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ジル・ドゥルーズコミュのベッカムの髪型

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sigeyosiと申します
なめくじ長屋に住んでいた五代目 古今亭志ん生(1890-1973)にドゥルーズは似ている、とどこかで読んだ記憶があります。それは話し方あるいは雰囲気がでしょう。記述の方法とか文体はベッカムに近いのでは、と最近思いました。というのは、ベッカムの髪型の変遷は彼が真似されるのが嫌だから、と報道されるのを聞き、なるほどそういう分けでしたか、と納得したからです。ある章で定められたある用語の意味内容が、次の章ではズレている。同じベッカムなのにどこかが違う、と。
 はじめてミルプラトーに目を通した時(1994)、道徳の地質学の「内容の実質と形式」「表現の形式と実質」の区別(二重分節)をしっかり把握ぜすに読み進め、それ以後にもたびたびこの捉え方が出て、ロスが大きくなったという失敗があります。

 俯瞰的な引用
 地層は大地の<身体>の上での凝固の現象であり、この現象は分子的でもあれば、モル的でもある。つまりそれは蓄積、凝固、沈殿、褶曲といった現象なのだ。それは<帯状>をなし、<挟み>であり、<分節作用>である。伝統にしたがって簡潔にいえば、三つの地層が分類される。物理化学的地層、有機的地層、人間的形態をもつ(あるいは「異形成的な」)地層である。<p559>
 地層を構成する分節は、いつも二重の分節作用(二重の挟み)である。それはまさに一つの内容と一つの表現を分節するのだ。そして形式と実質は現実に区別されるものではないが、内容と表現は現実に区別されるのである。……内容の分節と表現の分節、要するに内容と表現はそれぞれ独自に形式と実質をもつ。二つのあいだつまり内容と表現のあいだには、対応性も因果関係も、シニフィエ−シニフィアンの関係もない。現実的な区別、相互に相手を前提とするということ、そして同形性があるだけだ。<p560>
 三つの地層は分類され同じように捉えられていますが、微妙な差はあると思います。特に第三の地層はp87 監獄について にあるように複雑でしょう。

 別のトピックスで民衆という言葉が出てきましたが、民衆というより、日本では庶民といった方が当たっているでしょうか、「差異のある連結」は構成のレトリックとして古来から伝統文芸で行われて来ました。例えば−−
 初つばめ父子に友の来ている日 加藤楸邨(かとうしゅうそん 確か 父子で おやこ と読む)
 中年や遠くみのれる夜の桃 西東三鬼(さいとうさんき)

 今でも1000万人以上の俳人や歌人が日々そうした、取り合わせ、二物配合、二物衝撃としてゆるやかな「横断的結合」を実践しているでしょう。(私が差異の哲学書を読み始めた一番のきっかけは取り合わせの探求からでした)

 ミクシィを歩いていて、もっとも感心したことは、この取り合わせが生かされたシステムであるということです。(すでに指摘されていることだとは思いますが)マイミクシィやコミュニティ一覧のアイコンがリロードでランダムに配合され、プラトーの後半に出てくるクレイジーパッチワークの様相を呈している。つまり平滑空間や存立平面。結果はアイオーンの時間(事件や一期一会)で作られる一つのコラージュや絵に匹敵し、増えれば増えるほど、複雑さが増し、描ける図柄が飛躍的に増えてゆきます。アイコンの良さで参加したり、友人になる?ことが起こっても不思議ではなく、ドゥルーズのアイコンとその名前からくる響きをファッションとして表層に散りばめたいという欲望も肯定されると少なくとも私は思います。
 スズメバチと蘭のようになれ、猫とヒヒのようになれ。

コメント(14)

以下、トピズレかも知れませんが・・・。スポーツに関して、ドゥルーズは『記号と事件』で新しいスタイルの創出をめぐって書いていました。でも今の若い人で、テニスのマッケンローを知っている人はいるのか・・・
ちなみにクライフのサッカー論(「規律のあるカオス」etc)はドゥルーズ以上にドゥルーズ的です(中公文庫『ヨハン・クライフ』他参照)。
 関本さん、はじめまして。
 付けにくいトピックにレスをありがとうございます。書籍の方はどちらも残念ながら未読です。年長組なのでマッケンローの名前は知っている、という程度で、ニュースでちらっと見たくらいですね。どなたか詳しい方に続けてもらえれば良いのですが、、、。
sigeyosiさん、こちらこそレスいただきありがとうございます。

>なめくじ長屋に住んでいた五代目 古今亭志ん生(1890-1973)にドゥ
>ルーズは似ている、とどこかで読んだ記憶があります。それは話し方あ
>るいは雰囲気がでしょう。

志ん生は晩年、舞台で居眠りをして、客に「志ん生が寝ているのだから寝かせておこう」と言わせしめた人物で(ホントか?)、ベッカムや北野武がその域に行くのはまだまだ先でしょう(笑)。
即興的で破天荒(アナーキー)な生き方自体をドゥルーズ的と称するのでしょうが、居眠りが芸になるような志ん生こそは「器官なき身体」を体現していると言える・・・かも。
ベッカムも北野武も表情が硬くなっている、かもしれませんね。

「ラドクリフの敗因分析」後藤新弥のコラム。
http://athens2004.nikkansports.com/column/goto_040824.html
TV実況でヌデレバ(ケニヤ)は一度もコースを試走をしていなかった、と増田明美は解説していました。
 野球やサッカーとは違ったスポーツなので話題にはなりにくいかもしれませんが、ドゥルーズと結びつけたり、脱線したりして、考えてみると面白いと私は思いました。
ミルプラトーにおける「顔」についての記述と北野武の著書『顔面麻痺』を比較すると面白いかも知れません・・・
ちなみに北野武は某女優宅に向かう途中、事故に会ったというゴシップ記事もありました。となると、彼こそが「欲望する諸機械」なのかも知れません(笑)。
『座頭市』の殺人マシーンのような姿を見ていても、そう思いました。
言及されることの少ない彼の作品『み〜んなやってるか』こそが「欲望する諸機械」の最たるものでしたが・・・。ドゥルーズに彼の映画を見てもらいたかったものです。
すいません。はっきり言って全然わからないし、ドゥルーズも名前を聞いたことがあるくらいなんですが、ムチャクチャおもしろいんで、おもわず書き込んじゃいます。すいません。

>『み〜んなやってるか』
は、ある意味すごい映画だったなぁ。もう一度見ようとは思わないけど。

『ベッカムの髪型』を読んで「そうだ、ドゥルーズを読んでみよう!」と思いました。ミルプラトーね、memo memo..
ふきさん、関本さん、ペンパル募集さん、レスありがとうございます。ペンパル募集さん、テーマパークあるいは宇宙飛行以上の楽しい体験が出来るかもしれません、船出を祝いましょう。
 トピックの書き初めでは何が書きたかったのか、はっきりとしないまま開始してしまった、という反省もあったのですが、そのため話題が飛び跳びになりました。「欲望」という言葉を聞いてようやく分かりかけてきたことがあります。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=806879
でtwistedさんが適切な解説をしてくれています。この二重分節のところにずっとひっかかっていたのは、欲望(この辺りは『アンチ・オイディプス』)と対象の間の距離(差異)の線上に人は居て、また人は間奏曲(インテルメッツォ「リトルネロ」とは別の)であると考えられなくもない。例えばソフトを作っている行為はソフトというオブジェクトの生産だけではなく、ユーザーとPC(機械語)の間にあって、いかに快適にPCに命令を与えてスムースに作業を遂行させるか……媒介とか、接着剤の役割とも考えられるでしょう。欲望の消尽(欲望=差異の解消、満足)や派生物の生産を間接的に手助けしているとも言い換えられ、ほとんどの仕事と云われるものは、同じように医者ならば治療という行為を通じて快適な生活(現状回復)と人を結びつける中間項になっていると言えるし、小売り・流通・郵政・運輸は見た目からしてそうだし、、、。この線分を考えることは自分を見失いかけた時に、世界での自分の位置を知る上で多少の有効性があるかもしれない。
 ミクシィの人的なネットワークは(ファーストコンタクトでは多様性の一つとしての)その人と関わるということももちろんありますが、その人を間奏曲で見てみるとその人が位置する一つの線分の先端にある未知の物との遭遇への運動でもあろうと。
 補足です。
ドゥルーズ的な読み方とは、初歩的には繰り返しテクストに密着するしかないのですが、遊べるようになったら、テクストのある部分からある部分へと継ぎ足してみたり、外部の部分と繋げてみたり、誤解したり、意味をずらしたりして、二重分節に新たな一分節を加える試み(これは無理としても)……中間状態の一過程を精密にしてみることなのではないかと思います。
sigeyosiさん、興味深く読ませていただいております。
以下トピズレ(自己差異化?)になりますが、
インタ−ネットがリゾーム状の媒介を用意するとしても、それ自体は自己資本の増殖の附加でしかなく、そこに過剰な意味を見出すのはロマン主義というものでしょう。ただドゥルーズは、左翼には媒介が必要だとはっきり語り(『記号と事件』)、新たな線を引き続けることを恐れません。
「画家ミレーがこう述べている。絵画で重要なのは、農民がかついでいるもの、たとえば器具やジャガイモの袋などではなく、かついでいるものの正確な重量なのだ、と。ここにポスト・ロマン主義への転回点がある。問題の核心は形相や質量にあるのではないし、テーマにあるのでもなく、力、密度、強度、にあるのだ。」(ミルプラト−邦訳p394)
ミルプラト−の面白さは、sigeyosiさんがおっしゃるような連結器としての側面に加えて、本を手に取る度に(その日の調子によって)、重さが違うように感じることです。
ふきさん、コメントありがとうございます。
>インターネットが自己資本てのはよく理解できせんが、
先の書き込みの「自己資本の増殖」は「資本の自己増殖」を書き間違えました。訂正いたします。
追記:
ソーシャルネットワーキングサイトはすでに限界を露呈しており、アメリカではmeetupというオフ会設定のアプリケーションサイトが流行っているように、mixiでも実体のある資本の連結(オフ会)を模索するべきでしょう。
ラチオさん、こちらこそよろしく。新しい読みを披露してくれると嬉しいです。
ふきさん、関本さん、いつもレスありがとうございます。
 この大地――脱領土化された世界、大氷河、一巨大分子としての地球――は、器官なき身体そのものである。この器官なき身体は、まだ形をなしていない不安定な物質や、あらゆる方向の流れに縦横に貫かれ、自由状態の強度や放浪する特異性、狂ったような移行状態の粒子がそこを飛び交っている。……
 地層は……その本質は物質に形を与え、共鳴と冗長性にもとづく安定したシステムのうちに強度を閉じ込め、特異性を固定して、地球というこの身体の上に大小の分子を構成し、それらの分子をさらにモル状の集合体へと組み入れていくところにある。地層とは捕獲であり、いわば「ブラック・ホール」であって、圏内を通過するいっさいのものを引き止めようとする閉塞の現象なのだ。<p59>
力、密度、強度の重要性はこんなところからも理解可能でしょう……。また強度的な感動(一次的な感動)とは瞬間的な強度の解放でしょう。
話がズレてしまいますが、TBSの赤坂マラソンを見るために画面を見ていたのですが、その直前にドイツから来た二人のジャグラーが、三本のボーリングのピンのようなものを投げあいながら、自らの服(パンツ以外)を脱いで互いに交換し着て終わるというショーをやっていました。服が脱領土化し、再領土化される。関本さんのオフ会とも、ベッカムの領土化の標識であるタトゥーとも似ていそうで似ていないとは思いますが、一次的な感動を伴っている場合もあるサッカー選手の試合後のユニフォームの交換、考えてみれば、敵同士が最小の領土を交換する意味あいは大きく、芸に取り入れているところに注目して見ていました。世界平和?やコミュニケーションを表現していなくもないし、ゲイの表現かもしれない……
ドゥルーズの使用する用語は、一度翻訳して、初学の人、専門家じゃない人にも理解できるレベルまで噛み砕いた方がよいでしょうね。
そうじゃないと、結局の所、けむに巻かれるだけなんじゃないのかと。

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