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無教会主義コミュの内村鑑三「失望と希望(日本国の先途)」

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内村鑑三の「失望と希望(日本国の先途)」の句読点や送り仮名を読みやすく直してタイピングしてみました。
本当に素晴らしい内容と文章と思います。
まさに警世の書。
多くの人に読んで欲しいと思います。







内村鑑三「失望と希望(日本国の先途)」




私共に取りましては愛すべき名とては天上天下唯二つあるのみであります。

その一つはイエスでありまして、その他の者は日本であります。

これを英語でもうしますればその第一はJesusでありまして、その第二はJapanであります。

二つともJの字をもって始まっておりますから、私はこれを称してTwo J’s即ち二つのジエーの字と申します。

イエス・キリストのためであります。日本国のためであります。私どもはこの二つの愛すべき名のために、私どもの生命を献げようと欲(おも)う者であります。


イエスは私どもの未来の生命の在る所でありまして、日本国は私どもの現在の生命の在る所であります。

しこうして神を信ずる者にとりては、未来も現在も同一でありまするゆえに、私どもにとりてはイエスと日本国とは同一のものであります。

すなわち、私どもの信仰は国のためでありまして、私どもの愛国心はキリストのためであります。私どもはキリストを離れて真心をもって国を愛することができないように、また国を離れて熱心にキリストを愛することはできません。私どもがキリスト教を信じた第一の理由は、それが私どもの愛するこの日本国を救うの唯一の能力(ちから)であると信じたからであります。

私どもと日本国との関係は父子の関係、夫婦の関係、君臣の関係よりも更に数層倍深い、堅い、篤い関係でありまするから、私どもは私どもの国を離れて独り自から救われんとて、キリスト教を信じません。

私どもはもし詛(のろ)わるるならば、私どもの国とともに詛われんと欲する者であります。もし救わるるならば、私どもの国とともに救われんと欲する者であります。私どもは日本国とともに私どもの霊魂を救はれんためにキリストに往いたのであります、独り救われんとて彼を求めたのではありません。


事情かくの如くでありますから、日本国の運命は私どもの最も心配する所のものであります。日本国はどうなりましょうか。この愛する父祖の国はついに滅びましょうか。あるいはこれに救済の希望がありましょうか。もしありとすればいかにしたらば救われましょうか。


この事は私どもの脳裡を占領する大問題であります。夜となく昼となく私どもを駆り立て寸時も私どもの心を離れない問題は実にこの国家救済問題であります。

『ああ、我が神よ、願わくはこの憐れなる我が国を救い給え』とは英国の愛国者ハムプデンの臨終の時の祈祷でありました。


『もし我が兄弟我が骨肉(彼の国人を指していう)のためにならんにはあるいはキリストより絶(はな)れ沈淪(ほろび)に至るもまた我が願いなり』とは使徒パウロの熱誠なる表白でありました (ロマ書九章三節)。


もしわが国にして救われざらんには、わが救済何にかあらんであります。私は独り天国へ往くことを望む者ではありません。私は私の生命よりも私が愛するこの日本国の救われんことを望む者であります。

『ああ、わが神よ願わくはこの憐れなる我が国を救い給え』とはハムプデンのみならで、いずれの国人でもすべてキリストを信ずる者の絶叫の声であります。

キリスト信者には愛国心なしという人がありまするが、彼らは未だ父なる神を識らず、故に私どもの心を識らない人達であります。


「ああ、日本国よ、もし我れ汝を忘れなば我が右の手にその巧を忘れしめよ、

もし我れ汝を思い出でず、もし我れ日本国を我がすべての歓喜の極みとなさずば我が舌を腭(あぎ)に附着(つか)しめよ」(詩篇 第百三十七篇)


愛国心は世のいわゆる『愛国者』の専有物ではなくして、私どもキリストを信ずる者の専有物であります。

世にキリスト信者の愛国心に優る潔い、熱い、高い、深い愛心はありません。

コロムウエルが英国を愛せし愛国心、ガステバスアドルフハスが 瑞 典 国を愛せし愛国心、サボナローラがイタリーを愛せし愛国心、また近時に至りてはクルーゲルやジユーベルトなどが彼らのトランスヴアールを愛せし愛国心は実に彼らがキリストに在て懐きし愛国心でありまして、かかる聖き深き愛心はキリストを信ずる者にあらざれば到底持つことのできない愛心であります。


この我らの日本国はどうなりましょうか。

この切要なる問題に対してこの国において発行される所の新聞紙の記事が与うる所の答はただ一つであります。

即ち滅亡であります。

為政家の堕落、教育家の堕落、僧侶神官牧師の堕落、詐欺、収賄、姦淫、窃盗、強盗、殺人、黴毒、離間、陥擠、裏切り。

……これが我らが日々の新聞紙によって読み聞かせられる所の事柄でありまして、これらの事柄を除いて別に新聞という新聞はないように見えます。

聖書に記されたる罪悪の目録の中で今の日本人によって犯されない罪は一つもないように見えます。

苟合、汚穢、好色、偶像につかうること、巫術、仇恨、妒忌、忿怒、分争、結党、異端、媢嫉、兇殺、酔酒、放蕩(ガラテヤ書 五章十九、二十節) 。


この中いずれが今の日本人の中に欠けておりますか。

政治家は節操を売ることを何んとも思わず、彼らは相互に汚濁を語って少しも恥と致しません。

忠君愛国を教うる教育家が、収賄の嫌疑をもって続々と獄舎に投ぜられます。

数万の民が饑餓に泣いておりますれば、彼らを饑餓に迫らしめたる人は朝廷の恩恵を身に浴びて奢侈淫逸に日を送っております。

たまたま正義公平を絶叫する者があると思えば、これは不平の声であって義を愛するの声ではありません、

同胞は相互いの悪事を聞くをもって何よりの楽みとしております。

妒忌は父子の間にも兄弟の間にも、師弟の間にも行われ、今日の師弟は明日の讐敵となり、骨肉の兄弟さえ互いに相困めることを以て正義国家のためであると思っています。

政府はその各部において腐敗を極め、内閣腐り、陸軍腐り、海軍腐り、内務腐り、外務腐り、文部までが腐敗の気に襲われて、今は小学教師までが賄賂を取るのを以て当然の事であるように思うに至りました。


もしこれが亡国の徴でないならば何にが亡国の徴でありますか。

もし罪悪のほか何の報ずる所のない国が、千代に八千代に昌(さか)え行くべきものでありまするならば、正義とは何んと価値のない者ではありませんか。

もし暗黒の社会がありとすれば、これは日本国今日の社会ではありませんか。

不安心極まる社会、少しの信用をも置けない社会、儀式一片、全然虚偽の社会とは実にわが国今日の社会ではありませんか。

罪悪は日本のみに限らない、西洋各国にもあると言いて自から慰めている人もありまするが、しかし罪悪にも度合いがあります。日本今日の社会は善事の至て少ない、ほとんど罪悪のみの社会であります。

即ち悪人が横行跋扈することのできる社会であります。その貴族たる者が到る所に幾多の少女を汚すことあるも、誰も怪まない社会であります。その学者たる者がとんでもない不道理を唱えましても、かえって国民多数の賞讃を博する社会であります。

すなわち、真実とか無私とかいうことはただ口に唱えられるばかりでありまして、これを真面目に信ずる者のほとんど一人も無いと言うてもよい社会であります。


希望とか歓喜とか称すべきものは地を払って無く、ただ有るものは失望と悲憤慨慷とのみであります。

これ君子国と称えられし国の民にして、少しく世の中の経験をもった者で、悲惨の歴史か堕落の経歴をもたない者とてはほとんどありません。純正なる淑女はありません、純潔なる紳士はありません、日本人は皆な傷物であります。

その花の如き顔の裏面には熱き涙の経験を匿くしています。その柔和の如くに見ゆる態度の下には言ひ尽くされぬ程の仇恨の刃を蔵しております。芙蓉の峯はいつもうるわしくありまするが、これを仰ぎ瞻る民の心は常暗の暗をもって包まれております。

その名こそ桜花国でありまするがその実は悲憤国であります。絶望国であります。人々憂愁と怨恨とを懐いてイヤイヤながらに世渡りを為している国であります。


今少しく日本国今日の状態を聖書の言に照らして見まするならば実に寒心すべきものが多くあります。

「ああ、罪を犯せる国民、不義をもって充たされたる民、悪を行う者の裔、道を乱す種族………全脳は病み、全心は困憊(つか)る、足の跖より首の頂に至るまで健全なる所なく、ただ創痍と打傷と腫物とのみ、しかしてこれを合わす者なく包む者なく、また膏(あぶら)にて軟らぐる者なし」(イザヤ書一章四節、六節)。

「汝らの長輩(おさたち)(政治家、教育家の類を指していう)は反(そむ)きて盗人の伴侶となり、人各々賄賂を喜び、贓財(おくりもの)を追ひ求む」(同二十三節)。

これは実に日本国今日の状態ありのままを画いたものではありませんか。

また、預言者エレミヤは亡国の前徴として社会の状態を述べて申しました。

「彼らは皆な姦淫する者なり、彼らはこの地において真実のために強からず、悪より悪に進むなり、………汝ら各自その隣人に心せよ、いずれの兄弟をも信ずるなかれ、兄弟は皆な欺きをなし、隣人は皆な讒り廻ればなり、汝らは各自その隣人を欺き、かつ真実を言わず、その舌にいつわりを語ることを教え悪を為すに労(つか)る、汝らの住居は詭譎の中にあり」

なんと活画的の記事ではありませんか。火を見ては火事を思え、人を見ては泥棒と思えと唱うるわが国今日の社会の丸写しではありませんか。


もしまた貴族と金持との奢侈と無情とについては預言者アモスの言は非常に適切であります。

「汝らは災禍(わざわい)の月をもてなお遠しと為し、強暴の座を近づけ、自から象牙の牀に臥し、寝台の上に身を伸し群の中より羔羊を取り、圏(おり)の中より犢牛を取りて食らい、琴の音に合せて歌い噪ぎ、大杯をもて酒を飲み、最も貴き香油を身に抹り、ヨセフ(国民)の艱難を憂ひざるなり」(アモス書 六章三―六節)。


もし滅亡前のイスラエル国と日本の今日とを比べて見んと欲するならば茲にも適切なる対句があります。


「サマリヤの山(都城の在りしところ)に居り弱者を虐げ貧者を圧し………汝等は義しき者を虐げ賄賂を取り、門(裁判所)に於て貧しき者を推し枉げ、………彼らは義者を金のために売り、貧者を鞋一足のために売る、彼らは弱者の頭に地の塵のあらんには之をさへも喘ぎ求め(即ち毫末までも取らずば止まずとの意なり)(以上諸節アモス書に散見す)。


これは今より二千六百年前イスラエル王国滅亡前の実況でありましたが、今明治の三十六年私どもの目前に預言者の言葉そのままが事実となって現われるのを見ます。


耳を開いてよくお聞きなさい、これは明治三十五年日本の帝都を距る遠からぬ所であつたことであります。

「去月(十二月) 二十九日栃木県佐野税務署が安蘇郡植野村大字舟津川栗原長蔵の明治三十五年度地租三十七銭二厘滞納に対して執行したる財産差押の結果を聞くに、差押金品は茶縞小児物綿入一枚、双子縞男羽織一枚、無地紺縞一反、通貨金十八銭なるが、その衣類は鉱毒救済婦人会より恵まれたるもの、またその通貨は過般風水害の節天皇陛下より御下賜ありたる御救恤金を神棚に上げて日頃拝み居りしものなりと」(万朝報所載)。


イスラエル国もユダ国もその公吏の暴虐がその一つの原因となりて立派に滅びました。日本国も同じ罪悪を犯して亡びない理由は何処にありますか。

足尾銅山鉱毒事件などと言えば、今ではわが国のキリスト教の教師までが一笑に附してしまいますが、しかしこの事件はこれ日本国全体の疾病がこのところに悪い腫物のようなものになって発したものでありまして、日本国がいかに危険の地位にあるかは鉱毒事件を見ても良く察することが出来るのであります。

滅亡です、滅亡です、日本国の滅亡は決して空想ではありません。大隈伯のやうなうそつきが大政党の首領であり、その下は奸物が群をなして国政を弄んでおるのであります。政治的の日本に一縷の希望のないのは決して怪しむに足りません。

ゆえに真正の憂国者は預言者エレミヤのことばをかりて泣くのであります。

「ああ、我れ我が首を水となし、我が目を涙の泉となすことを得んものを、我が国民の燼滅を思うて我は昼夜哭かんものを(エレミヤ記九章一節)


後はただ一撃であります。この海軍が無くなれば日本国は無くなるのであります。この陸軍が無くなればあとには国家らしき国家はないのであります。国民的理想のあるのではなく、深い高い聖(きよ)い希望と歓喜と生命とのあるのではありません。実に心細い極みではありませんか。


かく観じ来りますれば、私どもははや既に亡国の民であるように思われます。

私どもはただわずかに私どもの霊魂だけを救い、この扶桑の国はこれをその運命の成り行きにまかし、その滅亡を傍観しなければならないように思われます。

しかしながら、かくも真暗の中にまた大なる希望があります。我らはこの暗黒の中にありて預言者イザヤの言を藉りて叫びて言ひます。

「今は困苦を受くれども後には闇なかるべし」と(イザヤ書九章一節)


なるほど、暗黒は暗黒であります。

しかし、その暗黒は外面の暗黒であって、中心の暗黒ではありません。

社会の暗黒、政治の暗黒、教育の暗黒、文壇の暗黒、官吏の暗黒、僧侶の暗黒、富者の暗黒でありまして、神と国土と平民との暗黒ではありません。

腐蝕は常に復活を意味するのでありまして、日本国現時の腐敗はその復活の兆候であります。今はその死すべきものが死しつつあるのであります。その支那人より学び来りし忠孝道徳、その上に建設されし制度、文物、教育、………これらが今崩れつつあるのであります。即ち東洋的の日本の秋(とき)が来たのでありまして、その葉と枝とが枯れつつあるのであります。

しかし、その落ちたる葉の跡には既に春の新芽が出来ております。我らは決して失望してはなりません。


我らの愛するこの日本国に関する我らの希望は第一に神の本性に因(よ)ります。神は正義の神、仁愛の神でありますから、その神の造られたこの日本国はいつまでも不義の器となりて存(のこ)るべき筈のものではありません。

日本国が藩閥政府の日本国、進歩党政友会の日本国であると思えばこそ失望するのであります。

しかしながら富士山は決して大隈伯の築き立てたるものではなく、琵琶湖は伊藤侯の鑿(うが)ったものではありません。この日本国は正義の神が、正義を行うために造られたものでありますから、この国においても正義は必ず行わるるに至ります。

「汝ら鼻より気息の出入する人に倚ることを止めよ、かかる者は何ぞ数ふるに足らんや(イイザヤ書二章末節)


政治家や教育家はいくら腐ってもまだ失望するに足りません。我らは正義の神の造り給うたこの国土に住居(すま)っておる者でありますから、我らの理想の行わるる日は必ず来るに相違ありません。

このことはあまりによく分かりきったることで特別に述べ立てる必要はないようではありますが、しかし、私どもの度々忘れる事でありまして、私どもが度々記憶に惹起すの必要ある事であります。

私どもが人より、政治家より、上流社会と称して道徳的には実は人類の下等の社会なる貴族より、清浄と潔白とを得んと欲するからこそ失望するのであります。もし人より望むを止めて神より望みますれば、我らの心には希望は恒に満々たる筈であります。


日本国に関する我らの希望の第二はその人民にあります。

日本国の政治ははなはだしく腐りました。その宗教も教育も頼むには足りません。しかし、日本人なるものは著しい人民であります。私は国自慢からこのことを言うのではありません。その二千年の歴史が、その優等なる民たるのも明白なる証拠であります。日本国の歴史は名誉ある歴史であります。

しこうしてその名誉たるや、今の多くのわが国の歴史家が言うように、二千年間一系の皇統を維持して来たからではありません。日本歴史の名誉たるゆえんは、その進歩的、自由的なるのに因ります。

日本人は善を見れば終には之を採用せずには止みませんでした。彼らは自国の文字を捨てその時代には最も優れたる支那の文字を採用しました。彼らは多くの反対ありしにもかかわらず、終に異国の仏教を採用しました。皇室に対しては甚だ忠良なる民ではありました

が、しかし時勢の必要とあれば北条氏のような有為なる政治家を戴きまして、これに二百年間の国政を任したこともあります。

日本人は島国の民ではありますけれども、島国を以て満足する者ではありません。彼らの企図は常に大陸的であり世界的でありまして、機会の乗ずべきあれば彼らは常に世界に向て伸びんと致しました。

ゆえに彼らは新たに西洋文明に接しても少しも驚きませんでした。彼らは直にその吸収と消化とを始めました。彼らは幾年ならずして西洋人が幾百千年かかって発明した機械を独りで運転し始めました。

彼らはまた西洋の自由思想に向って非常の貪望を表しました。ゆえに、保守的の政治家が出でまして、種々の手段を用いて彼らの自由思想を抑えようと致しましたけれども、しかし、彼らは到底これを抑え切れませんでした。自由と進歩とは日本人の特性であります。彼らは時には欺かれて圧制に甘んじますけれども、しかしこれは決して長いことではありません。


聖徳太子を出し、空海上人を出し、日蓮上人を出し、北条泰時を出し、蓮如上人を出し、豊臣秀吉を出し、銭屋五兵衛を出し、渡辺華山を出した日本人は実にエライ人種であります。

この人種は世界に大事業を為すの資格を備えた人種であります。この人種がいつまでも今日のような圧抑に沈んでいようとはどうしても思われません。

彼らは遠からずして圧制の縄を断ちます。彼らはついには世界の善美のものを我が有となさずには止みません。


日本国に関する私どもの希望は第三にその国土に因ります。その地位はその人種と共にその天職を示します。日本国は世界の一半を他の一半と結び付けるための偉大なる天職を帯びております。

日本国は亜細亜の門であります、日本国に依らずしては支那も朝鮮もインドもペルシアもトルコも救われません。人類の半数以上の運命は日本国の肩にかかっております。この国はこれ少数の惰弱貴族や慾強商人の貪慾を充たすために造られたものではありません。日本国は支那の四億余万とインドの二億五千余万とその他大陸の億兆を救うために造られたものであります。

かかる重大なる天職を帯びた国が、今日のように実に醜猥極まる状態にいつまでもあろうとはどうしても思われません。日本国の希望はその天職に附着しております。富士や鳥海や浅間が空天に向って聳ゆる間は、日本国の希望は確かであります。利根や千曲に水の流れる間は、日本国の希望は溢れて尽きません。

世界は日本国に向って革命を要求しております。しこうして藩閥の政治家や偽善華族はいかに有力なるもこの要求を拒むことはできません。日本国は遠からずして世界の大光を迎えます。日本国も久しからずしてハンガリーと同じく黄色人種のキリスト教国となります。


しこうして今やこの希望は充たされつつあります。外部の圧制の甚だ強きにもかかわらず、大光はこの国土に臨みつつあります。政府の人の見ざる所において、貴族輩の夢にも見ざる境遇の中に、その偽善的社会には嘲けられながらも、純潔の日本人は徐々として大光を迎えつつあります。日本人は支那人とは違います。日本人は政府の勧誘に従って宗教を信じません。また、外国宣教師に尾従してその安心の基礎を定めません。日本人は自由に自由宗教を信じます。

政府にも依らず、外国宣教師にも頼らず、日本人は自身勝手にナザレのイエスを主として仰ぎつつあります。北は宗谷の海に氷塊が群をなして寄せ来る辺より、南は安平恒春の郊に熱帯植物の繁茂する所に至るまで、この所の海辺、かの所の山里に、正直にして国を愛する日本国の平民が自由の主なるイエスキリストの名を龥(よ)びつつあります。

政府でいくら法令を出してもこの教化を妨ぐることはできません。今や忠君愛国を唱えし教育家が数珠繋ぎとなりて獄舎に投ぜられつつある間に、純潔無垢の日本平民は聖潔の主を求めつつあります。


今は微々たる少数であります。しかしながら、この少数の中に日本国の希望は存しております。すでに彼らは日本国の精神となりつつあります。その国民歌はまさに彼らによって歌われんとしつつあります。その政治さえも彼らに依りてのみ多少の清潔を維持されつつあります。その慈善はほとんどすべてが彼らに傚いつつあります。

しかしながら未来の彼らの勢力たるや、決して今日如きものではありません。この社会制度が腐れ尽きて後に、あるいはその外形的国家が一時その存在を失って後に、雲となって起り、竜となって立ち、ついにこの国を永久の基礎の上に据え、日本国をして、西洋と東洋とを繋ぐに至らしむる者は実に彼らであります。


しかし、多分私は私の肉眼もてこの喜ばしき時を観ることはできますまいと思います。私はやはり嘲笑罵詈のうちに、私の一生を終るのでありましょう。しかしながら、私はこの短かき私の生涯を、この日本国を永久に救うその準備のために費すことのできたのを非常に有難く感じます。

私は実に世の人が想うように絶望の人ではありません。私は希望をもって種を蒔いている者であります。私は実に私の愛するこの日本国とともに救われつつある者であります。

キリストのため、国のため、私にもし千たびの生涯が与えられますならば、私はすべてこれをこの二つの愛すべき名、すなわちイエス・キリストと日本とのために費そうと欲(おも)います。


(以上)

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