松平家忠が無かったので作りました。
自由にやって下さい。
松平 家忠(まつだいら いえただ、1555年(弘治元年)-1600年9月8日(慶長5年8月1日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての徳川氏の家臣。
松平伊忠の長男。
正室は水野忠分の娘。
深溝松平家の第4代当主で、幼名は又八郎。
徳川家康に仕えて、主要な合戦に参加して武功を挙げた。
天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると、武蔵国忍城に1万石で入った。
本来忍は家康の四男・松平忠吉が10万石で与えられたものだが、忠吉はまだ幼少のため、彼が成人するまでは家忠が預ったものである。
その後、忠吉が正式に城主になると改めて下総国小見川に移封された。
慶長5年(1600年)、家康の命で鳥居元忠、内藤家長らと共に伏見城の守備に残り、石田三成ら西軍の挙兵を誘った。
そして目論見どおりに三成は挙兵したが、家忠らは関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで戦死した。
享年46。
家忠日記
家忠は戦国武将としてよりも、彼が記した日記である『家忠日記』(いえただにっき)の著者として有名である。
これは天正5年(1577年)10月から文禄3年(1594年)10月までの17年間、その日に何が起こったかを簡潔に書き綴った日記である。
基本的には天候や季節の淡々とした記述であるが戦の記述も多くある。
出来事や天候に対する自らの感想など感情的な文章はほとんど書いていないが、能を鑑賞したり茶の湯を楽しんだとの記述があり、家忠の文化人としての人間性をうかがう事ができる。
また、当時の政治情勢や家康の生活ぶり、そして大名の日常生活や習慣を知る上では重要な史料であると言われている。
☆徳川十六将
榊原康政http://
酒井忠次http://
井伊直政http://
本多忠勝http://
大久保忠世http://
平岩親吉http://
松平信一http://
大久保忠佐http://
内藤正成http://
高木清秀http://
渡辺守綱http://
服部正成http://
米津藤蔵http://
蜂屋貞次http://
鳥居元忠http://
☆武田二十四将(山本勘助、山県昌景 以外)
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飯富 虎昌http://
高坂 昌信http://
武田信繁http://
武田 信廉http://
穴山 信君http://
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内藤 昌豊http://
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真田幸隆http://
三枝守友http://
原昌胤http://
小幡昌盛http://
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☆上杉家臣団(村上義清、柿崎景家、直江兼続 以外)
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小島弥太郎http://
斉藤朝信http://
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本庄繁長http://
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竹俣慶綱http://
水原親憲http://
松本景繁http://
☆その他の武将
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朝倉宗滴http://
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