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杉並区立和田小学校コミュの昭和24年生まれです

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私が和田本町に越してきたのは五つの時でした。それ以前に住んでいたところで保育園に行っていたのですが、和田本町に引っ越してきてからは小学校に上がるまであまり間がなかったのでもう保育園や幼稚園には行かないこととなりました。

当時まだ戦後の匂いが色濃く残っていた時代で、幼稚園というのはお金持ちが行くところでごく少数派でした。和田本町に住んでいた人は貧しい人が多く、保育園に行かなくても別に不思議でもなんでもなかった時代なのです。

住まいは救心製薬のすぐそばでした。救心製薬は当時まだ空き地だったので、子供たちの遊び場の中心でした。盆踊りなどもそこでやった記憶があります。

住まいから和田小学校までは大きく分けて二通りの行き方がありまして、一つは表通りで、商店街を抜けて救世軍の前を通り和田中の前に出てそこから右に折れるルートです。この商店街にはみなさんのトピックにもあります「はなぶさ」という文房具屋さんがありました。私もさんざん通いましたが、店主の細身のおじさんが好きだった記憶があります。

もう一つのルートは、前述の裏を行くコースです。女子美の方に向かう感じで坂を上がっていきまして、まだ畑だらけだった田舎道を行くのです。救世軍の結核療養所がありまして、その横を通り、これまたトピックにあります桶屋の前を右に折れるのです。この桶屋は酒井さんといいまして、私と同級の息子さんがおりました。

表通りを除くと、裏道はまだ未舗装でして馬糞なども落ちていた記憶があります。結核療養所には近づくなと言われておりましたが、なあに子供にはかっこうの遊び場でしたよ。よく構内に入り込んで遊んだものです。

あの地に結核療養所があったということは空気がきれいだったのでしょうね。いまもあるのでしょうか。
  

コメント(47)

Harry様

通学路の道のりが25分とはおもしろいですね。
今だったら5分で歩いていけますね。

和田小の校歌は多分前と変わったと思います。
♪みんなで植えた校庭の〜♪から始まり歌詞には和田健児が出てきます。

Harry様の家の、救心の路地を上がったところ、のお社ですが、
お稲荷さんのことでしょうか。ほんと一角にある小さなお稲荷さんです。
今でもあります。


yoko様
和田散策いいですね。
たまに通学路を歩くと、なんともいえない懐かしさを感じます。
でも桶屋さんもはなぶさも見慣れた家もだんだんなくなっていって
なんだかさみしい気持ちにもなります。




はじめまして、昭和16年生まれです。私も遠慮していました。懐かしい名前に出会い、いろいろと思い出します。酒井桶屋さんには良く遊びに行き、その職人技をみせてもらいました。その先に区役所の出張所があって、昭和28年ごろ、生まれて初めて聴いたレコードコンサートがありました。78回転SPでしたが、ベートーベンの「田園」、モーツアルトの「フルートとハープのための協奏曲」を聴きました。それ以来クラッシクフアンになりました。和田中のはす向かいに魚健という魚屋と電気屋があり、コンサートは電気屋さんの若い主人が開いてくれました。・・・だめだ・・・涙があふれてしまい・・・

分け入る峰は高くともムードおおしく・・・ひたむきにムード希望を持って、励め勤しめ和田健児るんるん
でしたかしら、いまも励ましてくれています。

製氷やのプールには良く行きました。
立正佼成会の本部が、救心本社のまえにありました。
田畑やわらぶきの家もあり、肥溜めにはまったこともあります。岩波別荘、岩崎別荘、大谷別荘もありました。今の地下鉄富士見町すぐ脇の川で泳いだものです。うなぎも捕れた。めだかもいた。・・・木炭バス・・・・

きりがありませんので、このへんにしておきます。
最後まで読んでいただいてありがとうございます。

今年4月に、小学校のクラス会があり日記に書きました。


八転七起さん

8年先輩ですね。よろしくお願いいたします。
私よりももっともっと古い和田本町を体験していらっしゃるのですね。記憶が風化しないうちに文章で残して置いてください。私ですら街角に傷痍軍人が立って小銭をもらっていたのを見ております。子供の目にはあれがえらく怖いものでした。

杉並区役所の出張所についてはたしかにあったような気がします。女子美の方から来ますと突き当たりましてそれを左に曲がるとすぐに桶屋さんがありまして、桶屋さんは角地ですからまた右に曲がって和田中方面に行くのでした。出張所というのはたしか桶屋さんとは反対の方右側に行くのではありませんか。そっち方面に行ってから左折すると和田中のグラウンド裏側に出たと思います。

和田中のはす向かいの魚屋さんと電気屋さんについては記憶がありません。昼食のパンを買ったパン屋さんがあったのだけよく覚えております。

和田本町は佼成会の本部がありましたから、それに伴ういろんな施設が点在しておりました。我が家は、佼成会の幹部宿舎のすぐ隣でしたからいろんなことを見聞きしてきました。今でこそ近代的な宗教となっておりますが、私が子供の頃はまだ原始的、野蛮な宗教でして、病気などには悪魔払いが必要などといってみんなで取り囲んでリンチのようなことまでやっていたのを覚えております。(こんなことを言って差しさわりがあるかもしれませんが、ほんとうのことですからいたしかたありません)

地下鉄富士見町駅周辺の川というのは微妙ですね。ちょうどその辺りで善福寺川と神田川が合流するからです。私たち和田健児にとっての川というのは善福寺川でした。当時学区というのがあったかどうか知りませんが、感じとしては善福寺川の北側の住人が和田小と和田中だったような気がします。

ついでながら、西の方はといいますと、当時(昭和30年前後)まだ環七(かんなな)が工事中でしたから環七で区切られることもなく妙法寺近くまで生徒がいたと思います。

北の方は青梅街道までですね。あるいはもっと手前だったかもしれません。蚕糸試験場なんていうのがあって課外学習で歩いていったのを思い出します。

東側は、中野通りまでですね。中野通りというのは中野駅からまっすぐ南に伸びているバス通りで、杉山公園の横を通り十貫坂を過ぎ中野車庫を通って幡ヶ谷の方に向かったと思います。

地下鉄丸の内線の支線である方南町線が開通するのはもっとずっと後になってからですから、私たちが渋谷や新宿に出て行くのにはこの中野車庫まで歩いたものです。
  
世代を越えていろいろなお話が聞けてほんと嬉しいですほっとした顔ぴかぴか(新しい)

たぶん今散策したら道や建物すべて小さく感じることでしょうぴかぴか(新しい)

harryさんのおっしゃるように私も和田の町は大切な故郷です。

卒業してから一度も同窓会もないですし、家族とでしか当時の和田のお話をすることができなかったのでこうやってmixiを通してお話ができることに感謝ですほっとした顔

和田商店街もまだありますか?当時は、山手ストアに母から頼まれ、よく買い物に行かされたものですわーい(嬉しい顔)


山手ストアの隣にあった銭湯いい気分(温泉)、八百屋、中屋酒店、石屋、おそばやさんの満月、吉田文具店、その迎えにあったお寿司屋さんの孝鮨、そういえばマンガの貸本屋もあり、よく行ったものです。

妙法寺の縁日は私たち子供の楽しみのひとつでもありましたクローバー
Harryさん、yakoさん、みなさん

傷痍軍人は怖かったですね。電車の中をアコーデオンを弾きながら行き来していました。戦争犠牲者の方々だったのですが・・・
出張所はおっしゃるととおりの場所だと思います。パン屋さんの娘さんは一級下でした。その裏手に質屋さんがありました。その道を下ると林で、よく遊びました。畑がそばで、その向こうに田んぼがあり、善福寺川から水を引いていました。バッタやいなごを採ったり、小川でザリガニをよく捕りました。食べたこともあります。
食料不足で、庭のある人たちは、野菜を作っていました。和田中の校庭の半分ぐらいは畑だったと思います。お百姓さんが、肥え汲みに来て、お礼に野菜を呉れました。
善福寺川の辺に、掘っ立て小屋があり、同級生も住んでいました。朝鮮の方々の集落もあったと記憶しています。きれいな川でした。
泳いだのは合流した深いところだったでしょうか。飛び込めましたから。
水着の無いときでしたから、男も女の子も”フルチン”だったと思います。

立正佼成会は、”いんちき宗教だ”と聞いてましたね。今の大聖堂の所に岩波書店社長のわらぶき屋根の別荘がありました。その防空壕で遊びました。

妙法寺周辺には、同級生が結構いました。下駄屋、菓子屋、布団屋などなどお店屋の子が多かったです。

北の方は青梅街道までだったのではないでしょうか?今も同級生が暮らしています。東側もご指摘のとうりだと存じます。良くご存知で!

バスは一日、数回の往復だったと思います。和田中、救世軍の前の狭い道路を、中野駅まで十貫坂を登って走って(歩いて)いました。バスの後ろに薪が積んであり、すごい音を立てていました。しょっちゅうエンコして、客が皆降りて力いっぱい後ろから押してました。子供も懸命に手伝いました。

調子に乗って、長い記述になってしまいました。”ご乗車ありがとうございま〜す”

ついでながら、作家の伊藤整が戦前に和田本町に住んでいたことがあり、息子さんが大手出版社発行の情報誌に「和田本町」というタイトルのエッセイを、昨年書いていました。誌名を失念していますが、興味深い内容でした。余談ですが。


>Harryさん

こんにちは、はじめまして。私は、おそらくは、Harryさんの記憶の中では救世軍の結核療養所だった所(か、その隣)で育った者ですが…昔、病院だったという話は噂で聞いた事は有ったのですが…本当だったんですねげっそりちなみに、今は救世軍の養護施設になっています。もし、隣に有る病院の事ならば、あそこは救世軍の老人病院になってましたが(以前働いてましたが…)今現在は、多分 普通の病院になっているのではないでしょうか…正にあの近辺で育っているので、皆さんのコメントを読んでいて、とても懐かしく感じました。
八転七起さん

突然はっと思い出しました。私もその防空壕で遊んだのです。ただし、それが岩波書店社長の別荘だったとは知りませんでした。たしか防空壕の奥が物置だか食料置き場になっておりまして、なにかおぼろげなのですが、お菓子などを失敬した記憶があります。(早い話こそどろです)

和田小側から善福寺川方面に行きますと、大地が急に落ち込みます。その後そこの傾斜地に大聖堂が出来ていくわけですが、私たちが小学校の低学年の頃はまだ工事に入ってなくて、子供たちのかっこうの遊び場だったようです。

アニメ「火垂るの墓」で、少年と妹が二人で洞穴(ほらあな)で暮らす場面が出てきますが、私の記憶ではあのような洞穴(防空壕)がいくつかありました。

善福寺川のそばには母子寮という共同住宅がありまして、何人かの同級生がそこから通っておりました。今考えると何の母子寮だったのか分かりませんが、あるいは戦争未亡人のための公共施設だったのでしょうか。みんな貧しくて、中には給食費を払えなくて肩身の狭い思いをしている友達もおりました。

その母子寮の先、善福寺川を渡って神田川に至るまでの間に、いわゆる朝鮮人部落というのがあったような記憶があります。子供には朝鮮人というのが何なのか分かりませんでしたが、怖いいじめっ子がいるから近寄るなと言われていたようです。

善福寺川ではよく遊びましたが、泳げるほどきれいだったかどうか定かではありません。覚えているのは、まだ護岸工事がされてなくて土手沿いを歩いて遠足に行ったことです。行き先は大宮公園と呼んでいたと思うのですが、その後和田掘り公園と改名されたようです。釣り堀がありまして、フナなどを釣りに行った記憶があります。

木炭バスについてはよく覚えておりません。私の時代(昭和30年以降)にも走っていたのでしょうか?

あっちぇるさん

再三出てきます桶屋は救世軍の外周道路に面しておりました。そして、その桶屋さん側に平屋の長屋が並んでおりまして結核患者やその家族が住んでいたと思うのです。私たちの通学路というのは、救世軍の裏手沿いを行くのですが、たしかに霊安室というのがありました。雑木林も残っていて陰気な感じがしたようです。

私が大学に入ってまもなく和田(そのころはもはや和田本町ではなくなっておりました)を離れるのですが、数年後大学の後輩がその救世軍の裏手にある学生寮みたいなところから通っていると知り驚いた記憶があります。後輩は小豆島から来ていた目のパッチリとしたかわいい娘だったのですが名前は忘れてしまいました。
こんにちは。
昭和47年生まれです。
住民票は中野区本町にありますが、今でも和田から離れられずにいます。

PCで閲覧の方、Googleのストリートビュー機能で、和田をご覧いただければ…と思います。
和田小の正門前は、普段は車両の通行ができないので、ストリートビュー機能には納められていない模様です。
ですので、和田中の正門前に合わせておきました。

http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ie=UTF8&ll=35.69115,139.658439&spn=0.001263,0.002427&z=19&layer=c&cbll=35.690638,139.658558&panoid=dfL0q_6utsd20IB8JGaPNA&cbp=1,192.84581475765492,,0,14.211903996321638
あーたんさん
ストリートビューありがとうございます。はじめて見ました。時代の進歩に追いつくのが大変です。でも何だか怖いような?
私の家は和田中、和田小へ歩いて二三分の所でした。

Harryさん
同じ防空壕で遊んでいたのですね。木製の垣根でしたので庭に入れましたね。一級下にいたのが今の岩波書店の社長かもしれません。その別荘の西側に岩崎別荘があり、高い塀に囲まれていていました。大財閥の別荘でした。池があり大きな庭でした。その先は今の環七。

母子寮には私も同級生がいて、よく訪ねました。戦争で父親を失った家族の住まいでした。全国にあったはずです

朝鮮人も小中学校にいました。いじめられていました。でも彼らは強かったです。もっとも、いじめるといっても陰湿でなく、校庭を駆けずり回って、運動していると言う感じでしたが。でも、今思えば考えさせられる事々です。うまく表現できませんが。

善福寺川で、場所によっては護岸工事がなされていました。トロッコで大きな石をを運んでいましたから。

大宮公園にも長い防空壕があり、何十人・何百人が入れる規模でした。探検しました。

木炭バスは昭和25年ぐらいまでだったかも知れません。

大宮公園(神社)の手前に、済美山(せいびやま)があり、そこでチャンバラごっこをしました。雑木林いっぱいの山(丘)でした。
そこに不思議な家がありました。学者の家ときいていました。

「となりのトトロ」を見たとき、その不思議な家と出会いました。
宮崎駿氏は、その丘の向かいの、大宮中学校に通っていたそうです。
小学校は泉南(?)だったようです。

話がずれこみました。


記憶の光景・風景はもうありません。取り戻せません。

が、・・・


私の好きな漫画家に西岸良平(さいがん・りょうへい)という人がいます。
私よりも二つ年上ですが、世田谷区の出身ということで、すぐ隣の和田本町周辺とは似たような少年時代を過ごしたようです。

「夕焼けの詩」というのは副題の「三丁目の夕日」の方が有名になってしまいましたが、まるで和田本町のことを描いているのではないかと錯覚させるような情景が出てきます。なにもかもが私の経験したことばかりです。長馬飛びがあってベーゴマ遊びがあって、力道山がヒーローで、丸坊主でお下がりを着て、鼻たらしながらケンケンパーをして、紙芝居があって、などなどです。

話の内容からすると、舞台は東京タワーのそばのようですから、それでいて高台、夕焼けがきれいで富士山が見えてというと三田(みた)周辺ではないかと思われます。慶応三田校舎のそばですね。

でも杉並区和田本町を舞台としてもまったくおかしくありません。自分の育った環境とオーバーラップしてしょうがありません。

それにしてもあの映画はなんとかならないものでしょうかね。作者はあれでOKを出したのでしょうか。あまりにも原作と違いすぎます。侮辱ではないかと思うほどです。茶川さんが若すぎること、一平のお父さんの粗暴さ、それに主人公一平のイメージなど、がっかりするほどひどい出来です。

和田小出のみなさんで、まだこのシリーズを読んでいない方はぜひ読むことを薦めます。昭和30年前後の和田小学校の雰囲気を味わうことができますよ。(映画はだめです)
  
[女子美の火事]

正確にはいつだったかよく覚えていないのですが、小学校の低学年だったことは間違いありません。時刻もうろ覚えながら、やはり夜だったと思うのです。夜空が真っ赤に燃え上がり、煤が落ちてきたのを覚えております。

我が家から女子美までは直線距離にして500m以上はあるのですが、それはあたかもすぐ近場で燃えているかのような感じでした。私の父などは、「火事だー、火事だー」と怒鳴って回り、バケツや桶などに水を入れて家の屋根などにかけて回っておりました。もっとも、あとでそれが遠方の女子美だとわかり決まり悪がっておりましたがね。それほどすごい火事だったということでしょう。私ももちろん興奮しましたよ。何十年もたった今になっても覚えているぐらいですからね。
 
Harryさん
女子美の火事、確かにありましたね、我が家は和田小の並びにあり火の粉は見えませんでしたが、大騒ぎだった記憶があります。消防施設や消防車など無く、消火作業は大変だったと思います。焼け跡を見に行った記憶がかすかにあります。

火事と言えば、忘れられないのが”少年感化院”の火事です。救世軍結核療養所に程近く(東側)に、少年刑務所(感化院)がありました。その施設が放火?によって全焼しました。その時は、本当に怖かったです。火の粉が飛んできました。夜中だったと思います。夜空が真っ赤でした。正確な日付けは無論覚えていませんが、大事件でした。昭和25年ごろ?。今年のクラス会でも話題になりました。
八転七起さん

おはようございます。お名前のことですが、「はってんななおき」さんと読むのでしょうか?八回転んで七回起きるということは、現在は倒れたまんまとなってしまいますが。漢字変換が難しいですね。一文字ずつやっております。

私の家と女子美の間は谷戸(やと)になっておりまして、女子美は丘の上のほうにありましたからいっそう火事が大きく見えたのかもしれません。

感化院があったというのは覚えておりません。私の通学路にあったようですから覚えていてもよさそうなものですが、あるいは燃えた後再建築されなかったのでしょうかね。

私の小学校時代は昭和30年代ですから、いわゆる不良というやくざの予備軍みたいな少年たちがごろごろしておりました。戦争や貧しさが原因だと思うのです。身近にもたくさんおりましたよ。何々組の舎弟だとかいうやからです。現在もまた人心が荒廃しているようですが、その頃とはちょっと違うように感じます。
  


Harryさん

名前の読みは自由にしてください。我が人生なもんで。漢字変換ご苦労をおかけしてすいません。

感化院の全焼後、少年たちは居所がなくそこにバラック小屋を作り、野菜も作っていたと思います。”どろぼう部落”という言葉がありました。
みな、食うために必死の時代でした。その少年たちとは、特別な区分は無かったと記憶しています。それは衣食住全般にかかわっていました。

ちなみに、私が小学一年生(東京ではありませんが)のうと、えんぴつ、教科書はありませんでした。

きりがありませんので、このへんで・・・・

<画像は前にお話した一部です。>
和田小→女子美に進学した私にとってHarryさんの「女子美の火事」は初耳でしたし、驚きでした。
自宅も女子美に近いのですが‥父からも聞いた事なかったし‥、学校で学校の歴史を聞かされた時も火事の件は含まれてなかった様に思います
自分の母校の昔の話を聞くのは、とても興味深い事ですねわーい(嬉しい顔)
[おソースさま]

昭和30年代当時、和田本町および堀の内地区には大きく分けて二つの市が立っていました。市と言っていいのかどうかわかりませんが、あるいは縁日と言ったかも知れません。

私の祖母などは「おソース様」と呼んでいたのですが、もちろん小学生にはなんのことだかわかりませんでした。ソースせんべいを売っているからかなという程度だったと思うのです。

いま考えると、「おそしさま(御祖師様)」だったのですね。日蓮のことです。堀の内の妙法寺は日蓮宗ですし、立正佼成会も日蓮宗系だといいますから、同じように「おそしさま」と呼んでいたのでしょう。いずれも3の付く日だった記憶があります。

佼成会の方の縁日は、中野通りから佼成会の本部に向かう商店街でした。我々子供たちは単に「さんどう」と呼んでいましたが「参道」などという文字は知りませんでした。商店街の店舗のほかにたくさんの露天商も出てにぎやかなものでした。記憶にあるのは「とんとこあめ」という飴屋さんがあって、いつもとんとことんとこ飴を切っていたことです。その後この飴屋さんは川崎大師の方に移ったと聞きましたが今でもあるのでしょうかね。

堀の内の方は和田小学校方面からぶつかった商店街を環七を渡って妙法寺までの参道でした。こちらの方は遠かったのであまり行きませんでしたが、やはり相当な賑わいでした。おでん屋さんやたい焼き屋さんが懐かしく思い出されます。

途中「こがね座」という映画館がありまして、よくちゃんばらを見に行ったものです。鞍馬天狗や新吾十番勝負がお気に入りでした。大川橋蔵なんてあこがれでしたね。

このこがね座、昔はどこもそうでしたが、観客席に便所の臭い匂いが立ち込めてきてひどいものでした。小学校の高学年になって悪餓鬼時代、何度か塀を乗り越えて只で入場したことを覚えております。それも便所の横からだったようです。

佼成会の参道の方にはタカラ座といったかなあ?あるいはヒカリ座だったかもしれませんが不景気な映画館がありました。

このほかによく行った映画館は鍋横(なべや横丁)にあったオデオン座です。あるいはオリオン座だったかな?いやそれじゃ星座だからやはりオデオン座だったか。そこで覚えているのは、やたらと蚊の多い映画館で、いつもぼりぼりと掻きながら見ていたことです。

日本の映画館てみんな「座」が付いていましたが何ででしょうか。いまでもそうなんですかね。
  
Harryさん
私の母が昭和24年生まれです!
家も救心製薬のすぐそばでした。
幼少時代の母を知っているかもしれないと思うとちょっと興奮してます。
ぴょん吉さん

初めてかすっている人が出てきましたね。5歳違いですから同時に在学していた可能性がありますね。

ばふぃおさん

母上誰かなあ。えっちゃんかなあ、たかよちゃんかなあ。でもあの頃1学年が6組もあって、同級生が300人もいたからどうだろう、分からないかもしれないな。

[中野富士見町駅]

地下鉄丸の内線の支線である方南町までがいつ開通したか疑問に思っていました。小学校の低学年でないことは確かだったのですが、何年生の頃だったかなと考えていたのです。

中野富士見町の駅が出来るまで、最寄の駅は中野駅でした。かすかに覚えているのですが、両親は省線と呼んでいた様な気がします。あるいは国鉄だったかな。
中野駅から我が家まではバス便でしたが、たまにタクシーも利用しました。救心の横あたりでメーターが変わるので、それよりもちょっとだけ手前で降りていたことを思い出します。あ、そこの電信柱のところで止まって下さいという感じでした。

また、その頃はよく歩きましたよ。中野駅どころかそこをずっと通り抜けて豊島園までも何回か歩きました。たぶん片道2時間や3時間はかかったのではないでしょうか。新宿までも歩きました。青梅街道を歩いていき鳴子坂というあたりの映画館に行ったこともあります。たぶん4、5キロはあったと思います。

地下鉄のことは調べてみますと、1962年(昭和37年)の3月に開通したとあります。ということは私が13歳ですからもう中学校に入っていたのですね。ほんと記憶というのはいい加減なものです。

我が家は救心製薬のそばでしたから、地下鉄の開通でとても便利になりました。10分はかからない距離でしたからね。和田小とか和田中周辺の人にはそれほど影響がなかったかもしれません。丸の内線本線の高円寺駅とかの方が近かったのではないでしょうか。

さて、中野富士見町という駅名ですが、ちょっと不思議な気がします。ご存知の方も多いと思いますが、当駅の裏(南)側は崖になっていて、そちらの方から利用する人は限られていたからです。当駅を利用するのはもっぱら和田本町の住人でした。中野区の住人なら一つ手前の中野新橋駅の方がずっと多かったと思います。

中野坂上、中野新橋、そして中野富士見町ですから、どうも「中野」に偏向しすぎているのではないでしょうか。こんなところにも政治力が働いたのでしょうか。本来なら「和田本町駅」でも良かったかもしれませんね。
  

こんにちは。

>Harryさん
大変興味深く読ませていただきました。
コガネ座はその後同名のパチンコ屋になり、15年ほど前にスーパーに変わりました。
佼成会の参道の方は存じませんが、鍋屋横丁のはオデヲン座ですね。
これも20年ほど前に駐車場となってしまいました。
あーたんさん、こんにちは。

先日のGoogleのストリートビュー機能はクリックしたのですがどうも見れませんでした。ただし、以前からグーグルアースを使っていたので自分でやると見れました。どうなっているのですかね。

コガネ座が今はスーパーだとのこと、やはり時代ですねえ。ちょっと寂しい気もします。コガネ座については思い出があります。

正月の元旦だか二日に兄と二人で映画を見に行きました。まだ小学校の低学年だったと思います。2本立てを見て映画館を出ると雪が積もっておりまして真っ白なのです。映画館に入る前には降っていなかったので、その変貌に不思議を感じました。足跡をつけながらとぼとぼと家に帰ったのをはっきりと覚えております。

佼成会の参道にあったという映画館は、私の表現ミスでした。正確には中野通りに面してあったので参道沿いではありません。どちらかというと大人向けの映画を多くやっていたような記憶があります。(いわゆるエッチ系)



>Harryさん
中野五叉路のところにあったヒカリ座ですね!
またGoogleのストリートビューの登場です。
http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&lr=&ie=UTF8&ll=35.703256,139.665949&spn=0.001387,0.002307&z=19&layer=c&cbll=35.702774,139.665707&panoid=EYlNJ8KxY6_d83w_EvdqDg&cbp=1,116.516721262082,,0,-17.600226106869318
さらにネットで検索したらありました。
http://sakaue.vis.ne.jp/sanpo/nakano/nakano.hikari.html
現在の私はほとんど中野駅方面に行かないので状況がわからないのですが、映画館としての営業はしてないようですが、建物はそのままですね。
あーたんさん

参道のそばにあった映画館の名前が思い出せないのですが、中野五叉路のヒカリ座ではないようです。

中野通りに面していて、参道の入り口から中野駅よりに数軒隣でした。グーグルで見てももう映画館は残っていません。なにもかも変わっていきますね。
  
Harryさん

こんばんは。私も「こがね座」には近かったので良く行きました。できたのは昭和30年代だったと思います。その前は青梅街道沿いにあった「杉並映画館」に行きました。こがね座の経営者(?)は和田小卒で兄の同級生でした。池田虎男さん?。その人の家は女子美の近くでした。こがね座の成功で、もう一軒映画館を建てたという話を聞いたことがあります。それがご指摘の「タカラ座」かもしれません。「手を広げすぎて両方ダメになった」といううわさ話を、かすかに聞いた覚えがあります。正確さに欠けますが。なにせ昔のことなので・・・

こがね座のはす向かいは、宮本時計店、その隣がみとも電気、松川ふとん店、少しはなれて竹屋酒店、「さくら湯」がそばでした。その通りは「妙法寺」への参道でもありました。「万灯祭り」の賑わいはすごかったです。

またいろいろおもいだしちゃいました。
このへんで。
八転七起さん

こんにちは。杉並映画館というのは記憶にないのですが、どの辺だったでしょうか。

コガネ座の周辺では、松川ふとん店の娘さんが私と同じクラスでした。比較的仲良かったのですがいまはどこにいますかね。こっちも正真正銘のおじさんですから彼女もりっぱなおばさんになっていることでしょう。

万灯祭りというのはよく覚えていません。佼成会のお会式は年々大きくなっていった頃でした。いまでも続いているのでしょうか。
ところで、高円寺の阿波踊りというのはいつ頃から始まったのでしょうか。私の子供頃はなかったような気がするのですが。
Harryさん

こんばんは。杉並映画館は都電の車庫の裏手にあり、今の地下鉄高円寺駅の近くだったと思います。コガネ座より古く広く、便所くさい廊下越しからも映画を見ることができましたが、いつも超満員で子どもは見るのに苦労しました。
戦前から在ったのかもしれません。

松川ふとん店のお姉さんのほうと私は同級生です。今春のクラス会でお会いしました。眼のくりっとした方で素敵にお年を召されていました。

万灯祭りはお会式のことでして、”マンドマンドサのマンドサッサ”の掛け声とともに練り歩く姿は勇ましく、また楽しいものでした。東京の各地から大勢来ていたようです。立正佼成会のそれは、動員されている感じで面白味に欠けていたような記憶がありますね。ただ、両方とも規模が小さくなっていった気がします。今もあるようですが。http://cache.yahoofs.jp/search/cache?p=%E3%81%8A%E4%BC%9A%E5%BC%8F%E3%80%80%E5%A6%99%E6%B3%95%E5%AF%BA&fr=bb_top_v2&tid=bb_top_v2&ei=UTF-8&search_x=1&x=16&y=14&u=www.tokyo-kurenaidan.com/horinouchi1.htm&w=%22%E3%81%8A+%E4%BC%9A%E5%BC%8F%22+%22%E5%A6%99%E6%B3%95+%E5%AF%BA%22&d=c1f7NULURhdW&icp=1&.intl=jp

高円寺の阿波踊りは、東京オリンピック後に始まったのではないでしょうか?
正確ではありませんが。

では、おやすみなさい眠い(睡眠)
[並木君との不思議なめぐり合わせ]

並木君のうちは佼成会の参道沿いにありまして小さな印刷屋さんをやっておりました。学校で同級生だったこともありますが、父親同士が碁仲間だったことも仲良くなった理由だと思うのです。お互いの家を行き来する仲でした。彼の家は印刷工場と一緒でしたので、遊びに行くとそこで徒弟奉公をしていた梅津さんというお兄さんに会いました。彼もまた和田小、和田中を出ていたと思います。梅津さんとは後年、ずっと後になってロータリークラブで再会することになります。

さて、並木君が4年生だったか5年生だった頃引っ越していきました。仲が良かっただけにとても寂しい思いをしたものです。引越し先は神奈川県の座間というところでした。彼が引越しをしてしばらくして、数人の友達と彼の家に遊びに行きました。

初めて乗る小田急線はとても珍しくて、窓外に広がる田園風景が楽しくてしょうがありませんでした。それにしても小学生にとって長い長い距離でした。たぶん急行とかを使えなくて各駅停車でごとごと行ったのではないでしょうか。座間では芋ほりに連れて行ってくれたことが忘れられない思い出になりました。半日遊んでその日のうちにまた小田急線で東京に戻りました。彼とはその後すっかり音沙汰がなくなりました。

彼と再会したのは20年ぐらいたった頃です。私の家が神奈川県の座間市に引っ越したのですね。しかしその時には並木君のことなど忘れておりました。もちろん芋ほりのこともです。

並木君は大学を出て座間市役所に勤めていました。私が地元消防団に入ったときの先輩が並木君のお姉さんの旦那さんだったので和田小学校出だということが分かったのですね。20年を経て交友が復活しました。彼の結婚式にも出席しました。

私はその後厚木市というところに転居しましたが、座間市とは隣接しているので交友は続いておりました。彼は父親の印刷工場の跡を継ぎませんでしたが、跡を継いだのが先に述べた梅津さんだったのですね。その後社名も並木印刷から梅津印刷と変えて海老名市で開業しておりました。中学を出て長い丁稚からたたき上げたのですね。

私は国家資格を取り厚木で開業しましたが、40歳になったときにそれまでの縁で座間市のロータリークラブに入会しました。隣接市なので入会資格があったのです。なんとそこに会員として梅津さんがいたのです。驚くと同時に嬉しかったですね。ロータリークラブでは私が長年会報を担当することになった関係で、印刷屋さんの梅津さんとも頻繁に打ち合わせすることになりました。

その後私がロータリークラブをやめてオーストラリアに移住してしまいましたので交友も途絶えております。

しかし不思議なめぐり合わせの並木君と梅津さんのことは大事な思い出です。
[フォークダンス]

小学生の時、フォークダンスをやらされましたね。
記憶があまり定かではないのですが、あれは運動会の練習だったような気がするのです。それとも通常の体育の授業で行われていたのでしょうか。

いずれにしろ、女の子とおおっぴらに手を握れるチャンスということでずいぶんと大騒ぎをしたものです。中には嫌っていた男子もいましたが、あれは強がりだったと思うのです。私は大好きでしたね。だけど、好きな女の子と手が握れるというのでわくわくして待っているのですが、だいたいいつもあと一人というところで曲が終わってしまうのです。それはないだろうって恨めしく思いましたよ。

フォークダンスの中では、「オクラホマミキサ」というのが一番記憶に残っています。他にもあったのでしょうが、フォークダンスというのはオクラホマミキサのことだと思っていましたよ。

その「オクラホマミキサ」ですが、「わらの中の七面鳥」と同じ曲だったとはずっと気がつきませんでした。

「わらの中の七面鳥」というのは、英語では Turkey in the straw ですからそのものずばりです。歌詞の内容はといいますと、「七面鳥が逃げた。さあ大変。早く捕まえろ。食われちゃたまらんと七面鳥は逃げる。さあ逃げろ、捕まえろ・・・」とどたばたなのです。

じゃあオクラホマミキサってなんんだろうということになりますが、オクラホマは地名でいいとして、問題はミキサです。英語だと mixer でしょうから、ミキサーと伸びるべきなんでしょう。料理で使うかき混ぜ機のことでしょうか。

ところが mixer を辞書で引きますと、「(パーティなどで)出会いのきっかけをつくるためにするゲーム」とあります。これで納得しました。やっぱり、フォークダンスは出会いをつくるためのゲームだったのです。

それにしても懐かしいなあ。はにかみながら踊ったフォークダンス。もう50年近く前になりますが、あの頃順番が来るのを心待ちにしていたたか子ちゃんとか育代ちゃんはいまどこでなにをしているのかなあ・・・

余談ですが、七面鳥のことをなぜ「ターキー」と呼ぶかです。
その昔アメリカがトルコ経由で輸入していたアフリカ原産の鳥のことを「トルコ」の国名で呼んだのが由来だそうです。「トルコ」すなわち「ターキー」となったのです。
なかなか面白い話ですねー。

親父が21年生まれ(たしか)なので、3歳違いのようですね。
小6の三学期から和田小に転校してきたと聞いています。

親父は弟さんがいる(何歳差かわかりません。聞いてみます)ので、
もしかしたら知ってるかもしれませんね・・・。
Kansaiさん

こんにちは。お父上、6年生の3学期に転校してきたということですが、それではあまり印象にないかもしれませんね。

ぴょん吉さん

梅津さんに弟さんがいたという記憶はありませんね。たぶんいないと思います。並木君も妹はいなかったような気がしますが、よく覚えていません。

ところで、私と同じクラスだった松川ふとん店のお嬢さんの消息はなにか聞いておりますか?もしチャンスがあったら聞いてみてください。よろしく。
[神田ヨハネちゃん]

私の家から学校に行く道すがら、同じクラスの神田ヨハネちゃんの家の前を通りました。変わった名前だなあと不思議に思っていたのですが、母からあれはキリスト教の名前だと教わりました。ヨハネちゃんの両親のことはあまり覚えていないのですがあるいは宣教師だったのかもしれません。

しかし今考えますと、いくら信仰に厚い家庭だからといって、子供の本名にヨハネとつけるのは相当に勇気がいることではないでしょうか。英語読みだったらジョンですね。

ヨハネちゃんはおとなしいお坊ちゃんタイプでした。悪く言えばもやしっ子みたいだったような記憶があります。彼の家には小さいながらもプールがありまして、何度か入ったことがあります。昭和30年代初期のころにプール付きの家というのはそれほどなかったはずです。あるいは自分の家というよりは伝道協会の所有だったのかもしれません。

ヨハネちゃんはそれからまもなく引っ越して行きました。今はなにをしているでしょうかね。そんな名前ですから、否応もなく聖職者になっているのでしょうか。

そのヨハネちゃんの家の斜め前には栗原くんの家がありまして、彼のうちはすぐそばで栗原鉄工所をやっていましたから、自宅も広い庭付きの大きな家でした。彼のうちにもよく遊びに行きましたが、豪華なおもちゃをいっぱい持っていたのが印象に残っております。

現在、グーグルマップで見てももう鉄工所はないようです。アパートだかマンションに変わっているようです。

栗原鉄工所の裏には私の憧れの女の子が住んでおりました。山崎育代ちゃんといって、長い髪のかわいい子でした。私だけでなく、みんな憧れていたのではないでしょうか。和田中までは一緒だったのですが、その後の消息は知りません。

その後、みんなどんな人生を送ったのでしょうか。ちょっとだけ興味がありますね。
  
私は昭和46年生まれです。和田小学校の生徒でした。ブース病院のことを調べていて、昔は結核の療養所だったことをしりました。昔の話を聞けて嬉しいです。ありがとうございますm(_ _)m
昭和38年生まれの杉十ですが地元です!!コガネ座で検索していたらたどり着きました。ミクシィも十数年ぶりですがアカウント残ってました。ぜひお仲間に入れてください!!
てかゆうのさん以前10年書き込みない?? 私もミクシイ10年ぶりだからしかたないですが…

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