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お江戸で遊ぼうコミュの徳川御三卿

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『御三卿とは』
徳川氏の一族である田安、一橋、清水の三家
江戸中期、将軍家と御三家との関係が疎遠になったため、
8代将軍徳川吉宗が自分の2子に御三家に準じて将軍家と
密接な関係をもつ家柄として一家を構えさせた。

姓は徳川であり、田安・一橋・清水の名称は、それぞれの
屋敷地が所在する江戸城城門の名称に由来している。

御三卿の「家」としての性格は、江戸時代の他の「家」と
は明らかな相違が認められる。

まず幕府からは各家に10万石が給せられていたものの、
独自の藩は立てず、諸国に分散していた領地の実効支配は
幕府に委ねられていた。

また、家老以下の家臣団も、主に旗本など幕臣の出向に
よって構成されていた。 このように、御三卿は独立した
別個の「家」ではなく、将軍家(徳川宗家)の「家族・身内」
として認識されており、社会的にも経済的にも大きく依存
していた。

徳川御三家は知っていても御三卿をご存知の方は少ない。
御三卿の創設は、吉宗の生い立ちを抜きにしては考えら
れない。

徳川中興の祖といわれる吉宗は紀州徳川家の相続から将軍
にまで上り詰めたいきさつには、ただ運のよいシンデレラ
・ボーイといえない謎がある。

吉宗が実施した幕政改革は。幕府権力の確立に務め、増税
と質素倹約の奨励。新田開発など公共政策、公事方御定書
の制定、目安箱の設置などの享保の改革また米相場の安定
に苦心したことから、米将軍(八木将軍)ともいわれる。

母は紀州徳川家の召し使いで巨勢六左衛門利清の娘・浄円院
(於由利の方)。
実家は、紀州の地主で、古代の名族・巨勢氏の末裔を称する
素封家であった。しかし、紀州藩主の母・側室の実家として
は、身分が違いすぎた(百姓の娘であったとも云われる)。

和歌山城の大奥の湯殿番であった於由利の方は、徳川光貞の
目に止まり、湯殿において、手がついたという伝説は有名で
ある。母の身分に問題があったためか、幼年は家老の元で育
てられ、やがて城中へ引き取られた。

元禄10年(1697年)、14歳で第5代将軍・徳川綱吉に拝謁し、
越前国丹生郡に3万石を賜り、葛野藩主となる。父・光貞と
共に綱吉に拝謁した兄達に対し頼方は次の間に控えていたの
だが、老中・大久保忠朝の気配りにより綱吉への拝謁が適っ
たものである。


宝永2年(1705年)に長兄・徳川綱教(紀州藩第3代藩主)
が死去し、次兄の徳川頼職が後を継ぐ。しかし同年のうち
に父・光貞、やがて頼職までが半年のうちに病死したため、
22歳で紀州藩第5代藩主に就任する。藩主就任時には、将軍
徳川綱吉から一字を貰い吉宗と改名。


お勧め本
『徳川御三卿』 南原幹雄 著 徳間書店文庫

病弱な長男家重に将軍位を譲った八代将軍吉宗は、万一、
嗣子なきときのために備え、御両卿を創設した。
だがこれは同時に、御三家の格下げを意味していた。自藩の
存亡を賭け、尾張、水戸両藩が動き出す! 

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