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総合演習第5班2007コミュのたつやのアホ論理・改

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僕は昨日の中間発表を字の如く寝過ごしたので、
詳細は分かりませんが

表コミの中島パパンか

「ことわざの翻訳される背景の深まりが欲しいね」

とツッコんできたそうなので、
その対策として、
以前、表記した長文コンセプトを記載します。

そして、この文章を読む際にみなさんに求める行為は、

・わからないところの指摘

・論理が飛躍しているところの指摘

の、2つです。
ぼくも今から指摘していこうと思いますが、
みなさんの指摘の方が僕にとってはとても重要なので、
協力、よろしくです。
(< >内が僕が新たに自分で指摘したところです。)
(※がついているところは、依頼です。名乗りあげて下さい。)

〜以下、総合演習コンセプトエスキースの下書き〜


ことわざは云々〜(一般論を展開する)

 『現代にっぽんにおいてことわざの生死はどうなったか』

 日本のことわざが生まれたプロセスは他の文化と似通ったプロセスを経ているものが多々あり、※(例を挙げる)、このことはユングが夢に人類の普遍的な真理を見いだそうとしたことや、人類学者たちが求めるロマンの根源でもある。
 しかし、グローバルネットワークが広まった現在、諸国の文化は他国の文化を無視して発展することはなくなり、ことさらネット上では全ての言語がプログラミング言語によって分解され、プログラミングの領域においてひとつの普遍的地平を体現していると同時に、その分解が多岐に渡り過ぎて、もはや誰にも手に負えないほど言語の解釈、意味は広がっている。

 特に、にっぽんは言語の解体と増殖が顕著である。
 なぜなら、にっぽん言語メカニズムが、文明開化によって、世界に他の類を見ないほどの発展をしてしまったからだ。
(このことを西洋的進歩主義理解における「発展」と捉えてしまうと、論理は、「日本の他言語と比較した際の優位性」にむかってしまうため、モダニズム的なイデオロギー志向に迷走してしまうので注意。)
 にっぽん語のように「ひらがな」「カタカナ」「漢字」そして「アルファベット」までもを内包して成立できる言語は全世界をみわたしても見当たらない。
 たぐい稀な進化を遂げているのが、にっぽん語だ。
 鎖国されていた江戸時代は言葉の輸入、外来語の浸食スピードは緩やかなものであり、「かすてら」「天ぷら」などは現地の言葉を日本の文化にアレンジする余裕があった。
 しかし、アルファベット言語メカニズムの諸国を見てみれば解るが、[fujiyama][geisya][samurai]のように、日本文化の言葉は全てアルファベット化して受け入れている。むしろ、漢字をアルファベットが羅列されている文章の中にいれることが著しく困難な言語メカニズムなのだ。
<ここでにっぽん語と西洋言語、他の東洋言語のメカニズム比較と、大陸型言語メカニズムと小島型言語メカニズムの比較考察までする必要がある。…めんどくさい。>※<誰か、このテーマで小論文かいてください。↓に帰結できると尚、良。>
 ゆえに言語のフォーマットの剛性が強い他言語を母国とする国々のアイデンティティが、日本より強いのが当たり前である。

 ここでにっぽんの言語特性の具体例をあげる。
 例えば、にっぽんでは「あいまい」ということを表記するにも
「曖昧」「アイマイ」に留まらず、「ファジー」という発音すればほぼ英語であるものもカタカナ化することでにっぽん化して受け入れることができる。
 この言語受容の多様さは概念の差異の明確化、イメージの合理的解釈を困難にしているため、解釈はバラバラになり「自国の意見を持たないタマムシ色の謎の国だ」と表される一因である。
(外国のジョークに、英語をカタカナ表記して発音すると「日本語がこんなに英語と似ているとは思わなかった」というものがある。)

 また、日本語も「標準語」と「方言」あるように、実は日本は単一言語国家ではない。が、一億玉砕や、一億総中流階級といったムーブメントの名残か、単民族、単一言語国家でありたいというモチベーションが隠されている。このことは、にっぽんの言葉のアンビバレンスさを物語る例であり、いじめ問題の深刻化、凶悪犯罪など、ここに現代日本と現代にっぽんの闇があると思われる。
<↑の文はちょっと行き過ぎな観が否めない。よっぽど考察しないと責任の持てない文なので削除対象>

 このような他言語受容の多様さを形成せしめたのは、まぎれもなく戦後の各メディアの「発展」と、今まで卑下蔑視されていたはずのマンガ、映画、音楽などの、それらの実の根幹にジャーナリズムを持たなかったはずの小さなメディアたちがマスメディアたちの自己拡大現象によって「発展」を誘発され、小さなメディアたちがジャーナリズムを担うマスメディアへと引き上げられていったことがある。
(皮肉にも、マスメディアたちの自己拡大現象が引き起こした小さなメディアたちの興隆が、マスメディアたちの特権を少しずつ奪い去っているのが、現代だ。)<←ちょっと抽象的すぎる>
<メディアの自己拡大現象(本能?)とは何か?
 記述する必要がある。非常にめんどくさい。>

 メディアがもたらす情報の繁殖は、ラジオ、テレビ、携帯電話、インターネットと増殖装置が発展したことで、鎖国していたころとはまるで異なる情報浸食速度状況下であり、本来なら、もっと時間をかけて吟味されて外来語を取り入れなければ文化に溶け込めないものが、2ちゃんという巨大掲示板、ゴールデンタイムのバラエティの深夜枠化から見受けられるように、もはや「ネタ化」という技術によって語感先行で受け入れていける基盤が育っている。
 「ネタ化」とは何か?
<「ネタ:何かをメタ視点で捉えることによって得られる、
<笑いをそそるもの」という帰結に至るのだが、
<そのプロセスが…めんどくさい。>
 つまり、情報の論理的理解よりも、情報概念の理解よりイメージ的なが重要である。
 ビジネス界に最近、ロジカルシンキング、マネジメント、マーケッティングなどのカタカナの言葉や、CSRなどの外来語、アルファベットの略語が興隆しているのは、グローバルマーケットの効果であり、合理性を理解しないと、他国と交流ができないというある真実に気付いたからであろうと推測される。つまり、就職活動におけるビジネス語の勉強の必要性はかなり経団連インテリ層の危機感からはじまっているといえる。が、末端ではこれらもネタである。
 パロディ先進国と表記することすらネタである。ネタはパロディを超えて暗黙の進化、浸食を遂げつつある。
 ポケベルですら数字の暗号化によって言語化し、一つのロマンあるエポックをつくったのである。
<↑ちょっとカッコつけ過ぎ。>

 ここらで、ことわざの発生プロセスに戻りたい。
※(ことわざの発生プロセスのリサーチ文章:教養的側面と言葉遊び的側面のピックアップ。→「つまり、ことわざは風土特性の緩やかな進化現象の結果にできたものだ。」という趣向に帰結したい。)<←ここ、誰かこの意味内容で論文作成してくれぇ。願。>
 しかし、超情報化社会によって、人類史上初めての言語増殖スピードとなった現在においては、ことわざは古典的発生のプロセスを経ているのだが、その代謝スピードがあまりに早すぎるために、ことわざは現在においてつまるところ、流行語である。そして、流行語はネタ化によってその代謝スピードが更に加速されている。
 ことわざの発生は人間のコミュニケーション本能ともいえる有機的進化をとげた文化、風習である。現在も昔につくられたことわざは機能する。が、それはあることわざの意味を過情報データベースから掘り出さなければならないため、限定的であり、寺子屋的マスメディア<←ちょっと唐突>によって他の言葉にすり変わったり、または「絵文字」や「モナー」などのもはや一元的な軸であった言語は自然発生的に2D化するほどの進化した現代の言語創造能力が古来のことわざを超越していってしまうのである。
 しかし、例え隠ぺいされていようと、古典は存在する。データベース化社会といわれ、カーニバル化する社会などと言われようと、ネタ化してすべてをうやむやにしていくような錯覚に陥ろうと、ネタ化の中にアイロニカルでシニカルでニヒリスティックな動機が見えかくれしようと、ポップカルチャーの発生システムはきわめて大衆の本能に添ったものであり、ことわざメイキングは古来より存在する伝統的な教養伝達のポップ化システムなのだ。
<↑カッコつけ過ぎ。>※(写楽作品の文脈を考察してみると、ありありと浮かび上がるポップ化システムがあるように思うの僕だけだろうか。リサーチする必要アリ。写楽作品の文脈:江戸時代における浮世絵ブームの中で、写楽は一時的にもてはやされたが、その独特のリアリズムは早い段階で飽きられて、短い期間で消えていった。謎の画家「写楽」と言われているように、そこにはまだ多くの謎があるが、現在の僕らが見ても写楽の描線はユーモラスであり、そして写楽の描線はひとつのポップ表現を支えるメソッドとしてデータベース化している。ジャポニズムにおいて浮世絵がピックアップされたのも、実は刺激を求めていた画家たちのブームである。) <←興味がある人はこの趣向で小論書いて。>

 昔はゆっくりであった。しかし、その「ゆっくり」は「今と比べて」得られるものであり、昔がゆっくりであったかというと、昔は昔で最速を求めて進化していったのだ。はやいこと、はやくあることはむしろ、戦で伝達兵の重要性に気付いた武将、将軍たちが勝利を収めていった史実や、商いで成功した承認の物語などを真に受ければ、今以上に価値があったと想像できる。この根本は変わっていない。が、電波が飛び交い、光通信までは情報ネットワークは進化し、インターネットのサーバーはシナプスと似たような働きをしており、地球は一つの脳組織化している。はやいことが飽和し、人間の脳組織で可能な処理範囲を超えようとしているのだ。人間の情報処理速度は脳神経組織がいかに特殊な素材で出来ていようと伝達抵抗があり、実は光ケーブルより遅いかもしれないのだ。
 語り得ぬものの正体は解ってはいるが、語り得ぬのである。
 その中において古典としてことわざがあるということ。
 もはやことわざはネタであるが、ことわざはことわざである。
<↑この帰結は如何なものか。自分でもカッコつけ過ぎてよく分からないところが多々ある。>

<以降は趣味。この趣向で小論文書きたい人、かいてみて。>
 ここで、「日本」と「にっぽん」と表記してきた理由を述べてみたいと思う。
 ひとえに、僕のイメージによって「日本」と「にっぽん」を差異化した方が、僕自身が理解しやすかったところがあるためであるが、[the United States of America]が[USA]と略されることと明確に区別することで、我々が苦しんできた自国のアイデンティティが、字の如く「垣間見える」のではないか?というアイデアが浮かんだためだ。
 例えば[USA]は[the United States of America]が略されて生まれたのであり、[USA]は決して[the United States of America]より先に生まれたものではない。そして[USA]
と[the United States of America]は語感は違うものの、意味内容において互換性を持っている。
 しかし、「にほん」と「にっぽん」ではどうだろう。「にほん」が先か、「にっぽん」が先か、解明されていない。しかし「ほ<ho>」と「ぽ<po>」では明確に語感的差異がある。[The]が状況において「ざ」や「じ」に発音が変化したりするのはどの言語でも見受けられるなまり現象であり、発音は発音のしやすさによって有機的進化を遂げるのが人間の持つ合理的本能だ。
 そして「日本」は「にっぽん」とも「にほん」とも発音可能であり、その使用法則はまるで明確になっていない。というか、明確にならない。(気力切れ。)

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