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ホラー映画から恐怖漫画までコミュの「女優霊」考/読み物

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この夏、僕は「女優霊」に取り憑かれていた。

実際この映画はかなり恐い。風評によると96年にレイト・ショウ公開され、“恐すぎる”という理由で即日打ち切りになったとか(真偽はさだかでない)。で、2年の間に「あれは恐いよ」という噂があちこちから聞こえ出し、僕も一度借りてみようと思ってはいたのだが近くの大型レンタル店ではいつ見ても、10本程も置いてあるのがすべてレンタル中になっていて(皆、本当に恐いものをよく知っているらしい。98年11月現在も西院のTUTAYAで「女優霊」をレンタルするのは難しい)長らく機会を失していた。

この8月末、ようやく1本残っていたのをレンタルし、そうそうに帰って観たのであるが一緒に観ていた妻は最初の、撮影したフィルムの試写のシーンで怖じ気付き手で顔を覆って「もうアカン、観たくない。これは絶対ヤバイで」とリタイア。結局僕は一人、寝室のテレビで缶ビール片手にこれを観破したのであるが、ゾッとすることしきりであった。

簡単にあらすじを述べておくと、柳ユーレイ扮する新人監督が初めて撮ることになった映画の制作過程で、まずパイロット・フィルムに途中から撮影した覚えのない古いモノクロのカットが写り込み(妻はここでリタイアした)、以降柳はそこかしこに不穏な“兆候”のようなものを感じながらも淡々と撮影を進めて行くのであるが、その矢先に助演女優が天井桟敷から謎の転落死を遂げ、他にも意味不明のトラブルが続出し撮影中止を余儀なくされる。主演の女優に淡い恋心を抱いていた柳は彼女の身に危機を感じて保護しようとするが…といったもの。

ストーリー的には取り立てて目新しいものではない、というこの映画に対する批評をいくつか読んだが僕はそうは思わない。何故なら幽霊話には付き物の“怨念”が、「女優霊」においては完全に抜け落ちているからだ。言うまでもなく日本のトラディショナルな幽霊は「うらめしや〜」を決め台詞に出没するものであり、その恨みを“晴らす”ことを唯一絶対の目的としている場合がほとんどなのであって、そういう積極的な幽霊を“地縛霊”と呼ぶらしい。他にも単に“迷って”“自分が死んだことを知らずに”フラフラ現れる人騒がせなだけの“浮遊霊”なる消極的な霊もいるそうだが、どちらかというとこちらは地味でドラマ向きではない。ところがやたらと怖い「女優霊」はそのどちらでもない。

ところで我々は幽霊が怖いのは“怨念”のせいだと思ってはいないだろうか。しかし、考えてみればこれはおかしい。例えば四谷怪談のお岩さんが恨んでいるのは伊衛門であって我々ではない。またお岩さんが怖いのは、飲まされた毒によって髪が抜け落ち、額が腫れ上がるというドギツイ造形によるところが大きいがこれは肉体的な気持ち悪さであり“恐怖”の本質ではないような気がする。もう一つ例を挙げれば現代の有名な怪談話の類型で、タクシーが深夜に女を乗せ、言われた通りに近くの湖まで行くが、湖に近づくといつの間にか女は消えてシートがビショ濡れになっていた、というのがあるがこの場合もおそらく失恋でもして入水自殺した女が成仏し切れずに現れるのだろうというような至極分かり易い物語が即座に付加される。つまり歴然とした“怨念”ではなく類似した“未練”が幽霊出現の理由として明示されるが、当然我々は彼女を入水自殺に追い込んだであろう相手ではないのでその未練に対していささかの罪悪感も感じ得ないはずである。ではこの話を聞いた時のウス気味悪さはどこから来るのだろうか。

「女優霊」は幽霊話の、いったい何が怖いのかという根本的な問いに対して理屈ではなくまさにその“根本的な”“それ以上付け足すことも差し引くことも出来ない”怖さでもって応酬してくる。

“不気味なものとは追放され、再び還って来た自分自身の属性である”という意味のフロイトの言葉は漠然としていながらズバリと何事かを言い当ててるが、まさにそのような“漠然とした”“曖昧さ”の幾つかが「女優霊」を超B級のジャパン・ホラーに仕立て上げる要因になっている(世の中には確かに“漠然とした方法によってしかズバリと表現できない”ものがあるのだ)。

第一に霊の撮り方。輪郭のはっきりしない、ピントのぼけた、漠然とした“何か”が“居る”ことの怖さ、しかも常に画面の中心からずれたところに“曖昧”に“それ”が“写り込んでいる”という手法が見事に功を奏している。第二に霊の“無目的さ”であろうか。それが物語全体に“漠然とした”不安感と“意味不明の”恐怖を与えている。先にも触れたが幽霊話には付き物である“怨念”“未練”“恨み”が「女優霊」では徹底して(意識的に?)排除されているように見える。つまり“物語”という、説明によって我々を安心させ、納得させてくれる根本のものが漠然とした恐怖の中に、それを紡ごうとするまさにその瞬間・場面ごとに逐一回収され、拠り所を失うのだ。第三には“反復”ということ。霊の無目的さによって不可避的に錯綜した(物語たり得ない)ストーリーが痙攣的に“反復”する。

映画の中盤で「この撮影所、何だか気味悪くありませんか?」と言う主演女優(白鳥靖代)に対して柳は「そうかな?ウソの話(映画のこと)を作ってるせいかな?何だか後ろめたい気もするし」と答えるが、それはそのまま撮影所まつわる、ある噂話にリンクして行く。かつてもそこでドラマを撮影中に女優が転落死する事故があったらしく、そのドラマの内容は“ある母子がいて、二人はあくまでも怖がる為の遊びとして家の二階に得体の知れない狂女が住んでいるという空想話を二人だけの約束事として作り上げるが、やがて母親に男が出来、男と逢っている時に子供が二階に上がって来ないように、母親自らが空想の狂女を演じて子供を二階から遠ざける”というものであった。ところが撮影中、その空想の狂女が撮影所に“出る”という噂がまことしやかに流れて間もなくその主演女優が転落死、空想の狂女に殺されたのだ、ということになる。だから、正確に言うと「女優霊」は“妄想”であって“幽霊”でさえないのだ。

つまり母親は男と密会することの“後ろめたさ”から狂女を演じ、子供を二階から遠ざけるのであるが、その“後ろめたさ”は先の柳の「ウソの話を作ってるせいかな?何だか後ろめたい気もするし」というセリフと重層構造を成している。“後ろめたさ”が更なる“後ろめたさ”を生み、複製させて行くということへの漠然とした不安とその増大。やがて“後ろめたさ”は最初の原因を忘却し、意味を剥奪された理由なき“後ろめたさ”として無限に複製を繰り返すのではないだろうか。我々の周りに明滅する“幽霊”とは実は意味を剥奪された“後ろめたさ”の残像ではないのか、という気さえしてくる。

また我々は“女優”という存在そのものについてまで思考せざるをえない。あらゆるものが演じられ続ける実体の消え失せた、いや、そんなものは最初からあり得ない世界に対する本質的な恐れ。女優霊のあの無意味な“ゲラゲラ笑い”は確かに主体として存在し、客体の差異に対して笑うという実存の感覚を“空虚”に変質させる力を持っている。何か空虚なものがそこに立っている。空虚は突然、強烈なその本質を露にして襲ってくる。空虚というと静的なイメージがあるがその実、我々にとっては最も恐ろしいものなのだ。

ところで心理学者である岸田秀の言う通り、本能が壊れ、日々を疑似現実の中で種々の約束事に沿って“演技して”生きるしかない我々にとって、根拠のない“後ろめたさ”“空虚”は必須であり(キリスト教ではそれを“原罪”と呼び、むしろ演技して生きることを善しとしたが、結果的に無理の上に無理を重ねるようなものであり長続きしなかった)、それが「女優霊」の謂れの無い“恐さ”を“怖がる”我々の資質となっていることは明白であろう。

そのように考えて行くと、恐怖とは物語の裂け目(例えば虚偽の交錯する地点)に立ち現れるものであることが分かってくる。“物語紡ぎ”に失敗した時、ありえなく(あってはならなく)、何か漠然とした、我々の日常的な物語の背後を覆っている深遠なるもの、“本質(=根拠無き後ろめたさ、空虚)”が、突然その裂け目からシミ出すのだ。

柳は実際放映されていないはずの“恐いドラマ”を執拗に「観たんだ!!」と言い張り続ける。暗がりの階段を登って二階へ行くとそこには「知らないおばちゃんが居て」「やたらに恐かった」と言い、ついには母親に電話を掛け、自分がある時期から突然テレビを怖がりだしたという事実を知る。が、その事実はやはり母親が付けた“日記”というフェイクによって裏付けられた心許ないものでしかない。自分が確かに観たものが実は存在しなかったということを知った時、人はまるで自分が幽霊になったように感じるのではないだろうか?

ラスト近くで妙に生々しい幽霊に追いかけられる柳の恐がりぶりは大人ではなく完全に子供のそれである。撮影中止を薦めるスタッフに対しての「もう遅いんだ、オレ、最後まで観てるんだよ」という柳のセリフは観る者を混乱させるが、映画という架空の物語を牛耳る監督(=神)までも飲み下す根拠無き“反復”は映画の終盤においても、些かもその蠕動を弛めることなく、“無意味に”“無感情に”遂行される。この際の女優霊のゲタゲタ笑いは感情表現ではなく“無感情表現”として機能するのだ。

もう一つ気になることがある。キーワードは“母親”である。劇中劇の中の姉妹は無自覚的に母子を演じていて、後半のカットで村に残ろうとする姉にすがりついた妹が姉の耳元で「おかあさん…」と呟くシーンがあるが、このセリフはあくまでオフレコであり、妹役の女優が無意識に口に出したものであるが、彼女が転落死した後、食堂で白鳥が柳とこの事について話すシーンがあり、白鳥は「その言葉を言われて初めて役がつかめたような気がした」ことを柳に告白するのであるが、それによって我々は母親という最も基本的な拠り所でさえもが“演じられている”という根源的な不安を提示され、そのことは先に触れた、かつてここで撮影され主演女優の転落死によってお蔵入りになったドラマの内容に呼応しているように見える。つまり“女優”は劇中で母親を演じ、男の前では女を演じる。そうすると彼女が母親以外に子供の前で演じた狂女とは、果たして誰であったのか。この“問い”はそれを発する者の背中に何か、ひどく冷たいものを押し当てるような“後ろめたい”“空虚な”問いであるような気がしてならない。

繰り返すが「女幽霊」は誰かに怨念を晴らしたいのでも、この世に未練があったのでもなく、何の必然性もなく現れ、かと言って偶然というような気楽さとは別次元の、何か強烈な意志(しかも何ら無根拠な!)を充溢させているように見える。しかもその実体とは劇中劇の母子のお遊びから生まれた空想の産物、つまり幽霊以前の“妄想”であることが映画の終盤になって明かされるが、それでもその怖さは微塵も揺るがない。

以上のように幾層にも“入れ子”状になった複雑極まりない迷路のようなこの映画の構造は冒頭の、撮影所の模型を使ってのライティング、カメラ位置の打ち合わせシーンですでに予見されている。しかしタマネギの皮を剥くように一枚一枚虚構を剥ぎ取っていったとしても、最後には何も残らない。ここでは(この世では)すべてが虚構であり観られることを意識した演技なのだ。唯一本物らしいのは柳の「このシーンは絶対に昔どこかで観たんだ!!」という恐怖の原型のような記憶のみであり、もう一つ、強いて挙げるなら柳の、白鳥に対する“漠然とした”恋心であろうか。

映画の最後の方で行方不明になった柳を探しに白鳥とスタッフが柳の部屋を訪れた際、スタッフが目の部分を針でメッタ刺しにされた柳愛用の白鳥のポートレートを見つけるが、僕はこの不可解なシーンを「アンダルシアの犬」の冒頭部で女が剃刀で眼球を切り裂かれるカットへのオマージュであると考える。この部分はストーリーの流れから逸脱した象徴的な場面ではないだろうか(「女幽霊」他にも幾つかそういう場面がある)。

余談ではあるが、僕は2編のマンガを思い出さずにはいられない。つげ義春の「ゲンセン館の主人」、諸星大二郎の「不安の立像」である。前作はフロイトの言うところの“回帰した不気味な属性”をおそらくはつげ本人もトランス状態で描いたに違いない佳作であり、後作は都会の線路脇にひっそりと立ち尽くす“空虚”がブラック・ホールの如き重力圧でもって得体の知れぬ精神の暗黒へと繋がっているといった物語であるが、双方、「女優霊」と非常に似通った主題を扱っているように思われる。

(1998.November-Tamaki Uda)

コメント(7)

自分は女幽霊を借りたんだけどやっぱり恐くて見れなかったチキン野郎です。
>〜Bassさん
犬木との同時期ではなく、もっと以前の日野日出志を知ってますか。「原色の孤島」とか「蝶の家」とか。

>チキン野郎さん
あなたはチキン野郎じゃありませんよ。女優霊が恐すぎるのです。やっぱ最初のパイロットフィルムのとこできましたか?
女優霊、公開時にポスターにインパクトを受け、映画館に2度観にいきました。だから打ち切りではないかな(笑)。

でも、やばいですよ。

あんまり気に入ってしまったのでポスターを買って家に貼ったんですが、家中いろいろな映画ポスター貼っているのに、女優霊だけはがれてくる。

ビデオテープを2度購入したんですが、どちらの時もテープが絡まり切れる。

結局DVDになるまで、家に置く事ができませんでした。

このコンビが後に怪物的ヒット作『リング』を産み出すことになるわけですが、私個人的には、映画のリングより、誰も知らないうちにひっそりと怖すぎるポスターが貼られ、公開され、口コミでどんどん怖さが伝わっていった女優霊のほうがよっぽど「リング」的だなぁと思いました。
ホームにおじゃましました。
1m超えの黒髪、魅力的です。
ポートレート、サダッてます。

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