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ペーター・ホフマン[MIXI出張所]コミュの歌手の思春期

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ペーター・ホフマンの声と歌に惹き付けられてしばらくしたころ、インターネットに接続しました。まだごく初期で今に比べれば内容も乏しく、何の役に立つのかという感じでしたが、ホフマンについていろいろ検索してみました。大した情報は得られなかったのですが、あちらの投稿サイトで、毀誉褒貶の激しさを、そして、どこかで1983年に伝記が出版されたことを知りました。もう伝記が?!とちょっとびっくりしました。是非読みたいと思いましたが、見つからず2002年になってやっとドイツ・アマゾンで古本を発見した次第です。今はもう容易に入手できます。この間のインターネットの発展充実振りは実に驚異的です。

きょうは、歌手の思春期です。
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ペーター・ホフマンが育ったのは、ドイツの中部南西寄りにある中規模の都市ダルムシュタット(Darmstadt ヘッセン州)です。古くはダルムシュタット公国の首都で、フランクフルトの南に位置し、近くにはフランクフルトをはじめマインツやハイデルベルクなどがあります。路面電車が縦横に走っているということです。私は広島市にけっこう長く住んでいたし、松山市とも縁が深いので、市電あるいは市内電車と呼んでいた路面電車にはなじみが深く、懐かしい感じがします。広島市にはドイツのドルトムント市から中古で購入した車両も走っていました。余談ですが、広島市にはカトリックの司教座聖堂(カテドラル)がありますが、原爆で破壊されたこの聖堂の再建には、同じ敗戦国ドイツのケルン市民からの大きな援助があったという話です。

ドイツの基礎教育は大体6歳から10歳までの四年間、ペーター・ホフマン兄弟は、この後、ゲオルク・ビュッヒナー・ギムナジウム( Georg-Buechner-Schule Gymnasium Darmstadt)に進みます。学校は、特にこのギムナジウムに進んでからは、あまり好きではなかったそうです。そして、優等生どころか、最悪の落ちこぼれ三人組のひとりだったようです。後には三人共、ちゃんとしたひとかどの大人になったということです。特にだめだったのが数学で、ドイツでは日本の5が1という風に評価法が逆なのですが、数学は5で、これが原因で高校卒業資格試験すなわち大学入学資格試験(アビトゥア Abitur)を受けることができず、ギムナジウム中退ということになってしまいます。その後、こういうケースも受験可能になったそうです。ホフマンはこのころをこう回想しています。

「多くのことに興味を持っていたが、興味がないことは、全くもってうっとうしいだけだった。数学については、二度と再び対決するようなことにはならないだろうが、もう絶対嫌だという気持ちを持っている。要するに、放っといてくれだと思う。いつごろからか、数学なしでも、アビトゥア(高校卒業資格試験)が受けられるようになったが、当時、私はアビトゥアが受けられずに、退学したのだった。音楽と数学、これが私の進路のきっかけだったといえよう。それにしても、当時は「重要性」が奇妙に分裂していた。不思議な感じがするのだが、思うに、私はおくてで、そのころは、全く単純で何も考えていなかったし、加えて、学校時代を良きものとなしうる重要な出会いもなかった。トーマス・マンについてだけ考えてみても、授業で彼について取り上げられたとき、私にとって彼は嫌悪感の対象でしかなかった。当時の私にとって、まるで関係ないことであって、この問題に取り組むべき動機がなかった。あまりにも「実際的」だったと言うべきかもしれない・・・今現在、私は、トーマス・マンに夢中になっている。この夏、私は、彼の全作品を手元に準備して、二度目の読破を果した。その詳細な描写はわくわくするほどすばらしい。繰り返し読むことによって、舞台における自分の演技力に役立てることさえできたと思う」(伝記1983年刊)

余談ですが、ここでちょっとアビトゥアの話です。1980年代から90年代にかけて、数人のドイツ人の母親と付き合いがありましたが、全員いわゆるアビトゥア組でした。彼女たちによると、ドイツではアビトゥア組か、非アビトゥア組かということは、社会的地位、階層の基本のようなものらしいです。ですから、アビトゥア組の親は子どもたちをそうするために幼いうちから最大限の努力を惜しみません。学校の宿題、提出物のチェックなどはしっかりと怠りなくやります。日本の「教育ママ」顔負けというか、実に教育熱心です。アビトゥアは6月ごろ、およそ一ヶ月に渡って実施され、ドイツ学園に子どもを通わせている彼女たちも緊張が高まるようでした。その当時は、アビトゥアの成績と希望の大学の希望者数によっては、即入学は難しく、待機中ということで帰国を伸ばし、日本に滞在しているドイツ人の子どもたちもけっこういました。アビトゥア組でない子どもたちもいましたが、あきらかに知識的な意味でのレベル差が見られました。

さて、歌手の少年時代に戻ると、12歳のころ、両親が離婚し、若い継父が来ますが、折しも反抗期のころだったこともあり、当然、関係はよくなかったそうです。大人になってからは、母親共々、ずっと良い関係を保っており、いつごろからか、経理などの仕事をしてもらっています。実父は、フランクフルトに引っ越し、当然行き来はあったのですが、ホフマンのバイロイト音楽祭初出演の前年に、亡くなります。バイロイト出演について、父親に話すことができてうれしかったそうです。なかなか信じてくれなかったけど、とても喜んでくれたそうです。舞台は結局一度しか見てもらえなかったのですが、その舞台というのが、ヴォツェック(ベルク作曲)の野蛮な鼓手長役だったのでした。祖父に同伴してバイロイト音楽祭に通った父に、バイロイトの舞台に立つ姿を見てもらうことができなかったのは、とても残念なことでした。

少年時代に、ほんとうに興味があったのは、スポーツ、続いて、ロックでした。12歳のころには、ビートルズやエルヴィス・プレスリーに夢中になります。16歳のころ、学校の友だちやスポーツ仲間とバンドを結成し、親たちの反対をしりめに、練習し、どこかで演奏したります。若者のバンドとして最高の成果は、米軍ソルジャー・クラブのダンス・スクールでの公演だそうです。小学生のころ、母に習わされたピアノは嫌いですぐにやめてしまったのですが、ギターは独学ですぐに巧くなり、バンドでは、ギターとヴォーカルを担当、編曲などもしていました。

スポーツは、陸上競技選手でリレー競技におけるドイツ・チャンピオンの高等学校教諭シュミット先生に発見されて以来、地元のスポーツ・クラブで、陸上競技選手として、特に十種競技、棒高跳びで活躍し、成果をあげます。棒高跳びのヘッセン州青少年チャンピオン、十種競技でも、数回、ヘッセン州青少年チャンピオンに、さらに、ヘッセン州青少年記録保持者となり、ASC ドイツ選手団としても団体優勝したそうです。

1963年3月、義務兵役による徴兵で、国防軍に入隊。親元を離れ、新しい生活がはじまります。18歳でした。ドイツの義務兵役は10か月ですが、ホフマンの場合、部隊と駐屯地を選べるという理由で、志願兵として入隊し、スポーツマンとしてもやりがいがありそうだということで、パラシュート部隊を選択します。
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写真1)学校? 学校については問題があった。ほんとうに興味があったのは、スポーツだった 18歳

写真2)生意気盛りの16歳 ヒッチハイクは得意だった? 最初の専属契約をし、デビューしたドイツの北の果て、リューベックへオーディションのために行ったときも、古いフォルクスワーゲンがまた故障。長い道のりをヒッチハイクで行ったそうです。

写真3)ワンダーフォーゲル:エルビスの歌はまずは野原で、それから軍隊のクラブで

コメント(2)

>シェローのリング
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