽の一翼を担ったが、その普及には「テレビ」と「力道山」以外の要素、たとえば柔道の影響がありはしないか。


1.戦前までのプロレスと柔道・柔術

 日本において柔道とプロレスのつながりが散見され、柔術家、柔道家が渡米し、異種格闘技戦を行ったりした。



2.プロ柔道

 正式名称は「国際柔道連盟」。1950年3月2日に結成され、同年4月から9月まで8回の興行を行った。


2-1.柔道の復興とアマチュア規定

 戦前、武徳会を中心に軍国主義と結びついた柔道はGHQによって教育機関からパージを受けた。武徳会は解散し、中心となった講道館は武道から脱却してスポーツとしての普及を目指し、49年には全日本柔道連盟(全柔連)が発足し、50年には学校体育への復帰を果たした。49年に制定された全柔連のプロアマ規定は柔道家が柔道によって生計を立てることを禁止し、多くの柔道家が生活困窮に陥った。


2-2.プロ柔道の参加者

 選手としては木村政彦七段、山口利夫六段、坂部保幸、遠藤幸吉らが代表的である。設立者は牛島辰熊八段で木村の師匠に当たる。また、東条英機暗殺未遂事件(1944年)に関与した人物としても有名である。


2-3.プロ柔道の理念

 柔道家に生活の糧を与え、パージから脱却して学校体育に復帰しつつあった過渡期において柔道家としての精神的充足を得ることに大きな狙いがあった。



3.プロ柔道の活動―娯楽としての柔道興行―

3-1.「見せる柔道」

 禁じ手(指取り、脚関節への攻撃、危険な投げ技)を解禁し、派手に見せる受身を研究し、道着にラインを入れた。


3-2.興行の内容

 最初の興行では初代プロ柔道選手権が行われ、木村が優勝した。また、会場で参加者を募り、木村に勝ったら懸賞金を贈呈する賭け試合も行った。さらに、映画俳優や歌手たちが参加したアトラクションも開催した。


3-3.映画とのつながり

 松竹映画「春の潮」(原作は『姿三四郎』の著者、富田常雄)とタイアップし、木村、山口が本人役で出演した。また、主演の若原雅夫はプロ柔道の9月興行のアトラクションに参加した。



4.プロ柔道顛末

4-1.興行の失敗と人材の流失

 興行は惨憺たる結果に終わった。スポンサーは早々と手を引き、木村、山口、坂部は米国柔道協会から招聘を受けハワイへ向け出発し、このうち木村、山口はプロレスを経験することとなる。また、市川登、出口一(ミスター珍)らは柔拳興行に参加した。


4-2.講道館からの締め出し

 講道館はプロ柔道の存在を全面否定せず、条件付きで活動を奨励もしたが、興行が失敗に終わるや排除の方向に転じた。


5.プロ柔道からプロレスへ

5-1.プロレスの担い手としてのプロ柔道家

 木村、山口、遠藤らは54年2月の力道山のプロレス興行に参加した。また、木村、山口、高木清晴(月影四郎)は力道山とは別の地域団体を創設した。


5-2.技術の導入

 人脈的にプロ柔道とプロレスは連続しており、プロ柔道家によってもプロレスの技術は輸入された。


5-3.柔道とプロレス成立

 戦前、戦中の柔道はイデオロギー装置であったが、戦後武徳会が解散し、教育機関からパージされた後は講道館によって復興した。それは柔道のスポーツ化、教育への復帰によって国家との結びつきを再構築する道であった。この道から締め出された「武道」はプロ柔道に見られるごとく大衆娯楽との接点を求めた。プロ柔道がプロレスと接合する所以である。



6.プロレスの中の柔道家
 プロレスのバックボーンとしての柔道という部分と、柔道における実績を売りにするギミックとしての柔道という部分がある。坂口征二、バッドニュース・アレン、小川直也の動きをビデオで確認してみたい。



■2.ビデオ上映「プロレスの中の柔道家」

?アントニオ猪木、坂口征二  対 
  ルー・テーズ、カール・ゴッチ(74.10.14)

?坂口 対 猪木(86.5.30)
 坂口はパワー殺法に終始し、柔道家らしさは見られない。

?ゲーリー・オブライト 対 
  バッドニュース・アレン(92.8.14)
 アレンはオリンピック銅メダリストという実績をギミックとしている。

?グレート・ムタ対小川直也(97.8.10)
 ムタが小川相手に柔道殺法を用いている点に注目したい。



■3.フリーディスカッション

【プロ柔道前史】

●戦前は西の武徳会、東の講道館と二大勢力があった。前者は豊富な寝技を有しており、後者は投げ技中心だった。講道館を創設した嘉納治五郎は東京高等師範学校の校長を務めた教育者であり、柔道は教育と考えていた。したがって、初代体協会長を務め、IOC委員にもなったが、オリンピックに柔道を導入する発想は持っていなかった。柔道は教育だから危険な技を禁止し、その結果西日本より弱くなった。

 講道館に対抗してできたのが大日本武徳会で1942年には武道関係組織を統制する政府の外郭団体となり、講道館をも包摂した。その意味では武徳会は東条ら軍国主義と密着し、46年にGHQによって解散させられた。西日本は実力主義の柔道で、その気風から高専柔道が生まれた。金沢、京都、熊本、岡山の旧制高校を中心に寝技中心の強い柔道が受け継がれた。拓殖大学予科の木村政彦が凄いのは西日本の寝技でも東日本の投げ技でも強かったことだ。ただ、戦後講道館は柔道教師を生む道へ進むが、武徳会系の西日本では、エリートであった高専柔道の人たちは就職できたものの、それ以外の柔道の猛者は食いはぐれる状況が生まれた。


●柔術と民族派のつながりは?

→牛島は異色の存在。


●牛島辰熊は「柔道がスポーツになったから弱くなったんだ」と発言している。

→柔道と柔術を区別していた。禁じ手を解禁し、柔道を柔術に戻そうとした。


●柔拳においては柔道がベビーフェースでボクシングがヒールで、最後はボクサーが負けることになっていた。「イガグリ君」のような漫画においても柔道や相撲は正義で、ボクシングや空手は悪役に描かれている。戦後のある時期まで格闘技を公平に見る眼がなかった。PRIDEのような場が成立する民度がなかった。

→戦前の柔拳にはボクシング普及という目的があった。戦後の柔拳はポイント制を採用し、わかりやすさを追求していた。



【プロ柔道をめぐって】

●プロ柔道はシュートだったのか。

→確認できない。あまり大きな問題ではない。興行は高度化しておらず、ケガのリスクはあまり勘案されていなかった。おそらくシュートだからつぶれた。

→牛島の息子が「つまらなかった」と証言している。ハワイに渡った坂部は「役者にはなれない」と唯一プロレスを拒絶した。


●プロ柔道にベビーフェースとヒールの区別はあったのか。


●興行のための営業的努力があまり払われなかったのではないか。まさに武士の商法だ。


●柔道では食えなかったことが大きい。

→柔道家は就職が限られている。

→最近でも、バッドニュース・アレンは胴メダルの実績では食えず、プロレス界に就職した。


●プロ柔道は北海道で4回もやっている。何か特別の事情があるのか。シャープ兄弟興行以前に北海道で力道山と木村が戦うプランも存在したが。

→ニシンでもうけた金持ちでもいたのではないか。北海道は冬季に屋外スポーツができず、アマレスなど格闘技が盛んな土地柄だ。



【ブラジリアン柔術をめぐって】

●ブラジリアン柔術は日本の柔術を継承したものかどうか。もし、そうであれば柔術は日本のプロレスの誕生にも終焉にも関わっているという歴史になるのだが。

→プロレスは終焉を迎えていないと考えている。UFC大会はグレイシー柔術が登場する以前と以後では変化している。ブラジリアン柔術はUFC大会参加以降ミクストマーシャルアーツに接近した。

→ブラジルでは柔術の大会とは別にブラジリアン柔術の大会が行われている。

→講道館の前田光世(コンデ・コマ)が指導した柔道がなぜ柔術になったのか。それは(講道館柔道を破門された)彼が「柔術」として教えたからだ。前田の先駆者に谷幸雄がいる。コナン・ドイルやルブランが見て作品に取り上げた「バリツ」は谷をイギリスに招いたバートン・ライトが創設した格闘技「バーティツ」のこととされている。谷は小柄で「スモール・タニ」の異名を持ち、ミュージック・ホールで大男の挑戦を受ける試合をこなしていた。前田はリアルファイトもプロレスもこなしていたが、ブラジル人が求めていたのは護身術、すなわちリアルファイトだった。前田はベレンでカーロス・グレイシーに柔術を教えた。そのカーロスが1925年に道場を開き、弟であるにエリオ・グレイシーもそこで学んだ。エリオは、グレイシー柔術はすべて自分が創ったかのように語っているが、実は多くを日本から学んでいた。

→ということは、日本の柔術がブラジルに飛び火したわけだ。ブラジルには忍術や剣術の教室があり、剣道では二刀流の参加者が多い。これは海外の盆栽が日本人から見たらどこか変な感じがするのに似ている。



【プロ柔道とプロレス】

●木村政彦は力道山に敗北した。柔道がプロレスにおいて主流になりえなかった点をどう考えるのか。

→木村はジュードー・スタイル・レスラーだった。これに対し力道山はよりプロレスラーらしかった。プロレスにおいてはプロレスが正義で、柔道が悪となる。ムタと小川の試合では、ヒールであるムタが一種のベビーフェースと化し、柔道をコケにして勝利している。つまり、プロレスが社会通念に攻撃を加えている格好だ。

→柔道にある「心技体」の要素は新日本プロレスに受け継がれていないか。


●木村の方が力道山より有名だった可能性がある。そこから力道山とテレビだけでプロレスが成立したのかという疑問が生まれた。



【柔道、プロレス、学校教育】

●ラテン系の国では学校に部活動はないし、体育の授業もなかったりする。アングロサクソン系の国は少々ちがうが。それにしても、学校教育でキャッチアズキャッチキャンをやる発想はないだろう。その点、日本の学校教育で武道を採用している点は異色で、いかにも精神性が強調されている。

→その武道と娯楽が結びついている点が面白い。高校の柔道部の部室に三沢光晴のポスターが貼ってあったりする。→柔道部は潜在的なレスラー予備軍でもある。

→プロレスはプロレス道にならないか。→誰もがプロレスを練習できる一種の大衆化現象が起こっている。

→反則を許容するプロレスが学校教育に入るはずがない。

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