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アメリカン・マフィァの生涯コミュのヴァージニア・ヒルに付いて語ろう!!!

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ヴァージニア・ヒル(Virginia Hill, 1916年8月26日 - 1966年3月25日)は、アメリカのマフィアの現金輸送屋で、ハリウッドのギャング、ベンジャミン・シーゲルの愛人として有名でもある。
ヴァージニア・ヒルは十人兄弟で1916年アラバマ州リプスコームに生まれた。その後ヴァージニア・ヒルの家族はジョージア州マリエッタに移った。彼女の父親は、大理石磨き、兼ロバの売買を扱う業者だった。酒癖が悪く妻や子供に手を上げる乱暴ものだった。母親は後に、他の子の面倒をヒルに任せ、蒸発してしまった。彼女は勉強嫌いで、学校は8年生(14歳)までしか行かなかった。 齢17の時、ヒルは1933年シカゴで開かれていた万国博覧会の、わずかな衣装(つまり限りなく裸に近い格好)の余興の踊り子として働きに行くとして、シカゴへ逃げ出した。 彼女はその後も街に居残り、1934年、ウェイトレスとして働いている時に、マフィアの資金供与者であったジェイク・グージックの右腕であったジョセフ・エプスタイン(Joseph Epstein)に出会い、彼の妾となりその組織のホステスとなった。そういう流れでヒルはアル・カポネのギャングの面々と出会うこととなった。
彼女はまた『運び屋(bag woman)』となりマフィア間での不法な金銭を運ぶ為、アメリカ中を旅して回った。(当時、賭け金の運び屋はたびたび不正な警官や敵対するギャング達によって現金を巻き上げられたが、男社会のマフィアでは誰も女性が金を運んでいるとは思いもよらなかったため、ヴァージニア・ヒルは疑われずに旅をし、現金と情報を全国シンジケートの主要人物の間で運んでいた)後にヒルはそのことを否定するが、当時彼女はジョージア州マリエッタにいる家族のために10000ドルの新居を買っていたのである。 それから、ヒルはジョー・アドニスの妾となり、豪華なパーティーをマフィア所有のマンハッタンのナイトクラブで開いていた。
1930年代後半には、ギャングのシンデレラガール的存在になっており、運転手つきのキャデラックを乗っていた。
1940年代にヒルはカリフォルニア州に移り、ベンジャミン・シーゲルに出会い今度は彼の一番の妾となった。巷ではこの二人は愛し合うぐらい喧嘩をしていたが彼は浮気を止めなかったと言われている。また、この二人がメキシコで秘かに結婚したという噂もあるが、彼自身は妻のエスタと離婚することはなかった。バグジー・シーゲルはヒルのフェラチオの技術を称えて彼女のことを『The Flamingo(フラミンゴ)』と呼んだ。
ヒルはハリウッドで派手な生活を続け、ビバリーヒルズに自身の屋敷を購入し、そこでハリウッドの有名人を毎晩のようにもてなした。しかしヒルはハリウッドの有名人達を、彼らのプライベートをネタにゆすっていたといわれている。
シーゲルがラスベガスのプロジェクトを推進しているときアメリカ東海岸(イーストコースト)のマフィアのドンの一人との間に揉め事が起きたとき、ヒルは金をすぐに回そうとはしなかった。また、東海岸のマフィアはバグジーがヒルを、彼の為だけの運び屋として、スイス銀行の預金口座に金を運ばせる為に使ったと考えた。そのため、フラミンゴの建設費を掠め取っているのではないかと疑われはじめる。それから抗争がありヒルは1947年6月10日パリに逃れた。それはバグジーが屋敷で撃ち殺される10日前のことだった。ヒルがこの殺人のことを聞いた時、気を失ったとのもっぱらの評判である。後に警察側がヒルに問い質したとき、ヒルはバグジーの妾であった事や彼のコネクションを認知していることを否定した。ヒルは「バグジーの愛人はあのラスベガスのホテルよ!」と強く主張した。後にある人がヒルに「マフィアがバグジーを殺すのに、あなたも協力していたんじゃないか?」と尋ねたら、ヒルはとても憤ったという。
1951年、ヒルはキーフォーバー委員会Kefauver hearingsに対して証言するよう召喚され、マフィアの取引は何も知らないと言った。この聴聞会はテレビ放送され大きな関心が集められた。ヒルは調査官に対し、彼女の多大なる収入は、彼女のフェラチオの卓越なる能力に対しての彼女のボーフレンドが払った代償によるものであるといった。競馬でも儲けたと言った。米国国税庁(IRS)はヒルが50万ドルを脱税したとして彼女を告訴した。ヒルはサン・バレー(Sun Valley)のスキーインストラクターであったハンス・ホーサー(Hans Hauser)と結婚して彼とともにヨーロッパへ渡ってしまった。そこで米国国税庁は、追徴課税分としてヒルの家と財産を競売にかけた。 ヒルは後に離婚した。
ヒルは余生をヨーロッパで過ごした。晩年にはウェイターとして働いていた若い息子のピーターに支えられた。 1966年3月24日、オーストリアのザルツブルク(Salzbulg, Austria)郊外の山村コプルにある滝のそばで28錠のバルビツール剤を飲んで、死亡した。48歳。睡眠薬の大量摂取によって死んだ。明らかに自殺と分かる死に方であった。

コメント(2)

マフィアの中で生きていくのは、常に最高の女であり、時には男の持つ
潔さがあり、またそれなりの才能があったのでしょうね。
ギャングのシンデレラガール的存在とまで言われたヴァージニア・ヒルが
最後は、フラミンゴという華やかなホテルとはうらはらに、独りで自ら
死の幕をおろす…このギャップは一体なんなのだろう
切ないながらもそんなヴァージニア・ヒルの生涯に感銘する。
バグジーさん、貴重なお話ありがとうございました。
>moririnさん

書き込み有難う御座います。

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