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思考派コミュのそもそも、我々は、なぜ思考するのだろう

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私が、生まれて初めて「思考」したのは、小学校入るか、入らないかの年で、その時は、祖母と、一緒に風呂に入り、湯船につかっていた。

その瞬間、本当に突然、自分がこの世に存在していて、そして、いつかは死ぬべくして定められた存在だということに閃いてしまった。

当時は、当然ながら、哲学という高級な言葉を知るはずもない。

だから、その瞬間は、ただ、自分がそのようなことを閃いたことに対して驚き、その次の瞬間、自分が存在しているという事実に驚き、そして、その次の瞬間、自分が死ぬ、または、自分の存在が消滅するという事実に、凄まじい恐怖におののいただけだった。

どうして、自分は、生きているのだろう?
どうして、自分は、死ぬのだろう?

その当時は、こういう疑問を、祖母に質問したら、怒られると本能的に思った。

そして、その疑問に答えるべく、一人で「思考する」という癖がついたように思う。



自分の存在について、深く考えた人にしか、わからないことかも知れないが、自分の存在とは、とても理不尽なものである。

生まれて初めて、このようなことに思考した瞬間というのは、本当に突然の出来事であり、好きで生まれたわけでもないし、誰に頼んだわけでもないのに、全く連続性も脈絡もないまま、気づいたらこの世に存在しているということに気づかされるはずである。

そして、それにもかからず、どれだけ頑張っても、誰にどれだけお願いしても、いつか必ず、自分の存在が消滅するよう運命づけられているという事実に気づくはずである。

このように、自分の存在とは、こちらの意思を無視するのもいい加減にしてくれよ!と、叫びたくなるほど、理不尽なものである。



自分の存在ほどの理不尽さほどでなくても、自分の意思に反して、または、自分の意図に反して、何か、物事が押し進められるということは、日常生活の中では多々あると思う。

自分の力が及ぶ範囲なら、頭を使って、声を出して、自分の意思を主張することが出来るだろうし、時には、(出来ればこんなことはしたくないが)暴力に訴えても、自分の主張を通すことが出来るだろう。

だが、この世の中に生きている限り、自分の力など、たかが知れていて、思い通りになることより、思い通りにならないことの方が、はるかに多いことに気づかざるを得ないことだろう。

自分の存在の理不尽さに比べれば、些細なことでしかないが、mixiにおいて、相手から、マイミク申請のお願いをされて、こちらが承諾したのにもかかわらず、しばらく経って、相手から、何の連絡・通知もなくマイミク削除されるということも、自分の力ではどうすることも出来ない理不尽さを味あわせられる一つの出来事ではないだろうか。

このような、些細と思われる出来事の他にも、この世界に生きていく限り、どれだけ、世界に背を向け、例え、部屋の中で一日中引きこもっていてでさえ、他者にも自分と同様の自由な意志と欲求がある限り、葛藤や欲求不満、そして、なんともいい表せない理不尽さを感じる機会は尽きないし、どれだけ努力しても完全に解決されることはないように思える。



そんなときに、出来ることの一つは、理由づけをすることだと思う。

Mixiにおける、マイミク削除のことを例に挙げるなら、何らかの行動を起こす前に、無意識のうちに、どうして削除されたのか、その理由を考えることがあるだろう。例えば、「絡みが少なかったから削除されたのではないか」「〜のことが、気に障ったから、削除されたのではないか」などである。こういうように、理由づけをし、自分の納得のいく答えが見つかったなら、理不尽さも、少しは和らぐような気がする。



理由づけ、または、合理化の例を考えるとき、すぐに思い浮かぶのが、イソップ童話のすっぱい葡萄の話である。

この話は、ある狐が、木になっている葡萄を食べようと、一生懸命、葡萄の実を取ろうと試みた。しかし、この実は、この狐の背丈より遙かに高いところにあり、どうあがいても取れなかった。そこで、この狐は、「この葡萄は、すっぱいにちがいない、だから、食べるに値しない。」と、理由づけをし、葡萄を食べることをあきらめるというものである。

この話を聞く人は、この狐の考えと行動を「自分の能力不足・努力不足の言い訳じゃないか。」と笑うかも知れない。もし、我々の存在を超越した神がいるなら、この行動を笑うどころか、全く、気にもとめないことだろう。また、狐自身も、後に、自分の考え方や行動を恥じたかも知れない。

「この葡萄は、すっぱいにちがいない、だから、食べるに値しない。」と、考えたこと自体は、取るに足らないことかも知れない。しかし、理由づけをした瞬間、または、合理化した瞬間というのは、自らの意思で物事を考えており、この事実を否定することは出来ない。そして、この、自らの意思で物事を考えることこそ、「思考する」ことの素晴らしいことなのではないだろうか。

なぜなら、もし、このきつねが、過去に取った行動を反省するなら、次の機会に、「笑われない」、「意味のある」または、「恥ずかしくない」新たな行動を取ることが可能だからだ。言い換えれば、あきらめる、または、言い訳することしか出来なかった受動的な自分から、再び思考することによって、そうではない能動的な行動をとることのできる自分に変わることが可能だからだ。



科学技術の発展も、このようなプロセスと、どこか、似ているのではないだろうか。

地震、伝染病、水害や日照りなど、外部の自然からの圧力の前では、人は、単に独りだけでは、あまりにも無力である。

だが、人類という単位で、自然現象の因果関係を把握し、対策を考えることによって、単に、自然の驚異に怯えるだけの無力な存在から、自然を能動的にコントロールする存在に変わることが出来た。

今現在を省みると、この世界において、一人一人は無力で小さな存在であることすら完全に忘れ去られ、あたかも、人間がこの世界を完全にコントロールできるのではないかという幻想を抱けるほど、科学技術が発展しているようにも思える。



どうして、自分は、生きているのだろう?
どうして、自分は、死ぬのだろう?

今現在、どれだけ、科学技術の恩恵に預かろうとも、このような、問いが、初めて突然浮かんだとき、普通の人は誰しも、恐れおののき、自分があまりにも無力であることを悟らざるを得ないように思う。

しかし、例えそれが、人に聞かれたら、笑われてしまうような、取るに足らない思考であったとしても、自らの意思で「思考」することによって、少なくても、何も出来ない無力な存在から脱却できるように思う。



「そもそも、我々は、なぜ思考するのだろう」という問いに対して、いくつかの答えがあることだろう。

私は、その問いに対して、理不尽なこと、自分の力が及ばないことに対して、完全に無力な自分から、そうではない能動的な自分に変えていく努力であると答える。

コメント(2)

死ぬことの恐怖は、私も小学生の4年生くらいには感じていました。夢枕に同じ怖い世の終わりのような夢が何度も出てきました。

理不尽とは、自分の意に反することに対する反感から生まれる物ではない部分で考えたいので、自分の思考、自分というものを第三者的に見ることで、本当に理不尽なのか分かるのだと思うけど、自分を第三者的に見ることなんか出来る人はいないと思う。まずは、理不尽は、意に反することに対する反感だと思う。

自分を第三者的に見ることが出来るのであれば、人間関係のトラブルは皆無と言っても良いよ。
思考するための脳を持って生まれてきたから

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