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文通をするコミュのことはじめ

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いやあちょっと今日はたくさん文章書いたからハイになってるかと思いきや結構落ち着いちゃってる。

とりあえずボルタンスキーに関する俺なりのまとめを読んでみてほしいんだけど、もし嫌な気にさせたらごめんなさい。
「別に正しくはこう書くんだよ」ということを言っているわけではないけれど何か「ムラシをダシにして俺の正しさを主張する。」みたいに取られかねない行動になっているかも知れないのでそれに関してはあらかじめ謝っておきます。

ただ、もちろん上のような意思から書いたものではなく、ムラシに乗り移った気になって、また、単純に俺ならこう書くという気持ちを半分もって書いただけのことなので参考にしてもらえれば嬉しく思う。

とりあえず何か自由に、メモ代わりでもいいし、気軽に書き込んでいきませう。



コメント(18)

ええと、つまり「死を殺す」というテーマを設定して議論したいということ?

ここで前にボルタンスキーの論文について話したことを思い出した。あのとき確か僕は村上の文章をわかりにくくしている要因の一つに所有格の省略(もしくは所有格に対する無頓着)があると言うことを話したと思うのだけれど、今もう一つ、村上の文章をわかりにくくさせている要因に気がついたので指摘しておきたいです。

ええとそれはある意味を与えた言葉とか命題にたいして村上がそれを肯定しているのか否定しているのかがわからない、ということです。つまりここで言えば「死を殺す」ということを肯定的な意味で使っている(つまり「もっと死を殺そうよ」と思っているのか)、否定的な意味で使っているのか(「死を殺したらいかん」っと思っているのか)、がわからないということ。

もちろんある命題を否定したくなったり肯定したくなったり、人の意見が瞬間瞬間で変わっていくことを否定しているわけではなくて、というよりそういう揺れとか変化とかを伝えるためにはその瞬間は肯定的に使っているのか否定的に使っているのかを明らかにして行かないとその揺れや変化も伝えることができない。と思う。

話が長くなったけど、「死を殺す」ことを村上はしたいの?したくないの?それと死を殺すということは具体的にどういうこと?

というか今村上の文章を読み直して初めて気づいた。「しって何か?」という村上の文を俺は「知って何か?」という意味だと思っていたけど「死ってなにか?」という意味だったのね。

じゃあいいや「死とは何か」という問いだてから出発しようか。

「死を殺す」っていうのは荒川修作の「天命反転」みたいなことなんだと俺は解釈したのだけれどその違いから話をしてみようか。

荒川修作の主張はごく乱暴にわかりやすく説明すると、西洋近代的な頭と体を切り離す形而上学的なものの考えかた(心身二元論というべき考え方)によって人は死を認識していて、そのような考え方をしているからこそ人は死ぬのだ。ということで、さらに、天命反転住宅のような平らな地面が少しも無いような場所で暮らすことで、(心身二元論的な考え方を忘れて)人は身体の感覚を常に新しく開いていく、それ故に人は死なないのである。ということだよね?

ここで俺が荒川修作のことを少しまとまった形で伝えることができるのは今月の美術手帖に荒川修作の天命反転住宅のワークショップ報告が載っていたからです。是非読んでみてください。

「死とは何か」という問題から少し離れてしまったけど、村上がどうして死について考えたいと思っているかをもう少し丁寧に説明してもらえるとうれしいのだけれど。
ええっと、ホントに興味深く読ませてもらいました。

特に
>海でおぼれて実はぼくは死んでいて、別の世界に生きているのではないかと想像したりしてしまい、海で死んだのは死に対して無意識だった自身が死んだと考えるようになりました。

>このように死について考えることが自身の物語を書くことを過剰にしてきました。僕の場合は死について語ることはつねに現在の自身によって書き換えられた物語を語ることになります。そして数回の死に出会うたびにぼくは自身の中に、生に対するずれを感じさせました。それはもう一つの僕の思考の起源である病です。病により人間は間違いなく死に近づきます。ことに心が病むとはとはどういう事なのか。青年期の僕はこの事ばかり考えるようになりました。

>しかし、小説はすきにはなれませんでした。(たまたま読んだ本が悪いと思うのですが)それは自らが自らの物語を書いている事実にきずかされ物語を生きているのか、自身の生を生きているのか分からなくなり気持ちが悪くなるからです。

という三つの部分がとても好きです。
僕が考えていることとすごく共通していると思います。

まず、
>海でおぼれて実はぼくは死んでいて、別の世界に生きているのではないかと想像したりしてしまい、海で死んだのは死に対して無意識だった自身が死んだと考えるようになりました。

というのはすごくわかりやすくて面白い。死を意識せざるを得ないような厳しい現実に直面したときにそれ以前まで機能していた物語が機能しなくなり、新しい物語を必要とする、ということは人間の物語への依存を示す好例だと思います。

ここからがわかりにくい。
>このように死について考えることが自身の物語を書くことを過剰にしてきました。僕の場合は死について語ることはつねに現在の自身によって書き換えられた物語を語ることになります。そして数回の死に出会うたびにぼくは自身の中に、生に対するずれを感じさせました。それはもう一つの僕の思考の起源である病です。病により人間は間違いなく死に近づきます。ことに心が病むとはとはどういう事なのか。青年期の僕はこの事ばかり考えるようになりました。


この中の
>そして数回の死に出会うたびにぼくは自身の中に、生に対するずれを感じさせました。

というのは要するに死を別の物語によって否認する、というようなことを指しているのかな。
つまり、海でおぼれた例で言えば、「僕はあの時死んでいたかもしれないし、今後死ぬかも知れない。でも死ぬのはすごく怖い。自分が死ぬかもしれないという可能性と一緒に生きていくのは嫌だ、だから死を否定してしまおう。例えば、あの時僕は実際死んだのだ。しかし僕は今生きている。それはつまり僕が死ぬ瞬間に、死ぬ現実と死なない現実は二つに枝分かれし、僕自身は常に死なない現実の方を生きることになる。だから僕は死なないんだ。」
というようなことなのかな?
で厳しい現実に接するたびにこういうような物語が増えていって、現実と自分自身の物語にズレが生じていった、もしくは意図的にズレを生じさせていった。ということなのかな?
上のように考えると下の文章がすっきりと響く。

>しかし、小説はすきにはなれませんでした。(たまたま読んだ本が悪いと思うのですが)それは自らが自らの物語を書いている事実にきずかされ物語を生きているのか、自身の生を生きているのか分からなくなり気持ちが悪くなるからです。

これが僕の解釈なんですけど間違ってるかな?それとも単純化させすぎてこぼれ落ちる部分が多すぎるかなあ。何か意見があれば是非。

小説を読むと自分自身が物語りのなかで生きていることに気付かされて、気持ちが悪くなる。という感覚はとても面白い。そして物語を生きているのか自身の生を生きているのかわからなくなるというのもとてもよく分かる。

一回切ろうか。


本当に赤裸々にムラシの体験を書いてくれたのはすごくありがたいし、対話の基礎が作れたと思う。ありがとう。改めてこの文通が充実したものになることを実感しています。

で、僕が何をお返しできるかというと自信がないのだけれど(僕にはムラシのような決定的な死の意識化を強要する事件があったとはいえないから)、最近のことなんだけど僕は仕事をやめることになりそうで、多分9月くらいになると思うんだけど、この出来事に関してすごく物語の機能不全ということを考えるきっかけになったのね。
ちょっと仕事の事に関してはまだ僕自身整理ができていないのでここでその事に触れることは勘弁してもらいたいのだけれど・・・

ええと、つまり、世界は僕らの物語(ここでは内面とか精神とか世界観と言い換えることもできる意味で使っている)に関係がないところで存在し、また運動を繰り返しているのだけれど、普段そのことは意識しない。また世界が僕らの物語と関係がないところで動いているということは一人一人の物語によって覆い隠されている。
でもその世界のあり方が僕らの物語世界から著しく分離したとき物語は機能不全をおこす。つまり現実を覆い隠すことができなくなる。僕らはむき出しの現実を直視できるほど強くない。

その「むき出しの現実」の最たるものが「死」なのであろうと思います。

一つ提言をするとすると、「死を殺す」、つまり「死の恐怖を克服する」ためにはいくつか方法があって、その一つは強力な物語を受け入れるという方法だと思います。
わかりやすく言えばキリストを信じるとかね。つまり僕らは死んでも最後の審判の日によみがえり、審判で認められれば天国に行ける、というような強力な物語だね。

でも僕はこの方法はもはや役に立たないと思っていて、では、どのような方法があるかというと「自我を克服する」もしくは「自我の強力な枠にひびを入れる」という方法があると思います。
荒川修作などがやろうとしているのはまさにこのことなのではないかと思うのだけれどどうだろう。

この辺にしておきます。
では。
ええと、仕事中なのに書き込みとかしちゃっていいんだろうかということを考えつつ、まあ背徳的なことはいつもある種の快感を伴うものでして・・・

まあそれはいいとして、ボルタンスキーのところに死の定義をかいてみました、とあるけど何処?間違って消しちゃってない?

それも置いておいて。「時間」という概念が死について議論する中に入り込んできたことは面白いと思う。
というのも、僕が前の文章でむき出しの現実の最たるものが死ではないか、ということに触れたと思うのだけれど、「時間の流れ」というのもむき出しの現実を代表するものの内の一つではないかと考えているから。

というのも、死が蓋をされたところから事あるごとに顔を出して僕らの内面の平安を脅かすものであるのと同様に、時間の流れもまたそういう性質を持つものであると思うから。

まあ普通に考えれば分かるように時間の流れというのもまた僕たちの内面とは関係がないところで自動しているもので、僕らが関与できないものであります。
また時間の流れというものは時計をじっと見続けていれば別ですが、体のなかを流れている時間の流れのイメージと実際の時間の流れはほとんどの場合別もので、時々僕らは時計や暦などをみてはそのズレをそのつど修正していくものだよね。
で、でもその修正は常にうまくいくわけではなくてそれぞれの修正のたびに少しずつずれていったものにある周期で気付かされる、とかそういう類のものであるということがいえる。

つまり自分にとっての「今」から「死」までの時間が一直線に続いているという世界観を前提としたときには、時間について考えることと死について考えることは非常に似ている、というか一続きの思考だということがわかる。

でも、おそらくそれこそが荒川修作をはじめとして例えば禅だとか仏教だとかが否定する前提であるということが言えると思う。

というのもおそらく「東洋的な」と一くくりにはいえないと思うのだけれど、まあ乱暴に東洋的な時間観が見直されているのは、キリスト教的な最後の審判に続く「直線を描く時間」観を廃して、というか考えず、「円を描く時間」観が重要であると考えられているからなんだろうと思う。

でもやっぱり円を描く時間観というのはあまりイメージできないよね。やっぱり。 死に向かって日々刻々と減っていく時間という感覚はどうしたら覆せるんだろう。というか覆して言いものなのでしょうか。また。くつがえしてどうなるものなのだろうか。

その辺どうでしょう。
あと、ミクシー上でかけないと思ったことで、書きたいことがあれば、メールの形にしてもいいし、コミュニティメンバー以外は読めない設定に変える事もできると思うので、もしそういう意思があれば遠慮なくどうぞ。

上の文章ではほとんど抽象的な言い方になっているのだけれど、おそらくもっと具体的な体験を交えて書くほうがお互いの利益になるのではないかな。

僕が最近小説ばかり読んでいるのはその意味においてなんですよ。つまり小説は実際の体験や出来事を通して、身体を通して考えたことが現れやすい、という意味で価値があると俺は考えていて、もし、その出来事を多くの人に知られることで周囲をキズつけたりしてしまう場合において最低限のフィクションを利用するという方法論が小説における多くの手法のうちの一つだと思うのだけれど、そういうことがこの文通でできればいいかな、と思う。

だからフィクションにして伝えるというのもありだよ?
>宗教というのは死んでからの時間を考えていますが、
ぼくは死んでからの時間はいっさい信じていないです。

とあるんだけど、ここはとても引っかかるところだなあ。
ここのところもう少し詳しく説明してもらいたい。

死んでからの時間を信じないというのは要するに死後の世界を信じないということ?例えば天国とか地獄とかそういうものの存在を信じないということなのかい?
それとも自分が死ぬと同時に世界も死んで後にはなにものこらないとう言うこと?例えば自分の子供も自分の描いた絵も含んだ世界もすべて終わりを迎えるとかいう。
まあおそらく前者であって後者ではないと思うのだけれど。

あとキリスト教的時間観と仏教的時間観が異なるという話については知っているとか知らなかったとかいう問題ではなくて体に染み付いているものだと思う。例えば輪廻とか生まれ変わりとか呼ばれる考え方の根本を支えているのは円を描く時間観だし、かといって仏教を信じている人が直線的な時間観、例えば死んだらすべてが終わりだというような考え方を完全に排除したりそのことを一生の間に一度も考えないというようなことは絶対にありえないよね。つまり現代に生きていようが生きていまいが人は直線的な時間観と円的な時間観の間で揺れ動いているのには変わりがない、ということ。

だから当然キリスト教的な直線的な時間観を批判した人は数え切れないほど居ると思う。例えばオクタヴィオ・パスというノーベル文学賞受賞者はその代表だと言われているらしい。俺は読んだことないけど。

>思考を小説的に書く事はそもそもできるのでしょうか?
難しい事だと思います。

という意見に対しては僕の使っている小説という言葉とムラシの使っている小説という言葉の意味の広さがまったく異なるということをいわざるを得ないです。というかムラシの小説という言葉の使い方は間違っているとさえ思います。

小説=フィクション、という図式をたてること、または、哲学=ノンフィクション、というよな図式を立てること自体間違っていて、文章を書くことからフィクション性(虚構性)を排除することは不可能だということは考えればすぐにわかる。だから・・・

>言葉というのは実際書くべき事を違う言葉で説明したらそれは違う言葉に成ってしまいます

という文章は本当に聞き捨てならなくて、「違う言葉」になった元の「書くべきこと」というのは一体言葉以外の何物であるのかということをムラシは考えていない。
伝えたいことという形のないものがある一つの言葉や文章というものに定着するということは絶対になくてそれはなぜかというと言葉の意味自体が時間と共に揺れ続けているから。
だからこそ言葉は揺れ続けている世界や僕らの気持ちを瞬間瞬間に部分的であれ伝えることができるのだけれど、逆に言えばそれは「伝えたいことという形のないものがある一つの言葉や文章というものに定着するということは絶対になく」なることでもある。

と思うのですがいかがでしょうか。かなりエキサイトしましたが。

今日はふと思いついてしまったばっかりに片目に眼帯をしながらタイプしたためにどうも疲れた。眼帯をしているのは片目だけで見る世界というのがどういうものか体で確かめたかったので。

では。お返事お待ちしております。
輪廻転生という考え方が仏教にはある。と一般に言われる。
輪廻転生とは一人の人間(動物や虫も入るのかもしれないがそれは置いておいて)が死んだとき、それは個体としての身体が死んだだけで、魂のエネルギー自体はそのまま世界に残り、違う個体として何度でも生まれ変わる。人間が人間に生まれ変わることもあれば、人間が虫に生まれ変わることもある。

で、この輪廻転生という概念を支えているのはあらゆる生き物にとって生は苦しみであって、多くの生き物はその苦しみとしての生を何度も何度も生きなければならない運命にある、という考え方である。

で、その輪廻の苦しみから逃れでた唯一の存在達が仏達であり、仏教とは苦しみとしての輪廻を抜け出るために悟り、仏になることを目標とする教えである。ということがいえると思う。

だから仏教の根本理想にとっては死ぬことは終わりでもなんでもなく、次の生へのスイッチみたいなものであるということがいえる。

円を描く時間というのはこういう世界観を前提としていて、つまり始まりもなく終わりもない、ということ。世界は誰が作ったのでもなく、ただ有り、未来永劫あり続ける、ということである。死は始まりでも終わりでもなく、むしろ終わりであって始まりである、ということになる。

それに対してキリスト教的世界観というのは、まず始めに神という創造者がいて、神は絶対的な創造者であって、神こそが世界の始まりである、という世界観がある。そしてその神によって作られた世界の中で人間も神によって作られ、そして神の手の平の上で転がされ、かつ試されている。個人個人は個人の一生を終えたら墓の中で最後の審判を待ち続ける。生まれ変わりはもちろんない。そして神による最後の審判の時によみがえり、地獄に落ちるか天国で永遠に暮らすかという審判を下される。

直線線的な時間観というのはこういった始まりがあって終わりがあるという時間観を指しているのであって、直線というか矢印というイメージに近い。始点があって終点がある、という意味においてね。だから直線的な時間観において死は決定的に終わりなのであって、そこが円を描く時間観と究極的にことなる点だといえる。

だから結局円を描く時間観とか直線的時間観というのは形としての円とか直線とはそれほど関係なくて、要するに死生観のことを言っているわけで、形としての円とか直線というのはメタファーにすぎない。

だから「時計の針が円を描くから円を描く時間観だ」とか「ろうそくは直線だから直線的時間観だ」などというのは、視覚的イメージと言語的思考を混乱させて考えていて、またその混乱に気がつかないまま文字に落としているだけで全く話にならない。

何度も言うようだけれど明確なメタファーとメタファー以外の言葉というものをぼんやりとしてではあってもしっかりと区別しないと言葉の上を横滑りしていくだけのむなしい議論=言葉遊びになってしまう。

言葉は言葉の中だけである程度つじつまが合うようにできているから、そこのところは本当に気をつけなければいけない、と反省するところです。
ちょっと辛辣に書きすぎました。すこし反省してます。

ムラシが俺の問いに一つ一つ丁寧に答えようとしてくれているのはすごく伝わってきていてて、それと共に引用などを使って、以前よりもはるかに実のあるコミュニケーションが取れていることは間違いがなくて嬉しく思うところではあるんだけれど、今の俺やムラシにとって相手から出てきた疑問にすべて答えながら進んでいくというのはほぼ不可能に近くて、やっぱり自分が普段よく考えていて、それに加えて「これなら人にわかりやすく説明できそうだ」というようなものしか伝えることができない。「これなら人にわかりやすく説明できそうだ」と思ったことを実際に伝えるという仕事だけでもそれは本当にたいへんなことだと思う。

だから提案としてはお互いにすべての問いに答えようとせず、相手にわかりやすく説明ができそうなものから一つずつ丁寧に説明していくということをしようというのが提案です。

どうでしょう。

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