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吉田美和といふ人コミュのヨヨヨ的『DO YOU DREAMS COME TRUE?』全曲解説

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yorimoのヨヨヨ的『DO YOU DREAMS COME TRUE?』全曲解説がステキなので、
こちらに保存版させていただきます。
https://yorimo.yomiuri.co.jp/csa/Yrm0302_P/1221735712665


ペンa song for you 〜opening theme of dydct?〜ペン

アルバムの幕開けを飾るオープニングテーマ。DREAMS COME TRUEのオリジナルアルバムでは、前作に収録された楽曲のモチーフが引き継がれるのが恒例となっているが、「a song for you 〜opening theme of dydct?〜」には「AND I LOVE YOU」の収録曲「またね」のメロディーが引き継がれている。アルバムには初参加となる堀秀彰のピアノの旋律に乗って現れる吉田美和のボーカル。数あるドリカムの楽曲のなかでも、ボーカルとピアノのみでアレンジされた曲は初めてではないだろうか。歌われているのは、これからアルバムを聴こうとするすべての人に向けた手紙のような詩。

いちばん伝えたい たったひとりは
今でもあなたなの

映画でも音楽でも、多くの人に届く“優れた作品”なるものに一つの定義があるとするなら、それを観たり聴いたりした者が「自分のために作ってくれた」と心から思えるということではないだろうか。その点で、この詩にはポップ・ミュージックの第一線を走り続けるためのもっとも単純で困難な答えが記されている。デビュー以来20年間、たったひとりに向かって歌い続けてきたDREAMS COME TRUEが、20年目にあらためて向かい合う「あなた」。アルバムごとに、シングルごとに、ライブごとに、何度も積み重ねてきた「たった一度」。歌詞の合間を縫って現れては消える「またね」のメロディーが、「ずっと、何度でも」という意味を呼応させているようにも聴こえるから、不思議だ。



ペンMERRY-LIFE-GOES-ROUNDペン

誤解を恐れずに言うなら、問題作である。20090321のデビュー20周年に向けたカウントダウンの第1弾シングルとして昨年6月に発売されたが、当初は戸惑いを感じたファンも少なくなかったのではないだろうか。

はだかになって はだしになって
もう一度 生まれよう

と歌う吉田美和の詩を彩るのは、バンジョーの音色が特徴的なカントリー・テクノとでも呼ぶべきアレンジ。これまでにはなかったアプローチだ。中村正人はリリース時にこう語っている。「坂本九さんの『上を向いて歩こう』がそうであるように、苦しい時に前に進むためにはあえてシリアスなトーンにしたくなかったんだ」ところがそのおおらかな曲調は、当時のDREAMS COME TRUEを取り巻く状況からくる深遠なものが、“そのまま”表現されるのではないかと思っていた人々にはギャップとして降りかかった。しかし、DREAMS COME TRUEのヒストリーを紐解いてみれば、彼らは延々とそういったギャップを生み続けてきた。むしろ、このギャップこそ“ドリカムらしさ”でもある。ドリカムは一般的に王道のポップスバンドだと思われているが、音楽的にはむしろアグレッシブで“やっかい”な存在だ。「JET!!!」や「MIDDLE OF NOWHERE」のサビ一つとってもそう。ライブでのコールアンドレスポンスを想定したらもっとイージーな譜割にしてしまいそうなところを、彼らは果敢に突き進んでしまう。そして、ファンもそれに応える。「SUNSHINE」に至っては吉田の叫ぶ「一緒にハモれ〜!」にさえ会場全体で参加しているから驚かされる。ライブのコールアンドレスポンスでハモりをリクエストするアーティストなど、そうそう聞かない。だから、リスナーはずっとドリカムの生む「音」に対してだけギャップを楽しんでいればよかった。ところが、昨年あたりは、ちょっと事情が違った。しかし、その戸惑いは1曲目「a song for you 〜opening theme of dydct?〜」から続けて聴いた瞬間、一気に吹き飛んだのではないだろうか。大切な人からメッセージが届いた直後にその人に会ったら、いつもどおりの笑顔で出迎えてくれた時のような、あたたかい時間。気がつけば、今ではこの曲が大好きだという人も多いはず。楽曲のネット配信が進み、音楽を曲単位で聴く機会が増えているが、アルバムを通して聴く醍醐味をおろそかにしていないのもまだドリカムらしい。もう一つ。ドラムのスネアとシンバルだけを生録音している中村のアレンジにも注目したい。打ち込みのキャリアが浅かった初期のアルバムを除いて、中村は同じドラムセットの使いまわしをしていない。打ち込みでも生でも、常にその楽曲にもっとも合うドラムの音色とグルーブを探り、アレンジしている。その探求がどれだけ深いかは「MERRY-LIFE-GOES-ROUND」のような曲でよく分かる。中村のアレンジの特徴は、もっとも適したサウンドをイメージできれば打ち込みと生に線引きをしないことにある。ドラマーに対し「スネアだけ叩く」とか「タムだけ叩く」といった録音をオファーすることはそれなりにデリケートなことだが、音楽的信頼関係のなかでその壁を乗り越えている事実をみても、アレンジに対する並々ならぬ執着が伝わってくる。
この手法は4曲目「TO THE BEAT, NOT TO THE BEAT」(スネアのみ生)、9曲目「MIDDLE OF NOWHERE」(タム、シンバルのみ生)でも使われているので、ドラムの音にも注目して聴いていただきたい。



ペン連れてって 連れてってペン

走り出すシーケンスフレーズ。白い粒を吹き払うワイパーのようなギターリフ。降り積もった塊を蹴散らしながら進むバスドラム。5秒、10秒、15秒、20秒……次の瞬間、間髪入れずに「それ」が現れる。
粉雪が ふたりの足跡を 消す前に あなたを抱きしめた

デビュー20周年に向けたカウントダウンの第2弾シングルとして昨年11月に発売された「連れてって 連れてって」は、そんなふうに始まる。このアレンジには「ポップスとは何か」という命題に対する答えが隠されているように思えてならない。イントロの後、サビに入る直前の部分。アレンジャーによっては盛り上げるために2小節程度の「間」を作りたくなってしまうところだ。例えばこう。サビの直前の小節、1拍目で音が鳴り止む。直後、冷たいパッド音と風音のSEがフェードインし、リバースシンバルが入ったかと思うと高らかにサビのフレーズが鳴り響く――。一見するとこの方がカタルシスがあるように思えるが、ドリカムはやらない。中村正人が選んだのは、リズムを途切れさせず、そのままサビになだれ込むアレンジだ。中村がそうするのは「過剰なカタルシスを作らないこと」が優れたポップスにとってどれだけ大切か知っているからではないだろうか。優れたポップスとは何か。多くの人が聴き、口ずさみ、心の奥でいつまでも輝き続けるエバーグリーンな音楽――といったあたりが模範解答だろう。しかし、そのためにはいくつもの条件を満たさなければならない。あえて一つに絞り込むなら「繰り返し聴けるかどうか」だ。ここで言う「繰り返し」とは、10回、20回ではなく、100回、200回といったレベルを意味する。そういう耐久性の強い楽曲を生むためには、豊かで洗練されたアレンジを施す一方、想像力を奪うほどの劇的な構造からは一定の距離を置かねばならない。おどかしやまやかしの前では、音楽のマジックは扉を閉ざしてしまうから。アレンジャーにとって、このあたりのさじ加減は本当に悩ましい。盛り上がりを維持しながらカタルシスを作ることをぐっと押さえて前に進むのは、煮えたぎった鍋の中を覗かないでいるより、ずっと困難なことだ。中村がそれをできるのは、聴く者の想像力を信じているからジャマイカ。「連れてって 連れてって」はきっと今年の冬も多くの人の耳に届くことだろう。



ペンTO THE BEAT, NOT TO THE BEATペン

エロい。この曲の生々しさにセクシーという表現は似合わない。吉田美和はこれまでも「しあわせなからだ」や「SPOON ME, BABY ME」などで“直球ぎみ”のエロさを表現してきたが、「TO THE BEAT, NOT TO THE BEAT」もその流れに属するものだ。以前、「SPOON ME, BABY ME」を帯広のライブで聴いた時、会場に吉田の祖母がいると知り、「目の前で孫がこんなエロい曲を歌ってしまってお婆ちゃんは大丈夫か」と余計な心配をした記憶がある。でも、吉田の詩はあくまで“直球ぎみ”であって天津木村のような“直球そのもの”ではない。野球のピッチングで言えば、内角低め。吉野家で言えば、大盛玉子お新香みそ汁(ってこれはモロ直球)。

オンビートで刻んでオフビートで試して
ずっと わたしの上で

という詩に象徴されるように、表現されているのは音楽とセックスの共通項を行ったり来たりする独特の世界。「音楽とはセックスと数学を掛け合わせたものだ」と誰かが言っていたが、音楽家だからこそ表現できるエロさというものがある。「うれしはずかし朝帰り」の頃から、吉田はそのことを知っていたはずだ。さらに特筆すべきは、ボーカルアレンジ。この曲で吉田はあえて“もたった”(リズムから少し外れた)歌い方を多用している。一歩間違うと、単にリズム感が悪いだけになってしまうため、日ごろからグルーブ対して高い意識を持っていないとできないテクニックだ。もっとも顕著なのはサビ前。「TO THE BEAT」と反復するところはリズム通りに歌うが、「NOT TO THE BEAT」の部分はわざと少しだけ遅らせて歌っている。譜面化したら休符を入れようかどうか迷ってしまうギリギリのところを狙って。まさに、オンビートで刻んで、オフビートで試す歌。加えて、中村のルーツ・オブ・ミュージックをニヤニヤしながら楽しめる曲でもあることも忘れてはならない。「うれしい!たのしい!大好き!」や「決戦は金曜日」や「NOCTURNE 001」がそうであったように、音楽の遺伝子はミュージシャンの耳と心と脳を通じて綿々と連なっていくのだ。それにしても、エロい。



ペンあぁもう!!ペン

ドリカムの楽曲には「SUNSHINE」や「サヨナラ59ers!」など、ラテンを大胆に取り入れたものがあるが、「あぁもう!!」はその最新型。実は打ち込みのサウンドとラテンは相性が良い。地平を切り開いたのはハウス・ミュージックだ。4つ打ちのダンスビートにラテンのパーカッションやブラスセクション、ピアノのバッキングを加えたアレンジは、ハウスの可能性を大きく広げた。ドリカムの曲のうち、バラードを除いたほとんどをダンス・ミュージックとしてとらえるならば、同じくラテンと相性がいいソウル・ミュージックをバックボーンに持つ中村正人がアレンジャーとして注目したのは必然と言える。ラーメンに例えてみよう。打ち込みという「スープ」、ベースという「出汁」に、歌という「麺」を入れるだけでも食べられるが、ラテンパーカッションやブラスセクション、ピアノといった「具」が乗った方が、断然、美味しさが増す。さしずめ、パーカッションはネギ、ブラスセクションはメンマ、ピアノはチャーシューといったところ。名もなきソバを「ラーメン」に昇華させるための重要な要素だ。しかし、存在感の強い具は影響力も強いため、しっかりした麺でなければ負けてしまう。吉田は中村の仕込んだスープと出汁の中で、時に具に絡まり、時に押しのけながら、腰の強い麺であり続けている。さらに注目したいのが、

鉤型(かぎがた)の針先は あなたなら 無理に抜いていいの

という詩。「鉤型の針先」はいったい何を意味するのか。同じく「刺す」をモチーフしたアルバム「the Monster」の収録曲「みつばち」にヒントが隠されているような気がする。両者に共通する「刺す」=「キス」の例え、背中をなぞる指の描写あたりから「針」の正体がぼんやり見えてくるし、「刺さる」という言葉には吉田が人間関係に感じている切実さがにじみ出ているようで興味深い。ところでこの曲、中村は吉田の歌うデモでサビを聴いた際、どこが1拍目か分からなかったそうだ。確かに「あぁ あなたを」や「思い出して またキュンとなる」の部分は1拍目から入っても2拍目から入っても成立してしまいそうな不思議な譜割。この曲がルーズな歌い方を試した「TO THE BEAT, NOT TO THE BEAT」の次にくるあたりの構成には唸らされる。


ペン大っきらい でもありがとペン

なぜ、ドリカムは生でなくシンセのストリングス(弦)の音にこだわるのか。200を超える楽曲のうち、生のストリングスを使った曲は「24/7 -TWENTY FOUR/SEVEN-」や「やさしいキスをして」など数曲しかない。無論、音楽作りには投資を惜しまないドリカムのこと、その目的が経費節約でないことだけは明らかだ。しかし、曲数は圧倒的に少ない。「今も」「めまい」など、アレンジャーによっては生でいきたくなりそうなバラード曲でも、中村正人はシンセの音源を選んでいる。王道のバラードアレンジが施された「大っきらい でもありがと」でも。かつて中村にその理由を聞いたことがあるが、返ってきたのは意外にも「別にこだわっているわけじゃないよ」という答えだった。拍子抜けして「そんなはずないでしょう」と返したが、すぐに「いや、ホントに」と念を押された。そして「必然性があるかどうかだよ。実際、生でやっている曲もあるわけだから」と続けられ、はっとした。音楽制作で予算が増えた場合、しばしばストリングスを生にしようかという話が出ることがある。しかし、どんな音色が合うか、演奏方法はスタッカートなのかレガートなのか、どの音域を鳴らしたいかなど、いくつもの課題をクリアにしなければ、必ずしも生で出来がよくなるわけではない。「その方が豪華だから」という安易な動機では豊かなアレンジにはならないのだ。中村が生のストリングスを使った「flowers」を例にとると、2本のバイオリン、ビオラ、チェロのカルテットが醸し出す一音一音が、曲のイメージの一つである「根を張る」を躍動的に表現している。シンセでは表現しつくせない演奏だ。一方、“いかにもシンセ”なストリングス音源が安っぽくて使い物にならないかというそうではない。旧型のシンセでも“薄いのに存在感がある”独特な味わいのあるものもあるし、音域と同時発音数によっては生では表現できない艶や圧みが出る。中村はきっと、生とシンセのストリングスの互いの長所、短所を踏まえた上で「別々の楽器」として評価しているのだろう。そしてその判断基準はベースの音を選ぶ時も変わらない。これまでも解説してきたように、彼にとって大切なのは自身がプレイヤーであることよりも、あくまで「曲が求めているかどうか」なのだ。……などと話題をそらして正面から詩と向き合わないような男のことを歌った曲が「大っきらい でもありがと」である。


ペンサヨナラメーター/タメイキカウンターペン

曲の冒頭、「LOVE LOVE LOVE」や「やさしいキスをして」のAメロでもおなじみ、半音ずつ下がるコード進行が、時を刻むデジタル信号のように響く。そこに重なるのは、珍しく機械的に加工された吉田美和の声。録音をサンプリング(素材収集)の一過程と捉えるような音楽制作が当たり前となりつつあるが、ドリカムは吉田の声を「素材」として扱うような加工をずっと避けてきた。ところが、この曲ではその禁を破った。積み重なる胸のつかえを数値で表現したアルバム「THE LOVE ROCKS」の収録曲「また「つらい」が1UP」に対し、「サヨナラメーター/タメイキカウンター」は、身の回りにある数字に映し出されたやるせない感情を歌った曲だ。

膨らんでく カウンターの数字が タメイキ数えてるように見えた

確かに、周囲にあふれかえるデジタル情報が、無機質な顔つきをしながら不意に心をわしづかみにしてくることがある。しかし、吉田が表現しようとしているのは、果たしてそれだけだろうか。あらゆる情報をデジタル化し、仮想空間に置くことで、人間はついに“永遠”を手に入れたと錯覚しつつある。でも、ディスクだってサーバーだって、悲しいかないつかは読み込めなくなる日がくる。無限だと思っていた仮想空間も、結局は物質の中にしか存在し得ないという現実からは逃れられない。一方で、完全に消えたと思っていたデータも、実はハードディスクの奥で断片化されて静かに眠っている。そして、仮想空間を通じてやりとりされた記憶と記録は、個体を変えても残り続ける。まるで、DNAのように。吉田は歌う。

「消去」ボタン クリックするだけで 情けない思い出も消えないかな

この広大でちっぽけな宇宙の仕組みの中で、「残っていくもの」とは何なのか。「消えていくもの」とは何なのか。人間なんて結局、DNAを一時的に入れておく「箱」でしかないのか。吉田が自らの声をデジタル加工し、イマドキの言葉を散りばめながらつかまえようとしているのは、曖昧でやっかいだけどかけがえのない“永遠”なるものの正体かもしれない。


ペンTRUE, BABY TRUE. - EXTENDED VERSION -ペン

誰かのことを説明する時に「明るい人」「暗い人」といった言葉を使うことがある。しかし、実際は「明るい“だけ”の人」や「暗い“だけ”の人」など存在しない。誰しも、明るい/暗い、優しい/傲慢といった二律背反する要素を同時に持ち合わせている。それが人間。いい悪いの問題じゃない。当たり前のことだ。ところが、明るくいられないこと、優しくいられないことは時として人を執拗に追い込み、苦しめる。やがて、自分のように分別を持てない人間はくだらないと思い始める。アタマでは分かっているはずなのに、ココロから「信じること」がどんどん離れていく。しかし、例えば仏教では「分別がある」は決して美徳ではない。自分を守るためにたくさんの境界線を作り、何重にも線を重ねたところで、行き着く先は「真っ黒」でしかないからだ。だから、遠くなった「信じること」とぐちゃぐちゃに格闘しながら詩とメロディーを築き、「明るくて暗い」「キャッチーでシリアス」に辿り着いた「TRUE, BABY TRUE.」は、とても人間らしく人間くさい。吉田が叫ぶ。

明けない夜がないことを 幸せだと感じるまで 信じてみよう 100パーの力で

苦しいのは、当たり前。しんどいのも当たり前。だから――心臓の鼓動のようなビートの隙間からそんな声が聴こえてくるなら、大丈夫だ。今は明るくいられないとしても。優しくいられないとしても。



ペンALMOST HOMEペン

吉田美和の故郷、北海道池田町がある十勝平野の情景を歌った曲。明治乳業「明治北海道十勝チーズ」のテレビCMとして起用され、吉田が自ら詩の世界そのままに冷たく澄んだ朝もやの大地を走り抜けたのは記憶に新しい。まだ幼かった「晴れたらいいね」の主人公が夢をかなえるために故郷を離れ、様々な経験を積んだのち、久しぶりに故郷へ帰るシチュエーションは、そのまま吉田の人生に重なる。

あの空を見に帰りたい かなった夢の話聞かせたい
かなわない夢があることも 今は知っているよって 泣きたい

そしてその詩は、同時すべての「故郷」を持つ人々に訴えかけてくる。新幹線のホームに立った時、高速道路に入った時、あの角を曲がった時――誰にも「ALMOST HOME」な瞬間がある。しかし「あの風にまた吹かれたい」という気持ちは、なにも生まれ育った場所だけで感じるわけではない。大切な人の故郷はもちろん、人から見ればただの雑踏のような街でも、狭苦しい場所でも、自分の立ち位置と歩みを郷愁とともに鏡のように映して出してくれる場所は、人それぞれにある。

そしてその場所は、いつも温かく、ちょっとだけ苦い。

曲の途中、Bメロでシリアスなトーンに曲調が変わるくだりは、故郷への思いが単に「懐かしさ万歳」だけでないことを思わせる。現代の日本、特に都会では「帰るべき場所」である家に対する感覚が変容してきている。生活サイクルの変化に折からの不況が重なり、「自分の家」と「仮暮らしの家」の境界線も崩れつつある。実家だって、ネットカフェだって、人によってはおんなじ重さで「帰るべき場所」になった。少し寂しいことかもしれない。でも、「ほとんど家」だと思える場所は、まだ行ったことがない場所にも、これから出会う腕の中にもある。吉田も歌っている。

全部 思い出すために 明日のために 帰ろう


ペンGOOD BYE MY SCHOOL DAYSペン

「蛍の光」のスキャットに導かれて始まるのは、吉田美和が高校3年生の時に作った卒業ソング。以前からこの曲の存在を知っていた中村正人は、何度か吉田にデモテープを作って聴かせていたが、「あの時にしか歌えない歌だから」という理由でレコーディングに至ることはなかったという。それが、デビューから20年を数える今年、「もう一度、ゼロから始めよう考えていた今なら」と中村が新たなアレンジでチャレンジしたところ、吉田も興味を持ち「歌ってみようかな」とレコーディングが実現した。この曲の吉田のボーカルには、これまでにない「まっすぐさ」がある。歌を伝える際に吉田が繰り出す得意技の一つ、フェイクを封印し、メロディー譜に忠実に、ビブラートも最小限で一直線に歌っている。その声は、まるで休み時間に友達の前で歌っているよう。おそらく、高校時代の吉田はこんなふうに仲間の前で歌を口ずさんでいたのだろう。その詩には、学生時代に限らず、ある濃密な時間を過ごした者同士に共通する思いが反映されている。

今度会う時まで元気でいて

と誰かに言う時、人は同時に「自分も元気でいるから」と心の奥で約束している。だから、

もう一度そのままの輝きを見せて

という言葉には「自分も頑張るから」という気持ちが表れている。キラキラしていたけど苦しんでいた人、目立たないけど誰にも負けない集中力で何かに没頭していた人、まだ何かを見つけられず悩んでいたけど優しかった人……周囲がどう思おうと、自分にはかげがえのない「輝く人」がいたはずだ。次に会う時に、その人をがっかりさせちゃいけない。人は皆、口に出さない大切な約束をいくつも抱えて生きているんだ。

コメント(12)

20th 記念しての節目。
今回のアルバムは 一段と違ったようなるんるん

ドリカムの二人が したかった事。長い年月かけ..
たどり着いたのがこの一枚では?

最近は 特に 歌詞に 重みが感じるのは?気のせい?

音楽を通じて 成長していく二人と共に 歩んでいけて とても 幸せデスわーい(嬉しい顔)ハート達(複数ハート)
管理人さんるんるんすごく嬉しいです揺れるハート
ありがとうございますハート

最近の曲すごく深みをかんじますあせあせ泣けてくる曲も涙
iaさま*

興味深い記事をアップしてくださって、
本当にありがとうございましたm(_ _)m
熱読させていただきましたぴかぴか(新しい)

美和ちゃんの声は
色や形や匂いや味や肌触りが変わっても
何かもっと深い部分の核みたいなのが全くぶれないので
その変身すら楽しめちゃいます(^∇^)ハート

いやぁ〜いい記事読んじゃったぁハート達(複数ハート)
えんぴつTO THE BEAT, NOT TO THE BEAT の解説に対して
「吉田み」様からコメントがありましたね。

「『エロさ』の先には、その表現方法を使って伝える、さらに深いところがあるんだけどなぁ〜、もう」

エロい!とはっきり言ったヨヨヨさんの勇気は賞賛したいところですが、
次の「あぁもう!!」でも「鉤型(かぎがた)の針先は あなたなら 無理に抜いていいの」を
クローズアップするなんて、吉田さんに対してちょっと挑戦的なんじゃないかと思ったり。

おもしろいです。

エロさについて十分語った後は、
やっぱり「ふたりのリズム全部知りたい」「あぁあなたにならどうにでもされたい」あたりに落として欲しいですね。

すべてをさらけ出すとか、すべてを受け入れるとか、すべてを許すとか
エロさの先には、とても哲学的な世界が広がってますから!

と吉田側についてみましたが、でもまた、
吉田さんがコメントするくらいのインパクツのある解説を期待してます。
はじめまして。

UPされる度、興味深く読ませていただいています。
ありがとうございます。

う〜ん…深いですねほっとした顔
「エロさ」に関する曲ではあせあせ(飛び散る汗)
どうしても男性と女性では、
受け取り方が違うのかもしれませんね。

iaさんのコメントに、とても共感していますほっとした顔
これからも楽しみにしていますクローバー
あららーヨヨヨさん「大っきらい でもありがと」では、歌詞から逃げちゃったよー。
がんばって〜!!!笑。
先ほど参加したばかりの「ヨヨ」です。決して「ヨヨヨ」のマネじゃないヨヨヨうれしい顔

yorimoのヨヨヨ的『DO YOU DREAMS COME TRUE?』全曲解説、私も毎日楽しみにしていまするんるん
私は、曲を全体的に直感的に聴いて「あ、この曲素敵」と感じます。一方、歌詞は耳に入ってくるときと、じっくりと歌詞カードを見ながら入ってくるときと「あ、印象が違うな」と感じます。その後、美和ちゃんはどんな世界で、どんな気持ちで書いたんだろう・・・と想像します。
ヨヨヨさんの解説を読んでいると、「こういう視点から聴けるってすごいなぁ」とドリの新しい発見をさせてもらったような気分になりますぴかぴか(新しい)

はっ!そうか!!ヨヨヨさんや美和ちゃんが言っていたのは、iaさんが言われるとおり「その先にある愛の哲学」なんですね!!
何だか自分は今まで上っ面でしか聴いてなかったんじゃ・・と反省冷や汗

解説も終盤ですが、楽しみながら読みたいと思いますexclamation ×2
ヨヨヨさんの解説・・・なんだか深くなってきましたね。
さ・す・が!!!

まさか、このトピックを見られてたりして・・・。
ありえなくないと思ったら、ちょっとドキドキ!!!
きゃっハート達(複数ハート)見られてるなんて・・・ドキドキぴかぴか(新しい)っていうよりワクワクるんるんっと同時にハラハラあせあせ(飛び散る汗)

「TRUE, BABY TRUE」も素敵な曲ですよね!
深〜い人間が持つ深〜い心をこんな風に書いてくれるところ、本当に素晴らしいです。人間に対して素直ってことですよね!吉田美和さんは本当に本当に「そういふ人」なんですねうれしい顔

「思い切り 何度でも 泣かせてもらいなさい」がとても温かく、肩の力を張り詰めていた糸を無理していた自分をフッと楽にさせてくれるような、そんなフレーズに聞こえました。このフレーズがあるから「そう思えるかどうかは 100パー自分次第」とちょっぴり厳しめなフレーズも「うん、そうだ!明日を生きるのは誰でもない、この自分だ!」って思えるんですよね。前を向けるんですよね。

あ〜やっぱりステッキーな歌ですことっぴかぴか(新しい)
文字が入らなくなったので、最後の曲はこちらに。

ペンa love songペン

中学生の時の国語のS先生は、学校の帰りに「さようなら」とあいさつすると怒る人だった。思わず口にしてしまうと、「また、明日も会うんだから『おやすみ』にしなさい」と諭された。まだ日も暮れないうちから「おやすみ」を言い合うのはどこか滑稽だったが、僕たちは妙にこのあいさつが気に入って「さようなら」を言うのをやめた。S先生は毎日、漢字を1ページ書き取りしたノートを提出する課題を出していた。ある日、誰かがページの隅に質問を書いたら答えが返ってきたことがあったので、皆、面白がってS先生と交換日記のようにメッセージを交わすようになった。もちろん、僕も。このころ、中学生なりにいろんな悩みがあった僕は、毎日、質問を書き続けた。若いながらにぶちあたった人生の壁に対して、S先生は丁寧で熱い言葉を投げかけてくれた。その度に勇気づけられた僕は甘え、次第に愚痴っぽくなっていった。先生は根気よく付き合ってくれたが、ある日、「自分の人生を人のせいにしたらだめだ」と書かれたノートが戻ってきた。この一言は、まだ未熟だった僕の心を打ち抜いた。何も言えなかった。それから、僕はノートにメッセージを書くのをやめた。先生と話すのも気まずくなって、廊下ですれ違っても顔を下に向けるようになってしまった。そんななか、S先生が別の学校へ転勤することになった。僕は今までのお礼を言いたかったが、先生を囲むクラスメイトを見ていたら、なんだか近寄りがたくて、あいさつもできないまま見送ることになってしまった。あれ以来、なんとなく「さようなら」と口にするのを避けている。「DO YOU DREAMS COME TRUE?」の最後を飾る「a love song」を聴いた瞬間、僕はS先生のことを思い出した。この曲には、意味深な「さようなら」が登場する。

見つめるでもなく 振り返るでもなく
静かに終わる そして さようなら

この「さようなら」には様々な解釈があるだろう。だけど、よく考えてみれば、人生には口にも出さず、手を振ることもない「さようなら」があふれている。前向きとか後ろ向きとかいうことではない。ただ、そういう「さようなら」が静かにある。誰にも知られないまま。吉田美和は、その「さようなら」にやわらかいスポットライトを当てた。そして、自らもそこに立った。じっと。そんな吉田に、中村正人はあたたかい毛布のようなアレンジで応えた。それは、歌の合間を縫うように鳴るスネアドラムのロール音。マーチのリズムに使われることが多いロール音は、この曲のようなアンダンテ(歩く速さ)の曲調によく合い、吉田の詩に呼応するように何度も浮かび上がる。まるで音が鳴る度、中村が吉田に「さぁ、また歩こう」と語りかけているように。吉田が最後に歌う「さようなら」というフレーズには、深い深いリバーブがかかっている。やがて、深海の底に消えていくように声は消え去り、リズムだけが残される。この寂しい終わり方に、不安を覚えたファンもいたかもしれない。しかし、曲が終わる最後の瞬間、ある音が歯をくいしばって鳴り響く。DREAMS COME TRUEのこれからを占う鍵のように。CDをトレイに乗せてみてほしい。これが「今」のDREAMS COME TRUEだ。
この曲のコピーぬけてましたね。

ペンMIDDLE OF NOWHEREペン

僕らは今、どこに立っているのか。

果たしてここは、長く短い人生のなかの、あるいは大げさに人類史のなかの、あるいはもっと大げさに宇宙史のなかの、序盤なのか、中盤なのか、後半なのか。あるいは途中なのか、突端なのか。

一度はそんなことを考えたことがないだろうか。何かが始まった時に、何かが終わらない時に、喜びにあふれている時に、取り返しのつかないことがあった時に、誰かと出会った時に、誰かと離れた時に、ふと。

慣用句で「辺鄙(ぴ)な場所」を意味する「MIDDLE OF NOWHERE」の解釈に正解はない。世界地図の「真ん中」が「隅っこ」なのと同様に「今」を理解するのは難しい。

吉田美和は、そんな「今」を「時の舳先(へさき)」と表現しながら、こう歌う。

鼻の先で過ぎる「今」は
一秒前の「未知」

吉田が発見した普遍性は、時間という軸を飛び越えて、僕らが立っているいろんな「場所」を示してくれる。例えば、こんなふうに置き換えてみることもできる。

胸の奥に刺さる「痛み」は
一秒前の「残酷」

いつ終わるとも知れない悲しみや悩み、ずっと続いてほしいと願う快楽や幸福がどこへ辿り着くかは、常に塗り替えられ続ける「今」とどう向き合うかにかかっている。だから吉田は「明日の種を蒔くのは 今日なんだ」と力を込める。

そしてその種蒔きを音楽で体現したのが、イントロから鳴るピアノのリフだ。

延々と続く●・●・●・●・というアクセントのパッセージは、どんな状況でも一歩一歩、根気強く止まらずに積み重ねることでしか切り開かれない道があると教えてくれる。

実はこのリフ、アルバムでは打ち込みになっているが、ライブで生演奏するには相当な気力と体力が必要だ。地味な繰り返しだが、プレイヤーは否応なしに日頃の訓練を問われる。

腕に覚えのある人であれば、どんなコードでもいいので一曲通して挑んでみるといい。すぐに、まともに演奏するのがどれだけ困難か分かるだろう(そういえばジャズピアニストの上原ひろみが3月の「みんなでドリする? DO YOU DREAMS COME TRUE? SPECIAL LIVE!」に出演した時は、満面の笑みでグルービーかつ正確にプレイしている姿に驚かされた)。

もしライブでこの曲が演奏されることがあれば、キーボードティストの「積み重ね」にも、大きな拍手を届けてほしいと思う。

このパッセージがそうであるように、「今」の積み重ねを甘く見ると、次の「今」にしっぺ返しを食らう。20年間、「第一線」という「MIDDLE OF NOWHERE」で戦ってきたドリカムが表現する「今」は重たく、尊い。

でも、忘れちゃいけない。

僕らが立っている場所だって、紛れもない「MIDDLE OF NOWHERE」なんだ。

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