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ペーター・ホフマン[MIXI出張所]コミュの歌手の生い立ち

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オペラ歌手にしろ、俳優にしろ、何にしろ、好きになるのに、その出自や生い立ちは全然関係ないです。でも、ファンになってしまってからなら、それなりに興味を持つのもごく自然でしょう。私の場合、歌手の声と歌に魅せられて、十数年後、2冊の伝記によってやっと歌手個人、つまりその人間性を垣間みることになったわけです。

せっかくコミュニティができましたので、どこからはじめようかと悩むところです。まず、今接することが可能な演奏の記録からというのも考えましたが、とりあえず、ここでは、歌手の人生を辿っていこうかと思います。

長文になることが多いかと思いますが、是非、感想、質問その他何でもお寄せください。

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ペーター・ホフマンは1944年8月22日、温泉のある有名な保養地マリエンバート(旧チェコスロバキア)で生まれました。「去年マリエンバートで」(アラン・レネ監督 1960年) という映画がありますが、この題名の響き、日本語としても美しいです。
写真1)ははがきで、『女よ!あなたはウェルズングのジークムントを見ているのだ!』と書かれています。ワーグナー・ファンだった父親の手になる長男誕生のお知らせハガキだったのでしょう。

この地は、第二次世界大戦に関連して、政治的な意味を持った、いわゆるズデーデン・ドイツと言われる地域に属しています。この辺り、ボヘミア地方はかつてはオーストリア帝国の領土だったこともあり、昔からドイツ人が多く住んでいた地方だったのですが、それを理由に1938年に、ヒトラーの要求によってチェコスロバキア政府からドイツに割譲されます。そして、第二次世界大戦後、1945年から1947年に渡って、今度はおよそ350万人のドイツ人住民がチェコスロバキアから追放されます。

ペーター・ホフマンの母方の祖父はウィーンで演劇を学び、妻と共にズデーデン地方で自分の移動劇団を主宰していました。多才な人で、舞台俳優であっただけでなく、自分で演出をし、台本を書き、作曲し、ピアノとリュートを演奏し、舞台美術家であり、非常に豊かな想像力の持ち主だったそうです。この祖父は1932年に亡くなり、その後は祖母が劇団運営をしていたそうですが、政治情勢が厳しくなり、マリエンバートに定住、まもなく戦争がはじまります。ペーター・ホフマンの母となるインゲボルクの三人の兄たちは徴兵され、彼女は裁判所の事務員として働きます。彼女は末っ子の一人娘だったようです。ごく幼いころから、家族劇団の女優として、両親や兄たちと共に、舞台に立っていました。ペーター・ホフマンの父親は、ベルリンの実業家だったのですが、この地に保養に訪れ、19歳のインゲボルクと知り合います。

父方の祖父は、ドレスデンの香水工場経営者で、芸術に造詣が深く、オペラ劇場の熱心な後援者でした。ワーグナーのファンでもあり、バイロイト音楽祭の常連で、子どもたちもよく同伴し、ついでに保養地マリエンバートに足をのばすことも多かったそうです。気前がよすぎたせいか、ドレスデンの工場を人手にわたすことになり、ベルリンに移住。そこでは、本屋を経営し、音楽評論や詩を書いたりもしていたということです。ペーター・ホフマンの父親となるペーター・マクシミリアン・ホフマンは、こういう上流の都会的な家庭で、家庭教師による教育を受けて育ちます。バスの美しい声をしていたそうで、指揮者になるのが夢だったそうですが、父親と同じように実業家になります。16歳で年齢を18歳といつわり、ドイツ皇帝の騎兵隊に入隊、第一次世界大戦で重傷を負ったため、第二次世界大戦では兵役を免除されており、保養地でインゲボルクと出会うことになるわけです。

ゆうに20歳の年齢差があったのですが、父親を早く亡くした彼女には、父親代わりといった感じもあったようです。兄たちが戦争に行き、母親と二人きりですから、そういう大人の男性の存在は心強かったと思われます。
ペーター・マクシミリアン・ホフマンは圧力機械の工場を経営していたのですが、工場をズデーデン地方に移し、インゲボルクと二度目の結婚をします。長男ペーターが生まれた翌年には敗戦を迎えることになります。

ホフマン一家(赤ん坊のペーターと両親、そして祖母)は、戦後のドイツ人強制退去より前、終戦を目前にしたころに芸術家の一団と共に、アメリカ軍占領地区、レーゲンスブルク方面へと国境を越えたようです。この間の詳しい事情はわかりませんが、父親の機敏な判断があったのではないかと想像できます。それでも、全財産を捨てての避難だったことには変わりないでしょう。そして、避難民を割り当てられた、ダルムシュタット近郊の村にとりあえず留まります。4歳のころ、ダルムシュタットに引っ越し、弟が生まれます。戦後の問題はいろいろあったはずですが、子どもにとって遊びの世界は無限で、とても幸せな子ども時代だったと歌手は回想しています。

写真2)両親
写真3)ダルムシュタット近郊の村でオペレッタに出演した両親と

コメント(2)

coyoteさんは、ドイツ語をちゃんと学ばれたのですね。私の誤読、発見したら、是非教えていただきたいです。なんだか恥ずかしい・・
私は大学の第二外国語でかじっただけですから・・・よろしくお願いしますm(_ _)m

>ちょっと共通点
どんなことでも、なんでもつながりがあると、親しみが増しますね。

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