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NARI IN KINGSTONコミュの映画 Dancehall Queen

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コビペです。字幕がないので参考になればと思います。

 「 Dancehall Queen 」

DVD
1997年 Island Jamaica Films   


イマドキのシンデレラに王子様はいらない

   負け犬論争が繰り広げられた女性後進国・日本とは違い、ジャマイカの女性はずっと先を歩いている。 システムに保護された女性の権利という点でジャマイカの抱える課題は多いが、パートナー(男性)に殴られ、自尊心を傷つけられ、捨てられたとしても、彼女たちは日々たくましく生きている。 そんな今のジャマイカを、ダンスホールを題材に描いた 「 ダンスホール・クイーン 」 は、10年前に作られた映画であるにも関わらず今だ強い光を放っている。



 主人公のマーシャは2人の娘と弟を抱えたシングルマザー。 キングストンの
路上で飲み物やスナックを売って生活している。 そんなマーシャの苦労は 「 生活 」 というプレッシャーであり、家族のパトロン・ラリー、自分の縄張り(出店の場所)を脅かすイントルーダー。 日々の生活に追われておしゃれをする余裕もなく、女性らしさを出せばまわりの男達にナメられる。
パトロンが長女に言い寄っても、お金をもらっているために娘を守ることさえできない。 派手でセクシーな衣装に身を包んだダンスホール・ギャルの傍ら、ボサボサ頭とボロを身にまとってひたすら働き続けるのみ。 そんなバックグラウンドを踏まえて繰り広げられるこの物語には、非常に興味深いテーマが盛り込まれている。

 主人公のマーシャは貧しい家庭に生まれ、15歳の時に妊娠して学校をドロップアウト。 そんな彼女に教育はなく、一緒に子供を育て、守ってくれる男性パートナーはいない。 よって多くの貧しいジャマイカ人女性がそうであるように、生活のために長女の「 性 」を利用することもやむをえないと考えている。 「男なんてセックスが終われば服着て家に帰るんだわ」 「それは結婚してる男なんでしょ?」 「独身男でもそう。あんた最後にセックスしたのいつ?」 「もう随分前。男なんてセックスと金目当てに寄って来るだけ」
 女友達との会話には、マーシャが性を割り切って見ているのがよくわかる。 しかし興味深いのは、さらに続く後半部分である。  「あんた、ラリーはどうなの?」 とパトロンのことを聞かれ、マーシャは 「 ただの友達。家族のみたいなもん 」 と答えているのだ。  女友達はラリーの経済援助とマーシャの性 (セックス、女性としての喜び) を結びつけて考えているのだが、マーシャには全くその気がないことをはっきり示している。 それにラリーが求めているのは長女のターニャであって、生活に疲れた自分ではない。 マーシャはそれを仕方ないこととして受け入れている。
つまり自分の性や娘の貞節よりも、生活に重点を置いているのだ。 しかしラリーに処女を奪われた15歳の長女ターニャは激怒する。なぜこんなことを母親が許すのか。  「母さんはわたしを売女にしたのよ! 初めてを好きでもない人となんて、一生母さんを許さない!」
 学校の成績も良いターニャには教育があり、自分の年相応の、自分の好きな相手とつきあうことが当たり前だと考えている。  「あんたのためにやったんじゃないか! あんたは本当に恩知らずだよ!」というマーシャにターニャはこう返す。 「 母さんができないなら(自分で生活を支え、家族を養えないなら)わたしは自分でやる! 」

 自分よりかなり年長のラリーに性を要求されるターニャ。 しかし金銭や保護を引き換えに年上のパトロンを持つこと受け入れているのは、何もシングルマザーだけではない。 その様子がターニャの同級生の会話からも見て取れる。  パトロン・ラリーがターニャを迎えに学校まで行くと、彼女はラリーを避けて同年代の男の子とデートに行ってしまったあと。 「ターニャは?」と困惑するラリーに女学生はこう答える。
「若い男の子と一緒に帰ったわ。わたしたちと同じ年頃の子 」
明らかにラリーがパトロンだとわかっている彼女たちの対応はクールだ。
「 わからないな 」 と戸惑うラリー。すると女の子達は追い討ちをかけるように言う。 「 何がわからないの。(ターニャが同年代の子と出歩いて)何が悪いの? 」
 ティーンエージャーの女の子でさえ、パトロンとの関係は時に仕方のないことだと考えているが、教育を受けている彼女たちには、新たな選択肢もあることを示している。 今までは好きでもない人とつきあうことが必要だったとしても、彼女たちの時代はまた違った価値観と強さが生まれてきているのだ。 男性を頼るために自分の性を犠牲にしなくても、それを利用することができる。選ぶのは彼女たちなのだ。
 深夜に帰宅したターニャはラリーとマーシャの質問攻めにあう。
「こんな遅くまでどこ行ってた!」と怒るラリー。 経済力のあるラリーには、彼女にそんな質問をぶつける権利があると思っている。 しかし 「 映画に行ってたのよ 」
とターニャは毅然としている。 彼女にとって、経済援助と個人のしあわせ、自分の性はイコールではない。  
「 映画が夜中の3時に終わるか? おしゃべりでもしてたって言うのか? 」  男女の関係が利害やセックスにのみ終始しているという時代に生きたラリーに、愛情やデートという概念はない。  「 あんたにはわかんないわね 」 とターニャは冷たく言い放つ。
 結局ラリーから経済援助を打ち切られることになり、マーシャは激怒する。
「 なんてことしてくれたのよ! その若い子(ターニャのデートの相手)が何をくれるというの!」 「 母さんにはわからないもの! 世の中お金だけじゃないの!」
 教育を受けて新たな価値観を身につけた娘と母親のギャップ。
しかし 「 自分に学がないからってわたしを責めないでよ。 わたしのことなんかちっとも考えてくれてないのね 」 と言うターニャの言葉に、マーシャの中で新たな意識が目覚めはじめる。

長年のパトロンを失い、弟までチンピラに脅されて正気を失ってしまった。
一家の 「 男性 」 を喪失したマーシャは、賞金獲得のためダンスホール・クイーンになることを決意する。 夜はセクシーな衣装に包んだダンスホールクイーンも、普段はTシャツとGパンというごく普通の女性。  
「彼女たちにできるなら、わたしにだって!」
 マーシャは賞金目当てでダンスホールに通い始めるが、非日常/妖艶なダンスホール・クローズ(衣装)に身を包むことで男たちの目をあざむき、女たちから尊敬や嫉妬の眼差しを受けて自分の女性性と自尊心を満たしていく。

それはダンスで男性と出会うということではなく、“ 男(社会)をコントロールする力を持つ ” ということを意味していた。  普段ボロをまとった自分とは別の自分になり、マーシャは解放される。 そして徐々に、人間としての尊厳を獲得していくのだ。 マーシャはダンスホール/ダンスホール・クローズという非日常を利用し、これまでのしかかっていたパトロン、イントルーダー、女性性、自尊心、子供からの信頼/尊敬、経済力の問題を巧みに、精一杯コントロールして勝者となる。



 日本は世界の中でも文明国のひとつだが、女性の選択肢は 「 結婚 」(男性に服従・もしくは依存)、「 仕事 」 の二つしかないという概念が根強く残っている。 しかし女性の一生は、本当にそのニつしか選択肢がないのだろうか。 自尊心を保ち、かつ母になり、女性であり、経済力を持つということは容易でない。 だが自分の持てるものを最大限に生かしてサバイブするという賢さ(ずる賢さ?)が、まだ日本の女性社会には欠けているのかもしれない。もしかしたら、そこまであるものを全て使う必要がないのかもしれない。 しかしそんなエネルギーの欠如が、たくましく見えるジャマイカ人女性に対する憧憬にかわっているのかもしれない。

 映画 「 ダンスホール・クイーン 」 には、同じ女性でもマーシャとターニャという2世代の価値観が強く反映されている。 そして二人の姿を、いつも脇で見ている次女は言うのだ。  「母さん、誰に怒ってるの?」 自分の人生や生活に対して怒りを抱えた女性たちは、時代と共に新たな生き方を模索している。 次女が成長する頃は、また新たな戦いとサバイバルが待っているのだと思う。
イマドキのシンデレラに王子様はいらない。

参考文献: 「 Erotic Disguise : (Un)dressing the Body in Jamaican Dancehall Culture 」 Carolyn Cooper
協力: 鈴木慎一郎さま

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