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地球風洞説コミュの初演台本

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できました。正確には5/24にいっぺんやってみたやつの続きなんですが
原文完全に散逸してますんでォィまあここらが第1幕ってことで♪



***






『羊に給ひて』



西の、空が晴れて参りました――。赤城の嵐も今宵限り…。関東平野は閉てた二枚の襖のようなもんだと、長らく考えていたものです。東半分と西半分にはまったく別々の起源があると、感じてきたもんです。東北自走車道佐野藤岡インターに東京の方面から走ってたどりつきますと、霧雨の向こうに低い山が見えて参ります。「毛」という文字がみっつ――「みかも」山と名付けられたその山の山頂に登りますと、東側から西側からハイキングで登ってきた方々のしゃべる言語がまるで違うことに気づかされます。栃木県は、房総のはずれから宇都宮一帯を覆う「千葉・茨城・宇都宮ズーズー弁」の言語勢力域と、みかも山より西へ広がり足利・太田・桐生そしてこの伊勢崎辺までを覆う「栃木西言語圏」に分かれるのではないか。山頂にカタクリの花が咲いている。氷河期の生き残りのこの植物、この山が何かの境目であった時代があったのではないかと、思って久しい。みかもの山の西側には、朝日を浴びない日蔭の集落があります。そこの地名は「西の海」――。いったいどれほど溯ればそこが海だったというのか、そして、その頃すでに「日本語」はあったのか――? そのことが気になって、ある時、この伊勢崎の地まで調査に来たことがありました。日本三大古碑といわれる、八世紀の初めに建てられた「多胡の碑」という石碑が、吉井町池という土地にある。大化の改新より半世紀余り下り、大宝律令が発令された翌年、七一一年の春に、その石碑は建てられております。そこには「上野の国、片岡の郡、緑野の郡、甘楽の郡、併せて三郡のうち三百戸を新しく郡となし、羊に給ひて、多胡の郡と成せ」とあります。…羊に給いて? 羊という人がいたのでしょうか。古来、その石碑に書かれた「羊」が何者かについて、様々な憶説が交わされてきました。しかし私はこう思う。浅間・榛名・赤城。この扇状地の草木の乏しい土地に、いかにして人は棲みつくことができたのか。おそらくは、七世紀・八世紀という時代から考えて、渡来人による大和朝廷政権が関東に対する植民政策を始めたこの時代、「草を扱わない民族」といえば、それはおそらく高句麗ではなかったのかと…。我々は今でも「愛新覚羅」という満族の苗字を満足に発音することはできません。一三〇〇年前の高句麗に苗字があったか否かそれは分かりません、だが、「羊の一族」とおそらくは呼ばれていたのだろう。「羊に給いて」この川のない土地に牧畜が始められた。そのための碑であったろうと私は考えております。時代は下って十世紀十一世紀、関東には野武士の一団が、ところどころに生まれて参ります。かれらを記録した最初の書物である「将門記」――平将門を描いた軍記物。これを詳しく読んでいくと、彼らは実に不思議な戦い方をしております。いま我々がモンゴルや三国志のドラマで見るような、馬で攻め来、馬で戦い、馬で去ってゆく…そのような戦いを戦ってはおりません。彼らはいくさのもっとも山場、ホンの半時かひととき、その間だけ馬に乗る。では、どうやって彼らはやってくるのか。――舟で来るんです。利根川は、関東の平野を縦横に網目のように区切って流れてきた川です。彼らは馬によって馳せるよりもむしろ、地の利よりもむしろ水の利を知っていた。勝っても負けても、引きあげる時はたちまちボートに乗って「ハイさよならよ」とばかり、泥の彼方に漕ぎ去ってゆく。これが初めての野武士のあり方だったのです。そこに、関東における馬の起源を見る。関東はそのように常に陸運と水運とが交叉する形で勢力を伸ばしてきた土地だった。私の生まれ育った町は、利根川のほとりに栄えた町でした。北前船が津軽海峡から青森岩手宮城と下って来、そしてどうしても房総半島を廻ることができずに日立のあたりで挫折するわけです。常陸灘、ここを越えることができなかった彼らは、那珂川を溯り、わずかのあいだ陸地をみずからの舟を綱で曳き、凅沼という沼に入ります。そこからさらに陸地をみずからの舟を綱で曳き、北浦そして霞ヶ浦、浮島から利根川の河口域に入り、そしてかつて常陸川と呼ばれた涸れた川の沼を、栃木、群馬、茨城県境あたりまで、帆走とあるいは人夫による曳航によって舟を曳き上げて参りました。今からおよそ四百年あまり前、徳川の政権がそれまで沼に埋もれた土地であった江戸に四つめの都を建てた時、水戸そして会津――江戸からの陸路のことです――今そのふたつの街道は、ふたつの国道、国道6号線と国道294号線というふたつの街道となって名残をとどめております。その街道の分岐点は利根川の宿にあった。水戸に続く水戸街道、会津若松に続く294号、そして運河を含む利根の水運。これらがひとつに交わった土地。そこに何が起きたか。利根はもともとはきわめて酸性の強い川です。関東はこれだけの面積を持ちながら、良田とされる田はほとんどなく、ほとんどが中田ないしは下田、これだけの面積を持ちながら下総の国は、奈良から江戸に到るまで日本一の大麦の産地でありました。あるいは大豆の産地でありました。今でも日本の正油のほとんどすべては下総で造られております。この乏しい貧しい村々にある時、オアシスのようにありとあらゆる物資が雪崩れこんでくるひとつの町ができた。そこで農業を棄てた者らが――商人とバクチ打ちと――町を建設する者はそれだったのです。あまりにも、あまりにも欲望に対し気の短かすぎる、そんなふるさとでありました。わがふるさとの主要産業は競輪です。そして私の生まれた六軒長屋にはこの四〇年のあいだ二〇数回の空き巣が入っております。この長屋に住む人たちは、長くて五年、その消えゆき方は、例外なく夜逃げ…。それが普通のことと思って育ってきました。世の中の一般はそうでないと知った時の驚きったらなかったねえ。二十歳の時できた彼女に「あなた、町が変だね」っていわれるまで気づかなかったんで。欲しいものはそのとき欲しいのさ。うちの町の一番大きなイベントは花火大会さ。湯水のように使ってハイそれまでよ。気質をもって帰ると、友情も何も生まれないんです。――私小説っていうものを読んだ時の安心感ったらなかったです。二十五の時、僕ぁ上野の山の下に住んでました。そこは不思議な形をした三角形の、いや、変な台形のような、五畳半といったような、天井は階段の下で斜めになっているし、窓は開いたまま建てつけが悪くて閉まらないんです。そのアパートの部屋に初めて足を踏み入れた時に、すれてヨレヨレになった文庫本が畳の上にドサリと一冊置いてある。島崎藤村の「春」という小説でした。ちょっとわけがあって現実から逃げたくて、普段ろくに読んだこともない小説なんちゅうものをパラパラと読み始めたのが宵の口。いつの間にか真夜中を過ぎて、いつの間にか黄色い朝焼けがその破れ窓から射しこんできた頃、なんつったらいいんでしょう、あれが本当に小説だったのか、いやそれとも小説に書かれていると思いこんでいた自分の実体験だったのか、いや、今でもよく分からないんです。あまりにも、あまりにも僕がやってきたこと「そのもの」。こんなセリフをしゃべったなあ…、こんな風に形見の腕時計を質に入れたっけ…、そのなけなしの数万円を不忍池の蓮の葉に向けて投げたっけ…、って。いやそれから二度と読みなおしたことはありません、しかし恐らくたぶん、たぶんそれらすべて、そこに書かれていたんでしょう。そして僕はもしかしたら、ないものを見たのかもしれない。だが人の脳は、ないものを信じることができる、そんな能力を持っています。ある時、上野桜木郵便局の前、郵便のチャリンコを押してくるひとりの職員さんとすれ違いました。白く灼け落ちるような夏の日差しのなか、ゼイゼイと貧血のように***を落としチャリンコを押してくる彼とすれ違ったとき僕は、彼が、自分の顔をしていることに気がつきました。パッとふり向くとそこには誰もいない。出やがったな? 魔の入り口はこういう風に日常のすぐ隣にあるんだ。よろよろと破れアパートに帰って呑んだくれて寝て、だがどうしても確認したくて次の朝、おなじ所をまた歩いてみました。あの職員さんまた通らないかなあ。しまったことに、夏のあの午前の灼けっただれた崖っぷち。その道の向こうから誰かが歩いてきます。明らかにそれは昨日のあいつとは別人です。アッパッパのようなだらしない洋装の、でっぷり太ったお婆ちゃんでした。白人のね、日傘を差したね、白系ロシア人てえ感じのお婆ちゃん。ゼエゼエと、何の用があってこんな所を歩いているのかって、ちょっと気抜けした感じですれ違ったんですが、その婆ちゃんのゼエゼエに聞きおぼえがあった! ああ、こいつ、こいつもか。振りかえると案の定そこには誰もいない! こいつも俺か。日常の隅っこに、こうして穴は空いている。生きるということは、世界のどこかにポッカリと空いたひとつの穴を持ちつづけることだと、そのように思った次第でした。そのほら穴は私のふるさとにまっすぐつながっている――。この穴を背負って生きていくのだと、決めてかかって四〇年。どうぞこれからも、よろしくお願いいたします。



(以上)

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