ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

駿州・田中城研究コミュの江戸時代の田中藩主

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
江戸時代の田中藩主を列記しておきます。
本多侯以外は、ほかの地へ移封されています。それぞれの移転先の郷土史にその人柄が記録されていましょう。
エピソートや肖像など、追記してください。

駿河大納言忠長卿     寛永2年(1625) 持ち
松平大膳亮忠重(ただしげ)寛永8年(1631) 3万石
水野監物忠善(ただよし) 寛永12年(1635) 4万5000石
松平伊賀守忠晴(ただはる)寛永19年(1642) 2万5000石
北条出羽守氏重(うじしげ)正保1年(1644) 2万5000石
西尾丹後守忠昭(ただてる)慶安2年(1649) 2万5000石
〃 隠岐守忠成(ただなり)         (世襲)
酒井日向守忠能(ただよし)延宝7年(1679) 4万石
土屋相模守政直(まさなお)天和2年(1682) 4万5000石
太田摂津守資直(すけなお)貞享1年(1684) 5万石
 〃 熊次郎        宝永2年(1705) 6万5000石
内藤豊前守弌信(かずのぶ)宝永2年(1705) 3万5000石
土岐伊予守頼殷(よりたか)正徳2年(1712) 3万5000石
 〃丹後守頼稔(よりとし)正徳3年(1713) (世襲)
本多伯耆守正矩(まさのり)享保15年(1730) 4万石
 〃  〃 正珍(まさよし)享保20年(1735) (世襲)
 〃  〃 正供(まさとも)安永2年(1773) (世襲)   〃  〃 正温(まさはる)安永6年(1777) (世襲)
 〃  〃 正意(まさおき)寛政12年(1800) (世襲)
 〃  〃 正寛(まさひろ)文政12年(1829) (世襲)   〃  〃 正訥(まさもり)万延1年(1860) (世襲)

コメント(20)

田中城主になった20余人を、じっくり紹介していきます。
まず、 3万石をフイにした殿様---不思議な性格の北条出羽守氏重。

家は、北条のむ支流というから、小川(こがわ 現・焼津市)の長谷川家の祖・法永長者が支援した伊勢新九郎(のちの北条早雲)に関連がある。

北条支流の4代目だけど、養子。実家は保科だから徳川ゆかりのピカピカ。母親は久松で、これまた家康とは濃い縁つづき。

それで娘4人をそれぞれへ嫁がせたのに、64歳で卒するまで、養子の手当てをしそこなった。殿様の責任というより、家臣たちがどうかしている。
北条出羽守氏重は田中藩2500石から掛川藩3万石へ転封になってから死後は嗣子無く改易となったのですね。

久松松平と縁続きなのに勿体無い。普通の家臣やその家族達が気の毒です。
駿河大納言忠長卿は悲劇的な最期ですね。

徳川2代将軍秀忠の子に生まれながら、乱行が原因(?)で駿河,甲斐両国を没収され、幽閉されていた高崎城(上野国)で自害されました。29歳。
大納言忠長卿も悲劇的ですが、卿に配された幕臣たちも、主を諌めなかったという罪で、全員、浪人。
長たるもの、下のことをつねに考えていないと。
それで、長の器量が測られます。
松平大膳亮忠重(ただしげ)寛永8年(1631) 3万石 の家譜を掲げます。
もう一人、不運な田中城主を掲げます。酒井日向守忠能(ただよし)です。
『藤枝市史 上』(藤枝市 1980.3.31)は、こう記しています。

酒井日向守忠能は、延宝7年(1678)9月6日、信濃国小諸城から10,000石を加えられ、田中城にうつった。家老は成瀬弥左衛門、小原四兵衛である。
在城僅か2年で、天和元年(1681)12月10日、領地を没収され、彦根城主井伊掃部頭直興に預けられる身となった。
領地没収になった理由は、兄忠清の子忠挙が勘気を蒙った時、忠能は籠居の身でありながら、憚りなく江戸に来たばかりでなく、領内の治績もよくないということである。忠能は慶長6年(1601)田中城主となって治績を上げた酒井備後守忠利の一門である。(略)

正親--重忠--忠世--忠行--忠清--忠挙
  │        │ 
   忠利       忠能

しばらくの間、本多伊予守忠恒が在番した。忠恒は近江国膳所の藩主、康持の子で10,000石を分与され、その子忠純が伊勢神戸の城主となり15,000石を治した家柄である。
さて、忠能は配所にあること10年、元禄3年(1690)4月、漸く許されて江戸に帰り、5,000石の采地を知行し、家士の列に加わった。
忠能は茶道を片桐貞昌に学び、石州流に通じていた。

酒井日向守忠能を調べると、天和元年12月10日酒井忠挙事件に連座して,「人臣の禮を失」へるものとして廃絶せられたとありますが、その酒井忠挙事件が詳しくわかりません。
どんな事件なんでしょうexclamation & question
西尾隠岐守忠昭(ただあきら)について、『藤枝市史 上』(藤枝市 1980.3.31)から転記します。

(悲運の城主であった)北条氏重についで田中藩主となったのは、西尾隠岐守忠昭で、慶安2年(1649)月11日、常陸国土浦城から5,000石を加えられ、田中にうつり、家老は、屋代作右衛門、羽山甚左衛門である。
城主たろこと5年、承応(1654)3年10月26日、田中城に卒した。
西尾隠岐守忠成は、その時僅かに2歳であったが、遺領をつぎ20,000石を領した。遺領5,000石は叔父忠知に分けられたが、延宝3年(1675)忠知が没すると5000石を返され、25,000石を領した。
田中治世は父子30年の長期にわたっていることは、前諸侯に見られないところである。
延宝7年(1679)9月6日、封を信濃国にうつされ小諸城に治したが、文和2年3月、遠江国横須賀城に移され、致仕してからは祥鳳と号した。孫忠尚は老中に進み、35,000石を食み、子孫相ついで横須賀城主だったが、明治元年(1868)安房国花房に移った。
明治まで数代、城主をつづけた本多家が沼田から移ってきたのと入れ替わりに沼田城主となった土岐家について、『藤枝市史 上』(藤枝市 1980.3.31)から転記。

土岐伊予守頼殷(よりたか)は、正徳2年(1712)5月1日、大坂城代から田中城主に封じられ、35,000石を領した。頼殷はこの時すでに71歳に及び、老の故を以って大坂城代を辞したのである。田中治世1年で致仕し、享保7(1722)年9月22日、田中城に卒した。
土岐丹波守頼稔(よりよし)は、正徳3年(1713)7月6日、父の封35,000石をついだが、享保6年(1721)7月、弟頼郷(よりさと)に3,000石を分与した。家老は今泉清左衛門、寺田清兵衛、月岡右兵衛であった。
享保10年(1725)12月29日、大井川堤普請の命をうけ、駿河国にある幕領22,000石を預けられた。後また7,000石をあげられた。また田中城西の堀を浚渫したので、城辺の湿田は乾田となったという。13年寺社奉行を命じられた。
享保15年(1730)7月11日、大坂城代に進み、19年6月、京都所司代、寛保2年(1742)には老中に出世し、上野国に封
『藤枝市史 上』(藤枝市 1980.3.31)から転記。

太田備中守資直(すけなお)は、貞享元年(1684)7月19日、浜松城主から田中城主となって50,000石を領した。家老は河野賀右衛門、山田宇右衛門である。
資直は太田道灌の後裔で、その年の8月9日、若年寄に抜擢され、更に側用人に進んだが、元禄元年(1689)12月、故あって出仕を停められた。宝永2年(1705)1月2日、48歳で歿した。
太田備中守資晴(すけはる)は、資直の第5子であったが、他の4人がいずれも早世したので家をついだ。その時僅かに11歳。その4月20日、封を陸奥国に移され、棚倉城に治した。
田中在城は僅かに2ヶ月であった。
資晴はその後寺社奉行、若年寄等に用いられ、享保13年(1728)9月、上野国館林城にうつされ、19年(1734)9月、大坂城代に進み、大阪に卒した。子孫は延享3年再び掛川城主にうつされ、50,000石を領していたが、明治元年(1868)上総国芝山城にうつされた。

『藤枝市史 上』(藤枝市 1980.3.31)から転記。

内藤豊前守弌信(かずのぶ)は、宝永2年(1705)4月23日、陸奥国棚倉城から転封となり、50,000石を食んで田中城を治した。
家老は白坂久右衛門、久永惣右衛門である。
弌信の祖は信成で、天正8年(1580)伊豆韮山で城で10,000石を食み、慶長6年(1601)3月、駿府城主となり、慶長11年9月、若狭国長浜に移り、孫信照は忠長卿幽閉儀田中城の在番を命じられたこともあるゆかりの地である。
信照は陸奥国棚倉城を治し70,000石を領した。
弌信はその孫にあたるのである。弌信は田中城に居ること7年、正徳2年(1712)5月15日、大坂城代に進み、享保5年(1720)9月、所領を越後国にうさつされ、村上城に住した。子孫相ついで村上城主となり、明治にいたった。
『藤枝市史 上』(藤枝市 1980.3.31)から転記。

水野監物忠善(ただよし)は、寛永12年(1635)8月4日、下野国山川城から10,000石加増され、45,000石の藩主として田中城にうつされた。家老は拝郷源左衛門、中野源太左衛門である。上青島二つ山と瀬戸山の間に千貫堤を築いて大井川の氾濫に際しても、下流地区にある田中領の村むらを守ろうとした。今僅かに存する茶畑はそのおもかげをとどめている。
在城7年で、寛永19年(1642)7月28日、5,000石加えられ、三河吉田城にうつされ、正徳2年、更に5,000石を加えられ、同国岡崎城に転封となった。子孫は肥前唐津に移されたが、文化14年(1817)再び東海の要地浜松城に移り、老中に抜擢されてイ勇名を馳せたのが忠邦である。弘化2年(1845)、出羽国山形城に転じ、50,000石を領して明治にいたった。
『藤枝市史 上』(藤枝市 1980.3.31)から転記。

土屋相模守政直は、天和2年()2月12日、常陸国土浦城を改めて田中城に封じられ、45,000石を領した。
家老は赤尾亦兵衛、品川源左衛門である。
在城僅か2年で、貞享元年()7月10日、20,000石を加えられ、大坂城代に出世した。
そして同2月9日、京都所司代、10月12日、老中と破格の抜擢を受けた。つづいて再び旧領の地、土浦城主となり、その後3回の加増によって95,000石を領する身となった。政直は小堀政一、県宗知の門に茶道を学び、遠州流の茶人として有名である。子孫相次いで土浦城に治し明治を迎えた。
『藤枝市史 上』(藤枝市 1980.3.31)から転記。

北条出羽守氏重も田中藩主であった。氏重は、正保元年(1644)3月18日、下総国関宿城から5,000石を加えられて田中城主となった。氏重は元和5年(1619)封を遠江国に移され久能城に住し、同8年(1622)遠江国横須賀城番を3ヶ月勤めたこともあり、宝永9年(1632)10月には田中城番をつとめ、同11年(1634)11月、駿府城を守衛する等、当城並に駿遠の地は、ゆかり多い土地であった。家老は堀隼人、田中新左衛門である。
在城4年で、慶安元年()閏正月21日、5000石の加増があって掛川城に移され、万治元年10月1日卒し、嗣子がないという理由で同年12月20日、領地没収のうき目にあった。
北条氏重(つづき)

北条出羽守氏重は、正保元年(1644)3月18日、下総国関宿城から5,000石を加えられて田中城主(35,000石)となった。50歳であった。
54歳の慶安元年(1648)に、5000石か像された掛川城主に移った。
それから10年間、城主を勤め、万治元年(1658)年、64歳で卒した。継嗣の男子がいなかったので、城地は収公され、家は絶えた。

氏重は、徳川譜代の保科の出、しかも、将軍・秀忠の庶子で保科で養われた正之の孫である。母の(久松)松平の多却(ちか)姫は家康の異父妹。

疑念は、64歳まで長生きしているのに、どうして養子を手当てしなかったかである。

娘は5人いたが、すべて嫁している。室は杉原伯耆守長房(25,000石 常陸国新治郡小栗庄)の長女(彼女の甥の代に継嗣がいなくて絶えた)。

長女=内藤出雲守忠清(5000石)の室
次女=土方杢助雄高(伊勢国菰野藩 15000石)の室
三女=近藤織部重信(4300石)の室
四女=大岡美濃守忠高(2700石)の室
五女=酒井和泉守忠時(7000石)の室

『掛川市史 中巻』(掛川市 1984.12.18)は、
氏重は万治元年11月朔日、66歳(?)で病死したと伝えられているが、一説には、正月の馬の初乗りで落馬したのが因であったといわれる。子供は男子がなく娘が5人あったが、娘に婿を取り嫡子として家ほ継がせることもねできたはずなのに総て他に嫁がせたのは幕府が一代限りと定めていたのであろうか、その辺は明らかでない(略)。
慶安4年(1651)12月幕府は末期養子の禁止を緩めて50歳以内の者に認めたが氏重は高齢のため適用されなかった。
氏重は明暦2年(1651)に城内長松山臨泉寺中に竜華院を建立、慶安4年(1651)薨去した三代将軍家光の霊牌の下賜を願って霊屋を儲け」
るほど、徳川家に忠節ぶりを示したが、家名の断絶は避けられなかった。

左:再興された掛川城天守閣
中:北条氏重画像 
右:大猷院(家光)霊屋 竜華院内
北条出羽守氏重画がはじめてみました。

母が久松松平なのに66歳で亡くなるまで養子縁組もせずに家名断絶つはなんとも不思議でしたが、何か密約があったんですね。 

氏重の年賦を調べてましたら、年代的に保科正之の孫ではなく、養父保科正光の弟になるようですが・・・・

保科正直 − 長男正光 − 養子正之
       四男氏重(北条氏勝養子)
 
正之 慶長16年(1611)−寛文12(1633)

氏重 文禄4年(1595)ー万治元年(1658)

       


>サリーさん
ご指摘の通りでした。

保科正直−正光−(養子)-正之
   多劫
       氏重(3男)

系図を見誤りました。
本多伯耆守正珍の『寛政譜』と『徳川実紀』

正珍の老中罷免理由は、『寛政譜』の正珍の個人譜に記されているのは「御むねに応ぜざるにより」とだけあり、<御旨>の内容はわからない。

『徳川実紀』も、宝暦8年9月2日の条に、

宿老本多伯耆守正珍がはからふ事ども御旨にかなはずとて職ゆるされ。かり鴈間の座班にかへさる。

とあり、「10月28日条参照」と割注されている。で、その日の条。

此日前の宿老本多伯耆守正珍在職の日。金森兵部少輔頼錦が封地の農民等。領主の命令をいなみ。不良のふるまひはつのりしに。頼錦もとより正珍にちなみあれば。内々とひはかりし事ありし時。頼錦が家士等正珍の家士等とひが事どもはからひしをも。正珍聞きながらふかく糾明もせず。同列にみかたらはず。等閑にすて置きしにより。あらぬ浮説さへ出来たり。かれといひこれといひ。重職の見ににげなき事とて逼塞を命ぜらる。
(このあと、若年寄・本多長門守忠央(ただなか)や勘定奉行・大橋近江守親義(ちかよし)などの罪状が記されているが、それは後日に)。

家士同士がやった「ひが事」とはなにかが明記されていない。

ログインすると、残り1件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

駿州・田中城研究 更新情報

駿州・田中城研究のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング