英語圏最大の詩人といわれるアイルランドのウィリアム・バトラー・イエーツ(1865-1939)は、すぐれた劇作家でもありました。
彼の劇作品および演劇行動は、きわめて一貫したテクスチャーをもっています。それは、当時まだイギリスの植民地として蔑視と貧困に耐えていたアイルランドの人々に、自国の文化を誇りをもって再認識してもらおう、という願いと戦略とでした。ナショナリズム啓蒙のための劇だったわけです。
ただし、彼の天賦の才能は、主張ばかりして実質的な成果を挙げない「運動バカ」のスタイルに堕すことを彼自身に禁じました。彼が選んだのは「妖精の世界」・・・つまり民話劇だったのですが、顕著なモチーフとして「妖精による誘拐」が繰り返し描かれます。
簡単に申せば、「この世界は作られた嘘っぱちだ。本当の世界はわれら妖精たちによって保たれている。さあ、こっち側へおいで」ということです。ですので、イエーツ幻想劇でさらわれる人々は、さらわれたまま二度と現実(?)社会に戻ってくることはない!というきわめて特異な消えゆき方をします。
彼は一方で、本当にオカルトにハマっていたともいいます。このことが彼のナショナリズムと起源において同根であるのかどうかは分かりません。ただ、おそらくは病理として・・・もしかすると異常性欲としてすら・・・振り払うことのできなかったオカルトへの興味を、一国の独立運動というきわめてアクティヴな行動と一致させた、という点が、イエーツのはるかに進んだセンス、面目躍如であったと思います。
立ち止まって私は考えます。世は善人ばかりでできているのではない。それどころかバカや悪人や卑怯者や淫乱を除外したら、人間なんてほんの一握りになっちゃうだろうとすら思います。ならば「世の人すべて」のために行なわれる革命行動は、むしろわが身に宿るマイナスの要素をこそ武器にして、はじめて有効に行なわれうるのかも知れない、と。思うんですがどうでしょうね?
イエーツとその賛同者たちによって展開されたダブリン「アベイ劇場」の活動は、現今、世界の左翼系演劇人らに充分に継承されているのかというと、残念ながらきわめて不充分といわざるをえないのですが、それは取りも直さず「最善」と「最悪」とを直結させた下手味(ゲテミ)のほとばしりを根底に据えた演劇論が、難解であったからに違いありません。
でも、私は、分かる。
それ、すごく分かる。
イエーツ劇をどうしても上演したく、しかしいざ試みるときわめて困難であることに気づかされる・・・実はここ10年ほど、ずっとそんな状況でした。
雑司ヶ谷鬼子母神の境内で2000年から二秋にわたって上演した野外劇「鷹の井戸」は、とりあえず手をつけたという程度の出来栄えに終わりました。いつかリベンジを!と考えております。
その間、ほぼすべての劇作を原文と訳文とで読む機会にも恵まれ、そもそも作品選びからやり直さねばとの認識に達しました。現在、30篇ほどある戯曲の中から次の2篇をとくにピックアップして、上演の機会をうかがっているところです。
「窓ガラスの文字」(レジ台本「憑依文字」)
「影なす海」(レジ台本「残像航路」)
すぐには実現しなくとも、いつか必ずやり遂げる・・・いや、やっぱりすぐにも取り組みたい!
そんな風に思い悶えつつ、100年前の先達への尊敬を新たにしている今日この頃。です!
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公演履歴
2005年
準備公演「がむしテラス」
2007年
ダンス公演「汝の自由を放棄せよ」
第1回公演「憑依文字」「残像航路」
2008年
ダンス公演「あわせ鑑」
第2回公演「デクトラ2」
2009年
第3回公演「光る土/空の影」
2010年
プレ公演「ラプンツェルの散歩」
*トップ写真は「あわせ鑑」の森松あすか
困ったときには